Chapter 4『城門』
双子姉妹がようやくお城に到着する回。
湖をひとつ堀がわりにしているお城は城門から城内に辿り着くまで結構かかる……
Chapter 4『城門』
城門までは、本当にたいした時間はかからなかった。
ときおり城を目指しているらしい荷馬車とすれ違う。
頼めば気安く乗せてもらえそうだったが、よしておいた。
風が涼しい。
歩くのが、ちっとも苦にならない。
昨夜の菓子の残りを食べながら歩いて、半刻とすこし。
実のところ、ルカはどこかで軽く食事でもとりたかったが、転移魔法の拠点となっている館と、城門のあいだには、家一軒なく、並木道が一本、通っているばかりである。
反対側は、と、振り返ると、同じような並木道を少し行った先に、ちょっとした家並みが垣間見え、その向こうに街の喧噪の気配があった。
具体的になにが見えるというわけではない。
たぶん、そちらへゆけばパジェル市街なのだろう……という、ルカの思いこみの産物だ。
が、間違ってはいまい。
しかし、ルカは寄り道するのはよしておいた。
我慢できないほど空腹なわけではなかったし、お城まで行けば、もしかすると何か食べさせてくれるかもしれない……という打算が、ルカにはあった。
たしか館の青年は、城の門番は親切だ、と言っていた。
ならば、遠路はるばるやってきた旅人に、昼食をご馳走するくらいのことをけちったりはしないだろう。
もちろん、リナにこの考えはうち明けなかった。
うち明ければ、お金だってあるのだし、寄り道してご飯を食べに行きましょう、と言うに決まっている。
自分が空腹ではなくても、だ。
『一度くらいお城の奴がどんなもの食べてんのか、見てみたいじゃないか』
ルカは、だんだん近づいてくる城門と、だんだんそわそわして落ち着かなくなってきたリナの顔色を見比べつつ、そう、心の中で嘯いていた。
*
城門は、そのどっしりとした威容に見合う静けさのなか、開かれていた。
ひとの往来はある。
荷物を積んだ馬車が行き交い、ひとの話し声も聞こえる。
しかし、ルカには、門のまわりの空気は静まりかえっているように感じられた。
門の存在そのものが、静けさの源であるかのようだ。
扉に使われている木材は、いったい何千年を経た木を切り出してきたものか。
その門は、いったい、いつのころからそこにあるのか。
飴色の光沢を帯びた重い木材、門を支える底の知れない黒光りを放つ巨大な金具と鋲、そして、一枚岩とも見紛う両側の門壁。
それらすべてが、見る者の魂を圧倒して止まない。
そして門の向こう、湖の中心に聳える城に続く長い長い石畳の道。
その幅は、馬車五台を横に並べてもじゅうぶん通ることができそうだった。
「ここまで、来たんだからね。ほら、行くんだよ。ほら!」
門の手前、あと少しのところで竦みきって動こうとしないリナの腕を抱えるようにつかんで、ルカは城門を護る衛士に声をかけるべく、門に近づいた。
さすがにルカとて気後れしないわけではない。
その証拠に、リナの腕をつかんだ手が震えている。
「あのさ、ちょっといいかい?」
ルカが声をかけたのは、壮年の女であった。
瀝青の肩布には公爵家の家章が色糸で刺繍され、腰には細身の剣を帯びている。
髪は濃い茶と、明るい灰色。
ほとんど茶色だが、左耳の脇から襟足にかけてが灰色で、そこだけ細く三つ編みにしているせいでよく目立っている。
ちょうど昼の交代の時刻だったのだろう、ルカたちが彼女に声をかけたのは、彼女が次の当直の者たちに申し送りを済ませているところだった。
「なにか?」
女は機敏な動作でルカを振り返った。
「こ、公爵の……跡継ぎを探してるって、聞いたんだけど。その……」
「貴女がたは、我が当主の継嗣候補者として、当主に面会を求められるのですね?」
薄化粧の頬にやわらかな微笑を浮かべて、壮年の女はルカに訊ねた。
澄んだ茶色の瞳に、蔑んだような彩はない。
「あたしは、違うんだけどもね。メ……メンカイすんのは、リナ。あたしの、妹なんだ」
それだけ言うと、姉の背後で小さくなっている妹を、ぐっと前へ押しやる。
とりあえず、門前払いってことはなさそうだ、と、ルカは声をかけた女の態度から判断した。
女は申し送りに整列する衛士たちに、持ち場に解散するようと軽く手を振り、
「なるほど」
と、頷いた。
「面会の前に簡単な試験を受けていただくことになります。よろしいですか?」
ルカが、目を瞬かせた。
「なにを……しなきゃいけないんだい?」
「候補者のかたの、祈りのちからの強さを測るものです。具体的になにをするのかを簡単に説明するのは難しいのですが、手間取るものではありません」
ハルセリの張り紙には、そんなことが書いてあったのだろうか。
ルカは焦った。
だいたい公爵になるのに、なんの力がいるんだって?
