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筆耕硯恋

作者: 千葉岬

 一年前の二十三歳の誕生日、両親が交通事故で亡くなった。

 一人っ子だった私は今、両親が残してくれた莫大な遺産を食い潰しながら生活している。

 あまりにも多くの財を一度に手に入れてしまった私はそこで、働くことを放棄した。

 これといって、やりたい事があったからというわけではない。

 『働いたら負け』なんて言葉を鵜呑みにしたわけでもない。

 元々人付き合いが得意ではなかったので、嫌なことから逃げてきた、といったところだ。

 それからは、以前から趣味にしていた執筆活動を毎日飽きもせず行い、つらつらと物語を綴っている。

 一つ間違えれば社会不適合者でしかない堕落した生活を送っているということだ。

 それに伴って、家事や掃除など家の中の事を自分で片付けなければならなくなってしまった。

 今まで一人暮らしなんてしたこともなく母親に頼りっきりだったので、やり方が何も分からず困り果てていた。

 そこで、金に物を言わせて、自身が運営している小説投稿サイトに『家事手伝い急募。条件応相談』と、ダメもとで告知を出すことにした。雇用条件等なにも書いていない、いかにも怪しい感じではあったのだが……。

 しかし、募集してから暫くすると一件だけ応募があった。

 それが「楓」という名前の女性。

 彼女が初めて家に来た時の事はよく覚えている。


 都心から少し離れた場所にある我が家は、所々傷んではいるがまだまだ現役の日本家屋。

 二階建ての瓦屋根で、柱には檜の管材が使用されている。全部屋和室になっていて、寝転がるとイグサの香りが鼻をくすぐる。様々な種類の花々が我先にと競い合うように咲いている庭の縁側には、雌猫が我が家の第二の住人として居候中。

 そんな古臭い所に、大きめの帽子を被った妙齢の美人が鞄一つだけ持って現れた時は驚いた。

 応募があった時に、とりあえず一丁前に面接でもしてみようかと時間と場所だけをメールで伝えてはいたが、まさか本当にそんな怪しい勧誘に来るとは思っていなかったからだ。

 当然、人を饗すような準備など一切していない。居間を片付ける時間を稼ぐ為に、庭にいる寂しがり屋の猫と遊んでやってくれ、なんて訳の分からないお願いをしてしまった。

 急いで自室に戻り、少しでも清潔感を出そうと洗濯済みの同じ柄の和服に着替える。

 少し穴は空いているが、問題ない。

 両目が隠れるほどに伸びている前髪を真ん中より少し右の所で分け、手ぐしで梳かす。

 お茶は冷蔵庫に入っていた市販の物をなるべく綺麗なコップに注ぎ、スナック菓子などを適当に皿に盛り付けて出す始末。

 なんとか客を通せるぐらいに居間を掃除し終えて客人を呼びに行くと、彼女は縁側に腰を下ろしていて、膝の上には居候が寝息をたてていた。

 動物に嫉妬してしまう自分が少し悔しかったが、風になびく長い黒髪を押さえながら、もう片方の手で猫の頭を撫でているその姿は『母性』というタイトルの一枚の絵画のようだった。

 あまりの美しさに言葉を発することが出来なくなってその場に立ち尽くしてしまっていると、彼女がこちらに気付き頬を緩ませ小さく笑みをこぼした。

 ハッとした私は、彼女に見惚れていたことがバレてしまったのではないかと、顔でお湯が沸かせられるほどの恥ずかしさを覚え、俯きながら部屋の中へ案内した。

 テーブルに向かい合うように座って、とりあえず落ち着こうとお茶に手を伸ばすものの、震える手が言うことを聞かずに滑って溢しそうになる。

 出迎えている私の方が緊張しているのが伝わったのか、彼女から話を切り出した。

「具体的には、どういったお仕事をするのでしょうか?」

 落ち着いた透明感のある声が、私の固まった身体をほぐす。

 おかげで、多少つっかえながらも顔の下にくっついている赤い芋虫をなんとか動かすことが出来た。

 基本的には私の身の回りの世話をして欲しいことを伝え、一日三食の料理と掃除、洗濯その他もろもろ、ほとんどが雑務。やることがない時は一度私に聞いて、それでも仕事がなければ好きなことをしていて構わない。

 一週間のうち五日勤務で固定給+歩合制。

 なぜ時給制をとらないのかと言われたら、それは単純に私が好きではないからだと答えるだろう。

 時給と言うものは目に見えて分かりやすいが、時と場合によって良し悪しがある。私はやはり、成し遂げた仕事の成果に対してお金を払いたい。

 もちろん、それだけだとあまりにも不安定なので、ある程度の固定された給料は毎月きちんと支払う。

 実際に社会で働いていないくせに何を偉そうにと思うかもしれないが、今回は私が雇い主だからな。偏った条件になるのは致し方ないことだ。

 給料日はとりあえず二十五日で手渡し。保険なんかは正直私もよく分かっていないので自分でやって欲しい。

 それらの事を伝えると、彼女は右手を口元にあてて少し考えたあと、思いがけない質問をした。

「住み込みで……と言うことは可能でしょうか?」

 住み込み? 家に泊まって働くということか。

 確かに条件は応相談と書いてはいたが、まさかそんなことを要求してくるとは思わなかった。

 家政婦とは言っても、最近は通いがほとんどだと聞いていたからだ。

 まぁでも、うちは部屋ならたくさん余っているし、二階にはもう一つトイレもある。二人で住んだとしてもまだ使い切れないほど広い。けれど、そういうことではない。

「この家には、私と猫しか住んでいませんよ?」

 あとは両親の仏壇ぐらいか。

「構いません」

「家の周りは自然ばかりで、お隣さん家までは少し歩かなければ辿り着きません」

「大丈夫です」

 彼女は力強くそう答えたが、私の意図したことはちゃんと伝わったのだろうか。

 若い男の家に若い女が泊まり込む。それがどう言うことかは、一般的な人間関係を築き上げている人だったら分かるはずだろう。ましてや私の前にいるのは、少なからず今まで私がすれ違ってきた女性の中でもとびきりの美貌を持つ人だ。

 胸まである長くて柔らかそうな髪。大きな瞳に真っ直ぐ通った鼻筋。口は小ぶりだけれど、唇が赤みを帯びていて妖艶さを醸し出している。

 真っ直ぐ綺麗に背筋を伸ばし、両手の先を膝の上で少し交差させて正座している姿は凛としていて、品の良さが感じとれる。

 そんな彼女なら、世の男性からは引く手数多のはずだろう。それとも逆に、男の扱いに慣れているから対処法も心得ているということなのだろうか。

 しかしどちらにしろ、人手が欲しい事に代わりはない。わざわざここまで訪ねてきてくれた唯一の志願者を無下に断ってしまうのも居心地が悪い。

 男女の違いがもたらす不具合なんかは、きちんとルールを決めてやればなんとかなるだろう。

 どうせ普段の私は、ここでパソコンに向かって物語を綴っているぐらいなのだから。

「分かりました。では、いつから来れますか?」

「今日からでも」

 そう言った彼女の瞳には、生きる事への執着心が宿っているように見えた。

 今日からとは言っても、そちらのご家族の都合など色々あるだろうに。

 そう聞こうとして口を開いたが、肺から押し出された空気は声帯を震わせる事なく鼻から抜けていった。

 彼女は一心に私の目を見つめている。野暮な事は聞くなと言う壁を作っていたわけではなく、何を言われても意思は曲げないという芯の強さみたいなものが私の体の奥まで届いた。

 込み入った事情はこれから少しづつ知って行けばいいか。なんだかこの女性とは長い付き合いになりそうな気がするからな。いや、正直に言うと、私がそう望んでいるのかもしれない。

