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BLACK BOARD  作者: 尾十神誠
6/7

第五章~幼馴染との約束~ [e7] 出席番号5番

私には叶えたい夢があった。


『世界一のピアニスト』になること。


それが私__[鈴音(すずね) 響子(きょうこ)]の夢だった__。


そう、叶えたい夢[だった]。 __過去形。


諦めるしかなかった。


諦めなければならなかった。


他に選択肢はなかった。


なぜならば。


ピアニストなのに、『腕が使えない』からだ__。


**********


「ピアノなんて、いや!」


子供の頃、私は母親の影響によりピアノを始めたが、プロのピアニストである母親の厳しいレッスンに耐えることができなかったので、よく駄々をこねていた。


最初は母も教える気はなかったみたいだけど、興味本位でピアノを弾いた私の演奏に才能を感じたらしく、鬼のように厳しいレッスンをさせられた。


「そこ、テンポが早いって言ってるでしょ! 何回言えば気が済むの...!? もう一回、やり直し...!」


こんな具合で、同じ部分を何度も何度も繰り返し演奏して、完璧な伴奏をさせることが母親の目的だった。


私はそれがたまらなく嫌だった。 __どうして、好きなようにひかせてくれないの?


子供の私は、厳しくされることが母親の愛情だったとは露知らず、ピアノの演奏が嫌になって、何度もレッスンから逃げ出した__。


「おかあさんはね、きっと、きょうこにイジワルがしたいんだよ」


「ふーん」


逃げ出す先は、いつも決まっていた。


隣りの家に住んでいる加藤家の一人息子__秀司くん(同い年)と遊ぶのが、私にとって唯一の息抜きだった。


私はいつも近場の公園へと連れて行き遊具で遊ぼうとするが、彼はいつも本を読んでいてつまらなかった。 __ブランコはイスじゃありません! こぐものです!


