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花祭  作者: たこやきいちご
2/14

Chapter1『森』

 夜の森を疾走するふたりの娘。

 夜盗に追われる彼女を助けたのは……

 故郷を離れて旅する彼女たちの旅の目的とは?

Chapter1『森』


 素足に触れる下草は、夜露に濡れていた。

 けれども、丈は短く刈り込まれ、走るのには困らない。

 視界は、いい。

 木々の下枝が取り払われているからだ。

 風のように、景色が流れる。

 夜の森。

 (かす)かな月明かり。

 風にさざめく木の葉の音に紛れて、下草を踏みしだく足音が聞こえる。

 遠くから、近くから。

 そして、その音に(かぶ)さるように寄り添って走るふたりの娘たちの影が流れる。

 一歩でも、一瞬でも速く、前へ。

 前へ、前へ、前へ。

 奴らのいないところへ!

『森の民の手入れが行き届いてる。逃げるのにはいい。けど、追ってる奴らだって、おんなじ』

 ルカは焼け付くように熱い思考で、思う。

 四肢が怠く、熱い。

 のどが渇く。

 森の民とは、この王国の各地の森に定住し、その森とともに生きる種族の名称である。

 外観は地方によって差はあるが、髪の色、瞳の色ともに淡い色。細く長い耳を有し、長寿であり、魔法に()ける。

 いま、夜の森を疾走するふたりの娘たちは、一見して森の民らしき外観を有していた。

 金髪碧眼、そして、長い耳。

 季節は、夏。

 夜の森を吹き渡る風は涼しい。

 しかし、その風はルカには感じられなかった。

 滝のように流れ出ていた汗は、もう、枯れてしまっている。

 髪に、衣服に染みこんだ汗の、なんと重いことか。

 遠くから、歌声が聞こえる。

 おそらく、森の奥から。

 どこかしら寂しい響きの歌声を頼りに、追われる者、ふたりの娘はその声の(あるじ)を探していた。

 そこへゆけば、おそらく、森の民の集落がある。

 ひとのいるところまでゆけば、助かる。

 ただ、そう信じて。

『まっとうな森の民の村なんて、あたしら、歓迎……されないだろうけど。絶対、すぐ蹴り出されるに決まってるけど。でも、むざむざ見殺しにはしないだろうさ』

 だが、狩人たちの息づかいは、歌声よりも大きく娘たちに迫る。

 怒声に似た追う者たちの声。

 下草を踏みしだく足音。

「薄汚い、野良犬どもだね」

 ルカは低く悪態をつき、彼女の腕で抱きかかえるようにされて走っている妹に、

「大丈夫かい?」

 と、声をかけた。

 のどの奥が干上がって、声が(かす)れる。

 リナはこくり、と頷く。

 リナの息が酷く乱れている。

 顔色は薄暗くてわからないが、赤いのを通り越して、土気色をしているかもしれない。

 ルカの腕から伝わるリナの体温が冷たい。

 休ませてやりたかったが、その余裕はなかった。

 ルカとリナは双子の姉妹だが、リナのほうが体力には劣る。

 もう、一刻ちかく走りづくめなのだ。こういったことに自信のあるルカでさえ、ともすれば足がもつれた。

「もうすこしだからね」

 ルカはそう言って妹の身体を強く引き寄せ、幽かな声の響く、森の奥、さらなる深みに駆け入った。

 ことの起こりは、どこまでもふたりの娘に理不尽だった。

 ふたりはエルザス領領都パジェルへ向かう旅人だった。

 エルザス領近隣の自治都市エギネへ向かう街道沿いの森で野宿していた彼女らが、異変に気づいたのは、青の月が中天を過ぎ、しかし、いまだ銀の月は現れぬ深夜。

 ただならぬ気配に目覚めたふたりは、自分たちが野盗の一群に見つかってしまったことに気づいた。

 低く、男たちの野卑(やひ)な会話が聞こえてきた。

 男たちは、ついいましがた、街道を通りがかった商隊を襲撃したが、護衛の者たちに阻まれ失敗。怪我を負った者も出て、まったく面白くなかったところに、思わぬ拾いものにありつけるかもしれない……と、いったことを切れ切れに話していた。