 それからは、二人で一緒に住む上で変な気を使わないよう決まりごとを話し合った。

 細かい事をたくさん決めたけれど、一番強調した所が一つだけある。家を出る時と帰ってきた時、朝起きた時と夜寝る時のあいさつは、どんな時でも必ず言う事。

 なぜこんなことを明確に決め事とするかというと、同じ家に住むのだ、互いに虫の居所の悪い時だってあるだろう。

 そんな時に一言も会話がないというのは負の循環しか生み出さない。

 挨拶をきっかけに感情を読み取り、相手を自分の鏡として捉えることで醜さを知って、態度を改める事が出来るからだ。


 というのが二ヶ月ほど前の事で、今現在楓さんは何のトラブルもなく私の家で住み込みの家政婦として働いている。

 話を現在に戻すとしよう。


「楓さん、今日はありがとう」

 自宅の玄関を出た所で、見送りに来ていた彼女にお礼を言った。

 この時私は、友人から急な飲み会の誘いを受けて夕方から出かけることになってしまっていた。その間の留守を任せたくて、休みをとっていた彼女を無理矢理呼び戻した所だ。

 家に誰もいないと、居候の猫が好き勝手荒らし回ってしまうからな。

「気になさらないで下さい。私の用事はもうほとんど終わっていましたから。ちょうど、どうやって時間を潰そうか悩んでいたところです」

「そう言ってくれると助かります。あまり遅くならない様にするから」

 一次会は行くけど二次会は行かない。なんとも最近の若者らしい。

「いってらっしゃい。楽しんで来て下さい」

「いってきます」

 彼女に玄関で見送られるといつも感じるのは、自分で言うのもなんだが夫婦のようだ。

 私が角を曲がって見えなくなるまでずっと手を振ってくれていた。


 家からバス停まではそれほど遠くなく、大通りに出てすぐの所にある。一直線で最寄り駅に向かってくれる為、街に出るまで時間はかからない。

 この利便性も私が家を離れない理由の一つにある。

 バスから降りると足早に改札へ向かう。普段電車に乗る機会なんてほとんどないくせに、電子切符の自動入金機能を存分に活かして止まることなく進んで行く。しっかりと黄色い線の内側で電車が来るのを待ち、二駅分だからと座席には座らずドアのそばに立った。目的地までの数分を、変わらない景色をただ漠然と眺めながら待ち続けた。

 この辺りは数十年前まで一面田んぼしかなかったと母に聞いたことがある。しかし今はそんな風情もどこ吹く風、駅の周りはビルだらけだ。というか、実際にその時代を過ごしていない私にとって、ここに稲が生えていたと言われてもいまいち実感がわかない。駅に着くと、その感覚はいっそう増す。

 人混みに若干の煩わしさを感じながら改札を出ると、待ち合わせ時間までまだ少し時間がある。

 とりあえず駅のシンボルになっている銅像の前で待つとするか。

 裸の女性が鳥と戯れている様を表現したかったのだろうが、いかんせん、こういったものに一切の芸術性を感じることが出来ないのはなぜなのだろうか。

 有名な海外の画家の絵を見てもただの落書きにしか見えない私には辿り着けない境地ということなのだろうか。

 それとも、とりあえず何か目印になるものであればなんでもいいと、適当にこしらえたのか。

 前者でも後者でも別にどちらでもいいのだが、物書きの小生としては後者を願った方がいいのだろう。

 どうせならもっとエロスを追求してくれたら良かったのにと、ベンチに座って煩悩にふけっていると、隣にいるサラリーマン風の男性のタバコの煙が私の方へ流れてきた。

 私はタバコが嫌いだ。

 こういう時、喫煙者は迷わずポケットに手を突っ込み、白い紙で巻かれた葉っぱを口に咥え、空いている手で風をよけながら火打ち石を鳴らすのだろう。

 そんなことをしたら、せっかく楓さんが洗ってくれて良い匂いのする洋服がタバコの臭いに消されてしまう。

 ふとした時ほのかに香る彼女の優しさを感じて、離れていても私達は繋がっていると実感するのだ。

 匂いといえば、楓さんが来てから家の匂いが変わった気がする。

 今まで自分の匂いなんて意識しても分からなかったが、家に帰って玄関を開けると、自分とは違った香りがするようになった。

 それは決して不快感のあるようなものではない。鼻から入った空気が脳の奥底にある記憶を掘り起こし、どこか懐かしいような気分にさせてくれるのだ。

 さて、そろそろ頃合いだろうと開いていたスマホをポケットにしまうと、前方から尖った靴を履いた男が近づいてきた。

「よっ相変わらず難しい顔してるなぁお前。そんなんじゃ美人が逃げていっちゃうぞ?」

 この茶髪で細マッチョの青年が今回私を誘った友人、圭佑だ。

 私は小さい頃から、何かを考えている時は眉間にシワをよせてしかめっ面になる癖がある。そのせいで周りには、常に不機嫌な奴という印象を与えてしまっているらしい。

「君こそ相変わらずだな。今は何人の女性と付き合っているんだい?」

 おもむろに立ち上がると、圭佑が拳を突き出してきたので私もそれに従い右手を出して拳同士を突き合わせた。私達だけの挨拶みたいなものだ。

「ん〜? そんなの数えたことないなぁ。俺は常に全力で女性を愛している!」

 こいつの感性はどうにも私には分からない。以前から多くの女性と関わりを持っているので本命は誰なのかと尋ねると、全員がそうだと言う。全ての女性に平等な愛を注ぎ、平等に育んでいく。そこに浮ついた感情は一切ないらしい。

 常に確固たる信念を持って行動し、容姿も男から見ても認めざるをえない上等なものであることから、女性側からは大層魅力的に映るらしい。

 私とは真逆の性格を持つこいつとなぜ仲が良いのかと言われたら、私自身甚だ疑問である。あえてきっかけを挙げるとするならばそれは、大学時代まで遡ることになる。

 まぁその話はまた今度にしよう。

「今日は人数少ないのかい?」

「いや、今回は少し多いよ。いつもの奴らと、他にもお前が知らない人が何人かいるな」

「あんまり人が多いのは気が引けるな」

「だ〜いじょうぶだって、いつも通り俺が隣にいてやるから」

 ポンポンと肩を叩かれた。

「それならいいんだが」

 男同士の友情に異常なまでの魅力を感じてしまう人達は、今の会話だけでも色々想像してしまうのだろうか。

 強く言っておく。私は同性愛者ではない。

 他愛もない会話を繰り広げながら暫く歓楽街の方へ歩いて行くと、圭佑は目の前の建物を指差した。

「ほら、ここだよ」

 そこはなんの変哲もない雑居ビルの中の一つで、入口がどこかの事務所に繋がっていそうな怪しくて少し狭い場所だった。

「ここ結構穴場でさ、酒も旨いし、なにより店員のお姉さんがけっこう美人なんだよ」

 以前からこいつはこういう隠れ家的な場所を見つけるのが得意だった。

 大学の時に連れて行かれたとあるバーでは、入り口に門番がいた。黒いスーツを着たガタイの良い男が二人、扉の前に立っていて、中に入る人は全てチェックされる。さすがに怖くなった私は、何度も本当にここで合っているのかと確認したが、大丈夫の一点張り。

