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SATIKO

作者: 吉江和樹

 札幌の碧い夜空におびただしい数の星々が輝いている。

 その冷い澄みわたった夜空に五色の大輪の華が咲き乱れ、一瞬、札幌の街が明るく映し出された。

 小さい歓声が上がり、走り去るよう緑に染まった夏が過ぎ、ゆっくり紅色に染まった秋が訪れた。


 その時、研究室に残っていたのは、松坂と佐知子の二人だけだった。

 室内はピリピリとした空気に包まれ、糸が張り詰めたような鋭い緊張感が漂い、松坂と佐知子が叩き続けるパソコンキーのカチカチという乾いた音だけが、室内の中に共鳴する様に鳴り響いていた。

 

 佐知子の胸中はその時、松坂と二人で研究室にいるという自身の中の危険な感情で激しく揺れ、パソコンキーを叩いている、指の先さえもが震えるよう気がしていた。

 しかし、その緊張感は佐知子一人の胸中のものでしかなく、二人が叩くパソコンキーの乾いた音は松坂をまったくの無機的な感覚に陥れ、彼はその時、プログラミングに集中し、彼の胸中に余計な感情は一切なかった。


 研究室は大学付属の研究所で、IT関連研究室のAI開発専攻科、国内でも名の通った存在だった。

 佐知子は、今年の春研究所に入所した二十一歳の学生。

 今はまだ研究の準備の段階だったが忙しく、松坂は二十八歳の研究所の研究員で、彼の研究は他大学とのAIシステムの研究で、彼は今必死だった。


 そして彼は佐知子の指導も任されていた。

今日も一日中、内心やれやれの思いで彼女の指導にあたっていたが、それでも一日、微笑みながらの対応だった。


 佐知子はそんな松坂に思いを寄せていた。


 彼女にとっては、初めてのものだったのかもしれないが、それは本当のものだった。彼女にとっては心からの思いだった。

 しかし松坂にとっては、彼女は無邪気な妹のような存在でしかなかった。


 彼女にはそんな彼の心が見えていた、だからなおさら彼女の思いは強くなっていったのだった。


 時々大学の近くの喫茶店で昼食を共にする時、佐知子がその日の天気の話と、朝、TVで見てきたその日の運勢の話とを、大袈裟に思える程に一生懸命に説明していた。

 そんな時、彼は合槌を打ちながら、ただぼんやりと彼女の顔を見つめ、オブジェクト指向のプログラミングについて考えていた。


 その日、二人のパソコンのキーが鳴りやみ、何かもの言いたげに彼を見上げている様子の佐知子に向かい松坂は素っ気なく言った。 

「それじゃ、今日はこれまでにしよう。もう帰っていいよ」そう言うと、今まで自分を包んでいた集中から解放された彼は、何となく物憂げに立ち上がると、心の中は解放感で満たされ、佐知子の事はまったく頭の中にはなかった。


