致死性の恋
「恋愛性過剰興奮症ですね」
僕の目の前で椅子に腰かけている女医がそう言った。僕は目を点にしたまま女医の言葉を反芻した。
「恋愛性、過剰興奮症、ですか……?」
「ええ、恋愛性過剰興奮症です」
女医がノンフレームの眼鏡を持ち上げ、スラリと長い脚を組んだ。聡明そうな表情も合わって、絵に描いたようなできる女と言った感じだ。僕はそのやけに艶めかしい姿をチラチラと見ながら口を開いた。
「なんですか、その妙に長い名前の病気は」
女医はデスクの上からカルテを取り上げると、それに視線を落とした。
「恋愛性過剰興奮症は近年発見された脳の病気の一種です。簡単に説明しますと、恋をした時にアドレナリンが過剰分泌する病気です」
「……それがどうかしたんです?」
「本来、人が恋をした時に脳はアドレナリンを分泌させます。恋は盲目と言いますよね。それはアドレナリンによって興奮して周りが見えなくなっているだけなのです。この恋愛性過剰興奮症はそのアドレナリンの分泌を何倍にも引き上げる病気なんですね。アドレナリン自体は血管を拡大させて血行を良くして集中力を上げたり、脂肪の燃焼をしたりと良い効果ではあるのですが、しかしそれが過剰に分泌されると筋肉に負荷をかけてしまったり、血圧の上昇をもたらしたり、酷くなると心筋梗塞までもひきおこしてしまうのです」
僕は知らず知らずのうちに膝の上の拳を握りしめていた。じっとりと汗がにじんでいる。ごくりとつばを飲み込んだ。女医が続ける。
「なのであなたは恋をすると最悪の場合、心筋梗塞を引き起こして亡くなってしまうかもしれません」
「そんなっ!」
僕は身を乗り出していた。女医はそんな僕を落ち着かせるように微笑を浮かべながらカルテをデスクの上に置いた。
「大丈夫ですよ。この病気にはきちんと薬があります。今日はそれを処方するので帰りに貰っていってくださいね」
□□□□
僕は薬の入った紙袋を片手に携えて、帰路についていた。会社の健康診断で再検査が必要と言われて向かった病院で告げられたのは名前も聞いたことのない病気だった。しかもその病気は恋をすれば死ぬと言う。僕は何が何だか分からなかった。
しかしまあ、と僕は呟いた。
「そんな簡単に恋をすることなんてないしなあ。それに薬もあるしそのうち治るだろ」
僕は片手に持った薬を見下ろし、そしてなんとなく視線を道脇に建っているコンビニへと向けた。雑誌コーナーでは若い女性が雑誌を立ち読みしている。髪は薄茶色で肩口程で切り揃えられており、表情は涼し気で中々に美人だった。歩きながら彼女に暫く見惚れていたが、ふと病気のことを思い出して視線を外した。
「――っ」
僕は左胸に手を添えた。心臓がバックンバックンと飛び跳ねている。脳の奥が鈍く痛み、手足の末端が軽く痺れてきた。立ち止まって深呼吸をすると、やがて落ち着いてきた。
「そうか、一目惚れも恋の一種だもんな……」
僕は再び家に向かって歩き始めた。視線を僅かに下に落とし、歩く速度を速める。
暫くは女の人を見ない方がいいな、そう心の中で独りごちる。
それにしても、
「あの先生、綺麗だったなあ……」
僕は女医の姿を――女医の脚を組んでカルテを見つめる姿を思い出しながら我が家へと続く道を歩いて行った。
□□□□
薄手のカーテンから、朝日の光が僅かに透けて部屋を照らしていた。宙を舞う埃たちが照らしだされ、ふわふわと空中を泳いでいる。僕は寝惚け眼でそれを見るでもなく見ながら、ゆっくりと身体を起こした。脳の奥が溶けだしているように、思考がぼんやりとしていた。口の中が粘ついて不快だった。
顎が外れる程の欠伸をかましながら僕はベッドから降りてキッチンへ向かった。使い続けている所為で異音を慣らしている冷蔵庫の扉を開け、ペットボトルに入ったミネラルウォーターを取り出した。冷蔵庫の上に置かれている薬を手に取り、それを口に放り込んで水を飲んだ。一粒の錠剤が良く冷えた水と共に食道を通っていく。一日三錠、それが薬剤師の人に言われた『恋愛性過剰興奮症』の特効薬の一日に摂取する量だ。
その後、顔を洗って歯を磨き、作業着に着替えて仕事に向かった。やっぱり月曜日は憂鬱だ。重い体を引きずって玄関から外へと出た。ナイフの切っ先の如く鋭い朝日が世界を照らしていた。
上司にむかつきながら仕事をこなし、スーパーの半額になっている惣菜と安い発泡酒を片手に帰ってきた。晩酌を始める前に忘れないよう『恋愛性過剰興奮症』の薬を飲む。昼に飲んだ一錠と合わせてこれで一日に摂取する量は全て飲んだことになる。
作業服を脱ぎ、シャワーを浴びてから惣菜と発泡酒で晩酌を始めた。やけにハイテンションのバラエティー番組を眺めながら、ふといつもよりも疲れていることに気がついた。肉体がではなく、精神的に疲れているのだ。アルコールも手伝って粘度の高い液体に浸かっているかのように体の動きが鈍い。発泡酒を一口飲み、溜め息を吐いた。
女性を極力見ずに生活するのは思ったよりも大変だった。道を歩けば嫌でもすれ違うし、会社の社員にも女性従業員がいる。スーパーの店員だってパートの女性ばかりだ。それに男という生き物のサガというか、魅力的な女性はついつい無意識に目で追ってしまうのだ。それらからいちいち視線を外そうとしていたら疲れるのも当然だろう。
