エピローグ:【時を越えるリボン】
エピローグ:【時を越えるリボン】
胸の奥が熱い炭火のようにじんわりと温まり、指先の震えが心地よい高揚へと変わっていった。二〇二六年秋の陽光が降り注ぐ東京・表参道のアトリエ兼オフィスには、朝から入れっぱなしにして底に茶色い粉が沈んだアールグレイの香りと、裁断したばかりの絹織物の生糸の匂いが漂っており、窓辺の花瓶には秋の気配を告げる濃い紫色の竜胆が凛として花びらを開いていた。洋服の仕立て直しと服飾史の研究を仕事にしている佐山真帆は、オーバーサイズの麻の白シャツの袖を肘まで捲り上げ、震える右手の人差し指で右の耳たぶを強くつまむ昔からの癖を繰り返しながら、机の上に広げたフランス革命期のドレス復原図と最新のタブレット端末を見比べた。二百数十年の歳月が流れてもなお、世界中の人々が彼女の生み出した淡いパステルカラーや素朴なモスリンドレスの着こなしに熱狂し、ネットの画面越しに「史上最高のファッションアイコン」として彼女の美学を追い求めている現実に触れるたび、あの孤独なヴェルサイユで自らの装いだけを武器に闘った王妃の体温が今ここに蘇るようだった。真帆は向かいのデスクで型紙の糸くずを払っているアシスタントの碧に向かって、弾んだ声で話しかけた。
「碧ちゃん、見てよこれ。今朝発信したトリアノン風のギャザーワンピースの特集、もう十万件以上の保存がついているのよ。みんな『現代でも着られる究極のエレガンス』だってコメントしてくれてるわ」
相手の浮かれた態度に胸の奥がチクリと痛み、思わず手元の定規で作業板の端を小さく叩いた。部屋の隅のハンガーラックには、昨夜コンビニで買ってきた肉まんの包み紙がゴミ箱から溢れ落ちて床に転がっており、アイロン台の上にはシワだらけの麻のペチコートが放置されて、スチームの生温かい湿気が足元にまとわりついていた。いくら歴史上の王妃がおしゃれの先駆者として賞賛されていようと、その背景にあった壮絶なバッシングや生活の痛みを無視してただの綺麗な服として消費する風潮に、真帆は知らず知らずのうちに苛立ちを募らせていた。真帆は手元の紅茶のカップを持ち上げ、冷え切った液体を一気に飲み干すと、喉の奥に広がる苦味に眉をひそめて言葉を尖らせた。
「でもね、みんな華やかなドレスの写真ばかり褒めて、彼女が晩年に着ていたあの簡素な灰色の服に込められた覚悟なんて誰も見ていないのよ。ただの可愛いインフルエンサー扱いなんて、彼女の本当の生き方を薄っぺらに消費しているだけじゃない!」
先輩の突然の熱弁に目を丸くしながらも、おかしそうに口元を綻ばせた。作業台の端には、碧が昼食に食べたカップ焼きそばのソースの染みが小さく乾いてこびりついており、窓の外の通りからは秋風に乗ってイチョウの青臭い匂いと車の走行音がかすかに届いていた。真帆がいつもマリー・アントワネットの話になると自分の身内を侮辱されたかのように怒り出す癖をよく知っている碧は、着ていた古着のデニムジャケットの襟を正しながら、机の上の木製メジャーを指先で弄んだ。碧は机の上の半分残ったドーナツを一口齧ると、屈託のない笑みを浮かべて言い返した。
「真帆さん、また始まった。そんなに怒らなくてもいいじゃないですか。だいたい真帆さん、そのシャツの第一ボタンが掛け違ってますよ。それに、今の若い子たちだってバカじゃないです、理不尽に叩かれても自分らしさを貫いて、最後は家族のために素朴な麻の服を選んだ彼女の生き様ごとリスペクトしてるからこそ、今もあんなに憧れて真似してるんだと思いますよ」
後輩の素直な指摘にカッと顔が熱くなり、思わず胸元のボタンを両手で隠すように押さえた。床に敷かれた毛足の短い絨毯の上には、裁ち落とされたシルクリボンの切れ端が何十本も散らばっており、棚の上のBluetoothスピーカーからは、秋の午後にふさわしい静かなチェロのソナタが流れていた。自分が一番アントワネットの苦悩を理解しているつもりになって、今を生きる若いファンたちの純粋な憧れまで否定しかけた己の独善的な思い込みが恥ずかしくなり、真帆は作業用の丸椅子に腰を落として頭を掻いた。真帆は足元に落ちていた青いリボンを拾い上げ、指先にくるくると巻きつけながら小さく息を吐いた。
「……そうよね、悪かったわ。ボタンのことまで言われちゃ一本取られたわね。今夜は残業代代わりに、表参道の交差点のあのみたらし団子、私が奢るから許して」
わだかまりが消え去った胸の内に、澄み渡るような誇らしさと温もりが満ちていった。西日がアトリエの大きな窓ガラスを黄金色に染め始め、机の上に置かれた竜胆の紫の花びらが、夕暮れの光を受けて鮮やかに輝いていた。七年の不毛な日々を越えて夫ルイと寄り添い、どれほど世間から憎悪を浴びても愛する子どもたちと信念を守り抜いたあの王妃の魂は、決して断頭台の露と消えて終わったのではなく、二〇二六年のこの街の片隅で、服を愛し、誇り高く生きようとするすべての人々の指先に今も確かに息づいているのだと胸がいっぱいになった。真帆は右の耳たぶを爪の先でぎゅっと強くつまむ癖を解き、タブレットの画面に映る、質素な白いモスリンドレスをまとった若きマリー・アントワネットの肖像画を見つめて静かに微笑んだ。
「どんな嵐の時代であっても、自分を信じて、大切な人と手を取り合って前を向く……。あなたが命がけで遺したそのスタイルは、何百年経っても、私たちの憧れの光のままですよ」




