Chapter7『リナ・トール』
さて、ここから怒濤の展開です。
双子姉妹の片割れ、妹の前に、別の旅路へと向かう扉が開きます。
Chapter7『リナ・トール』
面会の場所に指定された部屋は、この城に来てはじめに通された、あのちいさな客室に雰囲気が似ていた。
違いはこの部屋が城の上部にあり、窓から遠く湖のおもてが見渡せるところだろうか。
光砂の光も落ち、あたりは一面の闇。
月明かりに水面が煌めき、静かな波の音が近く響くばかり。
リナはその部屋の机の前に置かれた椅子に腰掛け、窓のそとを眺めていた。
かたわらに姉の姿はない。
まずは継嗣候補に会っておきたい、との公爵の意向によるものである。
部屋の扉が突然開いたような気がして、リナは思わず息を呑んだ。
慌てて立ち上がり、ドレスの裾を踏みつけそうになる。
「構わない。座ったままでいいよ」
琥珀の瞳を持つ若い女性を従えた青年が、リナに声をかけた。
侍従が扉を開け、礼を執っている。
ふたりが入室するとすぐに、侍従は扉を閉め、退出した。
部屋を訪れた青年の瞳は夜の森。
その髪は月光の届かぬ水の底。
磨き上げた大理石のような、皓い肌。
お伽話にあるようなその姿。
見紛うはずもない。
「は……はじめ、まして。わ、わたくし……」
声が出ない。
まさか相手の言葉に甘えて座っているわけにもゆかず、リナは立って挨拶しようとしたのだが。
まるで、手足の感覚がない。
「緊張しなくていい。わたしと君は父娘になろうかというのだからね。はじめまして、リナ・トール。わたしの名は、シオン・エルザス。なぜだかみんな、わたしを公爵閣下と呼んでくれるので、ときどき、自分の名前がなんだったか忘れそうになるのだけれど」
花のような微笑。
緊張のあまり青ざめているリナの手を取り、着席するよう促し、みずからはリナの向かい側の椅子に、窓を背にして腰掛ける。
「詰まらないご冗談はおやめください」
軽い溜息とともに、琥珀の瞳の女性が公爵に囁いた。
「こちらは、ライラ・デュカス。我が所領の面倒ごとの一切を取り仕切っている、領宰どのだ」
「はじめまして」と、領宰はリナに一礼。
公爵の隣の椅子に腰掛ける。
「はじめ……まして」
心臓が飛び出しそうなくらいどきどきしている。
頭がくらくらするほど熱い。
それなのに、手も足も凍えている。
椅子から立ちあがろうものなら、立ち眩みでもおこして倒れてしまいそうだ。
立礼は諦めて、リナは座ったまま頭を下げた。
すこしくらいの失礼は見逃してくれる方ならいいのだけど、と、懸命に念じながら。
「衛士長の話では、ずいぶん騒がしくて面白いひとだと聞いていたのだけれど……。さては、侍女たちにさんざんおもちゃにされて、疲れてしまったかな? 大概にしておくように、とは言っておいたのだけれどね。みな、いつもの仕事をいつものようにこなすだけで、退屈しているから」
リナの幼い印象に合わせ、髪は結い上げていない。
そのかわり、丹念に櫛を通してふわりと仕上げてある。髪の幾筋かは紅の飾り布と一緒に編み込まれ、その先をちいさな水晶の留め具でとめてある。
化粧はほとんど施されているようには見えないが、リナのもってうまれた美しさを最大限に生かすよう、おそろしい時間をかけて工夫されている。
真珠のように輝く爪は涼しい桜色に染められているし、おそらく高級品とはいえ一点ものではないはずの衣装は、袖の折り返しや襟元など、可愛らしい飾り釦や刺繍のはいった飾り布を縫いつけることで、見違えるような意匠にうまれかわっている。
いまや、リナの姿はどこの舞踏会に出席しても、衆目を集めずにはいられないだろう。
「あ、あの、大丈夫です。こんなによくしてもらって、わたし、こんなに綺麗に着飾ったことなんてなくって、ほんとうに、夢みたいで」
リナは意を決して、顔をあげた。
穏やかな色の公爵の瞳を見ていると、すこしづつ気分が落ち着いてくるのが分かる。
なんて、優しい目をなさっているんだろう……。
でも、すこし哀しそうだけれど。
「あの……たぶん、騒がしくて面白いのは姉さんのほうで……。わたしは……いつも姉さんに頼り切りで」
言ってしまって、顔が赤くなってくる。
わたし、なにを馬鹿なことを言ってるんだろう?