 拾いもの、つまりはルカとリナ、ふたりのことだ。

 おそらく、鼻の利くものがルカたちの焚き火の燃えさしの臭いに気づき、彼女たちを見つけたのだろう。

 この森のどこかに根城があるのか、商隊の追っ手を逃れて、たまたま通りがかったか、あるいは、ルカたちと同じように、野営のために森に入ったか。

 なににしても、ルカたちにとっては不運としか言いようがなかった。

 ルカが異変に気づいてすぐに、何人かの足音が、彼女たちのところへ向かってきた。

 おなじように目覚めたリナの震える手が、姉の手を取った。

 思うさま(もてあそ)んだあげく、売り払えば金にもなる女が、思いがけず手に入る幸運に喜び勇んだ男たちの誤算は、ふたつあった。

 ひとつは、ルカとリナ、彼女らふたりが片親を人狼族の出身としていたこと。

 そしてもうひとつは、その夜が青の月の満月に近かったことだ。

 彼女らは父親を人狼族、母親を森の民として生まれた。

 長い耳や金髪は母親譲りだったが、満月が近くなると身体の調子が良くなり、常にはできないようなことも、たやすくこなせるようになる特徴は、父親のものだ。

 さすがに、満月の夜に狼に変化するほどには、その血は濃くは現れなかったが、それでも、男のひとりやふたり組み伏せて、腕をへし折ったり、並の者には追いつけない速さで走ったりするくらいはわけはない。

 ルカたちにとって幸いしたことがもうひとつあった。

 野盗たちのおおくが、さきの商隊の襲撃で怪我を負っていたことだ。

 多勢に無勢な状況にはかわりはないが、微かな光明には違いなかった。

 男たちがルカたちを取り囲んだ。

 ルカが気配をよんだところ、その数は八人。

 彼女らが眠っているのを確信してか、下卑(げび)た忍び笑いを隠そうともしなかった。

 ルカが、焚き火の燃え残りの枝をつかんで力任せに男たちのひとりの鼻面に叩きつけたのは、彼らがルカとリナの顔の半分までかぶった毛布代わりの外套を引き剥がそうとした、そのときだった。