 実際には中はとても雰囲気のいいお店で、店長も気さくな良い人だったのだが。

 入り口のガードマンは危ない人を中に入れない為の措置だそうだ。

 そんなことが多々あったお陰で、ある程度のことでは驚かない耐性が付いた。

 気負うことなく、あまり掃除のされていない階段を登り、『星の酒』と書かれた赤いのれんをくぐると、平日だというのに意外と多くの客がみられた。

 予約してある事を店員に伝えると奥の方の座敷に通される。

 私は圭佑の背中に隠れるように付いて行くと、他の人達は既に飲み始めているようだった。

 席に着いた私はビールをひたすら頼んで、酔いが回るまでしばらくの間飲み続けた。こういう場所だと、どうも素面でいると塞ぎこんでしまう性質なのでな。

 周りが良い感じに出来上がって来た頃、空いていた私の右隣の席に、今風の肉食系な女性が座った。

「お兄さんおとなしいじゃない。具合でも悪いの?」

 ビールの入った大ジョッキを片手に、赤らめた顔を近づけて絡んでくる。

「あっいや、そういうわけではないです」

「なんで敬語〜? 同い年なんだからタメ口でいいよ〜」

 大げさに笑い声を上げる女。同い年ってなんでわかるんだ。私たちは今初めて会ったばかりだろう。

「ごめんなぁ、こいつ人見知りでさ。優しくしてやってくれよ」

 対処に困っていた私を見かねた圭佑が横から助け舟を出してくれた。

「あはははっ可愛い〜」

 女は右手に持っていたジョッキをテーブルに置きながら、何も持っていない方の手で私の頬を突付いてきた。

「んふふ〜柔らかぁい。ちょっとここで寝かせて〜」

「うぇ!?」

 とっさに変な声が出てしまった。女はそのまま私にもたれかかってきて、私の太ももに頭を乗せて寝息を立て始めた。

「おーやるなぁ。もう一人ゲット?」

「やめてくれ」

 とは言いつつも、心の中では小さい私が力強くガッツポーズをしている。素肌を多く晒している女子が股の前に顔を埋めているなんて、こんなおいしい状況そうそうない。

 暑くなって上着を脱いだのか、服がはだけて胸元が見えそうになっていた。

 据え膳食わぬは漢の恥。

 他の人にバレないよう女の胸に和服の袖を被せると、もう片方の手で隠した袖の下をまさぐる。

 お目当ての肉スライムに手のひらが出会うと、まずは目標の酩酊度を計る為に事故であったと言い訳できるぐらいに優しく撫で回す。

「う……ん」

 第一段階クリア。

 小さく喘いだものの抵抗の動きはない。どうやら目標は深い眠りに入っている模様。

 次の作戦は風船の掴み取りだ。

 小さい頃に体験したアメ玉の掴みどりとよく似ている。箱に入ったアメを手から零さぬよう強く、それでいて包み込むように掴む。

 あの頃の感覚を思い出しながら、私の右手は風船を割らないように小指から順番に力を込めていく。そして揉みしだく。

「あっ……」

 第二段階クリア。感度良好。

 最終段階、ヘッドハンティングに移る。

 優秀な人材というのは何時の時代も欲しがられるものだ。

 小指、薬指、中指は手の平を利用して支えるように。親指と人差指で対象を摘み上げる。

 徐々に力を強くして、動作を一瞬止めた後、一気に握りしめた。

「いっ……! ぁっ!!」

 肉女の体が小さく揺れた。

 作戦終了。帰還します。

 兵隊の無事を喜び右手で頬ずりしている所に、圭佑が話しかけてきた。

「最近どうなの? 少し前に親御さんが亡くなったって連絡来たけど、今はあの家に一人で住んでるんだろ?」

「まぁ厳密に言うと一人ではないのだが」

「あぁ、猫も一緒に住んでるんだっけ。しかしお前、もし雌だったとしてもそれはダメだろ」

 何のことだ。動物に発情するわけ無いだろう。

「いや、家政婦を雇ったんだ」

「へー、確かにずぼらなお前にはそれが得策かもな」

「うむ。住み込みで働いてもらっている」

「それはまた……どんな人なんだ?」

 圭佑は残り少ないビールを口に含んだ。

「若い女性でな、身なりもしっかりしてるし、仕事も正確にテキパキとこなす素晴らしい人だ」

「二十代で仕事が出来てグラマラスなのに清純そうでどことなく哀しみを背負っていそうな美女!?」

 そこまで言ってない。汚いから早く噴いたものを拭け。

「妄想猛々しいな」

「いや、お前が人を褒めるなんて滅多にないからなぁ。それってつまり、そういうことなのか?」

 こいつは何か勘違いしているようだが、楓さんと私は決してやましい関係ではない。

「違う。雇う側と雇われる側、ただそれだけだ」

「そうは言ってもなぁ、若い男と女が一つ屋根の下で暮らしてるわけだろう? そりゃあお前、なんにもない方がおかしいだろうよ……」

 楓さんがお前と同じ感覚で生きていると決め付けるんじゃない。いつでもどこでも発情してるお前とは違うんだよ。

 圭佑はブツブツと何か一人で問答し始めてしまったので、しかたなく私は膝の上に寝ている雌猫をいじりながら酒を啜っていた。

 すると、急に何かを思いついたのか、ポンと掌を叩いた。

「なぁ! 今度その人に会わせて……」

「嫌だ」

 なんとなくそう言われる気がしていた。万が一にも楓さんがお前の毒牙にかかることはないにしても、少しでも危険があるならば排除しておかなければ。

「そんな事言わないでさ、減るもんじゃないし」

 こいつはきっと、誰にでもそういう事を言って手を出しているのだろう。

「相変わらずお前の手の早さは一級品だな」

「まぁまぁそう固いこと言わずに、ほら、飲め飲め」

 いつの間にか置かれていた新しいジョッキが私に手渡されて、グラスの底を持ち上げられて無理やり飲まされた。

 それから先は正直あまり覚えていない。酒に強いわけでもないくせに、勧められるまま飲み続けた。酔いつぶれて後悔するのは昔からだ。


     ◆


「先生、そろそろ起きてください」

 金具が擦れる音がしたかと思うと、瞼の向こう側の明度が上がったのを感じた。

「眩しい……」

 何度も眼を開け閉めして、やっとのことで明かりが差し込んでくる方を向くと、そこには楓さんが腰に手を当てて仁王立ちしていた。

「今日は天気が良いのでお布団を干しますよ」

 良い水色だ。そうか、私は眠っていたのか。

 見慣れた天井と心地よい柔らかさの布団が身体を包んでいるのを感じると、自分の置かれた状況を理解するのにさほど時間はかからなかった。

 昨日家に帰ってきた時のことはなにも覚えていないが、きちんと寝間着に着替えているあたり、彼女が介抱してくれたのだろう。

 病人のようにゆっくりと身体を起こすと、頭の奥に鈍い痛みを感じた。

「おはよう……」

「おはようございます」

 段々と意識がはっきりしていくにつれて、胃の中がいつもと反対に動き回り始めた。

「……気持ち悪い……」

「テーブルの上に朝食と一緒にお薬置いてありますから、それ飲んで元気出してください」

「ありがとうございます……」

 胃の辺りを押さえながら壁づたいに手を付いて居間に向かった。

 そこには温かい白飯としじみの味噌汁、梅干しと納豆、胃薬が用意されていた。

 あぐらをかいて座布団の上に座る。

「いただきます……」

 二日酔いの時の味噌汁はなぜこんなに美味しいのだろう。身体から抜けきった水分と塩分が染み渡る。

 豆が糸を引かないほどやる気なく納豆を混ぜていると、楓さんが自分の分の食事を持ってやってきた。

 向かい側に座り配膳し終わると、両手を合わせてお辞儀した。

「いただきます」

 正座している姿はいつ見ても凛々しい。仕事中はいつも髪を後ろで一括りに結んでいるので、綺麗なうなじを垣間見ることが出来る。

「昨日はずいぶんとお飲みになられたのですね」

 彼女は梅干しを丁寧にご飯の上でほぐしている。

「友人に乗せられてしまって。あまり覚えていないんだ」

 居酒屋でメス猫がやって来た辺りから、かなり酔っ払っていたような気がする。

「お酒はほどほどにしないと。身体にも周りの人達にも悪いですよ」

「すいません……」

 ちょうど良い所でやめておけばいいものを、どうも調子に乗って失敗してしまう。

「そういえば、昨日ティッシュがなくなっていたのを思い出して、帰りがけに買って来た気がするんですが……」

 彼女が私と同じく納豆をかき混ぜていたので、醤油を取って手渡した。

