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一件目 : 孤児院の怪異

世界を管理する死神たちが所属する、カンパニー『死神』。

その中でも、人間の魂の循環を妨げている原因を調査・解決する対策課は、たいへんブラックなことで有名だった。

彷徨う魂の発見にはじまり、時には人間から生まれた「怪異」による事件を解決する仕事さえ舞い込む、そんな対策課に所属する死神のシキとマリ。

二人が今回渡された調査書には、「孤児院の怪異」と書かれていた──。

とある都市の片隅、深い霧に包まれるようにして建つ屋敷。

その屋敷には不思議な、だが誰もが知っている噂があった。

それは「落ちこぼれた者にしか見つけられない」、「入れば二度と出られない」というものである。

事実、この都市では毎年必ず何人かが消えていた。

そしてその誰もが所謂落ちこぼれであるという。

大人たちは誰もが、「親たちが要らない子どもや出来損ないを家から消しており、それを都合の良い噂で誤魔化しているのだ」と言った。噂を利用して「良い子にしないと霧にさらわれてしまうよ」なんて子どもに言い聞かせる大人もいた。

その噂はいつしか体の良い厄介払い、或いは躾のための都市伝説のようなものになっていたのだ。

それでもたまに、真相を暴こうと屋敷への侵入を試みるものもいた。

しかし戻ってきた彼らの証言からすると、入ることはおろか、屋敷を見つけることさえ出来なかったという。一ヶ月ほど探索を粘ってみたものの、屋敷へ向かう道の霧が深すぎて自分たちがどこを歩いているのかもわからない、そんな状態だったと。

──辿り着けない幻の屋敷。

誰も信じてはいないのに、誰もがどこかで気にかけているようだった。



そんな屋敷へ向かう濃霧の道を、ラフな服装の男が二人、歩いていた。

一人は手提げ鞄を持った長い髪の青年、もう一人は目元に隈のある猫背気味の男だ。


「──あれは、人間を誘っては自分の領域内に招き入れて閉じ込める、「霧の中の孤児院」という怪異です」


先行する青年が、霧の中淡々と呟く。


「いなくなっても問題にならなさそうな子どもや落ちこぼれた人間を、幻覚や催眠でおびき寄せて建物に迷い込ませる。元が孤児院だったが故か危害を加えたり食らったりすることはなく、ただ胎内に人間を集めて永遠に世話をして可愛がっているだけ、らしい」


さほど大きくはないはずなのにやけに明瞭と響いた声に対して、少し後ろを歩いている男が「えー」と不満の声を上げた。


「ほいじゃあ放っといても問題なかろう。街の人間も困っとる感じはせなんだし」


その如何にもやる気のなさそうな声色と言葉に、青年は眉一つ動かさず──どころか振り向きもせずに答える。歩く度に揺れる長いまとめ髪が、霧の中でも目印の役割を担っていた。


「そうもいかんでしょうが。調査班によればもう既に1000を超える人間が取り込まれてる。これ以上魂の循環が滞って困るのはオレたちですよ、先輩」


先輩と呼ばれた隈のある男は、青年の言葉を受けてなお気怠げな態度を崩そうとしない。それどころかざく、ざく、と二人分の落ち葉を踏みしめる音にすらげんなりしたように、大袈裟な溜め息を吐いた。


「わかっとるけど、わかっとるけえこそというか。規模からして絶対厄介案件じゃろ?じゃけ対策課は嫌なんじゃ……」

「ものすごく今更ですね。というか先輩の方がよっぽど現場は慣れてるはずですが」

「好き好んで対策課におるわけじゃない。お前だってそうじゃろ」

「オレは希望して対策課に来ましたよ」

「あ、ああ、そうじゃったな……なんて頼もしい後輩……」


嘆く男の声を意にも介さず、青年は歩くペースもそのままにどんどん進んでいく。男も文句は言うものの遅れることはなかった。

男は要するに面倒臭がっているだけ、大掃除は一度手をつけてしまうまでが一番面倒に感じるのと同じ心理なのだ、と青年も理解しているのだろう。手をつけてしまえばあとは終わらせるだけの力があるのだから、とっとと引きずって行けばいい、と。


「はいはい、文句言ってないで行きますよ」

「とか言うてもなァ、探して見つかるようなもんじゃなかろうに」


街の人間が探しても見つからんのんじゃぞ、じゃあ俺らにも無理じゃろうと引き返すための理由をつらつらと述べる男の眼前で、青年がふいに歩みを止めた。男はなんとかその背中にぶつかる寸前で踏みとどまることに成功する。


