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『皇帝陛下にお伝えして。かつてお疑いになられました通り、帝国の蒼き月はこの月隠の魔女がさらっていくことにしました、と。…さて、騒ぎが大きくなる前に帰りましょうか』
スライム・フレデリカがにこやかに声をかけたが、ジョシュアは剣を持ったまま呆けていて反応がなかった。頬にスライムの体当たりを食らわされたジョシュアが我に返ると、あの剣が魔封箱に収まっていた時のように、ただ闇雲に殺したくなる気持ちも、それを抑えようとする思いも消えていた。
肩の上には小さなスライムの重み。他の人には見えないが、ジョシュアの目にはオレンジ色のつややかでおいしそうな光が映っていた。
このまま口に入れて、食べてしまいたい。キャンディをなめるようにゆっくりと口の中を転がし、そっと甘噛みして…。
怪しげな夢想に心を奪われそうになり、ジョシュアは頭を強く振って正気を取り戻した。
『共に帰りたい者は集まれ!』
その場にいたスライムの三分の一がジョシュアの近くに集まり、透明になった。残りはここにいたいらしい。
『それでは、帝国の皆様。ごきげんよう』
スライム・フレデリカはジョシュアに覆い被さった。その場にいた者には消えたように見えただろう。
『地下に移動、進め!』
透明になったスライムとジョシュアは、フレデリカの命令で階段を使って地下に移動した。途中皇城の兵とすれ違ったが、ジョシュア達は気付かれることなく何とか通り過ぎた。
ディクトンらから話を聞けばすぐに折り返して来るだろう。尤も口に入れたスライムを何事もなく取り出せれば、だが。あれでも現筆頭魔術師だ。拘束を解かれれば何とかするに違いない。
つるつるの石の床の他、何もない地下室。ディクトンが仕掛けた魔法陣は既に消えている。
スライム・フレデリカがジョシュアから剥がれて床に触れると、フレデリカのいる場所から魔法のインクの痕跡をなぞるように光が走り、再び床に魔法陣が浮き上がってきた。魔力を込めながら一部を書き変える。魔導書通りの基本に忠実な魔法陣は読み解くのも修正も容易だ。魔導書に書かれている魔法など、書いた魔術師の能力以上にはならないのだから。
地下室に入り込もうとする兵を見つけ、ジョシュアが立ち向かった。
『もう少し持ちこたえて』
入り口が狭く、入り込む兵は一人づつ。一対一ならジョシュアの敵ではなかった。呪わない元呪いの剣ながら、切れ味は変わることなく鋭さを見せる。呪いがなくてももっと切りたい気持ちにさせる危ない剣だ。
「早く捕まえなさい! 蒼月の騎士を行かせちゃ駄目よ!」
皇妹アゼリア本人が近くまで来ている。迷わず地下に来たアゼリアにジョシュアの耳のイヤーカフが反応している。皇妹の印の入ったイヤーカフ。所有を示すそれには追跡ともう一つ別の魔法がついていた。
『完了! ジョシュア、来て!』
フレデリカに呼ばれてジョシュアが魔法陣に向かって走ると、兵達もアゼリアも一気に部屋になだれ込んできた。一緒にスライムも部屋に入っていて、ジョシュアの背後で魔法陣を前に積み重なって壁を作り、追ってくる兵達を押し返した。一緒に戻らないことを選んだスライム達が来てくれたのだ。
スライム・フレデリカはジョシュアの肩に飛び乗ると耳にかじりつき、イヤーカフを引きちぎってペッと勢いよく吐き出した。軌道を見越してスライムの壁に穴が開き、イヤーカフはアゼリアの額に当たってゴツンと鈍い音を立てた。
「ぎゃんっ」
悲鳴と共にアゼリアはその場にうずくまった。
『旦那様の耳におつけになれば? 効果は保証するわよ』
涙目で睨みつけるアゼリアをものともせず、魔法陣は帝国に送り込まれた時とは比べものにならない速さで一気に天井に向けて光を放ち、ジョシュアとスライム達を光の粒で包み込んだ。
『諸君の忠誠に感謝する』
スライム・フレデリカの声に、壁となったスライム達は一斉に立方体で直立不動となり、去る者達を見送った。その姿は敬礼しているように見えた。
瞬きするほどの時間でジョシュアとスライムは家の裏手に戻っていた。
まだ空に星は残っているが、東の方が少し明るくなっている。草に巻かれた者達は草を布団にしていびきをかいていた。とても捕らえられているようには見えない間抜けな姿だ。
そこから少し離れた場所に仰向けに倒れたままのフレデリカ。こんな無防備な姿を見せるのは珍しい。
青いスライムの一集団が呪われていた剣の鞘を自分たちの上に乗せてジョシュアの元に運んできた。塔で投げ捨てた鞘を持ち帰ってくれていたのだ。この剣にはこの鞘が似合う。こうして戻ってきたということは、この剣と鞘も離れられない運命なのだろう。
ジョシュアは鞘を受け取り、
「ありがとう」
と言うと、スライム達はサササッと蜘蛛の子を散らすようにその場からいなくなった。
ジョシュアは剣を鞘に収め、腰につけると、寝転んだままのフレデリカを抱え上げた。静かな寝息の合間に、ムニャムニャと小さく寝言が聞こえた。
オレンジのスライムはいなくなっていた。肩の上の小さな重みがなくなり、それを少しだけ寂しく感じた。