「リナ、いまだよ」

 ルカは妹の手を引いて、予想外のことに怯んだ野盗のうちのふたりばかりを()ぎ倒して、男たちの怒声を背に、夜の森の奥へと駆け込んだのだ。

 野盗たちの気配に気づいて目覚めるその前から、夢うつつに聞いていた、幽かな歌声だけを頼みにして。

 歌声はいまも途切れず続いている。

 かなり近い、と、ルカは思う。

 近づいて不安になったのは、いっこうに村落らしい建物を見ないことだった。

 下草が足に(から)みついてくる。

 彼女たち自身は同じように走っているつもりだったが、疲れのせいもあり、速さはかなり落ちているに違いない。

 走りにくいこともあって、ときどき、足下がおぼつかなくなる。

 倒木などはさすがに見あたらないが、木々の下枝をうつ作業はじゅうぶんに行き届いているとはいえず、視界が悪い。

 この場所が、森の民でも滅多に立ち入らない森の深奥であることを伺わせる。

 追っ手の気配は相変わらずだった。

 足の速さでは彼らよりもルカたちが一歩先んじていたが、引き離しきれないところをみると、行く先を読まれて、先回り、先回りに回り込まれているようだった。

 たいまつの灯りも見えないことから、追っ手はルカたちの匂いを頼りに、追尾しているのだろう。

 もとより、ルカは彼らを()けるとは考えていなかった。

 この手のことに関しては彼らは玄人(くろうと)だ。

 だからこそ、助けを求めるべく、森の民の集落を探しているのだったが。

『もし、もしも、歌をうたってる奴が、あたしらとおんなじ旅人だったら……。お仕舞いさね』

「姉さん……」

 リナも考えていることは同じだったのか、苦しい息づかいのしたから、不安げな声を漏らした。

「大丈夫さ。いざとなったら、あたしがみんな叩きのめしてあげるよ」

 ルカの言葉に、リナは(うなず)く。

 満月をあしたに控え、この上なく身体に力が満ちているルカでさえ、追っ手のすべてをひとりで相手にすることは不可能だった。

 リナもそれは分かっているはずだった。

 彼女が姉の言葉に頷いたのは、どうなっても最後までついてゆく、という意味だ。

 ルカにはそれが分かる。

 リナは荒事に向いた気性ではない。

 自分がどんなに酷い目にあっても、決して手を挙げることはない子だから、と、ルカは思う。

 昔からそうだったのだ。

 下町の少年や商家の青年たちに、震えているばかりなのをいいことに(いじ)められるリナを(かば)い、なんど彼らと大喧嘩したことか。

『なんとしてでも、リナを護らなくちゃね。この子は、もしかすると公爵さまになれるかもしれない子なんだよ』

 歌声は近かった。

 いまや腰までになった下草を掻きのけて、ルカは歌声の方へと駆ける。

 不意に、開けた場所に出た。

 手入れされているからではない。

 いくらかまえに雷にでもやられたのであろう、倒木があり、その周りの下草が燃えていたのだ。

 倒木に腰掛けるひとかげがあった。

 ひとかげ、というよりは影そのものにも見えた。

 篝火(かがりび)もなく、月明かりもほとんど届かぬこの森の奥で、漆黒の衣装に身をつつむその姿は、夜が()ったようでもあった。

 たったひとりでちいさな琴を掻き鳴らし、歌うのは……娘であったか、青年であったか。

「巻き添えにしちまって悪いけどね。あんた、逃げるんだよ」

 ルカは歌声の主に駆け寄って、腕を取って立ち上がるように(うなが)した。

 絶望がルカの気力を奪ってゆく。

 これでもう、助かる見込みは、万にひとつもなくなった。

 それでもリナを抱きかかえ、歌声の(ぬし)の手を引いて駆け出そうとした彼女を支えているのは、リナを助けたいという思いと、自分たちのせいで巻き添えになった者に対する、義務感だった。

「囲まれたようだけれど」

 娘の声にしては少しばかり低い声が、ルカの耳に届いた。

 ルカは、破れそうなほど動悸する自分の心臓の鼓動を感じながら、あたりを見回し、耳をそばだてた。

 周りを取り囲むように、気配がする。

 その数は……十二。はじめより増えている。

 ルカたちがここを目指しているのを、読まれ、先回りされていたらしい。

 リナの細い腕が、ルカに縋る。

「ごめんよ、悪気はなかったんだよ……」

 ルカが歌声の主を見遣って、小声で呟いた。

「心配しなくていい。わたしはね、不本意ながら、こういったことには少しばかり自信があるんだよ」

 青年だといってしまうには、たおやかにすぎる白皙(はくせき)の美貌がふたりの娘を見て、莞爾(にっこり)とした微笑を浮かべた。

 ルカには信じられなかった。

 彼女の見るところ、この琴より重いものを持ったことすらないような、穏やかそうな目の前の者が、何人ものならず者を叩きのめすことができるとは、とうてい、思えなかったからだった。