「いえ、先輩」


残念ながら。

そう言った青年の肩の向こう側。

深い深い霧の奥に潜むように、古びた立派な門がそびえていた。


──この世には、カンパニー『死神』というものがある。

その名の通り、死神たちが所属する会社……のようなものである。

その昔、世界の運営をダルがってやめた他の神々に代わり、世界システムのほとんどを担うこととなった死神たち。彼らがより効率よく世界を回していくために、人間の会社という形態を真似て作ったのがカンパニー『死神』だった。


そんなカンパニーの中でも、対策課──人間の魂の循環を妨げている原因を調査・解決する部署──は、死神たちの中でたいへんブラックであることで有名だった。

彷徨う魂の発見にはじまり、果ては人間の生死に関わるような「怪異」の退治までやらねばならない。それもあくまで人間社会への介入は最小限に、である。

人事課には減員され。

総務課とシステム課には急かされ。

経理課には小言を言われ。

挙げ句、調査課からは遠慮容赦ない協力要請が飛んでくる。まあ経理課に叱られるのはある程度自業自得でもあるのだが。

ともかく。

いかに死神といえどそんな業務をせねばならない対策課は、かなり面倒な案件と重労働が多い最悪の部署だという共通認識がある。

対策課には絶対配属されたくないよね、なんて会話はカンパニー内では日常茶飯事なのであった。


閑話休題。

そんなカンパニー『死神』の対策課現社員である死神の男二人は、霧をかき分けてようやく見つけた屋敷の門の前で立ち尽くしていた。


「なんで見つけてしもうたんじゃ阿呆マリ」

「働かない阿呆よりマシでしょうよ。どうせ解消するまで帰れないんです、八つ当たりしてないで諦めてください」

「くそう……」


往生際悪く渋る男を冷静に切り捨て、青年──マリはとっとと門についているノッカーを鳴らす。反応を期待しての行為ではなかったが、音を受けて屋敷の敷地内で何かが動くかすかな気配があった。


「おるなァ」

「いますねえ」


暫くその場で待ってみたものの、それきり誰か(何か)が出てくる様子はない。

門に手をかけると、鍵はかかっていないようだった。


「開いとるなァ」

「開いてますねえ。お邪魔します」

「おじゃましまーす……」


マリが躊躇いなく押すと、古びた外観の門が軋むような音を立てて二人を迎え入れる。

二人の身体が通り抜け終えると門はひとりでに閉まり、手をかけても微動だにすらしなかった。予想はしていたが、やはり怪異をどうにかするまで出ることはできないらしい。


「ある種の結界、のようなものですかね」

「屋敷どころか門の内側ぜんぶが胎内とは豪勢じゃな」


後戻りできない二人は門を背にして歩いていく。

門と屋敷とを繋ぐ小路は不気味なほどに整備されており、小さな庭園のようになっていた。色とりどりの花が植えられ、隅には土いじりの道具も置いてある。花の状態からして、ごく最近整えられた庭のようだ。

屋敷に近付くにつれてあれほど濃かった霧は少しずつ晴れていき、入口の扉にたどり着く頃には屋敷の全貌が見えるようになっていた。


──立派な屋敷だった。


信じられないほど大きいわけではなく、目に眩しいほど華美な装飾が施されているわけでもない。

言うなれば、程よい経年劣化と佇まいから滲み出る重厚感、というものだろうか。とはいえ寂れた、古めかしい、というイメージでもなかった。崩れている箇所などもなく、建物としての不備もなさそうに見える。この屋敷がまだ普通の屋敷だった頃には、きっと訪れた多くの人をもてなしてきたのだろう、と思わせるような雰囲気があった。


「……調査報告書では元は孤児院、との話でしたが。まるで迎賓館のようですね」


辺りを見回していたマリが首を傾げる。

孤児院というわりにはかなりしっかりとした造りであり、マリのイメージしていた孤児院と違ったらしい。


「人間をおびき寄せるために怪異自身が整えたんかもしれんなあ」

「ああ、孤児院そのものが怪異の本体なら有り得ますね。それが可能だとしたら調査も少々難航するかもしれませんが」

「…………はあ、よし、やるかァ」


ぼさついた髪をがしがしと掻いて、男は丸まった背を伸ばす。どうやら屋敷を前にしてようやくやる気になったようだ。その様子を見たマリも、彼の隣で襟を正した。


「ちゃんとその上手い口と回る頭を働かせてくださいね」

「わかったわかった。頼りにしとるでマリくん」

「ほざけ先輩」


正面入口と思しき扉には鉄製のノッカーが着いており、マリは再度それを鳴らす。今度は確かに屋敷内から「はーい」と人の声らしきものが聞こえ、空気がざわめくのがわかった。

