追放聖女の出所メシ〜王道スパイスカレーと新鮮サラダのセット〜
聖女であるフラアの平穏が崩れたのは、豊穣祭の為に1年に1度、王族を含む貴族達の前での祈祷を終えた直後であった。
無事つつがなく終わったことに安堵していると、王太子が唐突に一歩前に進んだ。
そして神妙な面持ちで胸に手を当て、声を張り上げる。
「皆の者、どうか聞いて欲しい。このめでたき日に発表がある」
王太子の声に貴族たちが注視する。
観衆の意識が己に向いたことを確認した王太子は手を前に差し出す。
するとそれに引き寄せられるように一人の美少女が観衆の中から現れ当然のように王太子の隣に並んだ。
「先日ここにいるソフィアに聖女としての聖力が現れた。よって新たな聖女就任……そし
て、現聖女の解任をここに宣言する!」
周囲がざわつく。
青天の霹靂に固まる現聖女のフラアに対して、王太子は隣の美少女ことソフィアの肩を抱き、まるで敵を前にしたような冷めたい視線をフラアに送る。
「この者はとうの昔に聖女としての力を失っていたのにも関わらず、いやしくも聖女の地位に縋り付き、新たな聖女であるソフィアを脅し…聖女としての聖力が彼女に移行していることを隠そうとした」
王太子の話に周囲は途端にフラアに非難の目を向けた。
しかしフラアには身に覚えのない内容だ。
ソフィアに戸惑いながら視線をやれば、わざとらしく肩を揺らし怯えたように目に涙を浮かべている。
王太子は庇うようにソフィアの華奢な肩をより強く抱き寄せるフラアを憎々しげに睨みつけた。
「そのような心卑しき者を王族に迎え入れるわけにはいかない。真の聖女であるソフィアに行った蛮行は決して許されざることだ」
「ああ、どうかお待ちになってください王太子様…。確かにこの方に私が聖女であることを口外すれば殺すと狡猾に脅されましたが、聖力を失い窮地に立たされ必死に足掻いた故の苦肉の策だったのでしょう。
この方は歴代のどの聖女よりも無能と言われてはおりますが、それでもこれまでの10年間
聖女として務めたのは事実です。お願いです…どうか哀れな彼女をお許しください」
「おお、なんと心優しい。そなたこそ真の聖女。そして私の妃にふさわしい」
涙ながらにフラアの弁護をするソフィアとそれに感激する王太子。
完全に二人の世界に入ってしまっている。
フラアはその甘ったるい空間をどこか現実味のない夢を見ているかのような心地でフワフワと漂った。
「聖女ソフィアの意向を汲み、今までの聖女としての功績を配慮しよう。いますぐ城から出ていくのであれば処罰は不問といたす。さっさとこの神殿から立ち去れ!」
王太子が叫ぶと同時に、兵士がフラアの両脇を抱えるようにして引きずる。
「皆の者! 新たなる聖女ソフィアに祝福を!」
フラアがまるで罪人のように連行される中、王太子の叫びに周囲からワッと歓声が上がった。
さて、唖然としている間に僅かばかりの現金を持たされ10年間暮らしていた神殿を問答無用で追い出されてしまったフラア。
無慈悲にも鈍い音を立てて閉ざされた門を見上げる。
「突然すぎるよ…」
絞り出すように呟く独り言。
あっという間の追放劇で、初めて発した言葉はそんな気の抜けるものであった。
10年間聖女としての役割を必死に全うしてきた。
聖力があることが知られ、庇う両親から攫われるように神殿に連れてこられた当初、まだ6歳だったフラア。
慣れない環境や引き離された両親が恋しくて涙する毎日だった。
それでも周囲の期待に応えようと必死になってきたのに。
本来聖女とは成人を過ぎるとこの国の王族と婚姻関係を結び、そのお役目から引退するものである。
だがフラアは成人である16歳もとっくに過ぎ、それから4年経ったが王族との縁談などまったく聞くこともなく粛々と聖女としての職務をこなしていた。
今の王族に適齢期は王太子しかおらず、彼がフラアを嫌っていることは知っている。
清貧を愛する神の為に年頃でも化粧一つすることを許されず、神が宿ると信じられている
広い神殿の中庭を一人で管理し、炎天下での作業で肌は日に焼け頬にはそばかすがインクのように散っている。
その姿があまりにみすぼらしいと影でフラアを笑う者の中に王太子が入っていることも知っていた。
別にフラアだって王太子との婚姻など望んではいない。
己を見下す者と添い遂げたいと思うほど彼女は酔狂ではない。
数は少ないが過去に王族と結ばれずに引退した聖女も存在した。
成人を過ぎると徐々に聖力が弱まり、数年で只人となり聖女の任は強制的に解かれるのだ。
フラアもいずれそうなるのだろうと考えていたのだが、まさかその前に聖女の解任を言い渡されるとは思ってもみなかった。
そう、フラアの聖力は成人から4年経っても衰えていないのだ。
それどころか年を重ねるごとに強くなっている。
だと言うのに王太子は聖女の代替わりを強行してしまった。
新たな聖女ソフィアは国一番の美少女と名高い侯爵令嬢だ。
庭仕事中に密会している二人がイチャイチャしている現場を何度か目撃したことがある。
おそらく恋人関係の二人だが、フラアが一向に聖力を失わないことに痺れを切らせて今回の追放騒動となったのであろう。
新たな聖女として僅かな時間を過ごした後に結婚。
その間にフラアの聖力も消え去るといった寸法か。
あの場に居た王も何も口を挟まなかったことを考えると、王太子の独断でもないのだろう。
世間知らずな田舎の庶民より、由緒正しい侯爵令嬢を嫁に迎えたいと考えるのは当然のことのようにも思える。
色々と思うところもあるが、そう結論づけたフラアはもう一度神殿の大きな門を見上げる。
そうして誰も居ない閉ざされた門に向かい、深々と頭を下げた。
「今までお世話になりました」
頭を上げたフラアの表情には陰りは一切見当たらない。
太陽を彷彿させる晴れ晴れしい笑顔が浮かぶ。
(―さぁ! まずはご飯! 街に行こう!)
今にも踊り出しそうな軽い足取りで街に進む。
(最初は何食べよう? ステーキかな? それとも串焼き? 海鮮系も捨てがたいよね! 待て待て私。出所一発目のご飯だもん、慎重に考えなきゃ)
先ほどまで王侯貴族の前で祈りを捧げていたとは思えない締まりのない表情。
(いやぁぁぁ…それにしてもまさかまさかだったね。いきなりの出所だもん。夢ってこんなにあっさり叶っていいもんなのかなぁ…幸せ過ぎて逆に怖くなる)
実は今回の追放はフラアにとって何よりも願っていたことなのだ。
修行と称した辛く長い苦役。
清貧を愛する神に合わせた極限まで質素に抑えられた食事。
生かさず殺さずの自由のないギリギリの日々は、フラアにとっては囚人生活とまったく同じであったのだ。
とにかく聖女の役目を終えるのを夢見ていたのだが、一向に衰えることのない聖力に何度絶望させられたことか。
それが今日、唐突に放免を言い渡されたのだから喜ばずにはいられない。
浮かれてほとんど駆け足だった為か、すぐに街の入り口までたどり着いてしまった。
豊穣祭の為、街は大いににぎわっていた。
誰もかれもが楽しげな顔をしていたが、今ここで一番はじけた笑顔なのは間違いなくフラアである。
(人がいっぱいだぁ…)
田舎出身かつ、聖女として神殿に長年服役していたフラアにとって全てが新鮮で輝いて見える。
祭りの喧騒に委縮するどころか、楽しさで胸が弾けてしまいそうだ。
綺麗な物、怪しげな物、見たこともない品が並ぶ出店。
砂埃と沢山の体臭、それと数々の美味しそうな匂いが入り交じりフラアの脳に揺さぶりをかけてくる。
「じゅわりと肉汁はじける腸詰めだ! 当店自慢の特製ブレンドスパイスを練り込んだ腸詰めは今日ここでしか味わえないよ!」
(うわぁぁ)
「ソースが自慢の焼きヌードルはいかがかな!? 野菜と肉、麺を豪快に鉄板で炒めているから熱々だ!」
(うわぁぁぁぁ)
「さぁさぁ喉が渇いたらカットフルーツはどうだい!?新鮮ジューシーで祭りの疲れも吹っ飛ぶよ!」
(うわぁぁぁぁぁ)
ひっきりなしに飛び交う怒号のような客引きの声の一つ一つが、まるで魅了魔法のようにフラアに降りかかる。
(決められない! 全部美味しそうで決められないよ! 何をファースト出所メシにしたらいいの!? 困った!)
