第十三章
丸秘新聞社ビルの前で、徹は複雑な心境を抱いたいまま立ち尽くしていた。
たった一日兄の家で泊まっただけというのに、長い期間事務所を離れていた心境に陥っていた。昨日の出来事が、それほど徹に多大な影響を及ぼしていたといえる。
実際、昨日の時間はなかなか有意義だった。刑事ならではの情報が聞けたし、さらに当初の目的も果たすことができた。優の居場所を聞きつけることができたのである。Kホテルの304号室――この羅列を、現時点まで何度反芻したことか。すでに徹の頭の中に焼きついており、忘れたくても忘れることができなくなっていた。
天我は褒めてくれるだろうか――徹は内心、それが楽しみで楽しみでしょうがなかった。今まで一度も、天我がほめてくれたと言う記憶がなかったからである。さすがに自分のことを認めてくれるだろうと、自負していた。なぜなら、天我が今一番ほしいものを勝ち取ってきたからである。
心持、普段より胸を張り階段を一歩一歩確実に上がっていく。静寂の中、徹の革靴が冷たい階段を打つ。コン、コン――やがて、事務所までたどり着いた。
「よし」
自分に掛け声をかけドアを引こうとノブに手をかけた矢先、中のものによって先に開かれてしまい、興ざめしてしまった。
出てきたのは、見覚えのある子供である。その子供が誰なのか分かるまで、時間を要さなかった。
「卓也君」
「あ、助手だ」
生意気に指を指され腹立ったが、相手はまだ小学生だと言い聞かせ、卓也の視線とあわそうと腰をかがめた。
「どうしたのかな?」
やさしく問うたが、卓也は徹を無視して階段を駆け下りる。
「絶対解決してね」
中にいる天我にそういい残して。
天我は、徹に背を向けた形でソファーに座っている。卓也の言葉に、手を上げて応えた。
「所長、どうしたんですか?」
階段に目を向けたまま事務所に入り、徹は問いかけた。顔を向けると、天我の向かい側にまた見知った顔がいることにきづいた。
「何しているんですか、重光さんまで」
「よう」
おにぎりを片手に、重光は挨拶した。
「どうだった、お泊りは」
背を向けたまま、少しさめた口調で天我は訊いてきた。予想と違った対応なので、徹は若干面食らったが、立て直して答えた。
「すごいですよ、天我さん。優の居場所、判明しました。Kホテルの、304号室みたいです。今日でしたら、どうやら見張りも立っていないそうです」
「そうか……」
かみ締めるように呟いた後、天我はようやくこちらを向いた。
「じゃあ、いくか。優に会いに」
「はい」
徹の力強い頷きを見て、天我は表情をほころばせた。
「あのう……」
二人の間を、重光は申し訳なさそうな表情を浮かべつつ入ってきた。
「俺、そろそろ出るから」
「おう、いろいろとサンキューな」
「どうも」
手を軽く上げ、重光は出入り口に向かった。徹とすれ違ったとき、重光はボソッと、呟いた。
「天我は、すべてをつかんだぞ」
「え」
徹は振り返り真意を確かめようとしたが、重光はすでに、事務所を出て行ってしまっていた。
「天我さん……」
「よし、最後の聞き込みいくぞ」
「最後の?」
聞き返すが、天我は聞く耳を持たずそそくさと事務所を出て行った。仕方なく徹も続く。
「どういうことですか、聞き込みって」
ビルを出て、歩きながら徹は再び問いかけた。
「俺の推理を確認するんだよ」
まるで悪い企てをした時の子供が放つ輝きを、天我は瞳に浮かべていた。
「この推理が正しければ、本当に驚きだぜ」
徹も驚いていた。まさか、これが本当に殺人事件だったなんて。
「誰が犯人なんですか」
「それはまだ教えられない」
予想通りの返答だった。徹はがっくり肩を落とし、天我はそれを見て笑っていた。
「いずれ分かるさ。この事件に隠された、悲しき真相がな」
芝居じみた口調だった。しかし、今の徹は茶化すことを忘れ、その真相が果たしてなんなのか、ひたすら考えを巡らせていた。
