第72話 指でキス!
彼女の言葉に手を止めて顔を上げると、柘榴塚さんは真剣な眼差しで、綿の詰まった人形の腹をメス……じゃなくてリッパーで切り開いているところだった。
うーん。慣れたとはいえ、やっぱりちょっと怖いところはある……なんて思っちゃう薄情な僕を許してね、柘榴塚さん……。
「父の知り合いにペット探しが得意な私立探偵がいてね。その人に頼んだらすぐ捕まったんだってさ」
「え、本物の私立探偵と知り合いなの!? さすがミステリー作家……」
僕が感嘆すると、彼女はくすりと笑った。
「私は『猫のおじさん』って呼んでるよ。いつも猫を肩に乗せてて、二言目には『女房に逃げられた』ってぼやく面白いおじさんなんだ」
「うわぁ、これ以上ないくらい私立探偵っぽい!」
絵に描いたようなハードボイルド。いつか会ってみたいと思う。僕の名探偵さんが一目置くような人なんだから、きっと素敵な人に違いない。
「本人は『僕は猫の言葉が分かるんだ』とか言ってる。フェレットも、その猫ネットワークで見つけたらしい。でも奥さんの言葉は分からなかったみたいだけどね」
「あはは、深い」
僕たちは顔を見合わせて笑った。
こんな風に軽口を叩き合える日常が、なんだかとても尊く感じる。
幸せを噛みしめながら、もういちど、僕は編み針を持ち直して手元に集中した。
柘榴塚さんも解体を再開する。
……平和だ。でも、もう一つだけ確認しておくことがあるかな。
「ところでさぁ」
「ん?」
「新聞部から報酬はもらった? あの古いワープロ専用機」
僕の質問に、柘榴塚さんは人形の腕の綿を掻き出しながら、満足げに頷いた。
「もちろん。きちんともらったよ。ただもう感熱紙もインクリボンも売ってないから、完全に分解用になるな」
「今度はどんな改造をするの? 足が生えてお喋りするとか?」
柘榴塚さんは解体するだけじゃないってことが、今回の事件で明らかになったからね。彼女はこれまでの報酬を分解して、それを改造して事件解決の道具にしたんだ。
きっとあのワープロ専用機も、彼女の手にかかれば何か面白いものに生まれ変わるに違いない。
「そんなスーパー技術、私にはないよ」
「でもラジコンとか目覚まし時計とか、凄かったじゃない」
「あれはそういうキットがあったから。私はそれを組み合わせただけ」
「キットを使いこなす力があるのは、技術があるって事だと思うんだけどなぁ……」
キットがあるからって、僕があんな改造ができるかっていうと無理だから。情けないけど、まぁ……人には得意分野とかそういうものがあるからね。でもお喋りなら、そこそこいい勝負ができるとは思うんだけどな……。
カチ、カチ、カチ。編み棒をリズミカルに動かしていたら、ふと、以前彼女が言っていた言葉を思い出した。
『好きなんだ、リッパーが』
その言葉通り、彼女の手にはいつもリッパーがある。なにかを切り開き、中身を暴き、本質を知ろうとする彼女の象徴。
それが今回、犯人を追い詰める切っ掛けになるだなんて……。世の中って分からないものだ。
と。
不意に、柘榴塚さんが手を止めた。
リッパーをテーブルに置くと、じっと僕を見つめてきたんだ。
その丸っこい瞳が、悪戯っぽく、そしてどこか照れくさそうに輝いている。
「……今回は、水間くんにはお世話になった」
彼女はもじもじと言葉を紡ぐ。
「私ばかりが報酬を受け取るのも悪いから、私からあなたにプレゼントを贈ろうかと思う。受け取って欲しい」
「え、プレゼント?」
なんだろう。人形の綿とかかな?
身構える僕に、彼女の手が伸びてきた。
細い人差し指が、僕の右頬をツンと突く。
「こっち? それとも、こっち?」
今度は左頬をツン。
「なにしてるの、柘榴塚さん?」
「えーい、両方だ」
両手が伸びてきて、ぶすっと両頬に人差し指を突き立てられた。
爪が食い込んできて、ちょっと痛い。
「え? なに? え?」
戸惑う僕に、柘榴塚さんは満面の、とびっきりの笑顔を向けた。
「消毒完了!」
その顔は、トマトみたいに赤く染まっていて。
「これからも頼むよ、私の……親友兼助手さん」
――あ。
鈍い僕の頭に、ようやく理解の光が差し込んだ。
消毒。
小6の時に元カノにキスされて鼻血を吹き出したトラウマ。それを、彼女は今、指で上書きしてくれたんだ。つまりこれは……指の、キ、キス!?
「ちょ、えええええええ!?」
理解した次の瞬間、一気に血液が頭に昇った。目の前が真っ赤になったような気配がする。
慌てて編み物を放り出して、両手で鼻を押さえた。
鼻の奥がツンとする。これはヤバい。
「は、鼻血出さないように頑張る……」
「うん、あなたならできるよ」
真っ赤な顔のまま、それでも満足そうに胸を張る彼女。
窓の外は、茜色になろうとしていた。
柘榴塚さんは鼻歌交じりにリッパーを手に取り、再び人形に向き合い始めた。
その横顔を眺めながら、僕はしばらく鼻を押さえていた。
僕たちの日常は、きっと解体と構築の途中なんだと思う。
そうだ。僕たちの先には、まだまだ解体しなきゃいけないものが道のように続いている……。
とりあえず今は、鼻血を出さないようにしないとね!
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