屋台の一つ一つに目を血走らせながら反応するフラア。
謎のファースト出所メシとやらを決めるべく必死だ。
(待って、落ち着くんだよ私。幸いこんな大金があるんだから。決められないのなら全部食べればいいじゃない!)
まるで犯罪者のように神殿から追い出されたフラアに、せめてもの情けとして渡されたわずかな金。
旅をするのであれば半月も持たない程度のものであり、到底10年間身を粉にして働いた報酬とは思えない悲惨な額である。
しかし幼少から神殿で聖女として服役していたフラアは世間一般の金銭感覚というものは全く身についていない。
辛うじて金種の判別がつく程度の知識しかない。
初めてお金を持ったフラアにとって、渡された金はとんでもない大金のように感じていたのである。
(よし、決めた! やっぱり串焼き! ファースト出所メシは串焼きに決まりだ!)
網の上でジュワジュワと肉汁が音を立てている串焼き。
店主の親父が手のひらに掴んだ塩を慣れた手つきで高い位置から振りかけている。
(うん、絶対にしょっぱい! 絶対に熱い! 絶対に美味い!)
ランランと目を輝かせたフラアは大股で目当ての串焼きの屋台へと近づく。
異様なオーラを発しながら近づいてきたフラアの迫力に気付いた屋台の親父が少したじろぐ。
「くーださい!」
店の前までやってきたフラアは満面の笑みで親父に喋りかけた。
フラアの迫力に何事かと身構えていた親父であったが、ただの客だと分かり肩を下ろす。
「毎度! 嬢ちゃん可愛いから3000ジェニーのところを今日は2000ジェニーにまけたらぁ」
「わぁ! ありがとうございます!」
密かに憧れていたお店屋さんとのやりとりに頬を染めながら、金を入れた小袋を探す。
探す…。
「あれ?」
確かにポケットに入れたと思ったが見当たらない。
「あ、あれれ?」
反対側のポケットも漁るが見当たらず。
「あれれれれれれれれ?」
「どうした?」
親父の問いかけに対して、涙を浮かべつつニヘッと情けない笑顔を向ける。
「財布…なくしちゃったみたいです」
一気に青白い顔色に染まったフラアに、親父は陽気な笑顔をさっと真顔に切り替えた。
「なんだ、じゃあ文無しかよ」
忌々しげに舌打ちをされたフラアは、先程の追放劇よりもよほど絶望した様子でその場に立ちすくんだ。
「たくっ、田舎もんはこれだからいけねぇ。商売の邪魔だ。シッシッ! 向こう行きやがれ」
犬猫を追い払うのと同じ仕草で手を払う。
愛想のよかった親父が豹変し冷たくあしらわれ、どん底に突き落とされた気分だが落ち込んでばかりもいられない。
とにかく落ち着いて来た道を戻ってみようと踵を返して地面を凝視して歩き始めようとした時だった。
誰かがフラアの目の前で立ち止まっているらしく大きな足が目の前に現れた。
その足を辿っていくと、逆光で顔に陰がかかっている男がこちらを見下ろしている。
目を細めてよく顔を確認しようとすると、男は見覚えのある小袋を差し出してきた。
「お探しの物はこれですか?」
まさにフラアが失くしたお金である。
「それですそれ! ありがとうございます! ありがとうございます! ありがとうございます!」
神への祈祷よりもよほど心を込めて頭をさげる。
小袋を受け取り中身の確認をすると、金額も減ってなさそうで安堵に溜息をもらす。
「はぁぁぁ…良かったぁ。誰かに盗られたのかと思った。落としただけだったんだ」
「いいえ、これはきっちりスリに盗まれていました。相変わらずですね」
呆れが含まれた声色に改めて目の前の男を確認する。
「――あれ?あなたは…芋リスさん…」
財布を拾ってくれた人物はフラアの知り合いであった。
「イモ?」
不機嫌そうに片眉をクイッとあげる仕草はこの人の癖だ。
「あ、いや、イムリスさん…」
慌てて名前を言いなおすが、不機嫌そうな表情は変わらない。
だが元々いつも不愛想な態度しかとらない人物なのであまり気にする必要もないのかもしれない。
彼は神殿の上級神官であり、聖女の指導役の責任者。
聖女の側に付き従い導く役目といえば聞こえはいいが、ようはお目付け役だ。
彼は大層まじめで自分にも他人にも仕事にも厳しい。
たまにフラアの元を訪れては聖女として未熟な彼女に、やれ姿勢が悪い、やれ歩幅が広い、やれ祝詞の覚えが悪いとそれはもう一から十まで怒られていたものだ。
フラアとイムリスは、あの刑務所のような神殿で囚人と看守のような関係にあった。
「なぜイムリスさんがこんなところに?」
今は豊穣祭真っただ中である。
ある程度地位のある神官は、王侯貴族との宴に参加しなければならないはずだ。
当然昨年まではフラアも参加させられ、皆が美味しそうなご馳走を堪能する中、聖女は清貧であるべきと王太子の指示により普段食べている水に近い穀物粥が用意された。
当時はそれが当たり前だと思っていたが、思い返すとフラアに自ら聖女を辞めさせる為の嫌がらせだったのかもしれない。
やはり聖女生活で何が一番辛かったかと言えば食事の貧しさだろう。
いつも飢えていたが聖女の食事とはそれが当たり前だと言い聞かされていた。
しかし目の前のこの男、イムリスだけはたまに会えばこっそりと干し芋を与えてくれた。
その干し芋がまた甘くて美味しいのだ。
大切に少しずつ食べ進め、時には懐に忍ばせて夕飯時にこっそりスープに入れると甘じょっぱくなって最高だ。
質素な聖女メシが途端にご馳走に変化する。
誰よりも規律を重んじるイムリスにとっては不本意だったろうに、それを捻じ曲げてでもフラアに施してくれたことに感謝している。
だから密かにフラアはイムリスのことを、敬意をこめて“芋リスさん”と心の中で呼んでいたのだが、もしかしたらそれは本人にとってはあまり嬉しくないあだ名なのかもしれない。
「フラア様を追いかけてきました。なぜならば神はまだ貴女様をご寵愛なさっているからです」
どうやら彼は未だ聖力がフラアにあることを見抜いているらしい。
イムリスは神官のなかでも熱心な教徒なので、もしかしたら聖力を感じる能力か何か秘めているのかもしれない。
せっかくの美丈夫なのに女性にまったく興味がなさそうで、神殿の女性陣がもったいないと嘆いているのを聞いたことがある。
彼は残念ながら神にぞっこんなのだから仕方ない。
「でも私はもう釈放…いえ、追放されたので神殿には絶対に戻りませんよ?」
誰が刑務所になど戻るものかと強めに主張する。
フラアの言葉にイムリスの眉間の皺が深くなる。
怒られるかと身構えたが、イムリスはそのまま深いため息を吐いた。
「偽物に騙され真の聖女を追放…まさかあそこまで王太子が愚かだとは。王族を恐れるあまりまったく動く気のない神殿も情けない。本来ならば王族と神殿は対等だというのに…。当然抗議しましたが聞き入れられませんでした。力及ばず大変申し訳ない…」
気落ちした様子で語るイムリスにフラアは「やめてくれ」と内心で訴えた。
どうか余計なことはしないでいただきたい。
「彼らにはほとほと愛想が尽きました。そして何よりフラア様にまだまだ聖女としての振る舞いを教え足りません。どうかご同行させてください」