「ねーねー、ヒデくんはなんで本ばっかりよんでいるの? めがねかけてるから?」


「眼鏡は関係ないだろ...、あと[ヒデくん]って言うな。 オレはシュウジだ」


小さい頃の私は、彼の名前の読み方を間違えたまま覚えてしまい、今となってはあだ名として[ヒデくん]って呼んでいる。


当時の私が、ヒデくんの話は難しくて分からない...という意思表示に首をくりっと傾げていたら、ヒデくんは呆れたように嘆息をつく。


「ハァ...もういいや。 えっと、オレが本を読んでいる理由だっけか? そんなもん、親が言うからに決まってるだろ」


「えー! じゃあ、ほんをよむのが好きでもないのに、よんでいるの!?」


「まあそうだな」


私はこの時知らなかったんだ。 彼が医者の息子で、父の期待に応えるために遊ぶ時間を削って勉強に明け暮れていたことを。


「えー、つまんなーい。 じぶんのやりたいこととか、ないの?」


「...ないな。 __キョウコはピアノ以外でしたいことでもあるのか?」


「うーん...たのしいことがしたいなっ!」


抽象的な言葉にヒデくんは呆れたのか、苦笑いして小さなため息をつく。


「__ピアノは、楽しいことじゃないのか?」


私がピアノのレッスンから逃げ出している事を把握している彼は、私にそんなことを聞いてきたんだ。


「うーん...、ピアノはキレイな音が出るからたのしい! __でも、お母さんがおしえる音は、なんだか暗いっていうか...たのしくない」


「ふーん...。 まぁ、上達したいなら嫌なことでもやり抜かないと後悔するぞ」


__私は後に、この時彼の言葉をちゃんと聞いていればよかった、と後悔することになる。


**********


「どうして、もっと丁寧に弾かないのっ!?」


そう言って母は私の頬を思いっきりビンタして、怒涛に責め立てるのです。


「だって...!」


「だってじゃないっ!」


私の言い訳を聞こうともせず、ピシャリと言葉を遮った母は、篝火を強く焚き、轟々と怒りを燃え盛らせてた。


なぜ母がこんなに激怒しているのか理由は__コンクール『準優勝』が原因だった。


当時の私は楽譜通りにピアノを演奏するのがつまらなくて、コンクール当日に自由奔放にピアノを弾いた__そのせいで『優勝』を掴むことができなかったと母は告げるのです。


「私はアナタの為を想って__!!」


その言葉の続きを口にしようとした時、母に異変が起りました__私をビンタしようとする手が震えており、苦悶の表情を浮かべていました。


「...お...かあ...さん?」



刹那__母は倒れました。



『パーキンソン病』__それは、脳の異常により体の動きに障害があらわれる病気。 主な症状としては手足の震え、筋固縮、バランスがとれなくなり歩行が困難になる__。


母は以前から、この病に侵されていた。


パーキンソン病には進行度を示す数字が1~5まであり、3までが歩行障害があらわれ、やや活動制限されますが日常生活は送れるそうです。


母が私にピアノを教えている時は、もうすでに3の状態でした。


そんな母の状態を知りもしない私は気ままに日常を送り、何度もピアノを遠ざけて、楽な方へと逃げていたのです__母を苦しめているとも知らずに。


治療を受けず、私のピアノ指導をしていた母は徐々に病に侵されて、進行度が5になりました__。


パーキンソン病の5は、一人で立つことが不可能になり、車椅子での生活や寝たきりになり、全面的介助が必要になるのです。



母は、二度とピアノを弾くことができなくなりました。



私は後悔しました__。


何も知らずにのうのうと生きいてた自分。


ピアノと真剣に向き合っていなかった自分。


母の教えを無下にしてしまった自分。


泣いて、喚いて、泣き叫んで、苦しみながら__私は決意しました。




『世界一のピアニスト』になる__って。


**********


鈴音響子__現在、15歳(高校一年生)


それから私はピアノを弾けなくなった母の替わりにピアノを弾き続けて、母の演奏が素晴らしかったことを世に知らしめようと鼓舞しながら練習に明け暮れました。


「おー...。 熱心にピアノ弾いてるな」


私が学校の音楽室でピアノを弾いていると、見知った顔が扉の入口で立っていた。


「当たり前でしょ__コンクールは明日なんだから」


そう言って私は彼__ヒデくんを存外に扱って、今自分がするべきことを優先させていた。 幼い頃とは、立場は逆転していた。


「そういうヒデくんは、野球部に顔を出さなくていいの?」


医者の息子として幼少期時代に読書に明け暮れていたヒデくんは、今となっては野球部の主将として人生を謳歌していた__まぁ、成績も優秀なんだけどね。


「これから部活に参加するところだ」


じゃあなんでここにいるの? という私の思考が読まれたのか、ヒデくんは先回りして照れくさそうに口を開いていた。


「いや、そのなんだ...。 緊張していると思って、励まそうとだな...」


ヒデくんは頬を朱に染めながら顔を逸らして、消え入りそうな声で喋る。


「__あんまり気負いすぎるなよ」


そう言い残して踵を返したヒデくんは、音楽室を後にした__。


「...気負ってなんか、ないよ」


誰もいない部屋でポツリと独り言を呟く__それは的外れな見解に対する反論か、自身に対する言い訳なのか分からなくなっていた。


**********


__コンクール当日。


「タンっ...タ、タン......タ、タッ、タン」


私は自分の番が来るまで、待合室で楽譜を指で叩き、あたかもピアノを弾いてるかのように鍵盤をイメージしていた。


(集中__集中するんだ私...!)


先日のヒデくんが口にした言葉が脳から離れない私は、払拭しようと眉根を寄せて楽譜を睨んでいた。


「タッ、タ...タンっ。 タタ...タッ!」


次第に独り言のボリュームが大きくなり、他の演奏者の視線がちりちりと背中越しに伝わってくる__それを無視して楽譜に向き合っていると、客席から「パチパチパチ」という拍手が待合室まで聞こえてくる。


舞台から戻ってきた演奏者を見て、自分の番が刻一刻と近づいてくることに実感する。 __あと二人演奏が終わったら、私の番...!


緊張で心臓の鼓動がドクンドクンと張り裂けそうなぐらい脈を打っているのが伝わってくる__落ち着け...落ち着け、私...!


