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出て行った扉の向こうで今なお声が聞こえる。ここはアゼリアの部屋の一室なのだろう。見回せば天蓋のついた大きなベッドがあり、寝室と思われた。寝室に男を鎖でつないでおくとは悪趣味なことだ。
ジョシュアは面倒なことになったと溜息をついた。
あのしつこい剣もこの部屋までは追ってこないようだ。既に呪いが解かれたのか、怒りと同時に無条件で沸き起こる殺意は抑えられている。フレデリカとの結婚の約束が果たせなくなってしまったことを残念に思ったが、さほど落ち込んでもいなかった。
フレデリカへの恋心は呪いがもたらしたものだと言う者がいる。
今までこれほどまで誰かを想い、そばにいることを願ったことはなかった。ジョシュアが弟子にしろと強引につきまとっても嫌がることもなく、旅の同行を許し、プロポーズも条件付きながらも拒否はされなかった。いつも願いを口にするのは自分の方、フレデリカは受け入れる側だ。フレデリカ自身がジョシュアに何か仕掛けてはいないことは確かだ。
帝国にいた時は、強く頼れる魔術師だと評価はしていたが、それ以上の思いはなく、女として意識したことはなかった。
騎士の心を読んだかのようにサポートがうまく、周囲の危機に敏感で、ここぞというときには大魔法を繰り出す。恩着せがましいところはなく、居高い者からは距離を置き、無礼者には容赦しない。それは呪われた自分に対しても同じだった。狂った自分への容赦ない一撃、フレデリカでなければ殺して止めるしかないだろうが、自分を殺せる人間などそうはいない。
あの時、解呪を頼んでも良かったのだ。それなのにあえて弟子入りを選んだのは意地もあったが、それ以上にあの魔女に興味を持ったからだ。
一緒に暮らしてからは目が離せなかった。自分の仕事は淡々とこなすが、好奇心が湧くとのめり込み、とんでもない成果を上げる。それを幼い子供のように心から楽しむ姿。大魔女であり、信用できるのに、安心できない。つい心配になり、気が付けば後を追ってしまう。
フレデリカのことを思い出すうちに今のこの状況さえも忘れ、気が付けば笑みが浮かんでいた。
結婚できないことにさほどがっかりしないのは、既にフレデリカのそばにい続けることは当たり前になっているからだ。今は夫になれなくても、まだまだチャンスはある。
いつかきっと手に入れる。…どんな手を使ってでも。…たとえ…
次々と湧いてくる黒い思いに、ジョシュアはふと我に返った。
この感覚は何だ?
妙な違和感に、冷静になるよう自分に言い聞かせていると、手首のあたりに何やらもぞもぞとした感触があった。気になって注視しても何もない。何もないのに手首と天井をつなげる鎖が小さく持ち上がり、続いて手枷の留め金が小刻みに震えだした。
目を凝らすとかすかにオレンジ色の光が見えた。その光がねじれ、指先程度の小さな竜巻が起き、その勢いで手首につけられている手枷の留め金が緩まると手枷は外れた。
何が起こっているのかわからないままに、今度は何かがジョシュアの頭を踏み台にして左手に移っていった。感触からすれば風と間違う程度だが、小さな何かがいる。そして左手でも小さくねじれて風を起こすと、手枷の留め金が緩まり、あっけなく外れた。手枷は落ちたが地面すれすれで宙に浮き、羽根が落ちるようにゆっくりと音もなく地に着いた。
「…フレイ?」
掌を上に向けて広げると、左の手首にある小さな何かが這いながら掌の上に移った。握り拳より少し小さな何か。それがほんのりとオレンジ色を濃くしていった。半透明で、一見果実のようにおいしそうなそれは、
「スライム?」
自分の知っているスライムよりずいぶん小さい。田の近くにいたスライムくらいの大きさだ。手の上に魔物を載せながら、不思議と怖いとは思わなかった。
『さすがジョシュア、よく私だとわかったわね』
魔物の声は小さく、人とは違っていたが、恐らくフレデリカがスライムの器官を使って音を作っているのだろう。
「スライムにされてしまったのか? おまえの体は?」
『ああ、体は家の裏にあるわよ。ちょっとスライムの体を借りているだけ。早く帰らないと、隣村の連中と一緒に倒れているところを見られたら変な噂が立っちゃうかも』
フレデリカの体は魔法陣の転送から逃れ、帝国に送られてきていなかった。そのことにジョシュアは安心したが、野っ原に倒れたままになっているのは別の心配がある。
「そうだな。帰ろう、俺たちの家に」
普段愛想のない騎士の見せた笑顔は、魔女の心をも動揺させた。元々感情を表だって見せない方だが、呪いを受けている時はさらに無愛想で、この三年間それが普通だと思っていた。「俺たちの家」、そんな言葉にさえ意識してしまう声の甘さ。
…ジョシュア、どうしちゃった?
フレデリカはジョシュアの変化を気にしつつも、家に戻ることを優先することにした。しかし、放っておけない物もある。
『剣を取り返して帰ったほうがよさそうね』
「剣を?」
『あと少しで呪いが解けるんだもの。あのままシュナイダー卿の封じた魔封箱に入れても、箱を開けばまた呪いが再開するわ。呪いをいつまでも気にして生きていくのは嫌でしょう? …いっそもう呪い、私が解いちゃっていい?』
弟子が自分で呪いを解くと宣言したのを律儀に優先しようとしている。その達成に賭けられたのは二人の結婚だ。フレデリカにもその気があるとしたら…。ジョシュアはその判断をフレデリカに委ねた。
「ここまでの努力を認めて結婚してくれるなら、フレイが解いても構わない」
照れも見せず真顔で言ったジョシュアに、フレデリカはすぐには言葉が出なかった。どう返事しようか…。結局答えはこうなった。
『考えとくわ』