 あたりは真闇に近い。

 この状態でそこそこものが見えるのは、ルカの身体に流れる人狼の血による。

 野盗たちはルカたち三人を取り囲んでいる。

 さっきみたいに不意が()けないぶん、逃げ出すのは難しいね……と、ルカは思った。

 野盗たちもそれは分かっているのだろう、こちらの出方を(うかが)うように、身じろぎひとつしない。

 もしかすると……さっさとカタをつけないのは、こいつのせいかもしれないね。

 ルカは、おそらく青年であろうと思われる、歌声の(ぬし)の横顔を見上げた。

 ルカも女たちのなかではそれなりに背が高かったが、頭半分ほど『彼』の方が背が高い。

 その横顔には紛れもない、威圧感があった。

 殺気とはまったく異質な、ぞっとするような気配。

「その女どもを見つけたのは、オレたちのが先だ。あとから出張(でば)って、上手(うめ)えトコかっさらおうって算段だろうが、そうはいかないぜ」

 暗闇から小柄な男がひとり、歩み出た。

 その男に歩調を合わせたかのように、三人。

 種族ははっきりとしない。

 体格にも、髪の色にもばらつきがあり、おそらく、雑多な種族の寄せ集めなのだろう。野盗たちの集団の多くが、そうだ。混血もおおいに違いない。

 ただ、みな、腕に揃いの刺青を(ほどこ)しているようであった。

「なあ、あんただってオレらとやり合おうなんざ、思ってねえだろ?その女どもをこっちに廻してくれりゃ、あんたにゃ、手をださねえ」

 真っ先に近寄ってきた小柄な男が、青年に言った。

 小狡(こずる)そうな顔に、闇の中でもはっきりと分かるほどの笑みが広がった。

「うそっぱちだよ!こいつら、あたしら三人とも飯の種にするつもりさ!」

 ルカが叫んだ。

 『青年』が本当に男でも実際には女でも、その美貌はじゅうぶん売り物になる、と、ルカは思った。

 琴を弾きこなし歌を歌うなら、引く手あまただ。

 身体を売るよりほかはないルカたちの売り先は、安い妓楼(ぎろう)がせいぜいだが、技芸に()ければ高級な遊郭も高い値をつける。

 つてがあるなら、商人や貴族に売りつけてもいい。

 生きた『人形』を(もてあそ)ぶ趣味を持つ者は、おおい。

 ルカには、自分たちより数等高い『商品』になるはずの青年を、野盗たちが見逃すとは思えなかった。

「この女!」

 ルカに近い男のひとりが、無骨な山刀を片手に、ルカにつかみかかった。

「刃」

 穏やかな青年の声がした。

 大気を裂く、軽い音。

 山刀が、地に落ちた。

 ルカの腕に、頬に、生温(なまぬる)いものが散った。

 この世のものとは思えぬ悲鳴。

 山刀を持っていた方の腕を押さえ、大地に伏して転げ回る男に、野盗の仲間たちが駆け寄ったときも、ルカにはなにが起こったのか分からなかった。

 大気に、重く血の匂いがたちこめる。

「腕は繋がっているからね。きちんと手当てすれば、動くようになるよ」

 青年は傷ついた男を振り向きもせず、小柄な男に向かって言った。

 それから、倒木に琴を置くと、優雅な動作で身にまとう外套を脱ぎ、ルカとリナ、ふたりの肩にふわりと被せた。

『これで……身を隠せってことかい?向こうだって夜目が利いてるから、あんまり意味はないんだろうけど』

 ルカは青年の厚意の理由をそう理解して、外套を身に巻くようにして、倒木の傍らに身を寄せた。

 男の笑みは凍りついている。 

「正しい呪文も魔法陣もなしに魔法を使うのは、掛け値なしに疲れてしまうのだけれど。でも、お望みなら、もうすこし派手なのを見せてあげよう」

 ぎちり、と、悔しさに歯がみする音がした。

 それでも、退(しりぞ)かなかったのは、野盗の首領たる彼なりの誇りだったろうか。

 刃を抜く、幽かな音。

「危ないよ!」

 ルカが叫ぶ。

 目の前で、青年の身体が舞った。

 重さを感じさせぬ動作で男の背後に回り込み、山刀を持つ方の腕を捉える。

 骨の折れる鈍い音がした。

 大地に倒れ込む男の悲鳴。

「縛鎖よ、我がもとへ馳せよ」

 青年の声とともに、あちらこちらから悲鳴とも(わめ)き声ともつかぬ声があがった。

 ルカの目前、枯れた下草の(まば)らな地面から、周囲の闇よりずっと暗いなにかがするりと伸び、青年の足下、ルカたちからは少し離れたところで身体を折って呻く男の身体に巻き付き、容赦なく締め上げる。

『きけ、ひとの子らよ』

 ひときわ、(ろう)とした青年の声。

 大気が青白い燐光を含んだ。

 驚くべき早さで周囲に魔力が満ちてくるのが、ルカにも分かった。

 青年は、呪文を詠唱し始めたのだ。

『闇の囁きは常に(なんじ)らとともにあり、()は汝らを安らいへと導かん。しこうして我が声は時の安らい、闇の囁きなれば、惑い病みしひとの子らよ、いまはただ、安らかに眠れ』