そんなのどうだっていいのに。
「なるほど。少々、誤解があったようだ。だが、ともあれわたしは君を歓迎するよ、リナ・トール。わたしの探していたひとが、最初からこんなに愛らしいお嬢さんだと分かっていたら、もっと熱心にこちらから探していたのだけれどね」
公爵がもう一度、花の綻ぶような微笑をリナに向けた。
リナもそれに釣られるように微笑みを返す。
だが公爵のかたわらで、諦めたように溜息をつく領宰の姿を認めるほどの余裕は、リナにはなかった。
*
リナが最初に公爵に求められたのは、リナ自身の祈りのちからを、公爵みずからが確認することだった。
とはいえ、ティータに見せたような、あの花のような劇的なものではなく、ただ公爵の手を取って、なにか祈ってみるように言われただけ。
リナは占いに来るひとにいつもするように、
『こころのなかのつらいことが、消えてしまいますように』
と祈った。
突然なにか祈ってみせなさいと言われても、そんなことくらいしかリナには思いつかなかったからだった。
しばらくして公爵は、
「君にこころを救われたひとは、何人もいるだろうね」
と、そう言った。
「君のちからは、奇跡だ。もちろん、いまのままではわたしの継嗣にはなれないけれど、我が血族となり、祈族となれば、君のちからはわたしを凌ぐだろう」
公爵にかけられた言葉の意味を理解するのに、リナは呼吸三つ分の時を要した。
そして、畏れをもって理解したあとですら、実感がなかった。
『わたしに、なにができるっていうのだろう?』
こころの底から、そう思う。
「公爵さま。わたしには、公爵さまの仰ることの実感がないんです。母は四年前、病気で亡くなりました。近くに住んでいたちいさな男の子が、だんだん弱っていくのにどうしようもなくて、看取ったこともあります。いつだって、わたしはみんな幸せになれますようにって、祈っていたのに。でも……わたしは見ていることしかできなかったんです。……わたしに、なにかそんな、だいそれたちからがあるなんて信じられないんです」
リナは自分のなかの迷いを、言葉にした。
その言葉で公爵が考えを改めることになっても構わない、そう思った。
「わたしたちの祈りとは、穏やかな四季を願い、天空の安寧を護り、大地の豊穣を叶え、ひとのこころに平穏をもたらすものだよ」
僅かな沈黙ののち、公爵の優しい声がリナの名を呼んだ。
「リナ……我々は病を癒したり、死にゆく幼子に食べ物を与えたりすることはできないんだ。神の名を持つ王は、祈りのちからでこの世の事象すら変えてしまうことができるというけれど、病を治すちからは医師や魔法使いの足下にも及ばないだろうね」
公爵は、そう言ってリナを諭した。
「でも」
わからない、と、リナは首を横に振る。
「わたしもすこし気になることがあったのでね、衛士長の報告があって、すぐにライラに調べさせたのだけれど。君のちからが護ったものを、見てみるかい?」
公爵がそう言うと、領宰は一枚の地図を机の上に広げた。
「わたしが、護ったもの……ですか?」
「そう。実際、これだと言って、ひとやものを君の目の前に出してあげることはできないのだけれど」
リナは、やや顔を上気させて、地図を覗き込んだ。
見たことのある地名が書き連ねてある。
北にアルム子爵領、西にガーランド男爵領、東にキーマ男爵領、そして、エギネを挟んで南におおきくエルザス公爵領が書き込まれた地図だ。
各領土を縦横に走る街道の合間を縫うように、領土ごとにいくつかの地方に分け、几帳面な文字が細かく書き連ねてある。
リナには分からない単語がたくさんあったが、どうやら、最近何年分かの作物の豊凶のようすや、天災の数、規模といった情報が書き込んであるらしい。
リナにも分かるところでは、ガーランド男爵領の西の端のほう、川のそばに『シーレ下流、大雨、洪水』とあり、たぶん、規模を示しているのだろう、ちいさく青い枠で囲ってある。
リナが一目見て気が付いたことは、文字の書き込みが地図の中心には少なく、四方に寄るにつれ、多くなっていることだった。
四方、とは言っても、南のエルザス領では中心とほぼ変わらない書き込みの量であったが。