子供の頃はこんなに緊張していなかったのに、何が原因で焦っているのか分からない。 __あの頃の私は、待合室でなにをしていたっけ...?


「すみません...! こちらに、鈴音響子様はいらっしゃいますでしょうか...!?」


幼少期時代を想起しようとしたら、突然、黒スーツ姿の男性に呼ばれたのでハッと息を呑む。 __考え込んでいる間にもう自分の番がきたのだろうか?


「はい、ここにいます!」


私は椅子から立ち上がって、舞台に出ようとする__だが、黒スーツの男性が口にした言葉に驚愕して、思わず握っていた楽譜を地面に落としてしまった。


「あの...大変言いにくいのですが、鈴音千鶴すずね ちずる様が危篤状態です」


そう告げた男性は右腕を会場の入口まで案内しようとして、一刻も早く病院へ連行しようとしていた__そして私は、一歩も踏み出せずにいた。


「あの...? 響子さん?」


お母さんが死ぬ__それなのに私は今、コンクールの心配をしている。


母が失ったピアノの人生を私が引き継ぐという想い。


母と会うのはこれが最後になるかもしれないという想い。


二つの想いが交錯しあって、逡巡していると会場の客席からパチパチパチという拍手が聞こえてきた__つまりそれは、私の出番が来たという合図でもある。


私は__。


**********


私は結局、母よりコンクールを優先した。


結果は__『優勝』。


私はトロフィーを貰った後、息を切らしながら会場から飛び出し、黒色のタクシーに乗って病院へと向かった。


病院の階段を一段ずつ上るたびに呼吸は乱れ、空気を求めて喘ぐたびに胸が激しく痛む。


「お母さん...! 私ね、優勝したんだよ...!」


母の病室へと赴き、早くコンクールの結果を知らせようと、勢いよく扉を開けて結果を報告すると、家族、親戚、音楽教室の子供たち、そして幼馴染のヒデくんもいた。 彼らがベッドの上で横たわる母を見つめているのが目に入る。


「......お母さん?」


__もう母は閉じた瞳を開くことはなかった。


「響子...! お前、今まで何をしていたんだ...!? 先程、お前を連れてくるように手配したのに、なぜすぐに来なかった!?」


父の大きな瞳は赤く染まっており、彼の放つ眼光に耐え切れず、私は思わず顔を逸らす。


「あの...、コンクールが...あったから...それで__」


母にコンクールで優勝したところを見せたかった、と消え入りそうな声音で食い下がろうとするが、父に一蹴される。


「ばかもんッ!! お前を産んでくれた母より、ピアノの演奏が大事だとでも言うのかっ...!? お前は、親不幸者だ...!」


父は指で目頭を押さえながら、地面に膝をついていた。 __私は唯、母に喜んで貰いたくて、褒めて貰いたくて、笑って欲しかっただけなのに。


「お母さん...? 私ね......? お母さんの、教えた通りに演奏したら...、コンクールで優勝できたんだよ..?」


私は唇を歪めながら母に伝える。


「また...、私にピアノの弾き方を、教えてよ...」


おぼつかない足取りで母の元へと歩み寄り、手にしていたトロフィーをプレゼントするために、母の手を取りトロフィーを握らせる。


だが、母の曲げていた腕がダランと力なく下ろされて、握っていたトロフィーが地面に落下する__まるでそれは、私の努力が母に拒絶されたようだった。


「おかあ......、さん...!」


私は母の胸に頭を預けて、自分の犯してしまった罪を後悔する__閉じた二つの瞳から透明な液体が溢れるほど零れ落ちた。


**********


__2ヶ月後。


私は母の死を受け入れて、来月に行われるコンクールに向けてピアノの練習をしていた__私は冷たい人間なんだろうか?


母が亡くなったばかりだと言うのに、今、私が考えているのはいかにコンクールで優勝できるかを常に考えている。


「タッ、タン...、タッ、タッタ、タン」


ここは母が丁寧に弾きなさいって指導したところ。


ここはテンポが早くならないようにゆっくり弾きなさいと言われたところ。


ここは__。


「タッ...、タ......タン」


ピアノを弾くたびに母の生前だった頃を想起して、私は唇を歪める。 __母のおかげで今の私がいる。


感謝しても感謝しきれないのに、私は母になにかしてやれただろうか?


