Chapter11『腕環』
談合も成ったしあとは結末に向けて道なりに進むだけ……の回。
Chapter11『腕環』
いちにちなど、いつもはすぐに過ぎていく。
たくさんの厭なことと、ほんのちょっぴりのいいことをいっしょくたに『きのう』へ押し流して。
それがルカの毎日だった。
この城に来てからも、いいことの分量が増えただけで変わらなかった。
でも、なんて『きょう』は長いんだろう……。
ルカが公爵の寝室でティータに起こされてから、半日。
いまは自分のために設えられた部屋に戻っている。
ティータはパジェル市街の自分の家へ帰ってしまった。
また明日の昼前には顔を出すと言ってくれているが、いまはいない。
ティータのおしゃべりを聞いていると、気が休まったのだが。
彼女が帰ってしまってから、時間はますますゆっくりと過ぎている。
夕食のあと、侍女に入浴を促されて浴室へ行ったほかは、ティータが帰ってからずっと、ルカは窓辺の椅子に腰掛けて空を見上げていた。
窓から見上げる月は、青の月。
中天にある。
もう眠ったほうがいい。
眠れるかどうか、ルカには自信がなかったが。
こんなときリナがいてくれたら。
と、心細く思う。
ふくれていても、拗ねていても、顔を見ているだけで安心していられる。
でも、あたし、なにが不安なんだろう?
べつに、なんにも不安なことなんてないのに。
もう、ひもじい思いをしなくてもいいし泣きたいのを我慢して身体を売らなくてもいい。
おかしな奴らに追いかけられることもないし、どこへ行っても蔑まれる、なんてことだって、きっとない。
リナは、そのうち公爵さまになって、あたしは……。
シオンの、こいびと?
ほんとうに?
首筋の傷が、甘く痛む。
いまは衣装の襟に隠されて見えない。
シオンの優しい囁きが、耳に甦る。
あたし、どうしてこんなに切ないんだろう……。
*
部屋の扉を叩く音がした。
一瞬、シオンかも知れない、と胸が高鳴る。
きょうはいちにち王都だっていうことだけど、でも。
慌てて椅子を立って扉を開くと、侍従が礼を執っていた。
落胆。
「お休みのところ恐れ入ります」
ルカの気も知らぬげに、侍従が言った。
「ルカさま。公爵閣下が面会を求めておられます。よろしゅうございますか?」
不意打ちだった。
ルカは自分が侍従にどう答えたか、よく憶えていない。
侍従は、あわてふためくルカの姿に顔色ひとつ変えず、
「かしこまりました」
と、出ていった。
シオンが来る。
ルカの頭は真っ白になった。
今夜は帰ってこないと思っていたのに。
みなりはきちんとしているだろうか?
入浴のあと、また、みんなが世話を焼いてくれたけど。
あたし、どっか、おかしくない?
鏡を覗き込む。
たぶん、いつものとおりのルカ・トールだ。
ここ三日ほどいい食事を摂っていることで、痩せぎすの腕がこころなしかすこしふっくらとしてきたかもしれない。
髪はしっとりと輝いて、ふわりと肩に載っている。
青い瞳は不安でいっぱいだが、同時に嬉しさと期待に輝いて、澄んでいる。
血の気のなかった唇は、この半日でだいぶん元に戻っている。
肌は、まだいくぶん、青ざめてはいたけれど。
紅でも、差しておくべきだったろうか。
シオンが心配しないように。
ほんの……ちょっとだけ。
「ルカ、気分はどうだい?」
扉のほうから掛けられた声に、ルカは思わず後退さった。
今回は、蛙のような引きつった声をあげなかっただけ、ましだ。
「驚かさないようにと思って使いをたてたのだけれど。どうやら効果がなかったようだね」
おそるおそる扉のほうを振り向くと、花のような微笑を頬に、シオンが立っていた。
シオンの背後に何故かライラと、あろうことかリナまで控えている。
ライラは無表情。
リナは……微笑んでいる。
頬を上気させ、姉を見つめている。
「彼女たちは……ちょっとした立会人のようなものだから。気にしないで」
シオンが、ルカに歩み寄った。
右手を背後に隠しながら、左手でルカの頬に触れる。
「眩暈は、酷くないかい?」
ルカは頷いた。
「今朝、青ざめて眠っている君を、ひとりにしてしまうのは、こころが痛んだのだけれど。血が足りないのも病気のひとつだからね。心細かったろう? 済まなかったね」
「起きてから、ずっとティータがいてくれたんだ。それに……あたしさ、結構、丈夫だし。だから……だ、大丈夫だよ?」
シオンが触れている頬が、熱くなる。
「ありがとう」
と、シオン。
軽く頬にくちづける。
ルカは、ほんとうに頭のなかが白くなった。
扉の前で居心地わるそうにしているふたりの姿も、目に入らない。
おかげでシオンの次の言葉も、危うく聞き逃すところだった。
「ルカ。君に贈りたいものがあるんだ。是非、受け取ってほしいのだけれど」
と、シオンがルカに囁いた。
「手を、出してくれないかな」
ルカはシオンの顔と自分の手を交互に見遣りながら、右手を出した。
「あたし、なんにもいらないよ? 贈り物なんて……」