 呪文の終焉とともに、一切の物音が止んだ。

 風の音さえ、聞こえなくなった。

 燐光が徐々に薄らいでいく。

「奴ら……どうなっちまったんだい?」

 ルカが青年の方を見上げて、訊ねた。

「眠ってるだけだよ。明日の今頃には目を覚ますさ。いまは踏みつけたって起きないけれどね」

「あんた、見かけによらず凄いんだねえ」

「見かけによらず、とは、ちょっと心外だけれどね。そうだね……確かに、あまり強そうには見えないかな」

 あんたと較べりゃ、あたしのほうが強そうに見えるだろうね……と、(なご)やかな表情で彼女たちの方へ歩み寄る青年の姿を眺めつつ、ルカは心の中で呟いた。

 それから、さきほどから押し黙ったまま、姉に(すが)りつくリナに、「大丈夫かい?」と、声をかけた。

 こくり、と、リナは頷くが、まるで凍えているかのように震えている。

「リナ? あんた、ちっとも大丈夫じゃないじゃないか!」

 リナの身体が冷たい。

「そちらのお嬢さん、ちょっと頑張りすぎてしまったみたいだね」

 青年がルカに言い、リナの手を取った。

『夢幻の泉に導かんとする我が手に、汝、おのが魂に満ちる炎を視よ。おのが四肢に()ちる力、おのが胸に宿る力、いまこそ、汝の御許に甦らん』

 青年の呪文は、ルカに母親のことを思い出させた。

 ふたりのどちらかが病気になったときには必ず、これに似た呪文を母が唱えてくれたからだった。

 おまじないのようなものだった。

 たいてい、このおまじないよりは、お金を工面して市場で買い求めてきた卵や乳のほうが病気にはよく効いたものだったが。

「ありがとう……ございます」

 リナの身体の震えは、収まっていた。

 身体も、ほっとするぬくもりを取り戻していた。

『効いてる……』

 ルカは目を丸くした。

 治癒術は、ちょっとした傷を(ふさ)ぐようなものでさえ、なまじの炎の魔法や氷の魔法より難しい。

 だからこそ、魔法をよくするはずの森の民であったルカの母親でさえ、治癒術については、おまじない以上のことはできなかったのだ。

 それを、青年はいとも簡単に使いこなしている……。

 ルカは、青年が野盗たちをあっというまに眠らせてしまったときより、驚いたと言ってもいい。

「君も」

 青年がルカに手を差し伸べた。

「あ、あたしは、いいって。魔法なんかあんまり使うと、疲れちまうだろ?」

「でも、歩けるかい?」

 決まってるだろう、と、心の中でルカは思い、立ち上がろうとした。

 立てない。

 腰が抜けてしまったように、腰から下に力が入らない。

「……悪いね……、頼むよ……」

 気恥ずかしさに首筋まで赤く染めて言ったルカの言葉に、青年は莞爾(にっこり)と微笑み、ルカの手を取った。

 野盗に襲われて逃げ出したときに置いていった荷物は、もう、どうしようもなかった。

 当座の食料と、とっておきの銀貨が一枚と銅貨が何枚か。

 野宿に重宝する外套に、木靴。

 衣装の替えが姉と妹一着ずつと、下着の替えが少々。

 あと、リナの占いの道具。

 厚紙に絵の具で彩色したものだが、これがないとリナのほうは商売にならない。

 どれもこれも考えれば考えるほど惜しかったが、どこをどう逃げたものやら、どういけば荷物のもとへ戻れるやら。

 汗でべたべたして生あたたかい髪と衣装が、ルカの惨めな気持ちをより深くしていた。

 ルカとリナ、そして青年の三人は、森の出口を目指して歩いている。

 青年がふたりについてきていたのは、ふたりとも、どう行けば森を出られるのか、分からなかったからだ。

 青年を先頭にして、ルカとリナはふたり、手をつないで青年のすぐ後ろについていた。

 ふたり黙って並んでいると、彼女たちはほんとうによく似ている。

 洗いたてにはふわりと背に広がるはずの金色の巻き毛、青玉のように澄んだ青い瞳、いまは泥にまみれているが、山梔子(くちなし)の花びらのようにやわらかな白い肌。

 むろん、野盗に追い立てられて一晩を過ごした彼女たちには、疲労の影ばかりが目立ったが、それでも、その美しさの片鱗は垣間見えた。

 東の空に、銀の月が昇る気配がある。

 見上げると、木々に垣間見える空が、銀色にほの明るい。

 森には風が()ちている。

 夜が、明ける。

 この、青の月と銀の月、ふたつの月のしろしめす、本来ならば夜しかない世界に、仮初(かりそ)めの朝がやってくる。

 銀の月に導かれ、森の木々が光砂(こうさ)を生むのだ。

 光砂は風に乗って大地に満ちる。

 それが朝だった。

 この世界の。

 そして、その朝を生む森を護るのが、森の民の役目……。

 ルカは、森の出口が近くなったらしく、ずいぶん歩きやすくなった下草を踏みしめ、朝が近づいてきたのを感じながら、青年がおそろしく面倒見がよいことに驚いていた。

 突然、目の前に現れたふたりを野盗から助けたのは、たんなる行きがかりだったとしても、精根(せいこん)尽き果てたふたりに治癒術をかけ、のどが干涸らびて死にそうだった彼女らを、湧き水のある場所まで連れて行き、水を飲ませてくれたのは、かなり面倒見がよいと言えるだろう。