「いえいえ。私もう20歳過ぎてますし、聖女としてとっくの昔にとうが立ちまくっていますから。それで聖女らしくないのであれば資質がなかったのですよ。次世代に期待して私はひっそりと消えますのでご心配なく」
同行するとか恐ろしいことをさらっと言われた気がしたので、こちらもさらっと躱してイムリスに背を向ける。
「フラア様に聖女の資質がないのであれば、この世に資質がある人間など一人もいませんよ」
イムリスの珍しく熱の籠っている声に立ち止まるフラア。
思えば地味なフラアは聖女に相応しくないと誰もが嘲笑うなか、イムリスだけはフラアが聖女であることを当然のように受け入れていた気がする。
聖女になることなど一度も望んだことがないフラアにとってそれはあまり気に掛ける要素ではなかったのだが、今にして思えば聖女云々は抜きにしても彼はフラアの尊厳を認めてくれていた唯一の人物だったのかもしれない。
そう思えばあまり無下にする気も起きず、改めてイムリスに向き直る。
「でも私はこれから先、聖女として聖力を使うことはしませんよ? お前は偽物だって言われたんだもん。そんな人たちの為になんか使わない。自分の為に使うよ?」
これは出所してから自然と決めていたことだ。
大いなる力を私利私欲のために使えばすべてを失う。
そんなのものは物語の鉄板である。
だがそれでいい、それがいい。
聖力が消えてくれれば本当の意味で聖女を引退できるのだから。
「貴女様がそう決めたのならば、それが神のご意思なのでしょう」
真っ直ぐな目で頷かれては、出所フィーバーに浮かれていたフラアもどこか居心地が悪くなる。
「とにかく私は貰ったこのお金で出所メシをたらふく食べるんです。お肉ですよお肉! きっとしょっぱくて肉汁どばーってしてるんです! 清貧なんてもう知らん! 凄い贅沢しちゃうんだから!」
イムリスの視線から逃れるように、もう一度あの串焼きの屋台へと戻ろうとしたフラアの腕をがっしりと掴んで阻むイムリス。
「あんなにも馬鹿にされて、まだあの店で買おうとしているのですか?」
「いや、その、お金持ってないと確かにお店にとって邪魔なだけだし」
「あの店の男は先ほど串一本2000ジェニーと言っていましたが、今しがた別の客には串一本800ジェニーで売っていました。フラア様を田舎から観光に来た娘だと侮って吹っ掛けたのですよ。そんな不誠実な商売をする店の商品など買うのは許可できません」
イムリスが少し離れた位置の屋台の親父を睨みつけると、彼の殺気が届いたのか青い顔で目を反らした。
「それにこの短い時間で財布までスられるなんて。こんな人込みでキョロキョロしていれば無防備なカモにしか見られませんよ」
「は、はい。それは気を付けます…」
いつものお説教と同じく思わずシュンとしてしまう。
「私がいなければ犯人はフラア様への窃盗の成功体験から自信を付けてより被害者が増加していたかもしれません。それは罪深いことです」
「ということは、犯人は…?」
「前が見えなくなる程顔面をボコボコにして駐在所に突き出しておきました」
「そっちの方が罪深くない?」
神官とは基本インドアタイプで線が細い人間が多いのだが、何故かイムリスはやたらとガタイが良い。
罪には暴力も駆使して悔い改めさせる系神官である。
「やはり貴女様を一人で行動させることなど出来ません。神の寵愛する聖女が死に向かうのを見て見ぬふりなど神官に非ずです」
不機嫌そうな表情でフラアの横に並ぶと、そのまま歩き始めた。
その綺麗な横顔をテコでもこちらに向けようとせず、しかし歩みはフラアに合わせてピッタリと並ぶイムリス。
こうなれば何を言っても側を離れないだろうことは何だかんだ付き合いの長いフラアは知っている。
こうして聖女の出所メシ堪能の旅に新たな仲間が強制加入してきたのであった。
さて、あの屋台の串焼きでファースト出所メシにするのはやめたわけだが、他の屋台の商品にも色々と口を出してくるイムリス。
基本的に屋台の料理を口にして欲しくないのだろう。
着色料が凄いとか、不衛生だとか、油の塊だとか文句を言われ屋台からだんだんと遠ざけられたフラアは静かに切れた。
「もう私は聖女じゃないんです。だから芋リスさんに口をだされる筋合いはありません。邪魔しないでください。一人で平気なので着いてこないでください」
ジャンクなものは体に悪い。だが比例して美味い。
とにかくパンチのある料理に飢えていたフラアはイムリスをあだ名で呼んでしまっていることにも気づかずに切れ散らかした。
今まで聖女としての振る舞いを求められたフラアは大人しく神官たちの命令に従う事しかしなかった。
そんな従順だったフラアから拒否されたイムリスは、切れ長の目を見開き呆然とした表情を浮かべた。
それにほんの少し罪悪感を持ったフラア。
カッとなっていた頭が冷静になれたところで、ふと何かを感じる。
美味しそうな匂いがどこからともなく漂っているのだ。
「フラア様――」
「ねぇ、この匂いって…」
悲しげな顔で何か言いかけたイムリスの言葉をさえぎって匂いの正体を探ろうと周囲を嗅ぎまわるフラア。
「カレーの匂い…。でもただのカレーじゃない。この匂い…ふわっと香るスパイスのいい香り。そうだ! これって“カレー屋フルゴレ”の匂い!」
「カレー屋フルゴレ?」
「そうです! 街で一番人気のカレー屋さん!」
カレーはその昔、異世界の落ち人が流行らせた料理である。
毎年国を巡礼し神への祈りを各地で捧げているのだが、それの行き帰りに街で必ず香ってくるスパイスの良い匂い。
聞くところによると街で一番人気の“カレー屋フルゴレ”という店から香っているのだという。
なんと複雑で豊かなパンチのある匂いなのかと毎年のように驚かされ、カレーを食べたことのないフラアはさぞ美味しい料理なのだろうとうっとり想像していた。
時には野宿にもなる長く辛い巡礼の行程のなかで、行きと帰りにその匂いが嗅げることが密かな心の支えになっていたのだ。
しかし去年、街からその匂いは消え去っていた。
大通りに構えていた立派な店もいつの間にか雑貨屋になっているのを知った時、フラアは大いに落ち込んだものである。
カレーの匂いは他でも嗅いだことはあるが、“カレー屋フルゴレ”以上に香しい匂いは知らない。
「カレーの匂いなんてしますかね?」
「匂い…こっちに続いてる」
「フラア様?」
匂いの跡を辿り低めの鼻を動かし進む。
イムリスも不審そうにしながらも黙ってその後ろをついて来た。
「ここだ。“カレー屋フルゴレ”の匂いの元」
辿り着いたのは、喧騒とした大通りを抜けた住宅街。
その中でもどこか寂れた雰囲気のする築年数も古い住宅が並ぶ地域だ。
ここらの住人も祭りに出かけているのか人の気配はない。
その中の一軒家で立ち止まるフラア。
「ふむ、確かにカレーの香りがするな。あの距離でどんな嗅覚をしているのですか?」
呆れた視線を向けるイムリスを無視して、扉をノックするフラア。