『祈りのちから』、たしか聞いたことがある。
ずっとまえ、母親が聞かせてくれたお伽話のなかで。
そのちからで、王様や貴族たちは、みなが幸せに暮らしていけるように、世界を支えているのだという。
でも。
ひとからおおよそのところを聞いただけで、触書の正確な内容など知らないルカは、呆然としていた。
リナに祈りのちからが必要だ、ということと、リナが公爵になれるかもしれない、ということとが頭の中で整理しきれてなかった。
祈りのちから、そういうちからは実際、あるに違いない。
なぜなら神様がずっと昔に死んでしまったこの世界が、いまも壊れてしまったりせずにあるんだから。
そして、エルザス公爵は……そのちからをもっている。
公爵が探している、跡継ぎに選ばれる誰かも……きっと、持っていなければならない、ちから。
でも、リナは……。
ここまで来たら当然、会えると思っていたのだ。
会って、もしかしたら占いの通りリナは公爵になれるかもしれなくって。
それから。
よく考えたら虫が良すぎらあね、と、ルカは嘆息した。
あたしは……なんて……。
なんて、バカなんだろ。
「あ、あの、はい。分かりました。駄目かもしれないけど、たぶん、駄目だと思うんですけど、でも、やって……みます」
泣きそうな声で、リナが答えた。
姉の片袖をつかむ手が、震えている。
「私、ティータ・オルグと申します。当城内及びパジェル市街の治安を司る衛士の長をつとめております。我が主はいささか多忙なため、僭越ながら私どものほうで、選抜させていただいたうえでの面会、と、我が主より申し遣っております。よろしいですか?」
言葉もなく、ルカは頷く。
リナも。
駄目だ、無理だ、と言いながら、思いながら、ふたりとも……漠然とした期待を持っていなかったといえば、嘘になる。
公爵にはなれるはずがない。
でも、なにか……変わるはずだ、と。
物語のなかでの出来事のように、見たこともない高貴なひとに会って、そうしたら、なにかは分からないけれど、変わるはずだと。
リナの占いが、ふたりの漠然とした気持ちに根拠をあたえた。
曖昧な希望だけを胸に、ふたりは旅をしてきた。
でも。
でも、会えなければ……意味がない。
それとも、会ったところで最初から、なんにもならなかった?