「ちゃんと持って帰って来てましたよ。そういうのは私の仕事だからやらなくていいのに……でも助かりました。ありがとうございます」

 少しは汚名返上になっただろうか。

「あぁそうだ」

 もう一つ気になったことがあった。

「どうかしました?」

「今日は天気が良いから水色なんですか?」

「はい?」

 首をかしげる彼女。

「いや、空が青いから下着も青なのかと」

 米を口に運ぶ途中で箸が止まる。

「先生」

「はい」

「昨日、女性の方にそう言ったことを聞いていないですよね?」

「ええ、まぁ」

「ならいいです」

 彼女にしてはあまり要領を得ない答えだ。特に怒っているわけでもなさそうだが。

「あと先生、圭佑さんにはちゃんとお礼を言ってくださいね」

「なぜですか?」

 確かに昨日私を誘ったのはあいつだが、なぜここで名前が出てくるのだろう。

「まともに歩けなくなった先生をここまで運んで来てくれたのはあの方なんですよ」

 あぁそういう事か。あいつは男に対しても面倒見の良い奴だからな。今度会った時に欲しがっていた本を持って行ってやるか。

「後で電話しておきます」

「そうしてください」

 高圧的な言い方ではなく、あくまで諭すような彼女の言葉は私を動かす呪文のようなものだ。

 朝食を全て食べ終わった頃、ある事に気付いた。

「楓さん……あいつに会ったんですか?」

「圭佑さんですか? はい。さっきも言ったとおり、先生をここまでおぶってきてくれたのは圭佑さんですよ」

 後悔先に立たず。思わず頭を抱えてテーブルに肘をついた。

 なんということだ。あいつを楓さんに会わせてしまった。今までの人生でこれ程悔やんだことがあっただろうか。

 のけぞって頭をかきむしっていると、彼女は朝食を食べ終えたようだった。

「私、これから少しの間出かけます」

「えっ何か予定でもあるんですか?」

「昨晩、先生を連れてきてもらった時にお礼をさせて下さいと言ったら、翌日一緒にお茶して下さいと言われまして」

 南無三。私の意識がない間に事態は刻々と悪い方向に進んでいるではないか。何か、何か戦況を変えてくれる一手はないものか。

「そういうことなら仕方が無いですね。私が迷惑をかけてしまった分、よろしくお願いします」

「はい」

 ごちそうさまでしたと言うと、楓さんは空になったうつわを片付けて台所へ行ってしまった。

 私は何を言っているのだろうか。思っている事と真逆の言葉が出てしまった。大人な対応をして自分を演出しようとでも言うのか。

 額をテーブルに打ち付けてみても何も変わらず、おでこが腫れるばかり。

 そもそも普段ほとんど人と会話していない私が、気の利いた言葉など咄嗟に出るはずもなかろう。

 なす術もなく一人で悶えていると、化粧と着替えを済ませた楓さんが扉の所までやってきて告げた。

「それじゃあ、行ってきますね」

 どうする。どうする私。まだ間に合う。何かここで彼女を引き止めるような事を言えば、楓さんとあいつを引き会わせなくて済むんだ。

「いってらっしゃい。家の事は心配しないでください。私と猫がいれば大丈夫ですから」

「ありがとうございます」

 私は馬鹿者だ。正真正銘の大馬鹿者だ。この期に及んで出てきた言葉が猫とは一体何事か。

 人として何かが欠落しているとしか思えない。

 楓さんが出て行ったあと、畳の上を何度も転がって足の小指をタンスの角にぶつけた。

 まずは冷静にならなければ状況は改善しない。普段と同じ事をしていれば、自ずと落ち着きも取り戻せよう。

 テーブルの端に追いやられていたノートパソコンを立ち上げ、キーボードに正座で立ち向かった。


『くぁwせdrftgyふじこlp』


 ダメだダメだダメだ。こんな訳の分からない文字の羅列を続けていても意味がない。

 画面酔いでもしたのか、二日酔いが悪化した。

 すぐさまトイレに駆け込み、さっき食べた物を便器の肥やしにしてしまう。

 万策尽きた私は、寝る事で現実逃避する事にした。

 幸い今日は天気がいいので、縁側に横になると暖かくて気持ち良かった。

 傍に居候が近づいてきて丸まっている。

 きっと目を覚ませば世界は元通りになっているはず。

 ゆっくりと瞳を閉じ、考える事をやめた。

 風が木の葉を揺らす音が聞こえる。草と土の匂いが原風景を思い起こさせ、ゆっくりと意識が遠のいていった。



 目を覚ますと、すでに太陽が沈みかける夕暮れ時。

 寝る前よりは少し頭が冷えたようだ。

 布団を干したままだった事に気付いた私は、庭の物干し竿から降ろして家の中へ投げ込む。

 洗濯物が乾いているか触って確認し、畳まずに重ねていく。

 胃の中の違和感も和らいでいて、やることのなくなった私は開きっぱなしになっていたノートパソコンに向かって以前自分が書いたモノを添削し始めた。

 書いている最中はこれ以上面白いモノはこの世に存在しないと意気揚々と筆を進めているのに、一旦時間を置いて生み出したモノを冷静に眺めてみると、私のパソコンに電子のゴミを捨てたのは誰だと言いたくなる。

 自身の見たくない部分を抉り出すようなこの作業に嫌気が差して、書くことをやめてしまおうかと本気で思うこともよくある。

 それでも続けているのは、少ないけれど読者がいてくれるからだ。

 ネットに上げた小説を真剣に読んでくれて評価をくれる。それがどれだけ私を支えているかは計り知れない。多くは批評ばかりだけれど、中には共感してくれて励ましてくれる人もいる。その人達の為にも書き続けなければと、自分を奮いたたせることができるのだ。


 さて、暫く執筆活動に勤しんでいると、外はすっかり暗くなっていた。

 楓さんはもうすぐ帰ってくるだろうか。

 時間が経つに連れて嫌な想像がどんどん膨らんでいく。

 それこそ、この数時間で私を主人公とした悲劇の物語が出来上がってしまうほどに。

 修羅のようなタイピングで書き進めていると、玄関の扉が開いた音がした。

「ただいま戻りました」

 その言葉をどれだけ待っていただろう。飼い主が戻ってきた犬のように飛び上がり、出迎えに行く途中で浮かれている自分が恥ずかしくなった。背筋を伸ばし腕組みをして、いつものしかめっ面で準備万端。

「お帰りなさい。もっとゆっくりしていてもよかったのに」

 この期に及んでまだ言うか、私よ。

「圭佑さんにはもう少しいて欲しいと頼まれたのですが、一応私も仕事中ですので」

 うむ。実に勤勉でよろしい。給料を上げる事も視野に入れよう。

「すぐに夕飯の支度をしますね」

 彼女はそのまま買い物袋を持って台所へ向かった。

 とりあえず楓さんが帰って来てくれただけでも一安心である。

 しかし、あいつに何か変な事をされなかったか聞いておかなければならない。

 焦りは禁物、急いては事を仕損じる。夕飯時にさりげなく尋ねればよい。

 居間に戻って書き物の続きをしているフリをしながら、何か核心を突いて一度に多くの事を聞ける言葉はないものかと画策していた。

 すると、彼女は私の分だけの食事を用意してやってきた。

「先にお風呂に入ってきますね。外をたくさん歩いたら汗をかいてしまって」

 テーブルの上に食事を並べ終えると、そそくさと部屋を後にした。

 これは逆に好機なのではなかろうか。

 あいつのことだ、絶対にケータイの番号を教えているに違いない。

 彼女が風呂に入っている間に着信拒否の設定をしておけば、やつの魔の手から救う事が出来るはずだ。

 我ながらなかなか鋭いことを思いついたと鼻息を荒くしていると、楓さんが風呂の扉を閉める音がした。

 さぁ、この数分が勝負だ。楓さんのケータイを探し出さなければ。

 まずは彼女の部屋だな。普段は何があっても入れない神聖な場所だと思っていたが、人命を救うためだ。盗っ人になるのもやぶさかではない。

 いかんせん年季の入った家屋なので廊下や階段の一部が大きく軋んだ音を鳴らすことがある。足音でバレぬよう忍び足で二階に向かい、部屋のふすまを開けた。

 中は意外と質素なもので、女の子らしいものと言うか、余計な物が何ひとつ置かれていなかった。

 机の上を見渡してもそれらしい物は見当たらない。

 壁にかけてあった上着に手を入れて散々まさぐってみても、ハンカチしか見つけることが出来なかった。あいつの痕跡を調べるために服の匂いを嗅ぐと、彼女の甘い香りがした。うむ。大事には至っていないようだ。