もしかしたらお願いすればカレーを売ってもらえるかもしれない。
匂いだけで惚れこんだ夢に見ていたカレーとの対面を果たせるかもしれない。
フラアの心は初恋が訪れたように軽やかに弾んでいた。
――コンコン
「……」
――トントン、トントン
「あのぉ、すみません」
――トントン、トントン、トントン
「すみまっせぇぇん!!!」
何度ノックしても一向に扉が開く気配はない。
――ドンドン、ドンドン、ドンドン
「…留守ではないですか?」
必死の形相でノックを続けるフラアに、少し引き気味で声を掛けるイムリス。
その声に反応したフラアが手はノックを続けながら彼の方を振り向く。
その顔は半ベソである。
「そんな…この扉の向こうに愛しいカレーが居るのに逢えないなんて…そんな悲しいことってありですか?」
「家の者も祭りにでも出かけているのかもしれませんね」
半べそのあまりの情けなさにイムリスにしてはやや優しい口調で宥めるが、フラアは彼の言葉をスルーして扉をたたき続ける。
――ドンドン、ドンドン、ドンドン
――ガチャ
「誰だ、さっきからドンドンドンドン! 留守だってわかんねぇのか! うるせぇんだよ!」
フラアの執念が身を結んだ。
完全に留守だと思われた家から男性が現れたのだ。
「っ!?」
「うぉ!?」
勢いよく扉が開いたものだから態勢を崩したフラアが家人の胸に飛び込んでしまった。
「フラア様! っ、お怪我は!?」
間髪入れずにイムリスがフラアの腕を掴んで引っ張り上げる。
そのままフラアを隅々まで点検するように見回すイムリスと、驚きすぎて固まったままのフラア。
そんな来客二人を不審な目で眺める男。
成人したばかりだろうか年若い青年で、目の下にはクマがあり、細身な体がどこか窶れて見える。
「あの、しつこくしてすみませんでした」
正気に戻ったフラアが頭を下げると男はむっすりしながら頷く。
「まったくだ。で? なんの用だよ」
「私にカレー…“カレー屋フルゴレ”のカレーを少し分けて頂けませんか?」
「は? なんで…」
「もちろんお代はお支払いします! ほら、ちゃんと、私、お金持っているんです」
「はしたないですよ。フラア様」
男が渋ったと思ったフラアは手持ちの金を見せてアピールするが、素早くイムリスに止められる。
いやに真剣なフラアの目を見て男は困惑する。
「いや、だからなんで“カレー屋フルゴレ”のカレーだって思ったんだ?」
「…?この家から香っているからですよ」
「…これは俺が作ったカレーで“カレー屋フルゴレ”のカレーじゃない」
「いえ、この匂いは絶対“カレー屋フルゴレ”のカレーです。お店の方ですよね」
「……」
男は期待に胸膨らませるフラアを黙って見つめたあと、小さくため息を吐き出した。
「食べさせてやるよ。ただし“カレー屋フルゴレ”のカレーじゃないがな」
「それでも結構です。この香りのカレーであれば」
力強く頷くフラアをみて複雑そうな表情を浮かべたが、それ以上何も言うことはなく無言で二人を家の中へ招いた。
「フラア様がご無理を言ってすまない」
「別に…それより狭くて汚いが文句言うなよ」
「もちろんです! お邪魔します」
確かに狭く古そうだが、憧れのカレーの匂いが充満した家の素晴らしさの前ではマイナス点にもならないと心弾ませるフラア。
ダイニングに通され水を出してもらったが、不思議なことにそのコップにはスプーンも刺さっている。
水に沈むスプーンを二人揃って首を傾げ眺めていると、次に小鉢のサラダがそれぞれの前に置かれる。
「待たせたな。食ってくれ」
男がライスとカレーの盛られた皿を置く。
ツヤツヤの白いライスに深い色をしたルーが輝いている。
念願のカレーにごくりと喉を鳴らしたフラアは、両手を合わせて神への祈りを捧げる。
それが終わるとコップに浸かったスプーンを勢いよく取り出しカレーとライスの中間に突き立て掬い上げる。
「いただきます!!!」
そのままぱくりと口の中へと消えるカレー。
口に含んだ瞬間ハッと目を見開いたフラアは、しかしすぐに咀嚼を開始する。
そこからはモグモグとひたすら噛み締める。
目を見開いたまま咀嚼しているものだからかなり迫力があり、イムリスと男はフラアから目が離せない。
かなりの回数を噛み締めてようやくゴクンと喉を通ったカレー。
「美味しい…」
先程までのテンションの高さはどこへやら。
静かにそれだけ呟くとまたスプーンを口に運ぶ。
あまり気に入らなかったのかと疑問を抱いたイムリスもカレーを食べてみると、思いのほか美味しい。
かなりの数のスパイスが使用されているのが分かるが、そのすべてが絶妙なバランスで調和されておりケンカすることなくスパイスそれぞれが互いに引き立たせ合う豊かな味わいがある。
何より丁寧に煮込まれた野菜の優しい味がスパイスたちをうまくまとめ上げており、ライスがそれらを高みへと運んでいる。
確かに街一番とまで言われるのも納得の味だった。
だというのにフラアのこのテンションの低さはなんなのか。
イムリスだけでなく男もまた彼女の様子に疑問を抱いたのだろう。
不安そうにフラアを見守っている。
そんな二人に気付くことなく黙々と食べ進めていたフラアだが、カレーを咀嚼している間に段々と瞳が潤んできた。
一噛みするごとに瞳にたまる涙の量は増してゆき、そのうち頬を伝い零れ始めた。
「フラア様!」
「どうかしたのか!?」
驚いて声を上げる二人に、フラアは自分が泣いていることに初めて気づいた様子で慌てて涙を拭った。
「ごめんなさい、あまりに美味しくて。感動して涙出てきた」
そう言ってまた一口食べては涙が一粒落ちる。
「…ずっとずっと食べてみたかったんです。毎日味のしないお粥を食べながら“カレー屋フルゴレ”の匂いを思い出して想像しながら食べるんです。そしたらちょっといつものお粥も美味しくなるの。でもね、そんなの比較にならないくらい本物はすっごい美味しくて食べてたら幸せになれる。嗚呼、美味しいなぁ…」
「……」
「このカレーをファースト出所メシに選んでよかった。もう、飢えを凌ぐ為だけに摂取していたお粥なんて食べなくていいんだ。もうあんなところに居なくてもいいんだ。私にとってこのカレーが自由の象徴の味です。自由の味がこんなに美味しいなんて最高です。どうもありがとうございます」
食べながら涙を流すフラアに釣られ男も泣きそうになるのをこらえるようにグッと奥歯を噛みしめた。
「なんか良く分からんがサラダも一緒に食ってくれや。そのセットが、あの店の名物だったんだ」
「グス…はい、新鮮な野菜なんて久々…あ、美味しい! このオレンジ色のソースが野菜を何倍にも美味しくしてるんだ! 凄い凄い! カレーで辛くなった口の中がリセットされて、またカレーが新鮮な美味しさになる」
「おうよ、門外不出。自慢のドレッシングだぜ」
泣き止んだフラアと男が楽しく会話を始めるなか、一人まだ茫然とするイムリス。
「あ、イムリスさん。カレーにも芋が入ってますよ。でもこれはじゃがいもですね。ほくほくでカレーによく合いますね」