ティータ、と名乗った衛士は、やわらかい微笑を絶やすことなくふたりの様子を見つめていた。
ふたりの顔色は暗く、目線は澱んだように地を見つめている。
彼女たちがどんな気持ちをしているか、察することは容易だ。
ティータは、ふと相好を崩した。
「お嬢さんたち、心配することはないよ。試験は貴女がたの身分がなんだとしても、不利になるようなものではない。それに、試験に落ちてもね、わたしはこれから非番だから、夕食時までゆっくりしていくといい。すこしでよければ、城内を案内してあげるから。公爵閣下には会えないかもしれないけれど」
「有難うございます……」
泣きださんばかりの顔をして、リナは深く頭を下げた。
ルカも頭を下げる。
「感謝なんていらない。これがわたしの仕事だから」
ふたりはティータに誘われて、門をくぐった。
湖に浮かぶその城は、翼を広げた鳳にも似て壮麗であった。
銀の月の光に染まったように、淡い輝きに包まれている。
けれどルカの瞳に映るその黒鳥の城は……なぜかすこし滲んで見えた。
*
馬でなければ踏破するのにゆうに一刻は要するかに思える、湖を一直線にはしる道すがら、公爵家の家人のために用意されている馬車の御者台のうえに三人一緒に座り、ふたりはティータからいろいろなことを聞いた。
ふたりが訊ねたわけではなく、ティータが勝手にしゃべったのだ。
いまのふたりには、ひとにものを訊ねたり、これからのことを思い描く気力すらない。
ともかく、ふたりはティータが思いつくままに話していることを、ただ、呆然と聞いていた。
どうやら、この公爵家の衛士長は、ことのほかおしゃべりらしい。
いわく、お触れが出てからこのかた二百人ぐらいの候補者が城を訪れたこと。
最初の二ヶ月程度は毎日のように客があったが、それ以降は三日にひとりになり、五日にひとりになり……いまでは十日にひとりぐらいしか客は訪れていないこと。
いまのところだれひとり公爵に面会できるだけの祈りのちからを持っている者はいなかったこと。
もちろん、公爵の継嗣はまだ決まっていないこと。
それから、
「ちょっと話は違うのだけれど」
と、前置きして、ティータがむかし十六で好きな男と駆け落ちしたこと。
男の子と女の子、ふたりの子供を年子で産んだこと。
十九のときに好きだった男に逃げられて、実家にも戻れずに、ふたりの子供を抱えて途方に暮れていたところ、いろいろあって公爵家の女中頭に拾われたこと。
女中としてはまったくものにならず、これもまた右往左往した結果、いまの職に就いたこと。
二十年経って、ふたりの子供は成長し娘は結婚。
ときどき泣きながら実家に戻ってくるけれど、おおむね幸せそうなこと。
息子にもどうやら好きな相手がいるらしく、親としてはきがきではないこと。
またエルザス公爵家を実際に切り盛りしているのは、公爵とその血族にあたる領宰であること。
エルザス公爵のひとあたりの良さと慈悲の篤さもさることながら、領宰も自分に厳しく、ひとに優しいひとがらで、臣下もおおむね気持ちのよい者がおおいこと。
そして、最後に。
ふたりがここへ来たのは、どういうつもりだったのかは知らないが、もしほんとうに困っていることがあったら、自分の権限でなんとかなりそうなことなら、ちからを貸してもいいということ。
その言葉は、ほんとうに苦労して四十年の歳月を生きてきたらしいティータが口にしたがゆえに、ルカの胸に深く刺さった。
自分たちがどれほど、ひとの厚意からほどとおいところにいたのか。
少なくともルカ自身は、母親とリナ以外に優しくされた記憶はなかった。
ルカに言い寄ってくる客たちはみな、ルカの金を出せば買える身体が目当てなのだ。
一晩、慰んで金を払って去ってゆくだけ。
けれど旅に出て、つらいことや危ないことや、ばかばかしい目にもたくさん会ったけれど、いいひとにもたくさん会った。
実のところ、厚意というのはどこにでもあったのに、いままで気づかなかっただけなのかもしれない。
ハルセリの小さな街で、それなりにまわりとは楽しくやっていたけれど、食べるのに精一杯で、ほんとうに大切な何かには気づかず通り過ぎていたのかも。