シオンの指先が、唇に触れる。
ルカは言葉を失った。
シオンが背後に隠し持っていたものを素早く取り出し、ルカの腕にはめた。
柳の枝を編んだ、腕環。
濃い木の香りがする。
「リナに作り方をきいて、作ってみたのだけれどね。自分がこんなに不器用だとは、思ってもみなかった」
たくさんの枝を使ってきっちりと編み込まれたその腕環は、すこしだけ、かたちが歪んでいた。
「君がいちばん喜んでくれる方法だと思ったのでね」
森の民の娘が、青年から結婚の申し込みにもらうもの。
ルカの母親もまた、異族の青年からもらい……そして死ぬまで大切にしていた腕環。
「結婚して欲しい。ルカ。わたしの命はそう長くはないけれども、それでも、この命のある限りは、わたしは君とともにあることを誓う」
シオンは、ルカに跪いた。
「シ……オン? ……うそ……」
自分ではどうしようもないほど、足に力が入らなくなって、すとん、と、ルカは絨毯の敷き詰められた床に座り込んだ。
*
化粧台の椅子に腰掛けさせてもらって、ルカはぼんやりと部屋を眺めていた。
ライラが手回しよく持ってきてくれた冷たい水を飲み干す。
すこしだけ落ち着いた気がする。
ルカの右手は、さっきからずっとシオンの手のひらに包まれている。
座り込んでしまって、しばらく経つ。
シオンはなにも言わず、ルカの落ち着くのを待っている。
腕に、柳の腕環の重み。
こいびとに……なれたらいいって、思ってたけど。
と、ルカは思う。
ずっと、シオンのそばにいられたらって、思ってたけど。
嬉しいって、思わなきゃいけないのに。
嬉しいって、ぜったい、思うはずなのに。
どうして、悲しいんだろう。
どうして、こんなに不安なんだろう。
「シオン」
ルカが、呟いた。
シオンに取られた手から、シオンの気持ちが伝わってくる。
これいじょうないほど、ルカは自分が求められているのを感じていた。
「あたしは下街の生まれで、シオンとは……その、ぜんぜん、釣り合わないよ」
「わたしにはそんなこと、どうでもいいことなのだけれどね。君がきっと気にするだろうから、ちょっと考えたことがあるんだ。気に入ってくれるか、分からないけれど」
シオンが言った。
ルカに水を手渡してから、また扉の前に控えていたライラが、シオンの言葉のあとを受ける。
「ルカさまがお望みになられましたなら、貴女さまは国王陛下のご息女として、当公爵家にお輿入れなさられることになっております。……閣下が陛下とどのようなお話し合いをなさったのか、わたくし、存じ上げませんが」
ライラの顔には、話し合いの顛末など怖ろしすぎて知りたくもない、と、はっきり書かれてあったが、それに気づいたのは、シオンだけだったろう。
「もちろん、君が祈族になんかなりたくないと言うなら、いまのままでいいんだ。わたしは君と一緒になりたいだけだから」
自分が国王の血族になる、ということは、ルカには現実感がなかった。
シオンの妻になる、ということですら夢のような話だ。
国王の娘になるということが、いったいどういうことなのか、まるでぴんとこない。
「でも、外面が変わったって、中身、変わんないよ。あたし、バカだし。字だって読めないし、なんにもできないんだよ? シオンのお嫁さんだなんて、向いてないよ」
ルカの顔色は冴えない。
自分自身ですら理由の分からない、胸のつかえ。
「君は愚かではないよ。字はこれから憶えればいい。わたしが教えてあげる。ねえ、ルカ? 君はわたしのこいびとになってくれるんだろう? わたしは君がいいんだよ」
穏やかな声で、宥めるようにシオンが言った。
「こ、こいびとと……お嫁さんは、違う……ような気がする。それに……あたし……」
ルカが涙ぐんだ。
抑えようのない感情に、涙が溢れ、幾筋も頬を伝う。
「あたし、街娼だったんだ」
こころの底の澱を吐き出すように、ルカが言った。
「知っているよ」
と、シオン。
両手に包んだルカの手に、そっとちからを込める。
「けれど……ルカ」
「最低じゃないか! 好きでもない男に、はした金で抱かれて、それで喰ってたんだ。あたしは……汚いよ」
リナが、息を呑む。
幽かな、嗚咽。
リナがいまの言葉をどう聴いたか、ルカにはすぐさま分かった。
言う前から、分かっていた。
それでも、ルカは溢れてくる言葉を抑えられなかった。
「遊びの相手ならあたしでもじゅうぶんだけど、でも、もうどうしたって、あたしはシオンにふさわしくなれないんだ!」
そうだったのか、と、こころのどこかで思う。
なぜだか、ずっと不安だったのは、そういうことだったんだ。
たいしたことじゃないって、誰でもやってることだって、平気だって、構わないって、自分でそう、言ったけど。
自分でも、そう思ってたけど。
そう、思おうと、していただけ。
あたしは、自分がどんなに薄汚いか、よく知ってる。
あたしは、シオンにふさわしいひとには、ぜったいになれない。
どんなにあたしがシオンのことを好きだって、シオンがあたしを大切にしてくれたって!