 他に手がかりはないものかとタンスの引き出しを開けると、彼女の下着が綺麗に畳まれて仕舞われていた。

 主に白を基調として、青や桃色などのシンプルな柄のものばかり。その中に一つ、一際目立つ黒いショーツを発見。隠すならここだと、確信した。

 人のタンスを漁っているだけですでに犯罪まがいのことをしているのは間違いないのだが、いかんせん状況が状況。彼女を守るには仕方のないことだ。

 恐る恐る伸ばした手は小刻みに震えている。両手の人差し指と親指で摘み上げると、するすると布が元の形に戻った。逆三角形のそれは、紛れもなく秘密の園を守る最後のカーテンだった。

 自然と顔がそれに向かって近づいていき、鼻先を押し付ける。これだけではわからない。とりあえず被ってみよう。

 クロッチの部分が前に来るようにして横から目を出す。

「変態仮面! クロスアウッ!!」

 言葉は虚しく響き、さすがに寒くなった私は床に脱ぎ捨てた和服に再び袖を通した。

 ここにケータイは隠されていないと確認したら、最初の形にきちんと戻してそっとタンスの引き出しを閉じた。

 この部屋ではないと判断した私は一階に降り、台所へ向かった。

 買い物袋を漁ってみても何も入っておらず、作業用の台の上も綺麗に片付けられていた。

 家中を探し回っても見つからないとするならば、残りは一つしかない。

 風呂場だ。

 女性の入浴中に脱衣所に侵入するなど変態の極みでしかない。

 しかしここは私の家だ。どこにいようが何をしようが私の勝手なはず。

 可及的速やかに事を成し遂げれば問題はない。

 風呂場に近づくに連れて心臓の鼓動が高鳴り、体の中から誰かが私を叩いている。

 物音を立てぬよう脱衣所の扉を少しづつ開けた。

 中に入ると、風呂場から流れてくる熱気が私を襲う。幸い彼女はシャワーを浴びている途中で、忍び寄る音はそれによってかき消されている。

 風呂場の最後の扉はくもりガラス。数十秒見つめた後、三段組になっている棚の上を探した。

 するとどうだろう、真ん中の棚のカゴに赤い色のケータイを見つけた。

 やはりここであったかと手を伸ばすと、一緒に置かれていた服の一番上に下着があることに気付いた。

 今度はさっきのように洗ってあるものとは違い、彼女がつい先程脱いだものだ。きっとまだ温もりも残っているだろう。ハンターとしての衝動に心を揺さぶられながらケータイに手を伸ばす。

 獲物を握り締め、ついに手に入れたと喜ぶのもつかの間、ガラス戸が開いた。

「……先生?」

 痛恨のミス。目の前の敵に踊らされて本陣を疎かにしてしまい、シャワーの音が消えたことに気づかなかった。

 私は今、右手にケータイと下着の両方を掴んでしまっている。

「あ、いや、これは、先程風呂に入ろうと思って準備した時にケータイを忘れてしまって。しかしこれは楓さんの物であったか。そうか、私のはどこにやったかな」

 苦し紛れの言い訳をしてみてもバレバレに違いない。これで今日から私は変態作家に成り下がる事になる。

「……ちょうど良かった、そこに置いてあるシャンプーとってもらえますか?」

 彼女はガラス戸に隠れながら顔と腕だけを出して、何事もなかったかのように私の少し上を指差した。

「えっ? あぁ、こ、これかい? どうぞ」

 ひとつ上の段に置いてあった詰め替え用のシャンプーの袋を、顔を背けながら手渡した。

 私の嘘が通じたのだろうか。

「ありがとうございます。補充しようと思って置いておいたのを忘れてまして」

「そ、そうか、私も使うからな。ありがとう。ではこれにて」

 今すぐにでもその場から消えたかった私は、逃げるように風呂場から出て行こうとする。

「あっ先生、そういえば」

 扉を閉め終わる寸前、彼女が呼び止めた。

「ケータイ、パソコンの横に置いてありましたよ」

 彼女の笑顔が何を意味しているかは定かではない。ありがとうと言って風呂場から立ち去り、手に持っていた下着をそっと懐にしまった。


     ◆


 私が変態のレッテルを貼られそうになったあの夜から一週間ほど経った頃。

「先生、突然で大変申し訳ないのですが、明日はお休みを頂いても宜しいでしょうか?」

 彼女の方から休みが欲しいと言ってくるのは珍しいことだった。

 外せない急用が出来たのだろうと許可を出したのは昨晩の事で、日付が変わった今日。

 なぜ私が一人でコソコソとストーカーのような事をしなければならないのか。

 季節が春から夏に変わって日増しに気温が上がっている。このうだるような暑さの中私は今、物陰に隠れながら双眼鏡を覗いている。

 それも全てやつのせい。

 楓さんの出がけに鳴ったケータイ電話の着信に、圭佑の名前が表示されていたからだ。

 どうやらあいつは楓さんをデートに誘ったらしい。恐れていたことが現実になってしまった。

 以前と同じ轍を踏まぬよう今回は彼女の後を付けて、奴が良からぬことをしでかさないか見張ることにした。


 圭佑は駅に楓さんを呼び出した後、ロータリーに車で乗り付けた。

 真っ黒なセダン。丸いテールランプが四つ付いているのが特徴で、一般的な車より少し太って見える。

 運転席から颯爽と降りて来ると、自ら助手席のドアを開けて楓さんを車の中へ迎え入れた。

 見失ってしまわぬようすぐさま停まっていたタクシーに乗り込むと、前の車を追いかけるように指示を出した。運転手が何かを勘違いしてやたらと興奮していたようだが、まぁ急いでくれているので何も言うまい。