 紅珠の耳飾りに銀の腕環(うでわ)、水晶の細工で軽くまとめられた漆黒の髪は長く艶やかで、身なりからもどこかの金持ちといったところだろうに、森の出口までの案内役までかって出てくれている。

 それだけならまだしも、腕に深手を負ったり、骨を折ったりしているはずの野盗の命を心配した、おひとよしなリナの懇願に(いや)な顔ひとつせずに、眠っている野盗の傷を治しさえしたのだ。

 ルカは、開いた口が塞がらながった。

 いったい、どこの世界に自分を売り飛ばして一儲けしようと襲ってきた奴らの怪我を、治してやる奴がいるのだろう……。

 間抜けでひとがいい金持ちなら、ルカも知らないではない。

 ようするに金は持っているが馬鹿な奴はどこにでもいる。

 しかし、青年は馬鹿にも間抜けにも見えない。

 ルカの知っている馬鹿や間抜けでない金持ちは、たいがい、ひとがよくなかった。

『でも、いい奴なのは間違いないだろうさ』

 ルカはどんな育ちならば青年のように、おひとよしになれるのか首を(ひね)りながら、一応、そう結論した。

「悪いね、付き合わしちまってさ」

 ルカは、うしろのふたりを気遣ってか、ときおり振り返りながら歩く青年の背に声をかけた。

「どういたしまして」と、青年。

「あたしら、荷物みんななくしちまって文無しで。まあ、なくさなくったって文無しなのはおんなじだけどさ」

 ルカはそこまで言ってから、ちらりとリナを盗み見た。

 リナはまだ足下がおぼつかないのか、少しふらつきながら、懸命に歩いている。

 ルカはリナの手を離すと、青年に駆け寄り、その腕を取って、青年を見上げた。

「お礼といっちゃなんだけど、あんたさえよければ、あたしを抱いてくれてもいいよ。商売女なんて、気に入らないかい?」

「姉さん!」

 リナの絶叫に似た叱責(しっせき)

 その声に驚いて目覚めたか、どこかで鳥の飛び立つ翼の音がした。

 青年の笑う声。

「もう姉さん、なんてこと!」

 リナが姉の腕をつかみ、青年からルカを引き()がす。

「だってさ、リナ。あたしらなんにも持ってないし、このひとにはずいぶんよくしてもらったしさ。ほら、リナはこのへんで休んどきなよ。いっときほどで済むからさ」

「ばか!」

 涙目で怒っているリナを(なだ)めながら、ルカが青年を見遣ると、青年は足を止め、肩を震わせて笑っていた。

「お礼なんて要らないんだよ。それと、喧嘩するのはよくないね」

「べつにケンカなんかしちゃいないよ……。でも、あんた、あたしみたいなのは嫌いかい?」

「姉さんったら!」

 耳元で叫ぶ妹の声を片手で遮りながら、ルカは青年に訊ねる。

「嫌いではないけれど。でも、ほんとうに礼など要らないんだよ。君たちとわたしが出会ったのは、僥倖(ぎょうこう)とでもいうべきたぐいでね。誰も自分の『幸運』に、お礼なんてしようと思わないだろう?」

 ルカの眉間にしわが寄った。

 なんとはなしに、リナの顔を見つめる。

 リナも、不思議そうな顔をしていた。

 ふたりとも、青年の言っていることがよく分からなかったのだ。

 ルカは眉間にしわを寄せたまま、二呼吸ほど考え込み、それから、頼りなさそうに、青年に向き直った。

「つまり……、なんだね。あたしらの隣にダルトン爺さんてのが住んでてね、その爺さん、なんだか知らないけど、しょっちゅういなくなるんだよ。それで、借金取りが爺さんの部屋の壁をよく蹴飛ばしてたもんだけど、たまたまその借金取りが爺さんの居るトコに出くわしても、誰にもべつに礼なんかしない……。そういうことなのかい?」