涙が、止まらない。
「ルカ」
シオンが、ルカの身体を抱きしめた。
「わたしはいままで、生きるためにひとの血を奪ってきた。自分の失政で、おおくの者を見殺しにしてきた。その償いはしてきたつもりだけれど、失われた命は、決して戻らない」
涙に惑い俯くルカに、シオンは頬を重ねた。
「でも、それはわたしが祈族であるいじょう、公爵であるいじょう、どうしようもないことだった。君が自分の境遇に逆らえなかったように。わたしは、君と同じなんだ。違いなど、なにひとつありはしない! 分かるだろう?」
シオンの言葉は、懇願に近かった。
「君はわたしに、楽しくやろう、そう言った。エルザスの名に屈するばかりではない生き方を示してくれた。わたしは自分がやってみたかったことをしてみる積もりだ。なにもかも、自分の思うとおりに! だから、ルカ。わたしのことを嫌わないなら、わたしの望みをきいて欲しい。わたしの、こころからの望みを。……お願いだ」
シオンの腕は、きのうとおなじに優しい。
その腕が、ルカに甘い戦慄と安らぎを与えてくれる。
あたしは……信じていいんだろうか?
いまは駄目でも、いつか、シオンの優しさにふさわしいくらい、きれいになれるだろうか?
信じても?
あたしは……。
「ルカさま」
肩に、そっと手が添えられた。
いつのまにかライラがそばに立っていた。
リナも。
シオンが、ルカを解放した。
ルカは、ライラを見上げた。
眼鏡のしたから、目頭を押さえている。
「わたくしからも、伏してお願い申し上げますわ。ただでさえ忙しいのに、どうか、わたくしに失恋で涙に暮れる公爵閣下のお守りなど、お命じになりませんよう」
瞳孔のない美しい琥珀の瞳には、たとえようのない凄みがあった。
ルカの答えによっては、有無を言わさず石化してしまう……とでも決意しているかのような、迫力がある。
睨まれて、ルカは思わず頷いてしまう。
リナが抱きついてきた。
嗚咽の止まらない声で、姉に囁く。
「姉さん、わたし、ハルセリで占ったわ。すべてが、変わるの。ね? なにもかも、変わるの。姉さんの、言った通りよ。わたしは、正しいのよ……」
ルカは頷いた。
妹の背をさすりながら、素直な気持ちで。
「ところで……ルカ?」
シオンがルカのおとがいを指で支えて、自分のほうへ振り向かせた。
「わたしは、さきほどから君の返事を待って、胸の鼓動が早くて落ち着かないのだけれど。返事を、いただけないかな?」
リナが、そっと身を退いた。
ルカは、おぼつかない足取りで立ち上がる。
躊躇いがちに、シオンを見つめる。
「も、もいちどだけ、い、言ってくれないかな? 答えるから」
頭に血が昇って、くらくらする。
長い耳の先まで熱をもっている。
「結婚、して欲しい。ルカ」
シオンが言った。
ルカは、昔、母親がしていたように、柳の腕環にそっと唇を寄せてシオンの胸に身を預ける。
「あたしなんかで、いいって言うなら。シオン」
濃い木の香りに胸を詰まらせて、ルカは答えた。
「ひとは自分の境遇に逆らえない」
もちろん自分の境遇に逆らい、なにかを手に入れるひとはいますが。