幸せそうに目を細めてイムリスに笑いかけるフラアを見ていると彼の胸は押しつぶされそうなほど痛んだ。
イムリスはおもむろに立ち上がると、フラアの前で両膝を地面についた。
神官が神に祈りを捧げる際のポーズとまったく一緒のそれに、何事かと驚くフラアと男。
「私は…私はとんでもない過ちを犯していたのかもしれません。どうかこの場を借りて許しを乞いたい」
「なに?なんですか急に」
「今まで貴女様は修行の一環で自ら進んで粗食を選ばれていたのかと思っておりました」
「ああ、幼い頃に収監されて以来、能力が低い私は修行の為に清貧を心がけるよう言い聞かされておりましたので。粗食を選ぶというよりそれしか食事が出てこなかったから」
イムリスがフラアの前に現れるようになったのは5年ほど前のことだ。
神殿への収監当初のことは知らなくても仕方のないことである。
「貴方様のご本意ではない苦しみを与える一端を担っていたなど、私はなんと罪深いことを…申し訳ございませんでした。許されざる過ちであることは承知で申し上げます。どうか、どうかお許しください」
深く項垂れるイムリスにフラアはどうしていいのか分からず慌てる。
「でも、イムリスさんは干し芋をくれたじゃないですか。あれ、凄く助かりました」
「あまりに過酷すぎる食事内容に、体調を崩されるのを危惧して栄養価の高い芋を差し出がましく献上していただけです。それも貴女様の修行の妨げになるのが不安で、最低限を…それがまさか全く望んでおられないことだったとは…私はなんと愚かな…」
イムリスは他の神官たちと違い、フラアを害しようとしているわけではない。
それは薄々分かってはいたがはっきりとそれが判明したフラアはイムリスの心情とは反比例してとても晴れやかな心持になった。
「悪いと思っているのなら、一緒にカレー食べてください。誰かとこの美味しさを分かち合いたい気分なんです」
ニッと大きく口を開けて笑えば絶望に青白くなっていたイムリスの美しい顔に生気が戻ってきた。
無言で席に座りなおし食事を再開したのを確認して、フラアもカレーに集中しなおした。
「ふう、ご馳走様でした!」
綺麗になった皿の上にスプーンを置くと、最後にコップの水をごくごくと飲み干した。
「美味しかった! なんか身体がポカポカで熱くなってきた」
「香辛料で代謝があがっているのでしょう」
「あ、お金お金。おいくらでしょうか?」
「フラア様、ここは私がお支払いします」
そんなやり取りをする二人に、男は首を横に振った。
「このカレーは売り物じゃない。お代はいらねぇよ」
「売り物じゃない? でも“カレー屋フルゴレ”の商品をタダってわけには…」
「本当に“カレー屋フルゴレ”のカレーじゃないんだ。だがそうだな、カレーをあんなにうまそうに食ってっくれるアンタたちになら話してもいいかもな――ちょっとついて来てくれ」
そう言って廊下に出る男。
フラアとイムリスは互いに見合ったが、どちらからともなく男の後に続いた。
案内されたのはダイニングの隣の部屋。
「親父。客だぜ」
そう言って扉を開けた先には、老人がベッドに寝かされていた。
呼吸が浅く顔も土気色をしており、唇も紫だ。
饐えた病人の雰囲気が部屋に充満している。
「悪いな。ここ最近は寝てばかりでほとんど意識がない」
そう語る男の表情からは諦めが見て取れる。
「この方は?」
「俺の親父だ。数か月前に潰れた“カレー屋フルゴレ”の店主さ」
「!?」
「街一番の人気店だったのではないのか?」
「そう、一年前はな」
男はタオルを手に取るとベッドの横の洗面器の水に浸し固く絞り、意識のない父親の顔を優しく拭きあげながら語り始める。
「今はこんなに縮んで枯れ枝のようになっちまったが、以前は恰幅が良くてスゲェきつい拳骨くれやがる頑固親父だったんだ。毎日毎日店で馬鹿みたいに働いてばっかでさ。お袋は俺が生まれた時に死んでるからガキの頃からその姿ばっか見て育った。
途中反抗期で馬鹿やった時期もあるが、親父も歳をとる。そろそろ継いで楽させてやるって言ってんのに、修行不足だのなんだのと一向にカレーのレシピを教えねぇ。見よう見まねで作っても、お前の作るカレーじゃまだまだ店は任せれねぇって厨房を譲ろうとしねぇの。人の好意を足蹴にしやがって。今思い出してもイラつくクソ親父だ」
憎まれ口を叩きながらも穏やかな口調からは温かさを感じる。
その様子にフラアは幼い頃に別れた両親の姿が頭にちらついた。
「だが親父にとって“カレー屋フルゴレ”がそれほど大切だったんだ。そんな親父の城が崩れたのが、一年前だった。とある貴族が店の評判を聞きつけて貸し切りにするよう命令を出してきた。デートで使うからって理由だったはずだ。
“カレー屋フルゴレ”は貸し切りなんざやってない。俺は一日くらい良いだろと説得したが、この頑固親父は聞きやしねぇ。貴族におもねる為にカレーを楽しみにしてくれている客を蔑ろには出来ねぇってんで、その貴族の遣いに食べたきゃ並べと啖呵切っちまった。
そこからは良くある話だ。連日やくざもんが店に占拠しての嫌がらせは序の口。長年付き合いのあった仕入先からも手を引かれ、信頼していた友に裏切られて借金を負わされた。すべてはその貴族の差し金であることは分かっていても、庶民が訴えたところでどうすることも出来ない。そんな店に客なんて寄り付くはずもない。いよいよ店を続けることが不可能になった時、心労が祟った親父は失意のどん底で臥せってこの通りってわけだ」
肩を竦めなんでもないように語る男。
しかしその胸の内の苦しみは相当なもののはずだ。
「しかも親父は最後の最後まで俺のカレーを認めねぇの。認めさせようと毎日作っても親父はもう食べる体力さえない。頑固貫いて息子を認めないままあの世に逃げるつもりだぜ? くそムカつくだろ?」
「あなたの作ったカレーの匂いは“カレー屋フルゴレ”のものと一緒でした。私は鼻には自信があるんです。それは絶対に間違いない」
「だよな。ありがとよ」
はっきりと言い切ったフラアに寂しそうに礼を言う男。
「こんなことになって親父の頑固さに心底腹立ってたんだ。でもよ、俺のカレーを泣きながら美味いって食うあんたを見てたらさ。癪だが親父が意地になってあの店の守ろうとした理由がちょっとわかっちまったよ。俺のカレーであんな顔されたら、たまらねぇよ」
「…私は今日初めてカレーという料理を食べました。お店に行って“カレー屋フルゴレ”のカレーを食べたことはないのです。だから匂いは完全に一致してても、もしかしたら味は違ったのかもしれません」
ここにきて脈絡なく梯子を外すようなことを言い始めたフラアに困惑する男。
フラアは今まで黙って話を聞いていたイムリスの方へと視線をやる。
「イムリスさん、私今美味しいカレーを食べたおかげなのか力が漲っているみたいです。多分今なら何でも出来そう。だからさっきも言った通り私は私の為に行動します」
「ご随意にどうぞ。それが神のご意思です」
自分にはよく分からない二人のやり取りを見ていた男にフラアは向き直る。