「ここが、ハルセリ」
公爵がアルム子爵領の南を通る街道沿いの一点を指さして、リナに言った。
すこし外れてはいるものの、ほぼ地図の中心である。
どうやら、もっとおおきな地図の一部を、ハルセリを中心に書き写したものらしい。
「リナ、君はものごころついてから、アルム、ガーランド、キーマの領土でなにかおおきな天災があった、という噂を聞いたことがあるかな?」
貴族の所領で水害や飢饉がおこると、かならず、食べることのできなくなった村の男たちが、近くの自治都市へ出稼ぎにでてくる。
酷いときには、村を捨てて、部族ごと都市へ流れ込むこともある。
だからハルセリのような小さな街でも、自分たちの街の近くでなにかあると、その噂は必ずといっていいほど、都市に住むものの耳に入ることになった。
エギネほどの大都市になれば、遙かに離れたカーチェスト大公爵領のようすでさえ、伝わってくる。
リナはしばらく考えたすえ、
「いいえ」
と、首を横に振った。
「残念なことに祈りのちからというのは不安定でね。祈る者のこころのありかたに強く左右される。それで、どんなに領主のちからが強くても、何年かに一度は天災に見舞われてしまうことになる。規模の大小や後始末の手際で、最終的な損害の規模は変わるのだけれどね。もちろん我々はそういったときのために、河川の改修や食料の備蓄などをおこなっている。でないと大切な領民が、災害のたびに自治都市や他領へ流出してしまうからね。自分の失策で領民に見捨てられるなんて、屈辱以外のなにものでもない」
公爵はそこまで一息に言い終えると、少し苦い表情をした。
それから、考え深くアルム、ガーランド、キーマのみっつの所領を指さしてゆく。
「彼らとは……一番古いガーランド男爵で百五十年くらいのつき合いになるけれど……三人ともどうしてだか領地の運営には無頓着でね。あまりこんなことは言いたくはないのだけれど、余力のあるときに対策を講じておかないものだから、なにかあるたびにわたしのほうへ食料の援助やら、借款やらを申し込んでくる。三、四年に一度、申し合わせたように、三人が交代でね。……けれども驚いたことに、ここ十年ほど、どこの領主からもそういった依頼を、わたしは受けていないんだ」
公爵はそこまで言うと口を噤み、リナを見つめた。
「……あ、あの、でも、それは、たまたま、とか、こちらのご領主様がたがきちんとなさるようになった、とか」
このまま黙って聞いていると、途方もない結論になってしまいそうで、リナは慌てて口を挟んだ。
「実際、わたしも、いまがいままで気にもしていなかった。この三人以外にも援助を求めてくる領主は毎年いるのだし。でも、衛士長に継嗣候補が見つかった旨の報告を受けて、その候補者がハルセリの出身だと聞いたときに、ふと思い出したんだ」
深い色の瞳が、リナをまっすぐに見据えていた。
リナは言葉を失っていた。
公爵さまの言葉を信じたなら、わたしは、いったい……。
「……リナ、たまたま、という可能性もないではないけれどね、このライラの苦心の作を見てご覧よ。時間もないのによくここまで調べ上げたと思うけれど、みごとに……ハルセリのまわりでは、なにも起きていない。ほぼ十年のあいだ河川の氾濫も、蝗害も、旱魃にも見舞われることなく豊作続きだ。すこし離れると小規模とはいえ、ちょっとしたことは何度も起きている。我がエルザス領はさておき、ほかの三人の領主たちは、自分の不始末をハルセリ側の豊作でなんとか辻褄を合わせていたのだろうね。この十年のあいだ」
一瞬、公爵は地図に嘲るような笑みを向けた。
冷徹だと言っても過言ではない冷たさが、その表情にはあった。
しかし、そんな表情はすぐさま融け去り、穏やかな微笑を取り戻す。
「わたしは君のちからを信じるよ。十年ほどまえと言えば、君は八つ。ものごころついて、ひとの痛みがなんとなく分かるようになって、『みなが、幸せになれるように』、そう祈り始めた頃ではないかな?」
そうかもしれない、と、リナは思った。
昔のことはそんなによく憶えてはいないけれど。
わたしは……自分を信じていいんだろうか?
