Epilogue『ゆめのすこしあと』
物語の終わり。
リナの予言通り「すべてが変わった」さきにあるもの……
Epilogue『ゆめのすこしあと』
青月の美しい春の夜だった。
ルカはシオンの枕元で椅子に座って月を眺めていた。
指先で、柳の腕環を弄んでいる。
その感触を確かめるように。
腕環を形作る枝は瑞々(みずみず)しさを失い古びてはいたが、数え切れないほど何度もルカの指に触れ、黒光りする艶があった。
今年の創世の記念祭は、先日終わった。
ふたりが結婚式を挙げたあの日から、九年が経つ。
シオンは眠り続けている。
目覚めることは少なくなった。
いまはもう九日か十日に一度、ほんの一刻ほど目覚めるだけ。
どこもつらそうなところはなさそうだが、目覚めているときも眠たげにしている。
「ルカ」
月の光が呼んだのかとも紛う、優しい声がした。
気づいてルカは微笑み、伸びをして寝台で目を覚ましたシオンにくちづけた。
「元気にしていたかい?」
シオンは身を起こし、枕で身体を支え、ルカに腕を差し伸べた。
ルカははにかんで頷き、靴を脱いで寝台にあがりシオンの横に座った。
シオンが、ルカをそっと抱き寄せる。
外見はそのままだが、ルカも魂に九年の歳月を刻んだ。
けれど、シオンの腕のなかにいるときのルカは、いつも十八の娘だ。
ふたりに子供はない。
望まなかったわけでは、なかったのだが。
「リナと、ライラは?」
と、シオン。
「王都へ行ってる。ほんとは、ふたりともここでシオンのこと、待ってるつもりだったんだけど、どうしても行かなきゃならない用ができたって。明日には必ず戻るって言ってたけど」
リナが公爵となって、八年が経つ。
いまはライラに助けられて、シオンのしていたことをリナが行っている。
ルカも、おもに外交的なところではリナを助けるようにしている。
細かいことはいまでもルカの嫌悪するところではあるが、ひとと付き合うことについては、彼女の方が長けているからだ。
もっとも、シオンの目覚めが徐々に遠のいて以来、それも放り出したようなかたちになっている。
しかし、誰も彼女の職務怠慢を責める者はいない。
「ルカ」
「なに?」
シオンの呼ぶ声に、ルカは愛しいひとを振り仰いだ。
「楽しかった」
見つめる視線に微笑んで、シオンが言った。
なにか答えようとしたルカの声は、喉の奥で、詰まった。
「君と出会うまで、わたしはいつ死んでもいいと思っていたんだ。でも、いまは違う。一年でも、ひとつきでも……ほんの一刻でも長く、君と一緒に生きていたい、そう思い続けているよ」
「……知ってる」
シオンの心臓の鼓動を確かめるように、ルカはシオンの胸に頬を寄せた。
「残念だな」
シオンが言った。
「わたしの可愛いひとは、もっと感激してくれると思っていたのだけれど」
ルカの頬が染まった。
「なら、あたしのほうこそ残念」
「なにが?」
「シオンなら、あたしがどれほど嬉しいと思ってるか、分かってくれると思ってたから」
シオンが、声を立てて笑った。
「知っているよ」
と、ルカの耳に囁く。
互いに引き寄せられるように、唇が重なる。
沈黙の刻が過ぎた。
ふたりの姿を青く染める、春の月。
*
「ねえ、ルカ。ひとは死ぬと、何処へいくと思う?」
ややあって、シオンが呟いた。
「知らない。……どこへも……いかない」
ルカが答えた。
答えた瞳は、幽かに昏い。
闇の神は、その妻である時の女神とともに、ひとを護るために傲慢なる光の神、残虐なる冥府の王に反旗を翻した。
そして、勝利こそ納められなかったものの、ひとを護り抜き、妻とともに死んだ。
以来、闇の神の産み給うたこの大地に棲む者たちに、死してのちに向かうべき冥府は存在していない。
ただ、無へ還るのみ。
そう信じられている。
誰も証明した者はいなかったが。
「わたしはね、ずっと考えていた。この世界は、遠い昔からすこしずつ広がっている。ウィンチェスター公爵の居城のあるあたりは、世界の創世当時、なにもなかったのだそうだよ。一面に、虚空が広がっていたとか。わたしにだって、それがどんな風景なのか、見当もつかないけれど。でも、ひとが大地に満ち、ひとの望みが広がるにつれ、世界はかたちづくられていった」