母は最後にどのような顔をしていたのだろうか?


__私にはそれを知る権利がない。 あの場にいなかったのだから。


「...っ! いけない、こんな状態じゃコンクールで優勝なんてできるはずがない!」


再び、楽譜を睨みながらピアノの鍵盤を叩く。 タンタンと軽やかに指を動かして、演奏に集中しようとするが、頭の中は混沌と化して気持ちに整理がつかない。 __余計なことは考えるな...!


人間とは不思議なもので、『考えるな』と思えば思うほど『考えてしまう』生き物で、私は感情に囚われないように、必死に指を動かして思考が追いつかないようにする。


「__あれ...?」


1時間程、我武者羅に演奏を繰り返していたら、体に違和感を覚えた私は自身の手を視認する。


白く細長い指が微かに震えていた__。


**********


__コンクール当日。


コンクールは昼から開催されるので、それまでは学校で授業を受けながら、頃合を見て教室から抜け出そうと思っていた。


コンクールの開始時間は15:00。


現在時刻は14:23分__私はまだ学校に居た。


「...あれ? おかしいな...、こんなはずじゃなかったのに」


私は今にも倒れそうな体を支えるために壁に手をつけながら、足を引きずって歩いていた。


__体が思うように動かない。


風邪や高熱で体が怠いのではない。 至って、平熱だった。 __それなのに、何故?