自分にちからがあると、信じても?
「もちろん、アルム子爵、ガーランド男爵、キーマ男爵、みな、よくやっていると思うよ。このあたり一帯が平穏だったのは、君だけのちから、というわけではない。けれど、ほぼ十年のあいだ、いちども災害を起こさなかったのは、君のちからがあったからだ。君が、ひとを護ることを望み続けていたからだ」
リナは息苦しさを覚えていた。
姉さんは、いつもわたしを信じてくれる。
なにひとつ根拠がなくても、迷わずわたしを信じてくれる。
信じて、いつだってわたしが正しいと言ってくれる。
でも、自分で自分を信じるのは……なんて苦しいんだろう。
なんて……勇気がいるんだろう。
自分がなんの役にも立たないと思っていることは、ほんとうは……いちばん、自分にとって楽なこと。
わたしは……
「リナ。わたしは、君を望んでいる。いま、はじめて会ったばかりで、即断に過ぎるとライラには叱られそうだけれど」
公爵が領宰の顔を見遣ると、領宰はやや険のある表情を公爵に向け、
「申し上げませんわ。わたくしにも異存はございません」
そう言った。
公爵は微笑。
リナに向き直って、言葉を続けた。
「君の瞳には私欲の暗さがない。少々内気に過ぎるところが気になるけれど、素直で謙虚なところは気に入ったよ。さきに感じた君のちからはとても美しかった。そう……すこしカナン殿下のちからに似ているかもしれない。ちからのおおきさは較べようもないけれど、研ぎ澄まされて美しくて、それでいて優しいところがね」
公爵はリナを見つめて、口を噤んだ。
思い惑うリナの表情を、じっと見据えている。
「……最後に決めるのは、君だ。リナ、君は公爵になりたいかい?」
リナはその言葉に、目を見開く。
息が詰まる。
そう訊かれることは、当然、分かっていたはずなのに。
あの百合の花を見たときから。
そう。
わたしは。
「わたしは……ここに来るのに、なにひとつ自分では決めなかったんです。自分の未来を占って、予言を得たのはわたしですけれど、わたし、信じていなくて」
リナは、自分が不思議と落ち着いてきているのを感じていた。
公爵は、なにひとつ口を挟まず、リナの言葉を聞いている。
「……ここに来るのを決めたのは、姉さんなんです。わたしは、そんな夢みたいなこと、あるはずがないと思いながらついてきて。わたし、予感があったのかもしれません。ここに来たら、生まれてはじめて、ひとりで決めなきゃならないことになるって。だから、自分でも気づかないうちに、そうなるのを避けていたのかも」
「ひとりで決めることはないんだよ。君が必要だと思うなら、姉君と相談してもわたしは構わないけれど」
公爵は静かにリナに言った。
リナはゆっくりと、首を横に振った。
「姉さんが、どう言ってくれるのかは、分かってます。『あんたならできるよ。あたしはそう信じてるよ』って、背中を押してくれるに決まってるんです。ですから、わたし、その言葉を胸に自分で決めなければいけないんです」
リナは昂然と顔をあげた。
握りしめた両の掌にちからが籠もる。
「わたしは、もし公爵になったら、なにをすることになるんでしょう? 差し支えなければ、公爵さまのお仕事って、なにをするのか教えていただきたいのですけれど」
リナの声は幽かにうわずっていた。
肩にちからが入って、表情は強張っている。
けれど、精一杯、公爵をまっすぐに見つめて。
公爵は破顔。
「君くらいの娘さんなら、まずは身分にともなう贅沢にこころを奪われるものと思っていたのだけれどね。どうやら、これはわたしの謂われのない侮りだったようだ」
「なにをするのか分からなければ、一生の仕事に選ぶべきか、決められませんもの」
「もちろんそのとおりだ。君の言うことは正しい。そうだね……どう説明するべきか」
公爵は目を閉じ、しばしの思索に耽っているようであった。
が、やがて、
「リナ」
と、目の前で彼の言葉を待つ娘に語り始めた。
