第五章
指定された五十嵐家の近くの喫茶店に、徹たちは足を踏み入れた。すると、奥の席のほうでこちらに手を振っている大柄の男が目に入る。一目見て、徹は兄だと認識した。大地の姿は、三年前とほとんど変わっておらず、徹は懐かしい気持ちに包まれた。
「あれが、お前の兄さんか?」
遠慮なく天我は、奥にある窓側の席のほうで手を振り続けている大地を指差し言った。徹は頷き、大地が待つ席へと向かう。天我も、それに続いた。
「よう、徹。元気そうじゃないか」
はっきりと聞こえる兄の声に、徹は兄弟ならではの安堵感を覚えたが、天我は関係なしといった感じで割り込んできた。
「お兄さん、どうもどうも。徹君の上司の、暁天我です」
言って、半ズボンのポケットから名詞を取り出した。タンクトップに半ズボンという格好や、三年ぶりに再会だというのにいきなり突っ込んでくる天我に、大地は不快感を露にしながらも、浅く頭を下げた。
「あんたが、徹を養っているのか」
大地の目には、少しばかりの嫉妬がにじみ出ていた。おそらく大地は、自分が弟の面倒をみたかったのだろう。それを天我に取られたと勝手に思い込んで、敵対心を抱いている。そう察した徹は、三年ぶりに会った目の前の兄を恥じたと同時に、恐ろしく感じてしまった。
「養っているっていうか……な?」
意味ありげな視線を、徹に送ってきた。それを見て、大地はまた悔しそうに奥歯をかみ締める。
「言っておくがな、徹は俺の弟だ。俺に、面倒を見る権利があるんだぜ」
なんの張り合いだよと、徹は心の中で突っ込んだ。
「まあまあお兄さん、あまり興奮なさらずに。楽しくやりましょうよ」
大地をなだめる天我を見やり、徹はため息をもらした。そもそも、天我が誤解を招くようなことばかりするからいけないのだ。
「そう……か」
無言で天我の隣に立っている徹に一瞥をくれると、何か考え込むような仕草をしてから、大地は何度か頷いた。
「とりあえず、座りましょう」
天我に促され、大地はソファーに腰を下ろした。一つテーブルを挟んで、徹と天我は椅子に腰を下ろす。徹の隣に座りたそうな目をひたすら大地は向けているが、徹はなるべく無視するよう言い聞かせていた。が、どうしても大地の視線が気になって仕方がなかった。
「さあ、何か頼みましょうよ」
言って、テーブルの中央に置かれているメニューを開いた。
「何か食います?」
メニューを覗き込んでいる大地に、天我は丁寧に問いかけた。丁寧語の天我は、少なくとも彼の助手になってから今日までの三年間、一度も見たことがなかったので少し新鮮だった。
「いや、昼飯はいいや」
「どうしてですか?」
落胆の素振りを見せ、天我は言った。
「あまり腹いっぱいになると、仕事に影響するんだよ」
「そうですか」
再びメニューに目を落として、天我は悩み始めた。その横で徹は、メニューには目もくれず、早くこの時間が終わって欲しいとずっと祈り続けていた。
「じゃあ俺も食い物は止めて……アイスコーヒーにします」
「コーヒー、好きでしたっけ?」
意外すぎたので、思わず徹は訊いていた。すると天我は、呆れ顔を徹に向け答えた。
「あのなぁ、こういう場合って、刑事とか探偵はコーヒーを頼むんだよ。常識」
「はぁ」
よく分からないが、突っ込むだけ無駄だと思い徹は曖昧に頷いた。天我は単純に、刑事や探偵に近づくため、コーヒーを頼んだだけだった。普段、コーヒーなど全く飲まないくせに。昼間からビールを飲んでいる姿なら、何度も目撃しているが。
「じゃあ、俺も同じやつにしようかな?」
「そうですか」
「徹は、何にする?」
大地は笑顔を浮かべ、俯き加減の徹に振った。
「俺は……別にいいかな」
「ドリンクバーにするか? それとも、何か食うか?」
別にいいと言っているのに、弟の再会がよほど嬉しいのか、大地は食い下がる。鬱陶しく思い、結局徹は二人と同じものを頼んだ。
「よし、じゃあボタン押すぞ」
ボタンに一番近い大地が押すと、あまり客入りがよくないせいか、間もなくウェイトレスが愛想笑いを顔に貼り付けてやってきた。
「お待たせいたしました。ご注文は?」
言って、ペンと紙をポケットから取り出す。
「アイスコーヒーを三つ」
代表して、大地がウェイトレスに注文した。注文を復唱した後、ウェイトレスはキッチンの方へ去って行った。
「いやぁ、しかし久しぶりだな、徹」
三年ぶりに会い緊張しているのか、やや上ずった声で大地は言った。
「そうだね」
適当に徹は返してから、隣の椅子に腰掛けている天我を一瞥した。
大地も同じだと思うのだが、徹は目の前にいる兄と何を話せばいいのか分からなくて、困惑していた。額に変な汗も滲みで出てきている。徹は早く、天我に本題を切り出して欲しかった。
「よかったですね、お兄さん。徹君と会いたかったのでしょう?」
天我は探るような目つきを大地に向け、言った。
「まあ、そうだね。徹のやつ、連絡くれないから」
