第十章
「期待されちゃいましたね」
事務所のソファーでゆっくりとしている天我に、徹は嫌味を含んだ口調で言った。
「期待されたな」
感情のこもっていない口調で言うと、天我は足を組んでどこか遠くを見る眼差しを浮かべた。考えているときに出る癖だと、徹は認識している。
天我を目の端で捉えながら、徹はゆっくりとした動作でバッグに着替えを詰め込んでいた。三秒ぐらいの感覚で漏れるため息は、これから兄のマンションに行かなくてはならないという、憂鬱からきていた。
「まてよ……」
周囲にも聞こえないぐらいの呟きだったが、徹の耳にははっきりと届いていた。むしろ、この言葉を待っていたのだ。
「なあ、徹」
立ち上がり興奮を抑えた口調で天我は、バッグと向き合っている徹を呼んだ。手を止め、徹は期待と不安の入り混じった瞳を、天我に向ける。
「どうして夫の優は、帰ってきたその日に、自宅に戻ってこなかったんだ」
徹は天我の言葉を頭の中で繰り返した。
「なるほど」
確かに、天我に言われてその疑問に行き着いたが、何故といわれても本人に確認する以外、答えを知る術は思いつかなかった。
「お前、優に会えるかどうか大地に交渉してくれないか」
天我も同じだったらしく、早速言ってきた。今度は、徹も疑問に思ったので快く了承した。
「相談して見せます」
満足そうな笑みを浮かべたあと、再び天我は深刻な顔つきに戻った。
「カレンダーの疑問も、解消されていないな」
「その答えなら、僕はもう分かっていますよ」
「え?」
意外だったのか、天我はのけぞった。徹は得意げに鼻を鳴らし、自分の推理を披露した。
「簡単ですよ。チェックしていたんです。夫が帰ってくる日付を」
「なぁんだ」
落胆の色を見せ、天我はソファーに腰を下ろした。これが答えだと信じていた徹は、必死になって説明をした。
「だってそうじゃないですか。妻の逸子は夫の帰りを心待ちにしていた。つまりですよ。つまり逸子は、夫が帰ってくる昨日の日付にチェックをいれた。不自然じゃないはずです」
「いや、不自然極まりないぜ」
「何故ですか」
自分の推理を一蹴されムキになっている徹に対し、天我は至って冷静に反論をし始めた。
「第一に、夫が帰ってきた日に殺されていたことが不自然だ。しかも夫は都内のビジネスホテルにチェックインし、夜を過ごした。自宅に戻っていれば、妻の死体を発見できたというのに」
いったん切って、天我は口から息を吐き出し続けた。
「おかしいと思わないか。何故、都内のホテルにチェックインする必要がある。電車で帰ればいいはずだろう。終電が過ぎてしまっていたら、タクシーでも捕まえればいい。方法はいくらでもあるはずだ。一年も離れ離れになっていたのなら、妻の顔が見たいと思うほうが自然だ。
優の行動はまるで、妻が死んでいたことを知っていたかのような、奇妙さを秘めている」
この言葉は、衝撃を与えるのに十分すぎるほどの威力を持っていた。天我の推測に徹は、ただ感心するしかなかった。
天我は、自分たちとは違う観点で物事を捉えている。警察も、自殺と断定して捜査をしているため、夫の奇妙な行動や、六月のカレンダーが捨てられていたことにも気づかないでいるのだろう。
しかし、夫の優を疑うのにはやはり限界があった。
「優には……」
「分かっているよ。絶対に崩すことのできない鉄壁のアリバイが、やつには存在する」
犯人優説は、とっくのとうに行き詰りを見せていた。これ以上進むことはできないのか。
悔しいあまり奥歯をかみ締め、こぶしを握り締めていると、天我は軽い口調で言ってきた。
「誰も優が犯人だとは言っていないだろう」
「え」
天我の言葉に、徹は希望の兆しが見えた気がした。
「可能性としては二つだ。ホテルにチェックインしたのは偶然で、優は本当に犯人ではないか、もしくは共犯がいるか、だ。もっとも、俺の中では後者のほうが有力だな」
共犯という二文字を、徹は頭の中で反芻した。
「共犯がいるとしたら、沖縄から優は頻繁に連絡を取り合っていたんですかね」
徹は絶好調の天我に投げかけたが、答えずにじっと窓の外を見つめていた。
「いや、分からない」
口を開いたかと思うと、うつむいて首をゆっくりと横に振るだけだった。
「これ以上の詮索はやめよう。捜査に支障をきたす恐れがある」
天我の意見に納得し、徹は頷いた。
「ほら徹。兄貴の自宅に向かえ」
この言葉は、徹を現実にあっという間に引き戻した。嫌な気分が、肩に重くのしかかる。腰が一気に重くなった気がした。
「お前には、重大な役目があるだろう。忘れたか?」
どっちみち、兄に会わなくてはならない理由があることを思い出し、少し気が楽になった。
「そう……ですよね」
使命――なのかどうかよく分からないが、とりあえず用があることで、何とか意識を保てることができた。
「優に会えるよう、兄に相談します」
「おう、がんばれ」
徹は頷くと、足早に出口へと向かった。ドアノブに手をかけた矢先、後ろから天我の声が飛んできた。
「なあ、徹。逸子は自殺したんだって、言わないのかよ」
振り返ると、天我は背を向けて、ソファーでくつろいでいた。徹は苦笑して、答えた。
「僕はまだ、自殺だと思っていますよ」
言って、徹はドアノブを回し事務所を出た。後ろで、天我が笑っている声が聞こえた。