*
「……ま、おおよそはこんなところかな。なにか分かりにくいところはなかったかい?」
『公爵の仕事』の説明を終えて、シオンはリナに訊ねた。
細かなことはなにひとつ語られていない。
決められた間隔で祈祷塔におもむくほかは、領地の管理と、領地近隣の貴族とのつき合いと、王都での政治向きのことに振り回される、といったことを、それをおこなうさいの心構えを交えて語っただけだ。
「なんだか、雲をつかむようなお話でしたけれど……。でも、分かったと思います」
リナの感想は致し方ないところではあろう。
いくら簡単に噛み砕いてみたところで、殊、政治向きの話になると、ほぼ実際の経験だけが頼りになってくる。
いまのいままで自分が爵位を継ぐなど、夢にも思っていなかった娘に、理解しろというほうが間違っている。
「慣れないうちはすべてライラが肩代わりしてくれる。君は祈祷塔での日課をこなし、ライラの報告を受けて、分からないところを訊いて理解してくれるだけでいいんだ。慣れてくれば自分で判断できるようになるし、もし、どうしてもやりたくないなら、事務的なことはずっとライラに任せきりでも構わない。……もちろん、『ライラに任せる』という自分の方針に対する責任は、自分でとる覚悟が要るけれどね。ライラの失策を、すべてライラのせいにしてはいけないという意味だけれど、分かるかな」
「はい。自分が放り出してひとに押しつけた仕事の出来が悪かったとしても、それは、まず放り出した自分の責任だ、と、いうことですね」
「そのとおり。それさえ分かっていれば、仕事などどうにでもなるものだよ」
公爵はそう言って、リナの頭をそっと撫でた。
「こんなに可愛いなら、わたしも娘のひとりくらい、誰かにお願いしておけばよかったかな」
「不敬を承知で申し上げますと、わが君のご養育を受けて、このように素直に成長なさられるとは、とてもわたくしには思えないのですけれど」
おおむね、黙ってふたりの話し合いを聴いていた領宰が、唐突に口を挟んだ。
「残念ながら、どうやら君を不敬罪で罰することはできないようだよ、ライラ。わたしも君と同じ意見だ」
大袈裟な溜息をついて、公爵は言った。
リナが鈴を振るうような声で笑う。
「笑うと、君はまるで昼の森のようだね。光砂に満ちて輝いているよう」
「ご自分の娘にされようかという方を口説いて、どうなさられますか」
呆れかえった面持ちで、ライラ。
リナは、すうっと顔に赤みが差すのが、自分でも分かった。
「ちょっと、いまから嫌な話をしなければならないと思うとね」
公爵の意外な言葉に、ライラは眉をひそめた。
リナもまた。
「じつはね、いまからわたしが言うことは、実際に分かるときがくるまで、内緒にしておこうと思っていた。でも、それは公正ではない。君の真摯さを裏切るようなことはできないからね」
公爵の口元から、微笑が消えた。
リナは居住まいを正す。
「君に、ほかの誰かとは違うと、特別に思っているひとはいるかな? ……たとえば、こいびとのような」
リナは不思議そうに公爵の質問を聞いていた。
思いを巡らせるように考え込み、やがて、
「いえ……でも、こいびと、というのとは違うのですけれど……姉さんと母さんは特別です。母さんはもう死んでしまいましたけど」
と答えた。
「君は姉君が好きなんだね?」
「はい。もちろんです」
リナは胸を張った。
姉さんがいなくては、いまの自分はない。
それでなくても、姉さんのいない自分なんて考えられない。
しかし、リナの様子とは裏腹に公爵の愁眉は深くなった。
「君が公爵位を継ぐためには、わたしの血族にならなければならない。つまり、いまの出自を捨て、祈族にならなければいけないのだけれど。これは、分かっているね?」
リナは頷いた。
公爵はもの思う表情のまま、リナの同意を認めると、言葉を続けた。
