第1話 マルタ、”冷徹伯爵”のもとへ行く
マルタは馬車の窓に額を寄せ、流れていく田舎の景色をじっと見つめていた。
胸の奥で、不安と緊張が渦を巻く。
──これから向かう先は、ルジェフ王国の王都から遠く離れた辺境の館。
そこに住むのは「冷徹な伯爵」と噂される人物。
(怖い人だったらどうしよう……)
けれど、引き返すことはできない。
なぜなら──。
◇
「役立たずの娘に、もう家の敷居はまたがせん」
そう吐き捨てたのは、父だった。
マルタは魔法使いの家系に生まれながら、ひとかけらの魔力も持たなかった。
兄姉が次々と魔法の才を開花させる中、彼女は「恥さらし」と呼ばれ、居場所を失っていった。
「辺境の伯爵家で家政婦を募集しているそうだ。お前にはちょうどいい」
母の冷たい声。
それは奉公という名の、厄介払いだった。
◇
……だからこそ。
(ここで挫けたりしない。絶対に、自分の居場所を見つけてみせる)
小さく息を吸ったマルタの馬車が、やがて館の前で止まった。
古びたグレー色の壁には所々ヒビが入っており、薄暗い緑色のツタが館を覆っている。重苦しい静けさが漂う庭先には、枯れかけの花と干からびた小さな池。それに、嗅いだことのない異臭がほんのりと鼻をつく。
陰鬱な雰囲気を醸し出す館の前でマルタは息を呑んだ。
ヴィスタル伯爵――。
王都で暮らす名門貴族セヴェリヌス家の次男。
多大な魔力を持ちながら、性格に難ありとして辺境に追放された――なんでも、残虐な動物実験が趣味とか。
もしかしたら自分も実験体にされるかもしれない……。
(……いや、さすがに人間実験なんてありえない)
マルタは悪い想像を吹き飛ばすように首を横に振る。
――もう、後戻りできない。
重厚な扉を前に、彼女は震える拳を握りしめ、勇気を振り絞ってノックした──。
だが、返事はない。
もう一度ノックする。
すると家の中からゴソゴソという物音がして、扉が開かれた。
目の前に現れたのは淡く金色に光る長髪を後ろに束ねた、長身の男。
年の頃は二十代後半ほど。
一切の無駄なく整った美しい顔立ちからは、人間離れした冷たさを感じさせる。
――彼がヴィスタル伯爵……。
「は、はじめまして。今日から家政婦として働かせていただきます、マルタと申します」
マルタは深々と頭を下げた。
返事がなかったので顔を上げると、氷のような目つきで見下げるヴィスタル伯爵の顔があった。
気圧されそうになったマルタは慌てて付け加える。
「力仕事でもなんでもさせて頂きますので、どうぞよろしくお願い致します!」
マルタは必死だった。
家から送り出された際、放たれた両親からの言葉。
『根を上げて帰って来てみろ。今度はもっと辺鄙な所へ放り出してやる。この魔法使い一族の恥さらしが』
思いだすだけで、心がぎゅっと潰されそうになる。
これ以上、恥を重ねるわけにはいかない。
「……ヴィスタルだ。部屋は二階を使ってくれ」
低く、落ち着いた声がマルタの耳におりる。
(……よかった。とりあえず受け入れてくれるみたい)
マルタは胸をなでおろす。
「ヴィスタル伯爵、私は何をすればよろしいのでしょう?」
その矢先、ヴィスタルの眉が曇る。
「……俺の実験の邪魔だけはするな。最悪、命に関わる」
マルタの肩がビクッとなる。
「わ、わかりました……」
(どこに地雷スイッチがあるか分からない以上は、様子を伺おう……)
マルタはヴィスタルの後を付いて、館へと足を踏み入れる。
――その瞬間。
「へっくしゅん!!」
鼻がムズムズしたマルタから、盛大なくしゃみが出た。
部屋の中には肉眼でも分かるほどの、ホコリ、ほこり、埃――。
更に天井隅には蜘蛛の巣が張り巡らされ、床は足の踏み場がないほど、ありとあらゆる物で散乱している。
(な、何これ……。こんな不衛生な場所に暮らしてるの!?)
