第14話 ヴィスタルとマルタ
窓から差し込む柔らかい朝日と、どこからともなく聞こえる鳥のさえずりに、マルタは目を覚ました。
目を開けると、見慣れた天井。
まぎれもなく、マルタに与えられてヴィスタルの家の二階部屋だった。
おもむろに上半身を起こし、首筋にそっと触れる。
そこに、嫌な熱さはなかった。
昨晩、ヴィスタルが氷の魔力を流し込み、カインに付けられた刻印を解いてくれた。
刻印は消えたはず。
――なのに、ヴィスタルの温かさはそれ以上に、マルタの心に刻み込まれてしまった。
『……俺が守る』
彼の言葉が蘇り、マルタの頬が一気に火照る。
(……嬉しい)
余韻を抱きながら、マルタは朝食と洗濯の準備に取り掛かる。
◇
午前8時ごろ。
朝食時間はいつも午前7時半ごろ。その前後にはヴィスタルは居間へと顔を出すが、今日に限って現れない。
(伯爵どうしたんだろう。入ったことないけど寝室へ呼びに行った方がいいかな)
どうしようかと逡巡していると、居間外からガタンッ、ガサガサッという大きな音が聞こえた。
驚いたマルタが廊下へ出ると、そこには壁にもたれかかったヴィスタルが居た。
「どうしたんですか!?」
ヴィスタルはげっそりした顔をマルタに向ける。
「いや……。昨日、馬車へ追い付くために、一時的に筋力を増幅させる魔法を自分に使ったのだが……予想通り全身バキバキだ……」
「大丈夫ですか!?」
血相を変えてマルタはヴィスタルへと駆け寄る。
「ああ。ただの筋肉痛だからな。マルタ、杖か何かを持ってきてくれ」
杖を受け取ったヴィスタルは、それを支えにして居間へと歩いて行く。
そして、ゆっくり、ぎこちない動作で着席した。
目の前にはオニオンスープとパンとサラダ。
相変わらず食欲をそそる匂いが鼻をつく。
「今日も美味そうだ」
ヴィスタルは嬉しそうに朝食を見てから、顔を上げた。
目の前には曇った顔で俯いたマルタの姿があった。
驚いたヴィスタルは「どうした?」と声を掛ける。
その矢先、マルタの目に涙が浮かんだ。
「まさか……兄上の刻印が残っていたのか?」
険しい顔でヴィスタルは尋ねる。
マルタは首を横に振ってから、消え入りそうなほどの声でひとこと。
「本当にごめんなさい……」
怪訝そうに首を少しだけ傾げるヴィスタル。
「カイン伯爵に言われました。刻印魔法は魔力を持たない人間に対して、かなり効きがいいと。私に少しでも魔力があれば……カイン伯爵に完全に支配されることはなかったかもしれない……。魔力さえあれば、ヴィスタル伯爵に迷惑をかけずにいられたかもしれないのに……」
マルタの目から大粒の涙が零れ落ちる。
彼女がここまで涙するところを、今まで見たことがなかった。
ヴィスタルの胸が締め付けられる。
「マルタ、泣かないでくれ」
低く、穏やかな声。
「迷惑だなんて思うな。それに……俺はマルタになら迷惑をかけられたい」
「……え?」
マルタはぼやけた視界のまま、ヴィスタルを見詰める。
「俺はしょっちゅう、お前に迷惑をかけている。俺は、家事はまったくだし、棚ひとつ碌に作れない。自分の健康管理すらできない。これじゃああまりにも一方的すぎて、愛想をつかされて出ていかれても文句は言えないと思っていた」
「で、でも、それは家政婦として当然のことで……」
「俺にはお前が必要だ」
その言葉は、静かな朝の居間に柔らかく落ちた。マルタの涙がゆっくりと頬を伝い、彼女の瞳が驚きと不意の温かさで揺れる。
「……な、何を――」
「言葉を続けさせてくれ。お前がここにいてくれるから、俺は日々を保てている。庭の水やりも、食事も、書物の整理も、誰も代わりにできない些細なことに救われているんだ。お前がいるから――俺はまともに生きていける」
ヴィスタルの声は震えていなかったが、その目の奥には確かな感情が宿っていた。普段は冷静で、どこか遠い人だと思われていた男が、言葉を選ぶようにして紡いだ本音。その真摯さに、マルタは胸が胸がいっぱいになり、言葉を失う。
「あなたは――そんな風に私を見てくれていたんですか?」
「見ている。いつもだ。お前が気づかないだけで、俺はお前を見ている」
ヴィスタルはゆっくりと立ち上がり、杖を横に置くと、距離を詰めた。動作はぎこちないが、迷いはなかった。マルタは身を引くでもなく、ただ彼を見つめ返す。
「俺は強い魔力を持っているかもしれない。だが、強さだけで人を守れるわけではないと気づかされた。お前の知恵や気遣い、そしてお前の存在が何よりも頼りになる。だから――」
言葉はそこで途切れ、ヴィスタルは静かにマルタの手を取った。冷たさを含んでいるかと思えば、その掌は温かく、確かな重みがあった。触れられた瞬間、マルタの心臓がまた一度高鳴る。
「もし俺がまた失敗をすることがあっても、逃げないでくれるか? これからも一緒に……」
「え?」
「失敗も掃除の失敗も、筋肉痛も……。全部、一緒にやってほしい」
マルタはかすかに笑って首を傾げた。涙と笑みが混ざった顔は、朝の光にきらきらと輝く。
「はい。ヴィスタル様と一緒なら、どんなことでも――」
「──ありがとう」
彼はその言葉に、ぎこちなくも真剣に頷いた。続けて、小さな声で付け加える。
「もしお前が望むなら、俺はもっと――お前を喜ばせる術を覚えたい。料理も掃除も、もっと上手くなって、せめてお前に迷惑をかけないようになりたい」
マルタは胸に手を当て、照れくさそうに目を伏せる。
「そんなこと、思わなくていいんです。伯爵が無理をしてまで変わる必要は――」
「いいや。変わりたいんだ。お前がいるから」
その言葉には、言い訳や格好つけは一切なかった。ただの誠実な欲求。マルタはじんわりと温かいものを感じ、顔を上げると、ヴィスタルの瞳と真っ直ぐに向き合った。
「じゃあ、これからも、よろしくお願いします、伯爵様」
「こちらこそ、マルタ。頼む」
二人は少しぎこちなくも、確かな絆を結ぶように手を取り合った。窓の外では小鳥が鳴き、世界はいつもの朝を続ける。だが、昨日までと同じではない。互いの存在が、日常を変えていくのを二人とも、まだ言葉にしないだけで感じていた。
――その日はさっそく、ヴィスタルは不器用にコーヒーを淹れ、マルタは笑ってそれを待った。
二人の間には確かなものが芽生えたのだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました❀
よろしければ評価や感想をいただけると励みになります。
もしかしたら番外編を追加するかもしれません。