「祈族になれば、君の身体は変わってしまう。こころはなにも変わらないけれどね。まず、歳をとらなくなる。そして、七百年か、八百年か、あるいは千年か、君はその姿のまま、生きてゆくことになるんだ。……君の姉君は、きっと、もっと早くに死んでしまうだろうけれど」
リナは息を呑んだ。
「姉さんも、おなじように、というわけには……いかないのですか?」
「祈族に転化するには、条件がある。ちからのある魔導士か、君のように爵位を継ごうという者か、あるいは、祈族と婚姻する者か。わたしたちは、むやみに血族を増やすことは許されていない。もちろん、権力にものをいわせれば、君の姉君ひとりくらい、どうにでもなるけれども。でも、姉君は祈族になりたいと思うだろうか」
その通りだった。
気が付いて、リナは自分の愚かしさを恥じた。
自分の都合で決めていいのは、自分自身のことだけ。
自分が願えば姉さんはどんな願いもききいれてくれるだろうけれど、でも、もし姉さんの本心が違うところにあったら、それは姉さんの一生を歪めてしまう。
「君が爵位を継ぎ、姉君が祈族になることを望まなかったとき、君は姉君のいなくなったあとの長い月日を、耐えていかなくてはいけない」
リナは頷いた。
胸が痛い。
「それから……リナ、君は祈族がなにを糧にしているか、知っているかい?」
耳を塞ぎたい気持ちの募るリナに、公爵は容赦なく言葉を続けた。
容赦なく、けれど、公爵の声は囁くように優しい。
「ひとの、血」
震える声で、リナ。
そのことはリナも知っていた。
いまは亡き闇の神の血をひく者たちに課された、聖痕。
そのことは、この世界の者なら誰でも知っていることだ。
けれど、自分から口にするのには勇気のいる言葉。
「……心配しなくても、常は杯に注がれたものを飲めばいい。味気ないけれど、薬だと思って飲めば、そう抵抗はないはずだ」
公爵は言葉を切った。
リナの理解を待っているのではなかった。
次の言葉を探している、そのように見える。
「祈族は……愛する者の血を、もっとも甘く感じるのだよ。君が祈族になれば、そして、姉君とこの城でともに暮らすつもりなら、君は姉君の血を求めずにはいられないだろう。ほかの誰の血をいくら飲んでも癒せない渇きに駆られて、ね」
「我慢……できないものなんですか? それは、どうしても?」
リナは縋るような瞳をして、公爵に訊ねた。
「自制する方法は教えてあげる。けれど、それにも限度がある。おそらく……自分で自分を律することができるようになるまでに、何度かは……君は姉君に慈悲を請うことになる。でないと、君自身が保たないよ」
いや……
リナの唇から、拒絶の言葉が洩れた。
目を見開き、唇を噛み締める。
「わたしは、ほかの種族だったことがないから、血を味わうことなく好きなひとと言葉を交わしたり、こいびとと身体を交わすだけで満ち足りることができるほうが、よく分からない。でも、異族から転化した者はみな、ほかのなにより辛いと言うね」
領宰が、リナから目を逸らせた。
眼鏡のむこうの澄んだ琥珀の瞳が曇る。
「これで君に言っておかなければならないことは、すべて話したよ。……すぐに回答は求めないから、ゆっくり結論を出すといい。姉君と相談するのもいいかもしれないね」
公爵はそう締めくくると、リナの髪を撫で、席を立とうとした。
「駄目……です」
公爵の動作は、リナの呟きに、一瞬、とまった。
「なにが、駄目?」
公爵が問う。
だが、リナは公爵の質問を聴いてはいなかった。
その視線は公爵の姿を通り越して、遠くを見つめている。
ずっと、遠く。
その視線は刻さえ越えて、なにかを見つめていた。
「母さんが死んで、わたし、熱を出して、ずっと寝ていても治らなくて。慈善院のひとは薬と、おいしい食べ物が必要だって仰ったのだけれど、そんなお金、どこにもなくて。姉さんは……それをきいた夜、部屋に帰って来ませんでした。……次の日、夕方を過ぎて、姉さんがお薬と食べ物を買って帰ってきたとき、わたし、姉さんがなにをしてきたのか、分かりました。姉さん、わたしのために自分の身体を売ったんです。でも、姉さん、なにも言わなかった。それからずっと、痣だらけになっても、一晩に何人も、気に入らないひとたちの相手をしても、わたしには恨み言のひとつも言ってくれなかった」