男に無言で目配せをし、マリは声を張り上げる。


「突然のご来訪で恐れ入ります。友人共々道に迷ってしまい、助けを求めたく参りました。失礼とは存じますが、どうか中に入れてはいただけないでしょうか。何処ともわからず歩き続けて、ひどく疲れているのです」


死神は死なない。

というよりも、神が死ぬことはない。

神であるが故に人々の信仰が薄れれば消えるだろうが、生憎と死神はどんな神よりも消えにくい。いつの時代も、「死」は人間にとって一番身近な存在なのだろう。

しかし、怪異が相手となれば話は別である。

怪異は人間によって生まれはするが、理から外れた──つまりは「死という概念を超えたもの」であり、だからこそ時に死神をも飲み込んでしまう場合がある。唯一死神を"消滅"させられるものと言ってもいい。

故に、怪異にバレてはならないのだ。

死神であること、怪異を処理しに来ていることを。


正体を隠すためにこうしてしれっと嘘を吐き、何も知らない人間のふりをして怪異に近付く。これが対策課の「いつものやり口」だ。

今回もそんな方便が通じたのか否か。しばらく中から物音がしたかと思えば、やがて目の前の重厚な扉が開かれた。

現れたのは見るからに人が好さそうな老婆だった。小柄だが腰は曲がっておらず、綺麗な白髪をきちんとひとつにまとめている。

二人の姿を見留めるやいなや、老婆は目尻を下げて微笑んだ。


「あらまあ、まあ、お疲れでしょう。ようこそおいでくださいました。詳しいお話は中で聞きますわ。どうぞ」

「こりゃあこりゃあ、ありがとうございます」


大袈裟に頭を下げて、二人はいよいよ屋敷の中へと足を踏み入れる。マシキが後ろ手に扉を閉めるが、門と違って勝手に鍵はかからないようだった。


「申し遅れました。オレはマリと申します。こちらは友人のシキです」


死神は偽名を使わない。

死にゆく人間、消えゆく怪異相手にそうする必要がないためである。

隈のある男──シキは、ここまでの道中とは打って変わって人懐っこい笑顔を振り撒きながら老婆に訊ねた。


「どうも、シキと言います〜!いやァほんまに助かりました!この辺はいっつもこんなに霧が出とるんですかね」

「マリさんとシキさんね。そうなの、昔からね。うちにも迷った人がよく訪ねてくるのよ。だからお二人も遠慮なさらないで」

「はあ、そりゃあ住むのも大変なんじゃないんですか?おひとりです?」

「ええ。ひとりですけれど、若い頃からずっとこうだから、霧にも広すぎる家にももう慣れてしまいましたわ……ああ、お茶の用意をいたしますので、どうぞ掛けてお待ちになって」

「お気遣い、ありがとうございます」


丁寧な礼とともにすん、とマリが鼻を鳴らす。

老婆に案内されるがままに到着したのは、来客間らしき部屋だった。

入ってまず最初に目についたのは、大きな暖炉の中央に灯る小さな火だ。

今は10月下旬。肌寒くなってくる時期ではあるものの、外も室内もまだ暖炉に火を焚くような気温ではない。それなのに二人が暑いと感じることはなく、非常にちょうど良い室温に保たれている。

それに、机に対する椅子の多さも気になった。

来客用ということなのだろうが、それにしてはどれも使い込まれた使用感がある。まるで普段から腰掛ける人間がたくさんいるかのように。

鞄を降ろして適当な椅子に座ったマリとシキは、どちらからともなく顔を見合わせて声を潜めた。


「……人間、いませんよね?」

「……今んとこは誰も。魂も見えんな」

「ご婦人は……人間のように見えました」

「じゃよなァ」


死神が二人とも察知できていないということは、この屋敷の中に大勢の人間は存在しない、ということになる。

しかしそれはおかしいのだ。二人は"1000を超える人間を迷い込ませて保管している"孤児院の怪異の調査に来ているはずなのだから。別の屋敷に迷い込んでしまった、とは考えにくいし考えたくもないが、あるはずの人間の気配がまったくないというのがどうにも理解しがたいことも事実だった。