ルカはシオンの言うことを、黙って聞いている。
「……わたしは、ふと思ったんだ。世界をかたちづくるものは、生きる者の望みのほかにもうひとつあるのではないかと。……死者のたましいもまた、世界に融けて、この空と大地を広げてゆくのではないかと……ね」
ルカは、シオンを見つめていた。
その言葉を聞いていると、不思議な気分になる。
いままで、そんなふうに考えたことなどなかったし、そんなふうに言う者を、ルカは知らなかったが、シオンの言葉を聞いていると、ありそうな気がしてくる。
「だからね……わたしは君より先に世界の果てへ逝ってしまうけれど、でも、君に会えなくなってしまうわけじゃ、ない」
ルカの見開かれた瞳を、シオンは覗き込んだ。
金の髪を指で梳いて、笑う。
「気が向いたら、会いに来てくれるだろう?」
「……あたし……長生きするつもりなんだけど……」
「もちろんだよ。永遠でも、待っているから」
「も、もしかしたら……新しい……こいびとが……できてるかも」
「構わないよ。その新しいこいびとには、あとで悔しがってもらうことになるけれど」
「どうして?」
「決まっているさ。君が、わたしに『惚れ直す』からだよ。……使い方はこんな感じでよかったかな?」
ルカから聞いた下街の言葉を使って、シオンが言った。
ルカは一瞬、憮然として、しかしすぐに頬を染めて俯いた。
「ちょっと……悔しいけど。でも、間違いないよ。シオン」
ルカはそこまで言って息を整えた。
声が震えている。
「かならず、会いにいく。あなたが、どこにいても。かならず」
無上の喜びに溢れて、シオンは笑った。
また眠りが近づいているのか、ルカを抱く腕をほどき、横になる。
目を閉じ、ルカの手を握り、
「愛しているよ」
と、シオンは言った。
「……あたしも」
その囁きに、シオンが微笑む。
そして、浅い寝息をたてて眠りに就いた。
美しい月明かりの下。
ルカは膝を抱え、声を殺して、泣いた。
*
二日後
エルザス前公爵シオンは、その妻ルカ、その娘リナ、ライラの見守るなか、塵に還った。
享年八八十歳。
十日後、故人の遺志に従い、生前ごく親しかった者たちのみの告別式が行われ、次いで、その二日後、エルザス公爵リナを喪主とし、葬儀が行われた。
墓標はもうけられず、これも故人の遺志により、その塵は湖に流された。
黒鳥の城を、墓標とするかのように。
水に流れてゆく故人の身体を見送りながら、ルカが呟いた言葉を、妹のリナは聞き、のちに書き留めている。
「どこへでも、好きなところにおゆきよ。川を流れて海の向こうでもいいし、雨になって遠い大地に降り注いでもいいよ。いつか、あたしもそこへいくから。……待っていて」
姉は、涙を見せることなく鮮やかに微笑んで、そう呟いた……と。
*
エルザス公爵領に、服喪の告知がなされた。
これは故人の遺志ではなく、リナの意向によるものである。
期間は約一年。
創世の記念祭の前夜まで。
長い年月、爵位にあった者に対する服喪の期間としては、異例の短さであった。
故人は、領民におのれのために喪に服することを望まなかったのである。
エルザス領の民は、この告知によって、はじめてシオンの死を知った。
*
一年後、喪の明けた年の春。
創世の記念祭にパジェルを訪れたひとびとは、めいめいに持ち寄った花を黒鳥の城の聳えるバシ湖湖畔に投げ入れ、かつての城主シオンを哀悼し、愛するひとを失ったその妻の哀しみを想った。
ひとびとが投げ入れた花に埋もれた湖は、さながら、ふたりの婚姻の日を想わせるよう、花の香りに満ちていたという。
*
この年より、誰が言い出すともなく、エルザス領パジェルにて行われる創世の記念祭を、
『花祭』
そう呼び慣わすこととなる。
長い物語にお付き合いいただき、ありがとうございました。
ご感想などいただけましたら幸いです。