 暫く止まることなく走り続けると、気が付けば赤いレンガの倉庫や中華が有名な街まで来ていた。

 コインパーキングに車を停めた圭佑はまず、食べ物屋がひしめく中華街へと向かった。

 肉まんやハリネズミマン、フカヒレスープにゴマ団子。北京ダックの後はデザートにアイスを食べるという飽食っぷり。全てあいつの奢り。

 もちろん楓さんは自分の分は自分で払うと財布を出しているのだが、奴はそれを強引に阻止している。恩を着せようとでも言うのか。策士め。

 かくいう私は、カタコトな日本語の女性から押し売りされた甘栗を両手の袋一杯に抱えている。

 オニイサン! オイシーヨ! なんて大きな声で叫んでくるもんだから、前を歩く二人に聞こえてバレやしないか冷や汗をかいた。

 楽しそうに色々な場所を巡っている二人を覗き見して、私は一体何をしているのだろうと何度も心が折れそうになる。

 炎天下の中、滴る汗をタオルで拭いペットボトルを何本も空けた。

 二人が場所を移動してショッピングモールに向かったことで脱水症状の危険は回避されたのだが、映画館に入った時はどこからか虚しさが込み上げてきた。

 カップルがひしめく列の中を男一人で並び、見たくもない他人の恋愛に金を払う。チケットを買う時に店員が私を馬鹿にして笑ったような気がした。

 中へ入ると二人は真ん中辺りに座り、私は一番後ろの出入り口と反対側の端に座った。

 初めは隣に誰もいなかったはずなのだが、いつの間にか初老の男性が腰をかけていた。

 これだけ席が空いているのだからもっと良い場所をとればいいのにと思ったが、何かその人なりのこだわりがあるのだろうと詮索するのをやめた。

 映画の内容は、主人公が想いを寄せていた女性が友人に寝取られるという話だ。よくある悲劇の展開で飽きてしまった私は、早く終わらないものかと苛立っていた。

 二時間ほど苦痛に耐え、やっとのことで館内が明るくなると、隣に座っていたはずの老人が消えていた。

 代わりに、椅子の上には甘栗の殻が散乱していた。

 映画館から出ると、二人は洋服屋に足を運んだ。買うつもりのない物を見て何が楽しいんだといつも思う。

 ボロい和服を着た私が最近の若者向けの店にいた時は、店員もひやかしと判断したのか一切話しかけて来なかった。

 さんざん色んな所を歩かされて辿りついた先は、海沿いの公園。

 多くの木々と花壇が所狭しと並べられている。緑の多いこの場所は、カップルのデートスポットで有名な所らしい。

 海に面した通りは手すりのすぐ下を波が打ち付けている。

 すでに辺りは暗くなっていて、遠くに見える船やビルが闇夜を照らす灯台のように光っている。

 二人もまたそれらを見ているかのように、並んで身を乗り出している。

 何かを指さして笑い合ったり、時折吹く強い海風に飛びそうになった楓さんの帽子を圭佑が慌てて押さえる。

 傍から見たら誰もが仲の良い恋人同士だと思うほどお似合いだった。

 ふとした時、圭佑が楓さんの方を向いて何やら真剣な面持ちで話をし始めた。

 海風と距離のせいで、聞き取ることは出来ない。

 圭佑が喋り終えたあと少しの間を置いて、楓さんは小さく頷いた。

 圭佑が飛び上がってガッツポーズをしている所を見ると、何か嬉しいことがあったのだろう。

 楓さんの手をとり車に戻って行くようだったので、私はタクシーを呼び寄せ高速を使って家まで戻った。

 あの二人がこれから帰ると決まったわけではなかったけれど、なんだかその場所にいたくなくなってしまった。

 家に着いて暫くすると楓さんが帰ってきたが、私は何事もなかったかのように物書きにふけっていた。


     ◆


 それから楓さんは、休みの日は頻繁に出かけるようになってしまった。

 行き先は告げず、ただ「行ってきます」と言い残して。

 おそらくは圭佑のところだろう。

 私が疲れて早く寝てしまった夜たまたまトイレに起きると、彼女は居間で誰かと電話をしているようだった。

 楽しそうに喋るその言葉遣いと笑顔は、私に見せるそれとは違っていた。

 二人の間に何か変化があったことは、いくら鈍い私でもわかる。きっかけはやはりこの前の逢引の時のことだろう。

 確証はなにもないのだけれど、あれから彼女の仕事の仕方が少し変わったような気がした。

 以前から効率よくこなしていく彼女ではあったのだが、今はなんとなく、その後にある何かの為に早く用事を済ませたいというような気概が感じられた。



 天気の良い昼間、縁側に寝転がる居候を見てふと昔のことを思い出した。

 こいつが初めて家に来た時のことだ。

 こいつは私が小学生の頃、兄弟のいない私の為に遊び相手として両親が友人から引き取ってきた猫なのだ。

 始めの頃は本当に手が負えないほどやんちゃで、私と二人で家の中を荒らし回ってよく一緒に叱られていた。

 それぐらいこいつとは仲が良かった。

 しかしある時、一日姿が見えなくなってしまった時があった。

 家の中と庭をくまなく探してみても見当たらず、梯子を使って屋根裏まで登ったほどだ。

 近所の人に聞いても見ていないと言われる。

 あげく一人で遠くまで探しに行って、迷子になった所を補導されて家に連れて帰ってこられた時が人生で一番叱られた気がした。

 親に怒られた事と、大切な友人がいなくなってしまったことで大泣きしている所に、こいつは何食わぬ顔で戻ってきて、いつものように縁側で丸くなった。

 猫という生き物は人間が縛る事はできないのだと、幼心に悟った瞬間だった。

 それと同じように、彼女が何をして誰とどういう関係を持とうが、私の口出し出来る所ではない。突き詰めると私達は結局、雇う側と雇われる側でしかないのだから。


 しかしそれは、私の本当の感情なのだろうかと、自分自身に疑いを持ってしまう。

 以前私は、自分を守る為に自らに嘘を付いてしまったことがあるからだ。

 一年前、両親が亡くなった時、あまりにも突然の出来事で感情が追いつかなかったことがあった。

 つい数時間ほど前まで一緒にこのテーブルで食事をしていて、その後友人の墓参りに行くと言って出かけていった二人が帰ることはなかった。

 行ってきますと言って出ていった彼らから、ただいまを聞くことはなかった。

 葬式を行う為に多くの人が家を出入りしていたが、私は何もすることなくただ両親の遺影の前に正座して時を過ごした。

 立ち登る線香の煙と共に、庭で誰かが吸っているのであろうタバコの煙が部屋の中に入ってきて混じり合い、なんとも気持ちの悪い空気が私の肺を汚していく。

 私が席を立つのはトイレに吐きに行く時ぐらいだった。

 最後に残されたのは、白い桐の箱が二つ。

 それから一週間ほど、ただ生きる為に食べて寝るだけの何もしない生活が続いた。

 私の両親は友人や知り合いは多かったが、親族と縁を切ってしまっていた為に頼れる人がいなかった。

 空のカップラーメンのカップでいっぱいになったゴミ箱。洗濯物で溢れかえっている洗濯カゴ。

 ある時、ラーメンの汁をこぼしてしまい、代わりの服を探す為になんとなしに母の部屋に入った。

 すると、出しっぱなしの母のミシン台の上に、縫いかけの和服を見つけた。

 破れているから縫って欲しいと、私が母に頼んでいたものだった。

 微かに残る母の懐かしい香り。

 その時初めて、もうあの優しさに触れることは出来ないのだと実感した。

 涙が溢れてとどまることを知らず、穴の開いた和服をぐしゃぐしゃに濡らして一晩中泣き続けた。

 この世で唯一私の絶対的な味方であった両親は、もうこの家に帰ってくることはないのだ。

 私がどんなことをしていても、後ろから見守ってくれる人達はもういないのだと。

 一人前の大人になる前に拠り所を失ってしまった私は、その時のどうしようもない消失感を誰かに分かって欲しかった。

 既にほとんど人と関わる生活をしていなかった私がとった手段が、文字を書いて読んでもらうと言うことだった。

 それから暫くして家政婦の募集を出したのは、ただ人の温もりが欲しかっただけなのかも知れない。

 そして私は今、またしても大事な人を失おうとしている。

 今度は、自分の意思の弱さと実行力のなさ故に。

 楓さんが私の家に来てくれたのはきっと、私の人生で一度しかない奇跡なのだろう。

 不肖の私に垂らされた一本の蜘蛛の糸。

 ならばその奇跡をみすみす失う訳にはいかない。

 あがくだけあがいて、最終的に失ってしまうのならそれはきっとしょうがないことだ。

 私はまだ一歩も踏み出していない。

 もし踏み外してしまうとしても、私はこの一歩ならば後悔はしないだろう。



 ある日の晩、私は楓さんを夏祭りに誘うことにした。

 楓さんは居間で洗濯物を畳んでいて、私はいつも通りテーブルで執筆を進めていた。内容は、これから彼女に告げる言葉を延々と書き連ねているものだ。

 もちろん、台本通りになんかいかない。

「楓さん」

 声が裏返ってしまった。

「はい?」

 手を止めずにこちらを向く。

「今度の日曜日、近くで花火大会があるんですが、一緒に見に行きませんか」

 やっとの思い出ひねり出した声は震えていて、まともに彼女を見ることが出来ていなかっただろう。

「時間があったらで構わないんですが……」