「まァまだ来たばあじゃ。焦らずやろうで」

「さっきまで駄々こねてた人とは思えませんね」

「見違えたじゃろ。褒めてもええぞ」

「先輩のそういうところ嫌いじゃないですよ」


お互いに小突きながら小声でやり取りしていると、隣の部屋に繋がっているらしき扉から老婆が戻ってくる。手にしたトレイには、可愛らしいティーポットとカップが二つ載っていた。


「ごめんなさいねえ、うちには紅茶しかなくて。よろしいかしら」

「とんでもない、ありがたくいただきます。そういえば、貴女のお名前をお訊きしても?」


老婆は、「あらいやだ」と少し恥ずかしそうにはにかんだ。


「名乗るのが遅くなりましたわね。私はミカヤと言います。お気軽に呼んでくださいませ」

「ミカヤさん、ですか。素敵なお名前だ」

「マリさんもシキさんもね。お二人ともどうぞ、お気の済むまでゆっくりしていってくださいな」


老婆──ミカヤの手で、カップに淹れたての紅茶が注がれる。

湯気の立つ透き通った色のそれは、何の変哲もない人間用の紅茶に見えた。いただきます、と声を掛け、二人はミカヤの淹れてくれた紅茶に口を付ける。

死神の存在維持に飲食は必要ないが、機能的に味は解るようになっている。そして人間用の薬物毒物の類は死神には効かない。

だからマリとシキも例に漏れず飲食物に警戒心を持つことなどなく、紅茶を堪能していた。ミカヤはそんな二人の様子を微笑んで見つめつつ、手近な椅子を引いてゆっくりと腰を下ろす。


「ええ暖炉ですねェ」


ぽつりと、カップを手にしたシキが脈絡なく言葉を零した。

視線の先、暑くも寒くもない部屋の暖炉は、先程と変わらず小さな火を湛えている。暖炉の傍にはかなり小ぶりな薪がいくらか積まれており、いつでも補充できるようになっていた。


「そうでしょう?特に冬なんかは重宝するんですよ。ああ、でも私、火が苦手ですの。どうにも恐ろしくて……。これ以上暖かくできないのは許してくださいね」


申し訳なさそうに眉尻を下げたミカヤに、すかさずシキがいやいや!とフォローを入れる。


「全然問題ありませんよ!むしろこれくらいの暖かさがちょうどええ。というかそれじゃあお湯沸かすんも大変でしょう、わざわざすみませんなァ」

「ふふ、そこは大丈夫ですわ。うちは火の出ない電気コンロを使っていまして。古いお屋敷ですけれど、電気だとか時計だとか、暮らしやすい生活に必要なところは私が替えましたの」


ミカヤと話しながら改めて部屋内を見渡す。

確かにあちこちに年季や使用感を感じさせる部分はあるが、中にはまだ新しそうな家具や電子機器が散見され、更にそれらも落ち着いた内装を損ねることなく馴染んでいた。屋敷内のすべてが古いながらに人を招くのに不便のない、かつ誰もがほっと息をつけるような空気を演出している。概ね外観のイメージと合致しているように思えた。


「いやぁ、暖炉だけじゃのうて隅々まで立派なお屋敷じゃなあと。お家は何かしよっちゃったんですか?」

「こらシキ。すみません、不躾に」

「いいえ、構いませんよ。ここは私が先代、先々代から受け継いだお屋敷なんですの。元々何のためのお屋敷だったかはよく知らないのだけれど、先代の頃には孤児院として子どもたちを受け入れていたこともありますわ」


ミカヤの受け答えに不自然なところはない。言葉に詰まることも、答えあぐねる様子もなかった。怪異が霧の中の孤児院、と名付けられたのは元が孤児院だったから、という答えも事前調査の通りだ。背景は合致しているのに肝心なところが食い違っている、そのことが尚更二人に違和感を抱かせた。


「孤児院……ですか。素晴らしいことですね」

「私もそう思いますわ。……そうだわ、お二人とも。良かったら泊まっておいきになって?お話した通り、うちは人をお迎えするのに向いていますし」


深まる疑問について考えていると、ミカヤからそう提案があった。

どうやらそろそろ日が暮れる時間らしく危険だから、というのが理由らしい。ただでさえ敷地の外は霧が濃いのだから、人間として至極真っ当な提案と言えるだろう。

……もっとも拒否したところで、門の外へは出られないのだろうが。


「え!ええんですか!?」

「はい、是非。大したおもてなしはできませんが寛いでいってくださいな。ええと、そうね……お部屋は二階の客間でもよろしいかしら?最近お掃除したばかりだから、そのまま泊まれると思うわ」


