午睡(ゴスイ)
ぴちょん…、と何かの滴る音に重なり、夜のしじまのそのまた奥から声がする。
瞼の裏の闇に声が木霊す。
僕は仰臥したまま、指の先さえも動かせずに瞼の裏の闇を見つめ、木霊す声をぼんやりと聞いていた。
遠く、宇宙の果てから叫ぶ様な。
近く、耳のすぐ傍で囁く様な。
曖昧で捉え処が無く。
夢の中からの様な。
現実からの様な。
確かなことは唯ひとつ。
僕を呼ぶ声、だったのだ。
呼ぶ声だったのだ。
『此方へおいで…』
*
固く閉じた瞼の隙間から強烈な閃光が眸を焼く。視界は真っ赤を通り越して真っ白になった。痛む眸を恐る恐る開くと、木々の緑が飛び込んできた。圧倒的な生命力に息苦しくなる。
『キテ――…』
唐突に、頭の中で声が弾けた。何処かで聞いたことのある様な声だった。
「だれ…? 誰がぼくを呼んでいるの…?」
「世界樹ですよ。先刻も云ったでしょうに。」
「だれ!」
背後から届いた声に、少年は鋭く振り返った。
「誰とは酷い。此処まで一緒に旅をしてきた仲だというのに。」
そこには天鵞絨の外套に絹帽という出来損ないの奇術師の様な恰好の男が、いつの間にかひっそりと立っていた。
「………?」
「酷いですねえ…、須倶理。お忘れなのですか。萬屋ですよ。『萬の知識を持つ者』ですよ。」
『萬屋』と名乗った男をじっと見つめると、男との出会いから今までの記憶がどっと押し寄せてきた。
そうだ自分はアノ声の主を知りたくて彼を訪ねたのだった。
「ああ、そうだ…。『萬屋』だ。ぼくの旅の案内人。」
「そうです。さあ参りましょう。この森を抜ければ目的地です。」
「うん。」
二人は歩き出した。
『キテ――…』
再び弾けた声に少年の歩みが止まった。
周りの光も音も総てが消えた。
「声が…」
『キテ――…』
声は段々と大きくなり、途切れた。
「あっ。」
「また世界樹が呼んでいたのですか?」
「うん…。」
現実に引き戻らされ、くらくらする頭を押さえる。
「ねえ、何で世界樹はぼくを呼ぶのだろう?」
「さあ、何故でしょう?」
「何だい。『萬の知識』はハッタリかい。」
「さあ、どうでしょう?」
にやりと萬屋は笑った。だが直にその表情を引っ込めると、打って変わって真剣な表情になった。
「ですが唯ひとつ確実なことは、世界の中心でこの世界を支える世界樹の声を聞き分けられる貴方は特別だということです。」
「―――ッ ぼくは特別なんかじゃない! ぼくは『普通』だ。けして特別なんかじゃないんだ!」
「どうしたのです? 突然叫んだりしなさって。」
「…何でもない…」
ばつが悪そうに顔を逸らしたままの少年を、萬屋はじっと見つめた。視線に気付いていながらも、少年は顔を上げることが出来なかった。
「……。」
「……。」
二人の間に沈黙が落ちた。数呼吸分の間の後、先に口を開いたのは萬屋の方だった。
「世界樹を囲むこの森が『知識の森』と呼ばれていると話しましたね。この森もまた特別なのです。」
特別という言葉に、少年はぴくりと反応した。それでも顔は伏せたままだ。
構わず萬屋は続けた。
「この森は世界樹の泉からの水を得て、森となったのです。ですからこの森に生きづく木々の一本、枝の一枝、葉の一枚、花の中の雌蕊の一本に至るまで総てに知識が詰まっているのです。」
萬屋は手近な樹から実をもぎ、少年の方へと見せた。
「これが何だか分かりますか?」
少年は少し顔を上げて萬屋の手の中にあるものを見つめた。
それは黄水晶で出来た実であった。
萬屋はもうひとつ実をもいで、果実同士を打ち合わせ、小さな破片を少年へと差し出した。
「智慧の実ですよ。お喰べなさい。」
「……」
受け取りもせず、少年は破片を凝視した。
「お喰べなさい。」
自分の分の破片を抓み、口の中に放り込むと、萬屋は再び破片を差し出した。
「さあ、貴方もお喰べなさい。」
「……」
ちらりと萬屋の顔を見上げる。
何処か捉え処のない萬屋の笑顔。
それでもそろりと手を出すと、ころりと破片が乗せられた。
「甘い……。ドロップスみたいだ…。」
思い切って口に含むと、何処か懐かしい味がした。
*
ぽつ、ぽつ、と何かの滴る音がする。
僕の意識はゆっくりと夢から浮上してゆく。
「………」
ぼおっと天井を見上げる。意識がまだ完璧には現実に戻ってこない。
「…………夢……?」
ゆっくりと左手を顔の前まで持ち上げたものの、ぱたりと力を失い、顔を覆うように手が落ちた。
「はは…、そうだよな……。僕が立ち上がれる訳ないものな…。」
空しい声が暗闇に響く。
またぽつ、ぽつ、と何かの滴る音が聞こえる。ああ、あれは点滴の落ちる音だ。
僕を現実に繋ぎ止める鎖。
生れた時からずっと、そしてこれから病に負けるまでずっと、僕と共にある音だ。
『キテ―――…』
アノ声が聞こえた。
顔を覆う手を少しずらし、暗闇の中、耳を澄ませる。
「声……? またあの声なのか……? 何で今、聞こえるんだ……?」