 間に耐えられなくなった私は弱気になる。

 彼女はその言葉を聞くと、下を向いてしまった。

 重い沈黙が続き、彼女は俯いたまま言った。

「それは、お仕事として……ではないですよね?」

 やはりダメなのだろうか。

 私と接しているのは、あくまで仕事だからなのだと。

「そう、です」

 自信がなくなってしまい、聞こえるかどうかわからないぐらいの大きさで言った。

 すると彼女は、こちらを向いて微笑み返した。

「楽しみにしています」

 ただそれだけの会話だったのに、私は一生分の体力を使い果たした気がした。

 全身の筋肉がなくなってしまったかと思うほどに。

 私がその場に崩れ落ちて机に突っ伏すと、彼女は優しく笑った。


     ◆


 毎年夏になると、河川敷を使って花火大会が催される。

 多くの出店が軒を連ね会場を盛り上げ、近くの野球場などが一般に解放され常連客達はシートを広げて昼間から酒盛りを始める。

 私は長時間人混みの中にいると気分が悪くなってしまう性質なので、いつもは別の場所で見物している。

 川から少し離れた神社の裏手。そこは地元の人でもあまり知られていない秘密の場所。

 花火大会の当日、楓さんは準備があるからと私は先に玄関の外で待っていた。

 辺りはすでに暗くなっていて、雲一つない夜空が月をよりいっそう明るく際立たせている。

 後は上空に少しの風が吹いていれば、花火が打ち上がった時の煙を流してくれて綺麗に見えるのだが。

 居候が足元にじゃれついてくるので首を掻いてやりながら待っていると、楓さんが後ろから私を呼んだ。

「お待たせしました」

 振り向くとそこには、浴衣を着た彼女がいた。

 下地は白で薄いピンクの花柄が描かれている。

 髪を後ろで結っているのはいつもの姿と変わらないはずなのに、整えるだけで随分と変わって清楚さがより一層増している。

 手には巾着を持っていて、赤い鼻緒の下駄を履いていた。

「それじゃあ、行きましょうか」

 そう言うと彼女は、私の手を引いて歩き出した。

 こんな綺麗な女性と一緒に歩いていてはバチが当たらないだろうか。

 幸い私はいつもの和服なので、場違いというわけではないのだけれど。

 自宅から歩いて二十分ほどの所に、大きな川が流れている。川といっても治水工事が施された人工的なものではあるのだが。

 すでに多くの人がそちらに向かって歩き始めていて、この人達に付いて行けば観光客も迷うことはないだろう。

 ところかしこに店の名前が書かれた提灯がぶら下げられている。

 ずっと先まで道が赤く照らされている歩道は、下手に横道に逸れるとそのまま黄泉の国に連れていかれそうだ。

「あ、何か買っていきますか? 見てる時にお腹空くかもしれないですし」

 そう言うと彼女は、色々な屋台に私を連れ回して、うんうん唸りながら吟味し始めた。

「やっぱりお祭りと言ったら焼きそばですよね」

 のれんを指さして楽しそうに笑う彼女。その笑顔を見れただけでも勇気を出して誘ったかいがあったというものだ。

「おじさん、二つ下さい」

 はいよ! という威勢のいい掛け声とともに、入れ物からはみ出さんばかりの焼きそばが二つ出てきた。

 美人はこういう時にも得をするのだな。

「おっきぃ……こんなに食べられるかしら」

 なんとなく卑猥に聞こえてしまった私はすでに末期症状なのだろう。

 いや、違うな。すれ違う人々が振り返るほどの美貌を持っている人と一緒にいるのだから、これは男として正常な反応のはずだ。

 ビニール袋に入れられた焼きそばは私が持って、再び歩き始める。

 背筋を伸ばしてゆっくりと歩く彼女。手を後ろで組んで、少し顎を突き出し伏し目がちに辺りを見渡している。

 彼女の眼にはこの世界はどう映っているのだろう。

 楓さんと出会ってから私の世界はずいぶんと変わった。白いキャンバスが汚れて灰色になってしまっていた所を、彼女が布を張り替えて筆をとる。

 緑や赤、青に桃色。一見すると無造作に塗られているようでも、全てが丁度良く交わって一つの絵になろうとしている。

 しかし最後まで描き終えるには、一つ足りないものがある。

 それをこれから得に行こうという訳なのだが。

「すいません、ちょっとこれ食べてもいいですか?」

 少し前を歩いていた彼女を呼び止める。

「チョコバナナですか?」

「はい。毎年一回は食べないとなんだか落ち着かなくて」

 私は祭りの時は必ずチョコバナナを食べると決めている。特にそうしなければいけない理由などないのだが、なぜかこれを口にしないと夏を逃してしまう気がして。

「じゃあ、私も食べます」

 小走りで私の横に来た彼女から、シャンプーと汗の入り混じった女性独特の香りがした。

「じゃんけんで勝てばもう一本もらえますよ」

 あいこと負けは何もなし。

「私やってもいいですか?」

「どうぞ」

 店主の前にいた私は場所を譲る。

 彼女は両腕を前に出して反対に手を合わせ、内側に折り込むようにして握った拳を覗いている。

「こうすると未来が見えるんですよ」

 そう言われると本当にそんな気がしてきてしまうのは、彼女が女神の生まれ変わりか何かだからなのだろう。

 じゃん、けん、ぽん。

「やった!」

 楓さんはパーで相手はグー。タダでもう一本手に入れた。

「私、運は強い方なんです」

 さっき未来が見えるって言ってませんでした? まぁ、可愛いからいいか。

「あーん。んっ」

 口を限界まで開けているのだろうけど、いかんせん元が小さいのでしゃぶるようになってしまっている。

 ふむ。今晩のおかずはコレで決まりだな。

 ふと時計を見ると、そろそろ打ち上げの時間が迫っていた。私は彼女を連れて、足早に神社に向かう。

 会場から離れるように歩き出した私を心配して楓さんが時折声をかけてきたけれど、黙って足を進めた。

 人の流れに逆らうように進み、古ぼけた神社にたどり着く。鳥居を越え長い階段を登り境内の裏手に進むと、天然のテラスに出た。

 高台にあるその場所は、花火を見ながらカップルが愛を語るには最適だ。

 まさか自分が女性と二人でその場所を訪れるなんて思ってもいなかった。

「わぁ、こんな場所があったんですね」

 彼女は子供のように笑顔を輝かせた。

 会場を一望できる特等席。もちろん花火も真正面に捉える事ができる。

「もう、急に行っちゃうから心配したんですよ」

 申し訳ない。私もこれでいっぱいいっぱいなのだ。

 口を尖らせている彼女もなかなかどうして。

 階段を駆け登ったせいで上がった息が整う頃、ちょうど良く花火が打ち上がり始めた。

「キレイ……」

 夜空に映し出される色とりどりの光が、一瞬の命を燃やして辺りを照らす。

 私は専ら花火よりも、打ち上がる度にハッキリと浮かび上がる彼女の顔に見惚れていた。

 私の視線に気付き目が合うと、彼女は優しく微笑んだ。

「こんな素敵な場所に連れて来てくださってありがとうございます」

 深々と礼をする彼女。

「いつもお世話になってるお礼ですよ」

 うむ。これは嘘ではない。

「そんな、お世話だなんて……私は当たり前のことをしているだけですから」

 彼女にとっての当たり前が、私にとってどれだけ心地良いものとなっているか。

「楓さんは仕事も丁寧に効率良くこなす素晴らしい人だよ」

 さり気なく褒めてみる。しかし予想とは裏腹に、彼女の顔は曇ってしまった。何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。

 さっきまで子供のようにはしゃいでいた彼女はどこかへ消えてしまい、瞳には憂いの色が浮かび上がっている。

 彼女は何かを喋ろうと何度か小さく口を開きはするものの、すぐに閉じてしまう。唇をかみしめて濡れる柔らかい部分が、花火の光に照らされて艶を帯びている。

「やっぱり隠し事はよくないですよね」

 彼女は大きく深呼吸をすると、覚悟を決めたかのように真っ直ぐ前を向いた。

 隠し事とは一体何のことだろう。

「私は、先生が思っているような良い人間ではありません」

 私はその言葉の真意を汲み取ることが出来なかった。

 それから彼女は、胸のうちに秘めていた想いを少しづつ紐解くように話し始めた。

「私の実家は、ずっと昔からある名家のひとつなんです。許嫁も生まれる前から決められてしまっているような古臭い家で、私はそれが嫌で逃げてきました」

 許嫁がいる? 私はそれを聞いて驚きと落胆を隠せなかったが、彼女の口ぶりからすると何やら理由があるようだった。

「こんな年齢になって何してるんだって感じですけど」

 苦笑いする彼女。贔屓目でなくても、彼女は実年齢よりかなり若くみえる。決して、幼いと言う意味ではない。

「小さい頃から習い事をたくさんやらされて育った私は、自分の時間なんてほとんどありませんでした。学校の友達とも遊ぶことが出来ず、ずっと縛られた生活をして」

 どことなく高貴な香りを漂わせていたけれど、まさか本当にお嬢様育ちだったとは。

「許嫁は相手方と交渉を重ねてなんとかお断りしましたけど、それからは婚約を申し込んでくる人が後を絶ちませんでした。始めは普通にお手紙とかで頂いていたんですけど、段々とそれが過激になっていって……」