マルタは意を決して、前を歩くヴィスタルに声を掛けた。
「あの……ヴィスタル伯爵。まず部屋のお掃除をしてもいいでしょうか?」
(様子を見ようと思ったけど、さすがにこんな場所で暮らすなんて耐えられない……)
埃アレルギーのマルタは、両親に虐げられることには耐えられても、不衛生な場所で暮らすのは耐えられなかった。
ヴィスタルはおもむろに振り返る。
ズズッ。
「ズ……。ああ、頼む。ズズ……」
……?
ヴィスタルは鼻水を落とさないよう必死に啜っていた。
白目の部分が真っ赤に腫れている。
(……もしかしてこの人もアレルギーなの?)
疑問に思ったマルタだが、今は目の前のヴィスタルよりも部屋の掃除だ。
彼女は背負って来た大きなリュックから、ゴム製の手袋を取り出す。
――よし、最初の仕事だ。
数時間掛けて、マルタは屋敷内を掃除した。
掃除の最中、埃が更に舞い上がり、マルタの粘膜器官を襲った。
だが、家から持ってきていたスカーフと保護用ゴーグルが役に立った。
それによってマルタは守られたが、ヴィスタルのくしゃみはずっと止まらなかった。
「……ふう」
掃除を終えた頃には、フルマラソンを完走したほどの消耗と同時に、「やりきった」という爽快感がマルタの心を満たす。
屋敷内の空気は澄み渡り、物で散乱されていた床はピカピカに輝いていた。
「っくしゅん」
くしゃみが止まらないヴィスタルに、マルタは保護ゴーグルとスカーフで顔を覆った状態で近づいた。
「……大丈夫ですか?」
「あ、ああ……。お前は何ともないのか?」
「はい。目と呼吸器を覆ってますから」
ヴィスタルは赤くなった目を見開いた。
「そうすれば、ズズッ……。……良かったのか。っぎゅしゅん」
「…………」
自身も埃アレルギーだが、ヴィスタルの方が、酷い気がする――。
マルタは、彼が腕を掻きむしっているのが目に入った。
「あ、駄目!」
咄嗟にヴィスタルの腕を掴む。
「な、なんだ急に!?」
驚いて声を上げるヴィスタルを尻目に、マルタは彼の腕裾を捲った。
腕には無数の赤々とした湿疹。
「やっぱり。アレルギーによる湿疹ですね」
ヴィスタルは訝し気に眉根を寄せる。
「冷えた水か氷はありますか?」
「氷、どれくらいの量がいる?」
「量……。えっと、氷嚢とかに使用する程度かな……」
「バケツいっぱいか?」
「……コップいっぱいで大丈夫です」
「それくらいでいいのか」
マルタの目の前で、ヴィスタルは呪文を小声で唱える。
すると、小さな氷の粒が天井から降って来た。
――綺麗……。
まるでスターダストのようだと一瞬見惚れてしまったマルタだが、ハッと我に返り、リュックから布を取り出して振って来た氷をその中へ閉じ込めた。
それをヴィスタルの腕に当てる。
「な、何をする!?」
急な冷たさにヴィスタルは肩をビクッとさせる。
「……痒み、マシになってませんか?」
……!
言われてみれば痒みを感じない。
「冷やすと血管が収縮されて、炎症を抑えることが出来ます」
「詳しいんだな……」
ヴィスタルは感心したような顔で呟いた。
そのひとことに、マルタの胸が熱くなる。
(……誰かに褒められたの、いつぶりだろう)
少し照れくさくなったマルタは視線を逸らせた。
「そ、そうだ。もうすぐ夕食の時間ですね。台所をお借りしてもいいでしょうか」
ヴィスタルの顔に明るさが差す。
「夕飯なら用意してある。台所はそっちだ」
「そうですか。なら、配膳します」
マルタは彼が指し示した方の部屋へと歩を進める。
なんだろう。
嫌な予感がマルタの胸をよぎった。
鼻をつく酸っぱいような焦げたような匂いが、台所から漂ってきた――。
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