待ってましたと言わんばかりに食いついたシキに、ミカヤはどこか慈しむような笑みを浮かべて答える。マリはというと、先程から人懐っこく振る舞っては積極的に情報を引き出そうとするシキの頼もしさに、内心舌を巻いていた。あとは始めからやる気を出してくれれば文句はないのだが、とも思う。


「ご迷惑では……いえ、実を言うとたいへん助かります。ご厚意に甘えましょうか、シキ」

「もちろん!ここに来るまで散々迷ってもう限界だったんですよォ!願ったり叶ったりっちゅうか、ほんまにありがとうございます!」

「こちらこそ、賑やかになって嬉しいですわ。お二人がひと心地ついたら、早速お部屋にご案内させていただきますね」


ここに迷い込んでしまったのが普通の人間ならば、ミカヤは聖母のように感じられるだろう。二人から見ても今のところ彼女の言動に疑わしい点はなく、それどころか献身的でさえあるようだった。

人間が好きだという孤児院の怪異が人のかたちを取ったらミカヤのようになるのだろうか、とシキは紅茶を飲みながらふと考える。マリも思考に沈んでいたのか、少ししてからハッとした様子でカップから口を離していた。


「ご馳走様です。美味しかったです」

「お口に合ったなら何よりです。ではお部屋に参りましょうか」

「何から何まですんませんなァ」


かたりと音を立ててミカヤが立ち上がり、階段の方へ歩き出す。

飲み終わったカップをソーサーに置き直し、二人も鞄を持ってミカヤの後について屋敷の二階へと向かう。手すりのあるしっかりとした作りの階段は、歩く度に軋むなどということはなかった。

二階は広い廊下を挟んでいくつかの客室がある構造で、スイッチひとつで廊下の明かりが点灯するようになっている。屋敷内の電気系統もコンロと同じで、生活に不便がないようリフォームされているようだ。

ミカヤに部屋の希望を聞かれた二人は、階段から一番近い部屋を選んだ。「一部屋で大丈夫です」とマリが遠慮したためにマリとシキは同室となったが、元から調査する気しかないのだから都合が良いと言えば良いか、とシキも頷いておく。


それじゃあごゆっくり、と一階へ降りていくミカヤを見送り、二人は宛てがわれた部屋に入った。

客室と言うだけはあり、テーブルにソファ、椅子、ベッド、洋服掛けなど必要な家具はすべて揃っているようだ。部屋奥のカーテンを開いて窓を開けると、既に日が落ちて暗くなりかけていた。

とりあえず二人して一通り部屋の中を見回ってみたものの、部屋として特別変わったところはないようだった。


「ふう」


シキが鞄と身体をどっかりとソファに投げ出すと、マリも隣に座る。てっきり向かいに座るものだと思っていたシキは若干驚いたが、特に咎めることはなく口を開いた。


「どう思う、マリ」

「……ミカヤは孤児院の怪異の一部で、人間を円滑に招き入れたり世話をするために怪異が動かしている、いわば人形的なパーツなのでは?と思いました、が」


そう。

普通ならばそれが最も考えられるケースだろう。

だがいまいち歯切れが悪いところを見ると、マリも一応言ってはみたものの納得はしていないようだった。シキと同じところで躓いているのだろう。


「俺もそう考えとったけど、……なんか違うよなァ?」

「遺憾ながらオレもそう思います」


もしもその説が正しいとするならば、屋敷に人間がいない理由がわからない。唯一存在する人間であるミカヤが、屋敷の主のように振る舞っているのも不可解だった。孤児院の怪異は人間をおびき寄せるのに催眠を使う、と調査書にあったため、もしかすると彼女は孤児院の怪異がそう振る舞わせているだけの、屋敷に迷い込んだ人間の一人なのかもしれないが──だとしても依然として、今ここにミカヤしかいない理由の答えには辿り着けない。