 そこで一瞬、口ごもってしまう。きっと嫌な事を思い出してしまったのだろう。

「その時私は、家のコネを断わって自分で探した一般企業に勤めていました。昔から出版関係の仕事がしたいと思っていたので、何回も面接をして大勢の志願者の中からやっとのことで受かったんですけど……」

 楓さんは手を口に当てて、涙を堪えている。

「働き始めてしばらくすると、婚約を希望する人達が勤め先にまで押しかけてくるようになって、それが大事になってしまい、会社に迷惑をかけてしまった私は辞めざるを得ない状況になりました」

 声が震えている。

 それほどまでに思う所があったのだろう。

「これからやっとやりたいことが出来ると思ったのに。世の中にはこんなに面白い物語がたくさんあるんだよって、色んな読者に届けてあげたかったのに」

 力いっぱい噛んだ唇が切れてしまい、赤い血が顎を伝う。

 彼女もまた私と同じように、誰かに想いを伝えたいと願う人だった。

 激しく燃えさかるのではなく、静かに、それでいて何よりも熱く灯っている心の炎で誰かを照らしたいと。

「それが実家の差し金だと知った時は、本当に落ち込みました」

 大きく息を吸ってゆっくり吐くと、少し落ち着いたようだった。

「それからはなんだかもう、全部がどうでも良くなってしまって」

 彼女ぐらい意志の強そうな人でも、諦めてしまうことがあるのは意外だ。

 いや、意志が強いからこそ、諦めるという行為もまたそれに追随するのだろう。

「何も準備せずに家を飛び出してしまったので、知り合いの男の人の所を転々としてなんとか食いつないでました」

 今まで聞いた中で一番の衝撃を受けた言葉だった。純粋そうな彼女が、自らの美貌を使って男を利用していたというのだ。

「ふふっ先生が今、何を想像したかは大体わかります」

 驚きがあからさまに表情に出てしまっていた。

「まぁその辺りのことは……内緒です」

 人差し指を立てて口に当てる。

「その時たまたま、先生が書いてネットに上げていた小説を読んだんです。なんて心の綺麗な人なんだろうって思ったのと同時に、なんの苦労もしないで好きな事をやっている先生を見て悔しくなりました」

 小説と一緒に簡単なプロフィールも載せているので、おそらくそれを見たのだろう。

「そこにあの家政婦募集ですよ。もう本当に馬鹿にされているのかと思っちゃいました」

 返す言葉もない。

「実際に会ってみて、なんてことのないただのニートだったら生活めちゃくちゃにしてやろうと思ってました」

 面接の時の鬼気迫るものはそういう意味が含まれていたのか。しかし、それだけの理由で見たこともない私と会おうと思うなんて、女性の行動力とは恐ろしいものだ。

「多分、タイミングが良かったんだと思います。冷静な私だったらあんな危ないことしないですから」

 イタズラっぽく笑う彼女。

「それからは先生も知っている通り、逃げ込むようにあの家に住み着いたんです」

 逃げこむように。

 世間から逃げ出した私と、家から逃げ出した彼女。こんなところに共通点があった。

「そしたら先生があまりに想像通りの人だったんで、最初はそういうキャラをわざと演じてるのかと思いましたよ」

 私の情けない姿を思い出しているのか、彼女は小さく笑っている。

「けど、中身は小説を読んで思ったのと同じだった。頑固に見えて、実は周りをよく見てる。小さな事を見つけられる繊細な人で、相手の気持がわかってしまうがゆえに対処の仕方を決められない、優しい人」

 私の方を見て柔らかく微笑む。

 人に褒められると、なんだか体中が痒くなってしまう。

「ちょっと変態さんでしたけどね」

 あなたのような方と一緒に暮らしていたらそれも致し方ないことです。

「残念なことに、先生の生活を壊すことはやめにしました」

 恐ろしいことをさらっと言うものだ。私が腐った人間だったら今頃どうなっていたのだろう。

「一つ、聞いてもいいでしょうか」

 彼女がひと通り喋り終えたところで、どうしても聞いておきたいことがあった。

「あいつとは今……どういう関係なんですか……?」

 ずっと気になっていたことだ。楓さんが自身の話をしてくれているのに、私だけが腹を割らないわけにはいかない。

 というのは建前で、これがずっと引っかかっていて私の心をかき乱していた原因なのだ。どういう言葉を突きつけられようとも、受け入れる覚悟は出来ている。

「あいつって誰のことですか?」

「あっいや……」

 眉間にシワを寄せて睨まれる。こんな鋭い表情も持っていたのか。

「ふふっ冗談ですよ。圭佑さんとは何もありません。あの方は顔が広いようで、出版社に勤めている知り合いがいらっしゃると言っていたので……私はまだ諦められていなかったんですね」

 胸の奥に重くまとわりついていた塊が、音もなく消えて行く気がした。

 どうやら私が想像していたようなことは一切なかったらしく、彼女は自分の夢に向けてもう一度頑張ってみようと奔走していたらしい。

「他には、先生はどういう人なのかとか、大学時代どんな学生だったのかとか、そればっかり聞いてました。きっと圭佑さんも飽きれていたと思います」

「そうだったんですか……」

 その言葉を聞いただけで体重が半分ぐらいになった気がした。

「私の作戦は成功したってことかな」

 作戦? 掴み取りなら負けませんよ。

「先生、私がどんなに釣り針垂らしても全然反応してくれないんですもん。聞くのはエッチなことばかりで」

 釣り針……。相手の事は細かい所まで気になってしまうのに、自分の事になるとめっぽう分からない。

「……聞きたいことは、それだけですか?」

 彼女は下から覗き込むように私を見た。

「そっそれだけ、とは……?」

 私の心を見透かしているかのようにじっと眼を見つめている。

「まぁ、今はそれが精一杯ですよね。しょうがないけどギリギリ合格にしてあげます」

 少し頬を膨らませたその表情はとても可愛げのあるものだった。

「そろそろ花火終わっちゃいますね」

 打ち上げも佳境に入り、ここぞとばかりに大型の花火が夜空へと登っていく。

「あっそうだ、先生」

 最後のしだれ柳が地上に落ちてくる途中で、彼女が何か気づいたように言った。

「これからは先生の作品にビシバシ突っ込んでいくんで、よろしくお願いしますね」

 どうやら厳しい担当編集が付いてしまったようだ。

「お手柔らかにお願いします」

 彼女なら忌憚の無い意見を言ってくれそうだし、なにより駆け出しの作家と編集同士、互いに切磋琢磨していけそうな気がした。

「それからもう一つ」

「なんでしょう?」

 私の顔の前で人差し指を立てる彼女。

「部屋を漁ったり風呂場を覗こうとしたり、ストーカーしたりする時はもっと上手くやらないとダメですよ」

 ……全てバレていたのか。

 それならば。

「私からも一つ」

「なんですか?」

 なんだろう? と言った感じできょとんとする彼女。

「黒い月が綺麗ですね」

 一瞬首を傾げた彼女だったが、私の言った事を理解するとすぐに浴衣の裾を整えた。

 顔を赤らめて困ったような表情をする彼女がとても可愛らしく、初めて本当の楓さんを見れた気がした。

初めて完結させることが出来た小説です。同人誌『はみ出し! チーズカレー鍋 第1号』に掲載中です。

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