原因が分からないが、私はコンクール会場へと歩を進める。


母が危篤状態の時でさえ、ピアノの演奏をしたのだ。 体調が悪いからといった理由で、コンクールを辞退すれば母に合わせる顔がない。


「__もう、顔を合わせることも...、できないのにね」


ニヒルな笑いを浮かべながら、目元には涙が溜まっていた。


誰かに助けを乞うにしても、他の生徒は授業中で誰も手を貸してはくれない。 __きっと、これは罰なのだろう。


あの日、母を看取る事を選ばなかった私への...。


「おい...、響子なのか? __今日はコンクールじゃなかったのか?」


背中越しに聴こえてくる懐かしい声音に驚いて振り返ってみると、そこにはヒデくんがいた。


「__あれ、ヒデくん...? 授業は、どうしたの...?」


居るはずのない彼が、この場に居るのが不思議だと思って質問すると、返ってきた言葉に驚愕した。


「もう6時間目の授業が終わったからな。 __それより、体調は大丈夫なのか...?」


医者の息子だからなのか、私が辛そうにしていると心配して聴いてきた。


「そんな、ことは...、どうでもいい...! はやく、いか...なきゃ」


6時間目の授業が終わったということは、もう15時を過ぎているということなのだから__。


「はぁ...。 仕方ない、俺が送ってやる」


長い嘆息をした後にヒデくんは、こともあろうに私の体を抱えて顔と顔が接触しそうになる__つまり、お姫様抱っこをされていた。


「ちょっ...、ヒデくん!? えっち! へんたい!」


男のガッシリとした腕にドギマギしながら、私は恥ずかしさのあまり体をジタバタと動かして必死に抵抗していた。


「__あんまり暴れるな。 早く会場に着きたいんだろ?」


私を抱えたまま急ぎ足で学校の外へと向かうヒデくん。 その行為はすごくありがたいけれど、それと同時に後ろめたさもあった。


「ヒデくん...部活は、どうするの?」


私が今日のコンクールで優勝するためにピアノのレッスンをしていた様に、ヒデくんも一週間後に野球の試合を控えているのだった。


だから私の為に、部活の練習時間を割くのが申し訳なくて、歯がゆくて、悲しかった。


「大丈夫だ__これぐらい、やらせてくれ」


彼はほんの一瞬だけ表情を緩めた後、すぐ鹿爪らしい顔に戻って視線を前へと向ける。 私は彼の発した優しい声音に甘えるように、そっと胸に頭を預けたのだった__。


**********


「__間に合いそうかっ!?」


「分かんない! 係の人に、聞いてみないと...!」


街中でもヒデくんに抱っこされたまま(超恥ずかしかった)移動して、無事、会場に着いた私たちは演奏者が使用する待合室へと向かっていた。


本来ならば、私が演奏する順番は12人いる中の3番目に弾く予定であり、順当にいけば15:30ぐらいには舞台に立たなければならなかった。


現在時刻__15:43分。


「あの...すいません! 鈴音響子です。 遅れてしまいました...! 」


私は非礼を詫びるために、係の人に精一杯頭を下げて進捗状況の確認をしようとした。


「あの__私の演奏時間は、過ぎちゃいましたか...?」


恐る恐る係員に訊ねてみると、眉間に皺を寄せていて難しい表情を浮かべていた。


「__大変、申し訳ございませんが」


係員が重苦しそうに口を開きその言葉を告げた時、あーあ...私の努力は不意になってしまったと落胆した__だが、係員の言葉には続きがあった。


「__鈴音響子様には、最後に演奏してもらう事になりました」


「えっ? 失格ではなくて、入れ替えになったんですか?」


隣りにいたヒデくんが、係の人に質問をする。 話を聞くと、どうやら前回優勝者である私が失格になるのを防ぎたいという運営者側の意見により、最後の演奏者にすることを決定してくれたらしい。


「あ、ありがとうございます...!」


遅刻して迷惑をかけたはずなのに、逆に助けて貰い最高の舞台を用意してもらった。 __ここまでして貰って失敗したら、演奏者失格だ。


「頑張れよ。 __見てるからな」


ヒデくんは、乗りかかった船ということで学校に戻らず、私の演奏が回ってくるまでどうやら観客席で待っててくれるそうだ。


「よしっ...! 集中!」


私はいつものように楽譜を眺めながら、見えるはずのない鍵盤を指で叩きながら演奏の感覚を何度も何度も反復練習する。


__運営者の期待。


__幼馴染の応援。


その想いに全力で応えたいと願っていたら、いつの間にか先程まで私の体を蝕んでいた何かは無くなっていた。


足は動く。 腕も動かせる。 体のだるさは無い__。


「うん、大丈夫...!」


その独り言は、元気の表れとしての言葉なのか、はたまた不安を払拭するために自身に暗示をかけようとしたのか__分からない。


私は演奏用の衣装に着替えた後、軽やかな足取りで舞台へと歩き、スポットライトが当たる場所へと躍り出る。


カツカツカツ、という音が静寂なホールの中で響き渡る。 私は、ピアノの側まで接近して椅子に座る前に、観客にペコリとお辞儀をする。


面を上げると、嫌でも観客の視線と目が合ってしまう__どこを見ても私を見ていた。


(集中...、集中__)


椅子の高さを低くして、ピアノのペダルにピッタリ足が合うように調整する。 ふう、と一息深呼吸をしてから、そっと指を動かして鍵盤に触れる__。


(タンッ...、タッ、タン...! タタン...タッ、タン...!)


練習で何度も反復していた時と同じように淡々とピアノの演奏をする。 __あれ...? 今日は調子がすごくいい...!


動く。 滑らかに。 自然のように。 流れるように指が動く。


何時もだったら、苦手なこの部分はテンポが若干遅れ気味になり、曲とズレてしまうのにも関わらず、今日はすらすらと指が動く。 __今のところミスはなく、完璧に...いや、それ以上の演奏ができていた。


__楽しい!


観客の視線。


期待されているというプレッシャー。


体の不調。


さっきまで、様々な重圧に押しつぶされそうになっていた私が嘘のようだった。 今は周りのことに意識がいかず、目の前にある鍵盤だけが視界に入っている。


私のボルテージがMAXになると同時に、曲はサビに入り始める。


(ここは強調するために、強く弾く__!)


指を力強く動かそうとすると、突如、会場がザワザワと音を立てている。 先程まで、ピアノの音しか聴こえていなかったのが嘘のようだった。


「......?」


私は何事だろうと疑問に思い、観客席を見ると皆不安そうな顔でこちらを眺めていた。


(どうして...? なんで、私の演奏を聴いてくれないの__?)