そういうことに気づいて、そういう気持ちが汲み取れるようになったら……。
ほんとうに、なにもかも変わることができるかもしれない。
リナの占いは、そういうことだったのかも。
そう、いつだってリナは正しい。
そして、きっと変わる。
幸せになれる。
あたしは……手遅れなんだろうけどさ。
まっとうなひとと、まっとうに結婚して、子供なんか三人ぐらい産んだりして……。
そんなの、身体を売って生きてる女の見ていい夢じゃない。
ティータのとりとめもなく続くおしゃべりを聞きながら、潤んだ瞳で微笑するリナの顔を横目に、ルカは柄にもない物思いに耽っていた。
「さてと、到着だ。お嬢さんがた、退屈だったろうけれど目的地についたよ」
ルカの物思いを醒ましたのは、ティータのその言葉だった。
ティータは城の入り口に詰める衛士たちに軽く合図して、ルカたちを御者台から降ろした。
城門もおそろしく大きかったが、ここもまた、入り口、などという通り一遍な言葉が似つかわしくない威容を誇っている。
見渡す限りの城壁。
大小の巌を取り混ぜて組み上げられたその城壁。
どんなに小さな巌でも大人の身体ほどはある。
おおきいものともなれば、岩盤をまるのまま持ってきたような大きさであった。
それが、まるで無造作に、しかし緻密な計算の結果なのであろう、一分の隙もなく堅牢に、一枚の壁を形作っている。
「むかしむかし、神様が生きていて、わたしたちを巻き込んで神様どうしで戦争をしていたころ、この城はその戦争の最前線にあったらしくてね。噂では、王都にある国王陛下のお城より、城壁は立派だそうだよ。もちろん、何万年もまえの話だから、お城のほうはどこもかしこも改装していて、城壁だって手を加えてるみたいだけれど。それでも、なかなか凄いものだろう?」
ルカもリナも、こくりと頷くのが精一杯だった。
なかなか、どころの話ではない。
こんなもの神様だってつくれやしない……ような気がする。
ルカは、身体の奥底から沸きあがってくる震えを感じていた。
死んでしまっていまはもういないらしい神様って、どんなことができたのかよくわからないけれど、でも、ぜったい、こんな凄いものはつくれなかっただろう。
あたしらにだって、こんなのつくれないだろうけど。
なら、誰がつくったのか、というところには、まったく考えを及ばせることもなく、ルカはただ開いた口を塞ぐのも忘れて、城壁を見上げていた。
「わたしも、これを初めて見たときには、一生分驚いた気分になったものだよ。なんてちいさなことで、くよくよしてたんだろう、なんて思ったりもしたかな」
ティータは、ルカを見つめて笑っていた。
さきの物思いを見透かされた気分になって、ルカはすこし、顔を赤くした。
「さ、なかを案内しよう。ここと較べればたいしたことはないけれどね。なんなら、昼食を用意させようか? わたしはいまからだし。もしお嬢さんがたが空腹なら、同席してもらえると、まるで娘と食べているようで楽しいから。わたしと同じものしか出ないと思うけれど」
ルカがティータの言った『食事』の言葉におおきく頷いた。
「姉さんったら……」
と、リナ。
「いいじゃないのさ、ちょっとぐらい意地汚くったって。そんな、倉ひとつまるごと食べるわけじゃないんだからさ、公爵さまだって困りゃしないし、あたしらのおなかはふくれるし、どこもかしこも上手くいくじゃないのさ」
恥ずかしさに顔を赤らめ、情けない顔をするリナに困って、そうだろ? と、ばかりに、ルカはティータの方を振り向いた。
ティータは、頷きながら、おなかを抱えて笑っていた。
よく見ると、話を盗み聞きしていたに違いないほかの衛士たちも。
「もう、勝手にしとくれよ」
ルカは溜息をついて、城壁を振り仰いだ。
この世界は遠い昔、神々どうしが戦争をしていた時代、主戦場だったという設定があります。
まきこまれた人間は堪ったものではなく、戦争終結間際に戦争によってちからを失いつつあった神々を、世界から排斥し、人間だけの国にした……という事情があるのですが、この話には直接には関係してきません。