「貴方のカレーの味が店のものと同じかどうか、お父様に聞いてみましょう」
「は? 何を?」
フラアはベッドに伏せる父親の額に手をかざした。
その瞬間、眩い光が部屋中を包み男は思わず目を伏せる。
一体何が起こったのか分からぬまま恐るおそる目を開ると、そこには驚きの光景があった。
「…うぅ……ん? 朝か?」
「親父? 親父!?」
臥せっていた父親が目を覚ましたのだ。
意識のはっきりとしている父親を久々に見た男は慌てて駆け寄る。
「なんだ? 寝坊したのか? いけねぇ急いで店の開店準備だ!」
突然勢いよく上半身を起こした父親は、とうとうそのままベッドから起き上がった。
先ほどまでの命の灯の消えそうな土気色の顔色は、今は健康そうに血が通ってみえる。
手足の細さは変わらないが、その目には生気がみなぎっている。
「ほらお前もぼーっとしてねぇで手伝え――いや、そうか。店は借金のカタに取られたんだっけか」
気が抜けたようにベッドに腰かけ直す父親を、未だ信じられないものを見ているように呆然とする男。
「寝ぼけてたようだ。なんだか随分寝てた気がするな。身体も鈍ってやがる。ん?来客か?」
手足の感覚を思い出すように伸びをしながらフラアとイムリスに気付いた。
「お邪魔しております。ご子息のカレーを頂いておりました」
「ご病気とお伺いしましたがお加減いかがですか?」
フラアの問いに父親が改めてストレッチを少し続けて頷く。
「ああ、おかげさんでどうやら快復したようだ」
「それはよかった」
先ほどまで死の淵にいた父親と微笑みあう二人という目の前の光景に、未だ男は事実を飲み込めていない。
「それよかあんたら息子のカレーと言ったか?」
「はい! 息子さんの作るカレーの匂いがあまりに良い香りで、頼み込んでいただきました!」
「そんな半端なもんを…」
「おい! 半端ってなんだよ、このクソ親父が!」
父親の渋い表情に、条件反射で噛みつく男。
父親の奇跡の復活を驚き喜びたいはずだが、ついついそんな態度をとってしまう。
「半端もんに半端と言って何が悪い!」
「まぁまぁ。息子さんのカレー、それはもう本当に美味しかったですよ?ね?イムリスさん」
「ええ、絶品でしたね」
素直な感想を述べる二人に父親は呆れたように首を振る。
「アンタたちが何者か知らねぇが、適当なことを言って愚息をおだててもらっちゃ困る。こいつはまだまだ半人前だ」
父親の意固地な物言いにムッとしたフラア。
男が言い返すより先に口を開いた。
「だったら食べてみてください。少なくとも匂いは“カレー屋フルゴレ”の物と同一ですから」
男に目配せすると大きく頷きキッチンへと走った。
すぐに戻ってきた男は、皿に盛られたカレーを父親の前に差し出す。
「…確かに匂いは俺のカレーと一緒だな」
「ほらね。味だって絶品なんですから。ほらほら、食べてください」
なぜかフラアが自慢げにカレーを勧めるが、それを持ってきた張本人は先ほどまで重病人だった父親に果たしてカレーなど食べさせて大丈夫なのか今更心配になってきた。
そんな息子の心配をよそに、なんの躊躇もなくカレーの乗ったスプーンを口に運んだ父親。
「…ふん」
一口食べて目を見開いた父親だったが、すぐにむっすりとした表情に変わる。
「どうです? 美味しいですよね? 異論は認めません」
強引なフラアの問いに、父親はキッと彼女を睨みつけた。
「当たり前だろ! 俺のカレーの味だ! 美味いに決まっている!」
「じゃあ…!」
「ちっ、分かった。認める。…いつまでも馬鹿なクソガキじゃないんだな。いつの間にか完全にレシピ盗みやがって。流石俺の息子だ、フルゴレ」
息子にかけた言葉が照れ臭かったのか皿をひったくりガツガツと食べ始めた。
「店名、息子さんのお名前だったんですね」
ここ一週間が山だろうと診察に来た医者に告げられ、それから数日水分も取るのは難しかった父親。
どうせ食べられないと分かっていながらも、自分の持てる技術を費やし作らずにはいられなかった。
そんなカレーを父親が元気に掻き込む姿に、フルゴレの目から涙がこぼれた。
慌てて袖で拭い、あえて眉間に皺を作る。
「がっつき過ぎだぜ、クソ親父。ちったぁ病人だった自覚を持てよ」
「“カレー屋フルゴレ”のカレーはいつだってうめぇからな」
「ふんっ」
素直ではない父親から、確かに認められた。
フルゴレは密かに拳を握り喜びをかみしめた。
「しかし長いこと臥せっていたんか俺は? 言われてみれば腹が減ってるわけだ」
「ああ、もうだめかと思ったんだがな。どうやったのか見当もつかねぇが、こいつが…いや、この方が親父を治してくれたんだ」
目の前で美味しそうに食べられているカレーが羨ましくなってきたフラア。
先ほど食べたというのに油断するとよだれが垂れそうになっている彼女に、親子二人の視線が向けられた。
フルゴレはフラアの前で跪くと、彼女の手を取り額にそれを持っていき深々と頭を下げた。
「父の命を救って頂きありがとうございました。感謝してもしたりねぇ」
カレーを想い少しぼんやりしていたフラアは慌てて首を横に振る。
「こちらこそ美味しいカレーの恩返しですのでお気になさらず。それにこれはただの私のエゴですから」
「感謝しているのならば一つだけ守ってほしい。今回のことは他言無用で願いたい」
フラアの手をフルゴレから奪い返したイムリスは、神官に似合わぬ大きな体を二人の間に割り込ませた。
「それを約束してくれるのならば、私個人の資産から店舗再開の出資金を出すことも考えよう」
「イムリスさん金持ち!」
「「はぁ!?」」
親子の困惑する声が揃った。
「出店場所の選定は少し待ってほしい。もしかしたら引っ越しをしなくてはいけなくなるかもしれないが、それは可能か?」
「それは全然大丈夫だが…出資って、本気か?」
「もちろんだ」
頷くイムリスに親子は顔を見合わせた。
その表情はなぜか明るくはない。
「えっと、イムリスさん?だっけか。すげぇありがてぇ話なんだけどよ」
「俺達にこれ以上関わらねぇ方がいい。過去に同じように店を救おうとしてくれた奴もいたけどよ。俺が敵に回した貴族の手によってみんな阻まれた。最悪あんたまで嫌がらせの対象になっちまう」
沈痛な面持ちで親子は語るが、イムリスの表情は至って冷静なままだ。
「その貴族とやらは一体どこの誰だ?」
「聞かねぇ方がいい。俺ら庶民には雲のてっぺんにいるようなもんだ。まったく馬鹿なことをしちまったもんだぜ。ま、後悔はしてないがな。ガハハハハハ」
暗い雰囲気を払うように大きく笑う父親。
「…もしや、黒幕の正体は王太子殿下か?」
「「!?」」
「その様子だと図星だな。そのように愚かなことを仕出かしそうな人物の代表だからな」
「ああ。なるほど。やりそうですね…。ソフィア様とお忍び庶民デートとか好きそう」
イムリスとフラアから呆れ果てた空気が流れる。
ふと、イムリスが何かを察知したように窓の方に顔を向ける。
それと同時に玄関の方から乱暴なノックと怒声が響いた。
―――ドン、ドン、ドン、ドン!!!