 怖ろしい沈黙があった。

「姉さんの、ばか! ばかばかばか!」

 リナが顔を真っ赤にして、叫ぶ。

 青年はルカの懸命の思索(しさく)には一言もなく、ただ、手近にあった木に片手をつき、背を丸めるようにして、笑っていた。

 ひとしきり叫んだり笑ったりしたあと、三人はまた、さきと同じように森の出口を目指して歩き始めていた。

 違いは、リナが姉の腕をしっかりとつかんで、かたときも離れず(にら)みつけているところだけ。

「あんたさ、あんなトコで、なにしてたんだい?」

 黙って歩くのは詰まらない、とばかりに、ルカが青年に訊ねた。

 リナの視線が痛いのか、弱り目でときおり妹の方を盗み見る。

「長いこと眠っていたのだけれど、厭な夢を見てね。眠れなくなったんで、歌でも歌えば気が紛れるかと思ってね」

 青年が折からの風に髪を巻かれながら、ルカを振り向いて答えた。

 長いこと眠っていた、とは、どういうことなのだろう。

 病気でもして、ずっと寝込んでいたのだろうか……とも、ルカは思ってみるが、どうもそうは見えない。

 青年はこの上なく元気そうだ。

 ちょっと尋常(じんじょう)でない雰囲気をまとってはいるが、それは、浮世離れしている、とでも表現されるべきもので、怖ろしかったり病的な感じを受けたりはしない。

『きのうは早めに寝床に就いたってことなんだろうけど。おかしな感じだけどね』

 なんとなく気にはなったが、口に出すのはやめておいた。

 また、リナに(わめ)かれるとかなわない。

「ずいぶん……寂しい歌でしたね」

 リナが言った。

「いまはいなくなってしまったひとを……もう過ぎ去ってしまった(とき)を、哀しんでいるような」

「そういう歌しか、思い出せなくてね。歌なぞ星の数ほど憶えたはずなのに」

 そう言った青年の声は、穏やかだった。

「それはそうと、君たちは何処(どこ)へ行こうとしているのかな」

「エルザス公爵のお城のある、パジェルって街へ行くつもりなのさ」

 ルカが答えた。

「そこでさ、次の公爵をさがしてんだよ。あたしゃ、リナならなれるって思うんだ。賢いし、気だてはいいし、なんたって、あたしの自慢の妹だからね」

「ね、姉さん」

 胸を張るルカの袖を引く、リナ。

「あ、あの、いまのは冗談……ていうか、なにかの間違いっていうか」

「間違いのはずあるもんかい。おまえの占いはよく当たるじゃないのさ」と、ルカ。

「占い?」

 青年が興味深そうにリナの方を見遣る。

「え……と、その、わたし、ハルセリって自治都市で、占い師をしてたんです。それで、ひとつきほどまえに自分たちのことを占ってて、『ひとを求める貴人あり。すなわち、求めに応ずれば、すべてが変わる』って。わたしは……なんのことだろうって思ってたんですけれど、姉さんが」

 リナが困ったように姉を見遣った。

 ルカはリナの様子は気にもとめず、なんだか誇らしげに、リナの話のあとを続けた。

「ハルセリの役場のトコによく、ひと捜しの掲示が出るんだよ。いつもは自警団員募集とか、店番急募とか、ちょっと気の利いたとこで、どこそこ領への開拓移民募集とか……。そんなのばっかなんだけどね。あたしが、リナの占いが占いなんで見に行ったら、たいした家章の入った掲示が貼ってあるじゃないか」

「なるほど」

 青年は、だいたいのことに見当がついたらしく、頷く。

「そのへんの奴に『なんて書いてあるんだい』って訊いたら、『なんでも、エルザス公爵がお世継ぎを探してるんだと』って言うから、あたしゃ、これだ、ってね」

 そこまで言ってルカは困ったように片目を(つむ)り、

「でも……そのお触れ書きって、長いこと貼ってあったらしいから、急がないといけないんだろうけどねえ。誰かにさき越されちまうかも」

 と、嘆息する。

「わたしは……先を越されるとか、越されないとかいう以前のお話だと思うのですけど」

 消え入りそうな声で、リナが締めくくった。

 ルカは口をとがらせて、リナを見る。

「占いは間違っている、と、そう思いながら、ひとつき、旅をしてきたのかい?」

 青年がリナに問うた。

「公爵さまになるなんて……そんな夢みたいなことあるはずありませんし。なにより、ご領主さまになるには、特別なちからが要るのでしょう?」

「そうだね」と、青年。

「でも、わたし、いちどハルセリを出てみたかったんです。いまは、パジェルに着いて、有名な湖のお城を見て、そのあと、また姉さんとあちこち旅が出来たらいいなって思ってます」