「……人間を閉じ込めて生活させているなら、屋敷の改造も整った庭も理解できる。肝心の人間がいないのはどういうことなんだ」

「そうなんよな。ま、一旦リラックスしようで。ほら、お化け屋敷よろしく、夜眠ると隠れてた人間もみんな出てくる〜とかあるかもしれんじゃろ」

「……」


あまりにも雑な発言に呆れ果てたのか、マリの右手がシキの頬をガ、と掴んだ。隣にいるものだから逃げ場はなく、シキは彼にされるがままになる。


「死神が何言ってんですか。魂が見えないんだから居ないんでしょうよ」

「魂ごと存在を隠蔽できる怪異なんかもしれんが」

「出来る出来ないはおいておくとして。事前調査書から鑑みて、孤児院の怪異がそうするとは思えないでしょう」


人間を招き入れて愛玩するという孤児院の怪異。

その目的と人間の隠蔽はどうも結びつかない、とはシキも思っていた。自分たちを警戒して隠しているという線も無くはないが、それならば最初から招き入れなければいいだけの話だろう。

何より、これはただのシキの感覚だが──敷地内に入ってからというもの、拒まれている、と感じることはまるでなかった。寧ろ歓迎されているような気さえするくらいだ。まったくの気のせいかもしれないが。


「そんでマリ、匂いの方はどうなんじゃ」


頬を掴まれて喋りづらそうにしながら、シキがマリに問いかけた。


死神には、生まれつき何かしら特殊な能力が備わっている。

大抵は魂の回収やその他死神の業務に役立つような力であるため、それぞれが能力を活かせる部署に配属されていた。

──マリの能力は、『強化』である。

その名の通り、自身の身体能力を一時的に強化するというシンプルなものだった。元々死神は人間より丈夫なつくりをしているが、とはいえ万能ではない。故に、『強化』の能力は死神の中でも利便性が高いとされていた。

ただし、能力の中にはデメリットがあるものもあり、使い続けることはできないのが欠点である。

マリの場合、『強化』している時間が長くなるほど自意識が薄れ、使いすぎるとしばらく本能だけで動く獣のようになってしまうのだそうだ。シキは実際にそうなったところを見たことはないが、彼が対策課に配属された時のレポートにそう書いてあったのを覚えている。

とはいえ、一瞬の使用程度ならば何の悪影響もないのだ。せっかくの便利な力、使いすぎない範囲で利用しない手はないとマリもシキも割り切っていた。

マリは再びすん、と鼻を鳴らして何とも言えない顔をする。


「最初屋敷に入った時に嗅いでみたんですが、その……」

「その?」

「……あるにはあります。人間の匂い。でも、薄いんですよね。少なくとも、大勢の人間が同時期にいたような匂いじゃない。いたとしてもここ最近の話ではない、のかも」

「ほう!」


曖昧な情報ですみません、と不甲斐なさそうな態度をとるマリに対し、シキは感嘆の声を上げた。申し訳ないと思うなら顔を掴んでいることの方に対してしてほしい、と思わなくもないが、今はそれよりも情報の精密さに感心することにする。


「そんなことまでわかるんか。すごいもんじゃな」


続けて素直に賞賛すると、途端にマリが渋面になった。


「謎が深まっただけでしょうに」

「いやぁ、情報は手がかりじゃろ。知っとると知らんとじゃ大違いじゃ。マリがおらんと知れんかった情報なんか尚更な」


そう言われてなおどことなく不安げなマリが、シキの顔を真正面からじっと見据える。


「……先輩のお役に立てているなら、いいんですが」

「阿呆か。俺よりよっぽど働いとるじゃろ」


そのまま暫くシキの頬を勝手にぐにぐにと揉みながら悩んでいたかと思えば、ぱっと手を離して「よし」と立ち上がった。


「こうしていても仕方ない。他の部屋も見てみましょう、先輩」

「おお、ええ心意気じゃな。……なんで俺の顔掴んどったん?」

「先輩の阿呆面が気になってつい」


お互いの認識のすり合わせが出来たところで、二人はそっと部屋を出る。そうして出来る限り音を立てないようにしながら、二階の隣の部屋に入った。隣の部屋もそうだったが、やはり扉に鍵はかかっていない。かと言って放置されて荒れている、ということはなさそうだった。

部屋のつくりは隣とほぼ同じで、置かれている家具の種類も同じである。埃っぽさなどもなく、いつでも客室として使えそうなほど綺麗に整っていた。

マリとシキは先程と同様、家具の隙間から窓周辺、天井付近に絨毯の裏と隈なく調べていく。時折マリが鳴らす鼻の音を聞きながらしばらくそうしていた二人だが、やがて示し合わせたかのように黙って目を合わせて手を止めた。