不思議な眠りの波が僕を再び夢の世界へ引き摺ってゆく。僕はすうっと眠りに落ちた。
*
一本の細い柳の樹の周りを囲む先程喰べた黄水晶の様に澄んだ泉の前に、二人は立っている。
「漸く着きましたね、須倶理。ここが『世界樹の泉』です。さあ、御覧なさい。あすこに見えるのが世界樹ですよ。」
「あれが世界を支えている…だって…? どう見たって無理な話だろう。」
「おや、姿形だけで性急に判断を下すとはいけませんね。」
「そんなこと云ったって…。」
「まあ仕方のないことでしょう。確かにこの樹は見た目に弱々しい。そしてその中に宿る魂も又弱々しいのです。そら、御覧なさい。このモノの真実を。」
萬屋が外套を翻し、柳の樹に翳すと、次の瞬間、柳のあった処には少女が虚ろ眸で座り込んでいた。
「女の子…? ぼくを呼んでいたのは君なのかい!!」
「そう。世界樹に捧げられ、世界樹の魂となったこの娘は、ひとりこの世界を支えることに恐怖し、貴方を呼んでいたのです。誰か助けて、とね。」
高くなる少年の声とは逆に、低くなった萬屋の声がそう告げる。
「何で、そんなことまで知っているんだ…」
少年は不審の眸で絹帽で表情の見えにくい男を見た。唯一見えるのは彼の口元だけ。その口元は緩い笑みの形に吊り上げられている。
背筋に冷や汗が流れるのを少年は感じた。
「全ての答はこの娘が握っています。さて、私がご案内出来るのは此処まで。あとは貴方次第ですよ。」
萬屋は外套を自分へと翳し、瞬きする間もなく、外套が型を失って地面へと落ちた。中から飛び出したのは、萬屋の外套と同じ色をした真っ黒な鳩だった。
「只これだけは云っておきましょう。この娘が貴方を呼ぶ限り、貴方は貴方に戻れない。ではまた何処か違う場所で、お逢いしましょう。」
鳩はそれだけ云うと優雅に空高く舞い上がった。
「萬屋!!」
『――タスケテ…。ここカラダシテ……』
頭に直接響く声が混乱の極致にある少年の脳裏に響いた。
「五月蝿い!」
少年は耳を塞ぎ、後退さった。だがいくら距離をおいても声は追いかけてくる。
『ダシテ……』
「黙ってくれ! ぼくにどうしろというんだ!」
世界樹の魂だという少女に向かって、少年は怒鳴った。
『タスケテ……』
「やめてくれ!! 自分で出てくればいいだろう!」
『……イイノ? 出てもイイノ…?』
脳裏に響く声の響きが変わった。
「勝手にすればいい! 何故そんなことでぼくを呼んだんだ。」
『だって、世界が崩れてしまうモノ。代わりになってくれなくチャ。』
また一歩、少年は少女から離れようとした。だがそれは叶わなかった。
いつの間にか少女は少年の手首を握り締めていたのだ。
『貴方は来てくれた…。ねえ、代わりになってくれるのでしょう…?』
ぬるりとして冷たい手。人としての体温を全く持たない、人ならざるモノの手だった。
「放せ!」
ゾッとなり少年は乱暴に手を振り払おうとした。だががっちりと掴まれた手首が痛むだけで、少女の手が緩むことはなかった。
少女は笑みを浮かべた。
「何故? 貴方はもう駕籠の中。ふふふ、さようなら。私はもう自由。貴方は駕籠の鳥よ。」
見ると、少年と少女の立っていた位置が逆になっている。その上、泉が水の柵となっている。
少女は柵の外。
少年は柵の内。
囚われたのは少年の方。
『待て…! これはどういうことだ!』
柵に取り付き、水の柵の間から目一杯腕を伸ばし、少年は怒鳴った。
少女は更に笑みを深め、見つめるのみ。
「有難う。そしてさようなら。」
少女は小さく手を振ると、暗闇の中の一本の道を走り出した。
少年は辺りが暗闇に閉ざされていることにその瞬間やっと気付いたのだった。
これは何だ。
ぼくはどうなる?
ぼくは、ぼくは…、ぼくは………!
『待て、待つんだ、待ってくれ! イヤだ―――!!』
*
瞼の裏に柔らかい光を感じて眸を開く。頭上から射す木漏れ日が優しく少年を包んだ。少年は自分が合歓の樹の下で寝ていたことに気付いた。
まだ頭がしっかりと働かずぼんやりとしていると目の前に影が落ちた。
「いい夢、見れたかい?」
目線を上げると、級友である男の姿がある。
「ああ…、そうか。ボクはこんなところで寝てしまったのか……」
「さあ、そろそろ午后の授業が始まるよ。午后一番は君の大好きな地学の授業だ。」
その言葉に少年は完全に眸が覚め、飛び起きた。
「そうだった! ボクは先に行くよ。じゃあまたあとで。」
遽しく少年は走り去った。その背を少年の級友である男が、ひとり合歓の樹に下から見つめている。男の顔ににやりとした笑みが浮かび上がる。
「須倶理、此処に居れば君に迫る病の足音は届かない。さあ、今度こそは二人だけ。邪魔者はもう消えた。
……いい夢にしよう。」
終
初投稿です。此処まで読んで戴いて有難うございます! 感想・ご意見など有りましたら、じゃんじゃんお寄越し下さい!!