 青年が立ち止まった。

「もうすぐ、街道の見える場所に出る。ふたりで大丈夫だね?」

 まっすぐ前を指さし、青年はルカたちを振り返った。

「恩にきとくよ」と、ルカ。

「ありがとうございます」と、リナ。

 東の空に銀の月が垣間見える。

 風が強い。

 もうすぐ、夜が明ける。

「そうそう、なくしてしまった荷物の代わりに、これをあげよう。街道の商隊に声をかければ、旅費の足しにはなるだろうね」

 青年は紅珠のちいさな耳飾りをはずし、外套を脱ぎ、ルカに手渡した。

「いいのかい?」

 ルカがこれ以上はないといっていいほど、目を丸くして青年を見つめた。 

「君たちは理解できなかったとしてもね、君たちがわたしに出会ったのは、ちょっとした『僥倖(ぎょうこう)』なんだよ。『僥倖』なら、このくらいのことはしなくてはね」

 青年の言っていることは、やはりふたりには分からなかった。

 が、ルカもリナも深く頭を下げた。

「あの、おまじないをさせていただけませんか。いい夢を見て眠れるように。占いをしにきて、困ってるひとによくするんです。気持ちが楽になったって、みんな言ってくれて……でも、ほんとうに効くかどうか分からないんですけど」

 リナが青年に申し出た。

 せめて自分にできることをしなければ、という必死の思いが表情に(にじ)んでいる。

「お願いするよ」と、青年。

 リナは青年の手を取り、言葉もなく、呪文もなく、目を閉じた。

 心臓の鼓動を二十ほど数えたころ、リナは(まぶた)をあけ、青年を見上げた。

「君の想いは、ひとに安らぎをもたらし、幸福を願う気持ちは大地を(うるお)し、天候を左右する。祈るこころは、ひとならば、みなおなじように持っているものだけれどね。その想いで世界を変容させるちからは、才能だよ」

 青年の、微笑。

「君は、自分がほんとうに公爵になりたいかどうか、考えておいたほうがいいかもしれないね。『すべてが変わ』ったさきに、君の望む幸せがあるのかどうか。それは誰にも分からないからね」

 リナの瞳に、いいようのない不安の影が過ぎった。

 その不安をうち消すように、青年はリナの肩を軽く抱いて、言葉を続けた。

「ともあれ、久しぶりに()い夢を見て眠れそうだ」

 リナの顔が花のようにほころんだ。

 疾風(しっぷう)

 木々がざわめく。

 風に乗って、森の奥から沸き立つように、燃え上がるように、白い輝きが世界に満ちてゆく。

 あまりの輝きに、ルカとリナ、ふたりは目を細めた。

 朝が来たのだ。

「そういや、あたし、あんたの名前をきいてなかったねえ」

 夜明けの風が収まり、いまだ光砂が森を目映(まばゆ)く漂うなか、ルカは青年がいるはずのほうを向いて、訊ねた。

 青年の姿はなかった。

 何処にも。

 ルカの手に、耳飾りと外套を残して。

 こののち、長い時が経って、ふたりはもういちど、この『青年』に出会うこととなる。

 別の場所、別の立場で。

 そして、そのとき彼女らは『彼』の名を知ることになるのであったが。

 しかしそれは、これより別の物語となる。

 遙かな未来(さき)の物語である……。

 

 異世界なんだから「異世界」っぽい描写をしようと躍起になっているところに、自分の若さが垣間見える……このあとも、都市の経済とか交通のしくみとか、世界観部分の語りにわりと力の入っているお話です。


 ちなみに、これで主要登場人物はほぼ出そろいました。

(2名ほど脇役で残っていますが)

 むかしから、そこそこ長い話でも登場人物は絞りたがる傾向がありました。

(この作品は、私が15年前に書いた作品になります)



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