「……」


何も、ない。

生活感がある。家具の使用感も、部屋が整えられた様子もある。

ただ人間がいたという形跡だけがない。

例えば足跡だとか、抜け落ちた髪の毛だとか、しまい忘れた靴下だとか。そういったものが一切見当たらないのだ。匂いが薄い、というマリの証言と相まって、本当は最初からここに人間などいなかったのでは、と思わせる様子だった。


「……次の部屋。行きますか」

「おう」


そしてそれは、二階の客間すべてに共通して言えることだった。

結局何の手がかりも見つからないまま二階の調査を終えた二人は、一度思い切り背筋を伸ばして長い息を吐く。


「意図的な隠蔽、かもしれんなァ」


シキがぽつりとそう零した。

そう、ここまでの調査で二人が得たのは、何もない──なさすぎるという手がかりである。

孤児院の怪異に自浄作用のようなものがあり、敷地内にある人間の痕跡はすべて消してしまえるのかとも考えたが、やはり動機がわからない。それに、仮にそうだとすると引っかかる場所がひとつあった。


「……隠蔽。何のために……?」


シキがマリに目をやると、彼は相変わらず眉間に皺を寄せては思考しているようだった。


「マリ。一回外にでも出てみようや」


そんな彼に、シキはまるで友人を遊びに誘うかのような気軽さで声を掛ける。しかし無論、気分転換のためなどではない。れっきとした次なる調査への誘いだった。


「え、はい……?……あ、なるほど。さすがですね」


一瞬訝しげにしていたマリも、すぐにシキの意図を汲んだ様子で頷く。あれこれ細かく言わずとも理解して動く後輩の優秀さに、シキはしみじみとありがたみを感じていた。対策課というカンパニー内で最も過酷な部署にあって、意思疎通がきちんとできて協力できる存在がいるというのは、シキ一人での調査より何十倍も楽で素晴らしいことなのだ、と。


「お前はええ子じゃなァ」

「うわ。なんですかさっきから」

「まあそう言うな。素直な感想じゃ」


思わずシキより幾分か低い位置にある頭にぽすんと手をやると、思い切り顔を顰められた。それでも振り払われはしない辺り、どうやら彼もシキのことを悪しからず思ってくれているのだろう。とりあえずシキはそう信じることにした。


「……人の気も知らないで」


マリがそう口の中だけで呟いた言葉は、誰に届くこともなく霧散する。むっすりした顔を隠そうとしないマリの背中を、シキが無遠慮に叩いた。


「ちょっと、先輩」

「ほら行くで後輩」

「腹立つ。あとで覚えといてくださいよ」


束の間、騒がしい休息をとったマリとシキは、鞄を持ったまま一階へ下りて屋敷の外に出る。ミカヤは今は別の部屋にいるのか、入口に至るまでに姿を見かけることはなかった。

シキが重たい扉に手をかけると、何の抵抗もなく外に向かって開いた。怪異の規模は門の内側すべてであるため、屋敷から外に出るのはまったく問題ないらしい。

二人が向かったのは、屋敷へと歩いている途中に見かけた小さな庭園だった。花壇の中に背の低い花花が瑞々しく咲いており、肥料が撒かれた跡も土が整えられた跡もある。規模は小さいながらもきちんと庭の様相を呈していた。


「これですね」


その片隅に置いてある、小さなスコップと空の如雨露。スコップには乾いた土が付着しており、明確に何某かが最近使ったのだろう、と思しき形跡があった。ひとまず探していたものがまだそこに残っていたことに安堵する。


「ミカヤのもんか、それとも他の誰かのもんか。どっちにせよ、これで何か見えてくるとええがな」

「……すみません、先輩。お願いします」

「おう」


スコップを手にしたシキは、申し訳なさそうにマリに向かって軽く微笑み、静かに目を閉じた。


──シキが持つ能力は少し異質である。

それが『同調』──触れた対象の記憶をほんの少しだけ読み取る、というものだった。明確に誰かが所持・使用していたものであれば、持ち主の過去の感情も読み取ることができる。

どう考えても死神には不要な能力であるうえ、読み取る部分が指定できるわけではない。更に、使用するとシキ本人が読み取った感情に引きずられてしまうというなんとも言えないデメリット付きの能力だった。

何故このような力があるのかは定かではないにせよ、対策課的には便利なこの能力のせいで、シキは長年対策課に居座らされていると言っても過言ではない。

シキとてあまり進んで使いたくはないが、特別大きなデメリットがあるわけでもなく。何よりマリの強化同様、便利さには勝てない。仕事を終わらせるためには仕方がないのだ。


シキは精神を落ち着かせ、神経を研ぎ澄ませた。スコップを持つ手の感覚が少しずつ遠くなっていき、やがてシキの脳内に波のように感情が流れ込んでくる。


"