「そうでしたか」
「どう? こいつ、元気にやっている?」
「それは、もちろん」
二人の会話が弾んでいることに若干戸惑いつつ、徹はなかなか本題を切り出そうとしない天我に苛立ちを感じ始めていた。
十分ぐらい、二人で他愛もない会話を続けていると、先ほどのウェイトレスが三つのカップをお盆に載せやってきた。
「お待たせいたしました。アイスコーヒーです」
言いながら、三人にそれぞれアイスコーヒーを配る。
「どうぞ、ごゆっくり」
マニュアル通りの対応を受けた後、二人は会話を再開した。徹は、天我の真意がいまいちつかめなかった。
何を考えているのか――常に抱いている疑問なのだが、今度ばかりは見逃せないでいた。
会話は徹のことから始まり、自分たちの学生時代の思い出、青春模様を語って、二人はいつの間にか意気投合していた。このまま二人で飲みに行ってしまうのではないかと、危惧させるほどだった。
徹がアイスコーヒーを飲み終えたぐらいに、天我はようやく本題を切り出した。徹はほっと胸を撫で下ろした。
「五十嵐逸子さんの事件のことなんだけど……」
会話を始めてから数分で、天我は大地に対し敬語を止めていた。
「おう、そうだった、そうだった」
口に近づけていたカップをテーブルに置き、大地は身を乗り出した。それを見て、天我は口元に微笑を浮かべた。
徹はこの時、もしかしたら天我は、大地から詳しい情報を聞き出すために、数十分も他愛もない会話をしていたのではないかと、推察した。初対面の相手には、誰しも警戒心を抱かずにはいられない。天我はその警戒心を打ち破ることを、まず考えた。実際、天我の質問を何でも答えようとしている姿勢が窺えた。徹は内心で感心していた。
「俺さ、何も知らないんだよね」
自分はまだ何も情報を掴んでいないことを、天我はアピールした。
「そうか。ま、別に興味を惹くような情報でもないけどな」
「と、いうと」
「普通の人だよ」
「それは、漠然としすぎているぜ」
「そもそもさ、どうして五十嵐逸子のことが知りたいわけ?」
この質問に、天我は一瞬狼狽の色を見せた。
「まぁ、テレビ見ていてね、気になってさ」
歯切れの悪い返答だったが、大地はとくに怪しむ素振りを見せず納得したように頷いた。天我は安堵の色を浮かべていた。
どうやら、天我にも探偵としてのポリシーが備わっているらしい。あの小学生のことは、言わないつもりであることが分かった。
「天我って、探偵なんだろ。刑事の俺に情報提供を求めているということは、五十嵐逸子の自殺に疑問を抱いた、もしくは調査してほしいとやってきた人間がいる、ということか?」」
時折鋭さを見せるのが、大地の厄介なところでもあった。徹は過去に何回か、大地に知られたくない事情も見破られたことがあることを思い出した。
天我も、大地の鋭さに思わず目を剥いていた。
「どうかなぁ」
曖昧に言って、首を傾げた。怪しさ全開だが、やはり大地は深く追求することはしなかった。
「けど、これは自殺以外の何物でもないよ」
「それは、話を聞いてから決めるよ」
しばらく口を閉ざし思考を巡らせている様子だったが、やがて清々しい顔つきになり、大地は話し始めた。
「テレビで見ていたんだったら、大体分かるだろうけど、一応最初から説明するな。
亡くなったのは、五十嵐逸子、三十二歳。死因は、詳しく分かっていないが、おそらく薬物による中毒死だろうな。第一発見者は、沖縄出張から戻ってきた夫の優。昨夜、沖縄から飛行機で戻ってきて、家には帰らずビジネスホテルに宿泊したそうだ。そして翌日の八時に家に戻ると、居間で妻の死体を発見し、警察に通報したとのことだ」
「死亡推定時刻は、確か昨日の一時から三時の間だったよな?」
「ああ。間違いないらしい」
天我は、背もたれに深く背中を預けると唸り声を上げた。死亡推定時刻に誤りがなければ、卓也の証言を説明することがほぼ不可能なのだ。
「思ったんだけどさ、天我ってこれを他殺だと疑っているのか?」
「まあな」
胸を張って答えた天我を、大地は笑い飛ばした。
「そんなわけねぇって」
断言した大地に、天我は食って掛かる。
「どうしてだよ」
「あのなぁ、俺は捜査一課の刑事として、最前線でこの事件を調べているんだ。つっても自殺だと断定されているんだけどね。まあ今は、適当に聞き込みしているだけだよ。先輩も一緒だったんだけど、さっき警視庁に戻っていったんだ。だから俺は今、好きなことし放題なんだ」
仕事を放棄してまで会いに来る兄を、徹は気持ち悪く感じた。
「聞き込みの結果をまとめても、皆が皆同じ事をいうものだからあまり収穫はないんだけど、とりあえず言えるのは、彼女を殺す犯人が想像できない、っていうことかな」
「想像できない、ってことは、逸子は善良な人間だった、ってことか?」
天我の質問に、大地は噴出して答えた。
「その真逆だよ。嫌われていたんだ、逸子という女は」