そう思って自分の腕を見ると、先程まで鍵盤を軽やかに叩いていた指が__動いていなかった。


「えっ......?」


訳が分からなかった。 さっきまで絶好調だったのに、あのまま演奏できていれば優勝は間違いなかったはずだ__なのに、どうして?


「動け...! 動いてよ、私の指...!」


唇を噛むように歯を食いしばって、必死で指を動かそうとするが、自分の意思に反抗するように指先が細かに振動しているだけだった__。


ふと観客席に視線を送ると、審査員の人が視界に入った__彼らは、悩ましげに髪を掻き上げていたり、頭をがしがしと掻きながらため息をついている。




こうして私のピアノ人生は、終幕を迎えた__。



**********


『パーキンソン病』__私に起こっている身体の異変の原因はそれだった。


母と同じ病気。


パーキンソン病は基本高齢者の人がなりやすい病気なのだが、ごくまれに遺伝子で受け継いでしまう場合があるのだ__それが私だった。


「......」


私は病院の三階にある室内で、寝ていた。


足や腕をまともに動かせない私は、学校に通うことは許されず、何もない白い壁に囲まれたこの部屋で過ごさなければならなかった。


ふと窓から見える外の景色では、友人たちと何気ない会話をしながら歩いている人物や、自転車を漕ぎながら坂を上っていく人物が視界に入ってくる。


今まで当たり前にできていたその行為にありがたみを感じたことはなかったのに、現在失われることでいかに大切なものだったかを思い知らされる。


「__私は、これからどうすればいいのかな...?」


今までピアノしかすがるものがなかった私は、これから生きていく理由を無くしてしまった。 だから、誰かに救いを求めた私は、唇を歪めながら消え入りそうな声音で彼に問いかけた。


「__そんなもん、決まっているだろ。 自分のしたいことをしろよ」


「......ヒデくんって、ひどいね。 腕や足が動かなくなった人に、そんなこと言うなんて」


そう__もうやりたい事はできないのだ。 いかにして自分のできうる限りの事をして、他人に迷惑をかけずに生きていくか考慮しなければならない。


「答えてくれ__今、響子がしたいことってなんだ...?」


私の自虐めいた言葉を聞いたにも関わらず、ヒデくんは真っ直ぐな瞳で私の気持ちを聴いてきた。 __私のしたいこと...?


決まっている。


「__ピアノが弾きたい」


私はその言葉を口にすると、頬を伝って透明な液体が零れ落ちる。


子供の頃はピアノの練習がきつくて、母親が厳しくて何度も何度も辞めようと思ったけれど、諦めなかった。 諦めきれなかった。


__苦難の先には楽しいことがいっぱいあったからだ。


「...ピアノが...弾き、たい...!」


自分の本当の気持ちに気付いた私は、嗚咽を漏らすような声で途切れ途切れに口を開く。 __できるなら、身体が元通りになって、もう一度ピアノを演奏したい。


「__分かった。 俺がなんとかする」


「えっ...?」


力強いヒデくんの言葉に、目を丸くして彼の顔を見るとにっと白い歯を覗かせて笑っていた。


「任せろ。 なんたって、俺は医者の息子だ」


「...無理だよ。 今の医療科学では、延命はできても完治は不可能だって、言ってたじゃん...」


それが私に突きつけられた現実だった。脳の障害によって起こるパーキンソン病は、完治することは不可能だった。


「今は...だろ? なら俺が、不可能を可能にしてやるさ」


彼は現実にある困難の壁に正面から向かい合い、乗り越えてみせると力強い声音で言ってくれた。その言葉に私はどれだけ救われただろうか?


「__ありが、とう...。 楽しみにしてるね」


ヒデくんの言葉に心を打たれた私は、すんと鼻を鳴らして目元を袖でぐいっと拭った。 __自分だけが勝手に諦めてたら、まるで弱虫みたいじゃないかと気づかされた。


「__私も、リハビリとか頑張るね」


私は私で今の自分でもできる事なら、小さい事でもやり遂げてみせようと決意して首を縦に振る。 それを見たヒデくんは安堵したのか、柔和な笑みを浮かべていた。 __この時の私は思いもしなかった。



この約束が__後に彼をひどく傷つけ、苦しめる事になるとは知らずに。



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