僕はテレビを消し、発泡酒の残りを一息で飲み干してベッドに体を投げた。
□□□□
次の日曜日、僕は再び病院にいた。珍しい病気とあって、検査の為に毎週病院に来るよう言われているのだ。
僕は前と変わらず魅力的な女医の前で椅子に腰掛けている。頑張って視線を逸らそうとするが、しかしどうしてもその芸術的とも言える脚や、整った顔に目がいってしまって、そのたびに病気の影響か心臓が高鳴り、手足に血液が高速で循環してポカポカと体が火照った。
そんな僕の状態を知ってか知らずか、女医はカルテを膝の上に置いて僕の方を見た。その整った顔を僅かに崩し、微笑みかけてくる。
「どうですか、体調に変化はありませんか」
僕は頬を掻きながら言葉を返す。
「いやまあ、相変わらず綺麗な人を見たら心臓が暴れて苦しいですけど……何とか大丈夫です」
「そうですか。今出している薬は即効性は無いので症状が落ち着いてくるのはまだかかるかもしれません。それまでは苦しいかもしれませんが頑張ってくださいね。必ず治りますから」
女医が両手の拳を握り、ガッツポーズをするように身を乗り出してきた。ふわりと爽やかで、それでいて甘い匂いが僕の鼻腔を衝いた。柑橘系の匂いだった。なぜ女の人は良い匂いがするのだろう。
僕はその匂いを嗅いで、幸せな気持ちになる反面、心臓は飛び出してしまうのではないかと思う程飛び跳ね始めた。思わず左手で胸を押さえて蹲る。喉の奥から呻き声が転がり出る。
「大丈夫ですか!?」
僕の様子を見て、慌てた様子の女医が僕の背中を擦ってくれるがしかしそれは僕にとって逆効果だった。気づかれないように女医の手を払い、無理に身体を起こす。
「大丈夫です」
「……本当ですか?」
「ええ」
大丈夫なわけがなかった。握りしめた拳の中は手汗が噴き出してベトベトぬるぬるだし、脚はガクガクと震えている。額と背中には粘つく脂汗を掻き、不快だった。しかし僕は無理をして笑みを浮かべる。
「……」
女医は尚も訝し気な顔をしていたけれど、しかし僅かに溜め息を吐いて膝の上のカルテを取り上げた。それに視線を落としながら、ノンフレームの眼鏡を美しい動作で持ち上げる。
「まあ、検査の結果身体に異常は無いのでこの調子で気をつけて生活をして下さいね。……ではまた来週、お疲れさまでした」
「ありがとうございました」
僕は椅子から立ち上がり、僅かに頭を下げて踵を返した。扉に手を掛ける僕の背中に女医が声をかけてくる。
「くれぐれも、恋はしないようにしてくださいね」
□□□□
何週間かの時が過ぎた。その間も僕は欠かさず処方された薬を一日に三錠呑み、病気と闘っていた。週に一度は病院に顔を出し、変わらず美しい女医の前でドギマギしつつ、心臓を暴れさせて奥歯を噛みしめた。女性を極力見ないように過ごすのも徐々に慣れてきた。
そして今日、僕は最後の診察を受けていた。
「うん。数値は正常、体調も良好、徐々に回復に向かっていますね」
「そうですか」
僕は椅子に腰かけ、カルテに万年筆で何かを書き込んでいる女医の横顔を見ていた。すらりとした鼻梁と小振りな唇、それらと絶妙にマッチしたノンフレームの眼鏡が合わさり、美しかった。僕は飛び跳ねる心臓を押さえながら、しかしそれでも女医から視線は外さずにぼんやりと見ていた。
ふと女医がこちらに向き直る。
「よかったですね! もう少しで病気――恋愛性過剰興奮症は完治します。そして診察も今日で最後です。お疲れさまでした」
女医が嬉しそうに笑みを浮かべながら僕の手を取ってギュっと握りしめた。僕は目を見開く。心臓が過去にもなく暴れ始め、思考は靄がかかったようにぼうっとし始めた。これも恋愛性過剰興奮症の所為で過剰に分泌されたアドレナリンの所為だろうか。
「数週間の治療、ほんとうにお疲れさまでした! では最後に薬を貰って気をつけて帰ってくださいね」
女医は僕の手を離し、一仕事終えたような満足げな表情でそう言った。僕はその言葉を聞き流しながら、しかし女医のその綺麗な顔を見続けていた。
ああ、嗚呼、僕は……
「どうしました?」
僕の様子がおかしいことに気づいた女医が笑顔から一転、不安そうな表情で僕の顔を覗き込んでくる。
ああ、僕は、この病院にやって来た時点で――いや、この病気にかかった時点で助からない運命だったのだ。
先程まで狂う程暴れていた心臓が、一転して妙にゆっくりと鼓動し始めた。正常時よりも、それよりもゆっくりとまるで止まりかけの振り子時計のような動きで僕の中で脈動している。
ぐらりと身体が傾いた。座っていた椅子から転げ落ち、床で強く頭を打った。
「大丈夫ですかっ!?」
女医が弾かれたように椅子から立ち上がり、僕の傍にしゃがみこんだ。僕は彼女の慌てた顔をぼやけた視界で見た。慌てた顔も綺麗だなと思った。
僕は、この病気を患った時点で、絶対に助からない運命だったのだ。だって、僕は女医に――彼女にどうしようもなく恋をしてしまったのだから。
僕は僅かに目を閉じる。既に手先の間隔はなくなっていた。女医が僕の肩を強く揺さぶる。そして何かを叫んでいるが、しかしもう僕にはそれを訊きとるとこは出来なかった。
意識が、途切れた。
恋。
そして、暗闇。