 そんな佐知子は少し悔しくもあった。


 彼は佐知子が研究室の掃除を終わらせ、帰宅したやや後に研究室を退けた。

 地下鉄駅までは五分程度の道、街中でも 紅葉の綺麗な道で、その時間は人通りが少なかった。

 日差しが赤く斜めに流れて眩しかった。


 山沿いの小さな低い空には、細い雲が夕陽のオレンジに浅く染まり、頭上の大きな高い空には形のない雲が白く泳いでいた。


「松坂さん。今帰るんですか」

 その雲をぼんやりと見つめながら歩いていた松坂の背後から、聞き覚えのある声が突然、耳に飛び込んできた。

 彼が驚いて振り向くと、紅葉の美しい街路樹の中から、佐知子が猫の様に飛び出し、素早く彼に近づいてきた。


 頬が秋の赤い夕陽を浴びて赤みを帯び、彼女をいつもより少し幼く見せていた。

「君も今かい」松坂は少し不思議そうに聞いた。

 彼女は彼を待ち伏せていたのだ。

「帰り支度に手間取ってしまって」そんな幼い嘘をついて、彼女はそっと松坂の横に並んだ。

 そして街中でも紅葉の綺麗な道で、人通りも少ないその時間を二人で歩き始めた。

「松坂さん、お住まいどちらですか」歩きながら佐知子が言った。

 彼女はすでにそれは知っていたが、取りあえず無難な質問だろうと思ったのだ。

「僕は宮の沢だよ」

「一人なんですか」佐知子が意味ありげに聞いた。

「ああそうだよ」

「君は白石区だったよね、君も東西線かい」松坂は何となく聞いた。

「そうです」佐知子の答えは彼に届いていなかった。


 彼の頭の中は、その時空っぽだった。


 佐知子はそこまで聞くと、質問に窮してしまい、二人の間に少し気まずい沈黙が流れた。

「最近、研究の方はどうだい」松坂が何とか切り出した。

「まあまあかな。プログラミングは家のパソコンでも続けているから。松坂さんは共同研究事業の進み具合はどうですか」

「まあまあじゃないかな」そう言って、松坂はまずかったかな、そう思った。

 やはり、佐知子はそのまま口を閉ざし、再び気まずい沈黙が二人を取り巻いた。

 地下鉄の駅が近づいたところで、彼女は勇気を出して切り出した。

「松坂さん、明日は暇?」

「ああ、特別用事はないけど」松坂は素直に答えた。

「絵を見に行きません、あたし美術館の入場券を二枚持っているんですけど、明日からキスリング展が始まるそうです、どう?」佐知子は松坂が絵が好きな事、特にキスリングの様なコロリストが趣味な事は予め調査済みだった。

「そういえば、絵もしばらく見てないな」松坂は何気なく空を見上げた。

 空にはまだ少し明るさが残っていた。

「一緒に行きませんか?」佐知子はこれを言わなければ待ち伏せていた意味がない、

そう思い、勇気を出して言った。


 松坂は我に返ったように、横を歩く彼女を見た。

 佐知子は真直ぐと前を見ながら歩いていた。

 彼よりやや低いくらいの身長、スラリと長く伸びた黒髪が美しい、端正な顔立ちの女性だった。

 彼も身長は低い方ではない、女性としては少し高い方だろうと彼は思った。

 細身の女性だった。


 松坂は前を向き答えた。

「いいね、行こうか」彼は落ち着いて言った。

 松坂は、まあ久しぶりに息抜きにはなるかな、最初はそう思った程度からの始まりだった。

「それじゃ十時にあたし大通りの地下、三越の入り口の前で待ってるわ」佐知子は嬉しそうに言った。

 あそこは札幌の若い恋人たちの待ち合わせの場所でもある。(昭和の時代の話である。今どうなのか僕は知らない)


 そこで女性との待ち合わせは、松坂には何年振りだったろうか。

 そうして二人は別れた。

 それから二人は何度か休日に会い、お茶を飲む仲になって行った。


 お茶を飲みながら松坂はよく彼女に本の話しをしたりしたが、佐知子には彼の話は難しすぎて理解できなかった。

 ある日、佐知子が松坂を人気アーティストのコンサートに誘った。

 その日のコンサートは盛り上がり、佐知子はコンサートが終了しても胸がドキドキとしておさまらなかった。


 そして彼にこっそりと言った。

「松坂さん、お酒を飲みに行きません?」

 そう言われた彼もコンサートで胸中は盛り上がっていた。

 彼は自分の良く行くお気に入りのバーに、佐知子を連れて行った。


 そこはリズムよくジャズの鳴り響く素敵な店だった。

 そして店を出た帰りの夜道で、少し酔った佐知子は松坂の手を握り、冷たく美しい夜風の流れる札幌の夜道を楽し気に話しをしながら二人で歩いていた。


 札幌の秋の夜空に満月が陽炎の様に青く輝いていた。

 二人がススキノのホテル街を抜け様とした時、彼女は何も言わず急に黙りこみ、彼の手を握りしめた。彼女は処女だった。

 でも決めていた。初めての人は松坂にすることを、彼女は心に決めていた。


 松坂はすぐに彼女の沈黙の意味に気が付いていた。

 しかし松坂は迷っていた。

 彼は、このような状況に陥ることは感じていた。

 彼女が飲みに行きたいと言った時から、いや、彼女が彼をコンサートに誘った時から感じていた。


 その時、彼女は彼の手を強く握りしめた。

 二人の間に強い沈黙が漂った。


 彼の手を握りしめていた佐知子の手が松坂には熱く感じられた。

 しかし、松坂はホテル街を何も言わずに通り抜け、結局、二人はそのまま別れてしまった。


 彼女は松坂の後ろ姿を見つめて、ほんの少しだけ目に涙を浮かべていた。

 

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