「開けろ! 中に居るのは分かっている!」
古い造りの家なのでその騒音は思いのほか響く。
「なんだなんだ?」
「どなたか知りませんが乱暴ですね。非常識です」
「……」
この家を訪ねてきた時の己の所業を綺麗に棚にあげたフラアが憤慨している。
そのうちバキッという派手な音と共に複数の足音が聞こえ始めたのでさぁ大変。
「闖入者です。私が出ます」
「俺も!」
イムリスに続こうとするフルゴレに手のひらを向ける。
「フラア様とあなた方はここに居てください」
イムリスはまったく焦る様子もなくごくごく平坦なトーンでそういうと、素手のまま一人玄関へと向かってしまう。
「た、多分大丈夫です。イムリスさん何故か凄い強いから」
とはいえフラアもどれほどイムリスがどれほどの実力者であるのか分かっていない。
自分で大丈夫だと言いながら不安が増してくる。
益々騒がしくなる外の気配に居てもたってもいられなくたってきた。
「私ちょっと見て来ます!」
「おい!?」
万が一やられそうになった瞬間、フラアが回復してしまえばいいのだ。
フルゴレの制止を無視してフラアは玄関まで走った。
「イムリスさん!」
破壊された玄関扉。
その先にある光景に勢いよく飛び出した体がピタリと止まってしまう。
「フラア様、部屋に居てくださいと申したのに…」
「ううう…」
やれやれと言った様子で首を振るイムリス。
その真下の地面には何故か王太子が苦しそうにうめき声をあげて這いつくばっており、イムリスはそれを踏みつけていた。
そしてその周辺には少なくとも10人は武装した兵が突っ伏して動かない。
「なにこれ…」
「その声はフラア! くっ、捜したぞ!」
案外元気そうにこちらに吠えている王太子。
「お前の呪いのせいで城は大混乱だ! まさにその所業は悪魔! 聖女追放を命じた俺の判断は正しかった!!」
「うるさい。耳障りな声で騒ぐな」
「ぐっ!?」
無表情のまま王太子をぐりぐりと強く踏みしめるイムリス。
彼は基本的に誰に対しても普段から塩対応であるが、ここまで雑に他人を扱うのは初めてみたフラア。
しかも王太子相手だというのに一切の容赦がない。
王太子を踏みつけにする神官という絵面もシュールすぎる。
「と、とにかく早く呪いを解け。今ならその罪を問うこともしない」
「呪いってなんのお話ですか?」
イムリスの暴力にもめげずにこちらに語り掛けてくる王太子の言葉に首を捻る。
フラアは腐っても元聖女だ。
呪いなどという物騒な能力などあるはすもない。
「愛しいソフィアの上顎前突症に酷い吹き出物のことだ!」
「上顎前突症? ああ、出っ歯のことですね」
「それに父上の腰痛と加齢臭もだ!」
「はぁ?」
「そして何より、この俺の前頭部脱毛症! 他の貴族たちも何らかの身体的不具合が報告されている! すべてお前の仕業だろう!」
「……」
最早半泣きで叫ぶ王太子。
言われてみると確かに追い出される前の王太子より額の生え際が明らかに広くなっている。
「ええ…?たった数時間で? 若ハゲ…」
思わず呟いたフラアの言葉に今度こそドバっと涙を流した王太子。
「戻せ戻せ戻せ!俺の髪を返せぇぇぇ!!」
それは咆哮に近い魂の叫びであった。
心当たりがないわけでもないフラアだが、まるで自分たちが被害者かのような言い分はどうなのだと気分が悪くなる。
そもそもフラアは最弱の聖女と言われていた。
それは過去の聖女の功績と比べて聖女としての能力が劣っているからだ。
過去の聖女は聖力を使い大災害を食い止めたり、天候を操り飢饉を救ったり、国中に広がるパンデミックを抑えたりしていた。
聖力を駆使して使える能力にはそれぞれの個性が現れる。
フラアは聖力量こそ過去最大と言われているが、出来ることと言えばヒト一人の治療のみ。
それも医者でこと足りるような軽いものだけという認識だ。
治癒能力自体、聖女の能力としては凡庸。
最弱と言われても仕方がないと受け入れていた。
「返せと言われましても、髪も顎も加齢臭も元々そちらが貴方がたの特色です。寧ろ全てお返ししたとも言えましょう」
王太子を冷たく見下ろし言い捨てるフラア。
彼女が他の聖女よりも優れていたところがあるとするならば、その治癒能力の自由度だろう。
フラアを馬鹿にしながらも、その実、一番彼女の能力の恩恵を受けていたのは王太子だった。
フラア自体は嫌っていたが能力目当てで毎回神殿にやってきては、額を狭くしろだの、ニキビを治せだの、ものもらいを治せだの、胸毛を消せだの、もっと髪色を明るくしろだのとくだらないことを祈っていた。
実際は祈りという建前でフラアが治癒能力を使い、願いを叶えていたのだが。
果たして治癒なのかという本当に小さなことまで願うものだから毎回呆れていたが、命令されればやるしかない。
しかも王太子どころか王も効果が医者に掛かるより早いと便利な病院扱いで通っていた。
そして王族のみならず多額の寄付をした貴族も予約制で訪れて祈っていく。
しかし悲しいかな。そこまで便利使いされていたにもかかわらず追放されたのは、重病の治療はまったく出来ないからであった。
重い病気に苦しむ貴族に役立たずだと罵られることも何度もある。
「何が全てお返ししただ! おかしいじゃないか! だったらなんで叔父上は…この男は腕と脚がそのままなんだ!」
王太子は憎々しげに自分を踏みつけているイムリスを睨みつけるが、イムリスもまた睨み返す。
「何を愚かしいことを。罪をでっちあげほぼ身一つで追い出したお前らと、神を心から敬愛する私が同列だとでも? 私はたとえ手足が消失しようとも神のご意思を受け入れる。元々頂き物だ。お返ししようがそれは感謝すべきことで嘆くことではない」
実は王弟であったイムリス。
しかし他の王族と馬が合わず、成人すると騎士団に入隊してしまった。
みるみる名を上げ、最年少で騎士団長にまで登り詰めたのだが、大きな戦の際に手足を失ってしまった。
そこでダメ元で駆り出されたのがフラアであった。
普段は決して手足をどうにか出来る能力は見せないのだが、その時だけは何故か祈ると周囲がまばゆく光り輝き、気づくとイムリスの失った手足がそこにあったのである。
しかし奇跡はそのたった一度だけ。
何を祈ってもポンコツな結果しか出せなかった。
一方新しい手足を生やされたイムリスは度肝を抜かれ、勢いのまま騎士団を辞め神官へとジョブチェンジしてしまったのだった。
しかし神殿は思ったよりも内部が腐りきっており、いくら王弟とはいえ、いや王弟だからこその反発もあり、内部改革は並みの苦労ではない。
中途半端に上のポジションに就けられたが故にフラアとの接触は極めて少なく、周囲が必死に隠していた為に彼女の待遇の悪さに気付くのが遅くなった。
それは彼にとって死にたくなるほど辛い事である。
本人の前で態度に出すことは決してないが、イムリスが心酔しているのは神ではなくフラアなのである。
手足を失いこれからの日々を思い、これならばいっそのこと死んでいた方がましだと絶望していたイムリス。
そんな時に自分の為に真剣に祈り、奇跡を与えてくれたフラア。
これからは第二の人生として彼女に全てを捧げようと心に誓ったのだった。
今回の聖女追放劇にも、何を捨てても彼女について行こうとするのは必然だ。