天我は、いったいどのタイミングで真相にたどり着いたのだろうか。自分が不在していたたった一日で、分かったのか。
と、ここで思い出す。卓也と重光の存在を。
おそらく天我は、二人に会う以前から、なにかをつかみかけていた。二人を呼んだのは、つかみかけていた何かを確かめるためだった……。
もしかしたら天我は、本当に偉大な探偵になるかもしれない――徹の中で、その願望めいた思いが膨らみつつあった。
「ここだ」
言って、天我は立ち止まり指差した。徹も立ち止まって、天我の指差した方向を目で追うと、ある一軒家が映った。
「ここは……」
天我に連れられてやってきたのは、逸子の自宅のすぐ近くにある家だった。どんな意図があってここにやってきたのか、徹は興味があった。
「よし」
気合の声をあげ、天我はインタフォンを押す。すると、声が返ってきた。
「どちらさま」
「すいません、丸秘新聞社のものですが。少し取材に伺いました」
平然と偽証する天我を、徹はとくに驚きもせず黙って見守っていた。天我だったらこれぐらいするであろうという、予感はあった。
「少々お待ちください」
相手側は偽証とは気づいていないらしく、しばらくして笑顔を振りまき、四十代ぐらいの主婦がでてきた。
「お待たせいたしました」
「あのう、少しお聞きしたいのですが」
いかにも記者っぽい雰囲気を繕っていたので、隣で立っていた徹は吹き出しそうになった。
「五十嵐逸子さんが自殺した日の夜、ここらへんで車の音が聞こえませんでした?」
「車の音?」
主婦は聞き返した。
「そうです。かすかに聞こえた、でも十分いいです」
「車の音ねぇ……」
しばらく考え込んでいた様子だったが、結局何も思い出せなかったみたいで、主婦は首を横に振り申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「すみません。わかりません」
「そうですか」
とくに落胆した様子を見せなかったのは、意外だった。
「ご協力、ありがとうございました」
軽く頭を下げると、天我は引き返した。その後を、徹は追う。
「なんですか、車の音って」
天我の真意を測りかねた徹は、たまらず訊いた。
「詳しくは話せないが、もし聞いた人がいるなら、間違いなく俺の推理は的中だ。そして間違いなく、逸子を殺した犯人は……」
言いながら立ち止まり、天我は見上げた。徹も釣られて見上げると、また近くの一軒家の前だった。
そして今度は、躊躇いを見せずインタフォンのボタンを押した。
「はい」
すぐに返事がきた。
「あのう、丸秘新聞社のものですが」
さっきと同じ手口で、天我は聞きだすつもりらしい。
「なんでしょうか」
相手はすこし警戒している様子だ。
「五十嵐逸子さんが自殺した日の夜、付近で何か車の音とか聞こえませんでしたか?」
「車の音……ですか?」
インタフォン越しに、相手が思い出そうとしている姿が思い浮かぶ。
「あ、そういえば」
「何か思い出しました」
「はい」
二人の動悸は、自然と高まっていった。
「何か聞いたような」
「何かとは」
「あまり覚えていないんですが、おそらく車とか」
自信のなさそうな答え方だったが、それでも天我は十分だったようで、とっさにくいついた。
「本当ですか」
「多分……」
天我が食いつく度、相手は自信を失っているようだった。
「ありがとうございました」
早々と切り上げ、天我は体を翻す。
「徹、見えてきたぜ」
「っていうか、所長が無理やり言わせたんじゃないんですか」
「何?」
「だって、そんなピンポイントで聞かれたら、相手だって聞いていないかもしれないのに、もしかしたら聞いたかも、ってことになってしまうでしょう」
「聞いたんだよ、向こうは」
断定しているのが、徹としては気に食わなかった。
「とりあえず、これで俺の推理の裏づけがとれたわけだ」
本当にとれたのか。
「よし、徹。こんどこそ、Kホテルいくぞ」