リナは公爵を見た。
瞳に溢れる涙を、拭おうともせずに。
「だから、わたし、姉さんがわたしになにを言ってくれるのか、みんな知ってます。わたしが迷えば、大丈夫だって言ってくれます。わたしが願えば祈族になってくれるでしょうし、血が欲しいと言えば、いくらでもくれるでしょう。姉さんはそんなひとです。わたし、知ってるんです。だから……わたしは、自分で決めたい。自分で決めて、それで、その答えで、姉さんとふたりで幸せになりたい。いま、姉さんに会って相談したら、きっと、わたしは姉さんの言うとおりにして、それが自分で決めることになったかもしれない結論と同じでも、わたしはいつか後悔するんです」
「なるほど」
公爵が居住まいを正した。
リナの頬を伝う涙を、指で丹念に拭って、微笑。
「なら、決めてごらん。わたしはずっとここで待っているから」
リナは頷いた。
目を閉じて、息を殺して。
長い、長い、沈黙。
長い、長い、思索。
「公爵さま」
リナがふたたび口を開いた。
「最後に、ひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか?」
「どんなことでも」
真摯な視線をまっすぐに受け止めて、公爵は請け合った。
「こんなにも迷い続けるわたしでも、公爵に相応しいと、お考えになられますか?」
「わたしは最初から君しかいないと思っているのだけれど。この部屋で、君と言葉を交わしたそのときから、ね」
公爵の言葉には、淀みはなかった。
あたりまえのことのように、リナに言ってきかせる。
「なら、わたしは……わたしは、公爵になりたい。そう、自分で、決めました」
リナは、そう、宣言した。
*
「わたしは君の決断を歓迎するよ、リナ。いまから君はリナ・エルザス、わたしの娘だ。正式に決まるのは王立魔法院の認可や、祈族になる儀式が必要だけれど、そんなことは些末なことだ」
公爵は立ち上がった。
「あとの細かなことはライラから聞いておくといい。ちょっと堅苦しいのが玉に瑕だけれど、ほんとうは優しくて、リナ、君と同じように泣きむしなひとだから、きっと、気が合うはずだよ」
華やかな笑顔で公爵は扉のほうへ歩いてゆき、座ったままのふたりに声をかけた。
「誰が泣きむしですって?」
領宰が押し殺した声で、公爵を睨めつける。
しかし公爵には効き目がなかったようだ。
「ライラ、あんまり恐いことを言って、リナを怯えさせてはいけないよ? いいね」
「そのような斟酌は無用です! 閣下ではあるまいし。……それで、わが君にあらせられましては、どちらのほうへ?」
「庭でも散策してくるよ。ずいぶん、気分がいいのでね」
公爵はそれだけ言い置くと部屋を出た。
領宰が深い溜息とともに、肩を落とした。
リナは身じろぎもせず、窓の外を見ていた。
自分の未来を、いま、自分で決めたのだという……その思いを胸に。
そして、幽かな不安を胸に。
姉が自分よりずっと早く死んでしまう命を選択することではない。
自分が、姉の血を求めてしまうことではない。
ただ、漠然とした、予感。
旅の途中、なぜだかずっと、頭を離れなかった、予感。
姉が、いまにも自分のもとを去ってしまうのではないかという……。
恋愛ものっぽくはないですが、吸血鬼モノっぽくはなりましたね。
この章は、姉の背中に隠れていた妹が、一歩を踏み出す章です。
言わば、少女時代を自分の意志で終わらせた……そんな感じでしょうか。
あと、職業選択のさいには、その職業ってどんな職? ってやっぱり知りたいよね……と思いながら書いておりました。
でも実際、『公爵』ってなにやってるんでしょうね?