「イムリスさんのおっしゃる通り、本当に私の意思で殿下を禿げ散らかしたわけではないのです」
だからフラアの一語一句がイムリスにとっての天恵である。
しかしそのようなクソデカ感情を10も年下の女性に抱いていることを知られれば嫌われてしまうかもしれない。
だからイムリスは決して態度にださないように努め、逆に塩対応に見えてしまう不器用な男である。
「すべては神のご意思。殿下が禿げるのも、陛下の腰が逝ってしまうのも、ソフィア様がしゃくれるのもそういう運命として受け入れるしかないのです」
「だったらもう一度治してくれ!!」
「それは不可能です。私はもう聖女ではないのですから」
「しかし聖力はまだそなたにあるのだから可能なはずだ!」
藁にも縋る必死な王太子の言葉に呆れ果てた目を向けるフラア。
「それを貴方様が言ってしまうのですね。では殿下はソフィア様のお話が虚偽なのだと知りながら聖女を不当に追放したことを認めることになるのですよ?」
「それは謝罪する! だからっ!」
「良いですか? 今起こっていることは私の意思ではなく神のご判断。私では止めようのないことです」
フラアは言い聞かせるようにゆっくりと語る。
「それを前提として、私は聖力を使い祈るときは必ず、対象の健康も一緒に願っていたのです。大きな病が隠れている時はどうか浄化してほしいと」
「だ、だからなんだというのだ」
「殿下は数年前に額を狭くするよう願われましたよね?」
「…ああ」
「その祈りは今になって却下され、殿下の額に返ってきた。でもそれにしては数年前より額が後退していると思いませんか? それってつまり、神が食い止めていた髪の後退がここにきて一気に返ってきたのです」
「!?」
「貴方様を祈るときに私は聖力で不治の病の存在に気づきました」
「お、俺に不治の病だと!?」
「ええ、だからそれを祈りで取り除いていたのです。気に病まれてはいけないと内密に。今は神のご慈悲でそれは殿下にお返しされていないようですが、聖女の不当な追放という醜悪な罪を認めてしまえば、病が殿下にお返しされる可能性が高いかと。そうなれば数年神の元で育った病はどうなっているのやら想像するのも恐ろしい…」
「ひぃぃぃ」
「当時はまだ小さかった病の芽だからこそ取り除けましたが、大きくなった病を取り除くのは不可能。ご存じのとおり私は聖女としての能力が低いので。私はどちらでも良いのですが、今この場でお選びください。禿げ散らかして生きるか、ふさふさのまま死ぬかを」
フラアの話に真っ青になってしまった王太子。
絶望した彼からようやくイムリスの足を外され解放された。
よほどショックだったのか、ふらふらと覚束ない足取りで消えていった。
結局フラアの問いに答えることはなかったが、そのまま消えたということは生きる道を選んだのであろう。
「驚きました。まさか奴に不治の病があったとは」
「ああ、それ嘘です。私はもう自分の為にしか聖力を使わないって決めたので。あんな奴の為になんて絶対にごめんだと思って咄嗟に嘘をつきました」
「カレー屋の主人には使っておりましたよね?」
「それも自分の為ですから。これからも美味しいカレーを食べたいですから」
「ではやはり店舗再建は正解だったな」
「ん?」
小さな声で呟かれたイムリスの言葉を聞き返すが、教える気がないらしく無視されてしまった。
フラアの望むことは何か。
それを考えることがイムリスの密かな趣味である。
「あのね。私、考えたんです。なぜイムリスさんやカレー屋さんには凄い治癒が使えたのかなって」
「ほう」
実はフラアの言葉は一言一句聞き逃さぬよういつも神経を集中しており、そのうえで前のめりにならぬよう興味なさそうな相槌を打つのだ。
「イムリスさんと初めて会った時、自身もケガをして精神面だってボロボロだったはずなのに、お腹を鳴らしてしまった私に手持ちの干し芋をくれましたよね。私、それが美味しくて美味しくて」
「そ、それは良かった」
思わぬ二人の出会いの思い出をフラアの口から聞けることに舞い上がりそうになるのを頬の内側を噛むことにより阻止する。
「それで気づいたんです。もしかしたら私の能力は美味しい物を食べた時に増幅されるんじゃないかなって」
立てた予想に目を輝かせながら語るフラアの表情に思わず見惚れそうになるのを抑えて考えるイムリス。
彼女は己の能力は治癒だと思っているようだが、イムリスは別の物だと考えている。
イムリスの失った手足を生やし、水も飲めない瀕死の老人がカレーを掻き込むほど復活させる。
治癒などと言うレベルではなく、最早これは創造である。
願ったイメージがそのまま実現される。
それは最早神の所業に等しい。
それも彼女の感情によって振れ幅があるのではないかというのがイムリスの見解だ。
「だから私、まだまだ出所メシを楽しもうと思います」
「…そうですか。どんな料理をご所望で?」
「カレー屋さん親子を見て思い出したの。お母さんが作ってくれたシチューが大好きだったこと。野菜をとろとろに煮込んであって、お腹にしみる優しい味。それをまた食べたいなって」
「そうですか。私も一度フラア様のご家族にはご挨拶したいと思っておりました」
「…? でも凄く田舎で遠いですよ? それでもついて来きます?」
「もちろんお供します。道中、美味しい物を食べ歩きましょう」
「おお!出所メシ!」
考えれば考えるほど夢が膨らみ楽しくなる。
追放された聖女による、供を一人連れた出所メシの旅。
さて、その後のそれぞれの顛末を語ろう。
まずは偽のソフィアを仕方なく聖女として迎えた神殿。
しかし聖力が存在しない彼女に聖女としての務めが果たせるはずもなく、フラアが整備していた中庭も荒れ放題。
信者の信仰心も当然のように薄れていき、フラアの祈祷で集めていた莫大な資金もなくなり、一人で神殿を回していた優秀な神官も失う。徐々に衰退していったのは必然だ。
そしてソフィアは厳しい聖女の暮らしをどうせ王太子との結婚までの期間だけだからと、すべて拒否して実家の援助で神殿の一室に引き籠った。
しかし待てど暮らせど王太子から迎えはこない。
美貌を失った彼女に最早王太子の心は離れていたのである。
気付くと長年の引き籠り生活で部屋の扉をくぐるのも難しい巨体になっており、いつまでも聖女として部屋でお菓子を貪り食っているのだとか。
王族はというと、王は腰痛悪化により座ることも困難なために王太子にその座を継承させることになった。
しかしその王太子は常に何かに怯えるようにビクビクしており、とても公務どころではない様子。
神殿と共に、王族―延いては国自体が徐々に衰退していったのであった。
一方フラアとイムリスは、無事再会した彼女の家族と共に隣国に移り住んだとかいないとか。
そこでフラアは聖女として大歓迎をうけ、常にフラアの舌を満足させる料理が振舞われた。
イムリスの方は数々の事業で成功。
特に飲食店の経営に力を入れており、彼が出資した“カレー屋フルゴレ”は今やその国の名物として大人気であり、聖女の大好物としても有名である。
しかしそれはまだ少し未来の話。
今はもう少しだけ、出所メシの旅を楽しむ二人であった。
END