『ここが家なんだ』

『友だちみたいに出来なくて、お父さんにもお母さんにも叱られてばっかりだったけど』

『ここにはナルキもユーミもノマもいるし、みんなやさしい』

『ごはんもおいしくて、あったかい暖炉もある。ここに来てよかった』

『だいすき』

『ここでお花をそだてて、みんなに見せるんだ!』


『みんなどこに行ったんだろう』

『かくれんぼしてからいなくなっちゃった』

『さみしいな……』


『たすけて』

『なんで、ミカヤ、どうして』

『死にたくない、みんな、どこ』

『たべられ、』

"


「──は、ッ」


がらん、とスコップが地面に落ちる音がして、シキは鋭く息を吐いた。


「先輩」

「平気、じゃ」


死神のくせにボロボロと恐怖の涙を流すシキを、マリが気遣わしげに呼ぶ。

そう、シキが読み取ったのは紛れもなく恐怖だった。

それも人間の──死ぬ間際の、真っ黒な海のようなそれ。


「先輩、大丈夫。怖くないですよ」

「……すまんな」


ガタガタと震える手をマリにぎゅっと握られながら、シキはなんとか落ち着こうとする。同調したせいでひどく緊張し、精神が消耗していた。呼吸は荒く顔も青褪め、人間でもないのに心臓が早鐘を打っている。何か喋ろうにも思考がうまくいかない。

涙で覚束ない視界には、そんなシキを見守るマリの姿が滲んでいた。


「……」


シキは、深く息を吸っては細く吐き出す、単純な行為をひたすらに繰り返す。そうして数分ほど経った頃には、ようやく震えも呼吸も落ち着いてきていた。


「ありがとうな、マリ。もう大丈夫じゃけ」


何か言いたげなマリはしかし何も口にすることなく、代わりに手を握る力をほんの少しだけ強める。


「いえ、……何かわかりましたか?」

「……たべられる、とか何とか」


シキは止まぬ涙で濡れた目元をゴシゴシと拭い、思考を巡らせはじめた。

──ここで何があったのか。

スコップの持ち主、花の世話をしていたのはおそらくミカヤではない。もっと幼くて、単純な感情を持つ子どもだ。それも、この屋敷を愛していたような。

そんな子どもの周りから他の人間が消え、子どもがミカヤと対峙し、恐怖と混乱のうちに「たべられる」。そういった記憶だったように思う。

しばらく黙考した後、シキの思考はひとつの仮説にたどり着いた。


「……ああ、孤児院の仕業じゃあない、んか」


怪訝な顔をしたマリが、黙ってシキの手を取ったまま続きを促している。ここまで二人が見てきたものと読み取った断片的な情報とを組み立てて、シキはゆっくりと自分の考えを言葉にしていった。


「元は調査書通りの孤児院の怪異──人間をおびき寄せて囲っておく屋敷だけだったんじゃろう。そんな屋敷にある時、人間を食う怪異が紛れ込んできた。それがミカヤなんじゃなかろうか」


ミカヤは人間を食らう怪異であり、孤児院の怪異とは関係のない存在である。

それがシキの出した答えだった。

一拍の間を置いて、マリが信じられないといった表情で驚きを露わにする。


「ちょっと待ってください、それは、つまり……怪異は二体いる、ってことですか?」

「結論としてはそうじゃな」

「……怪異が別の怪異を利用した、と……?」


確かに、対策課歴の長いシキですら聞いたことがないケースだった。

だがそう考えると、何故いるはずの人間が魂ごと消えているのか、ミカヤとは何者なのかという疑問がすべて解けるのだ。


「孤児院の怪異はただ迷い込ませて人間を飼うだけのもんじゃが、ミカヤは違う。うまいこと屋敷の内に潜り込んで、怪異が世話しとった人間を次々に食いはじめた。庭を整備しとった人間も、恐らくごく最近食われたんじゃろう」


迷い込んだたくさんの人間たちは、確かにここに居たのだ。

ミカヤという怪異に食われるまでは。

匂いが薄かったのは、最初に人間が食われはじめてから時間が経っているから。今ここに誰もいないのは、ついに彼女にすべて食われてしまったからだ。


「……ミカヤが人間にしか見えなかったのは」

「ガワは当然擬態じゃろうし、魂は最後に食ったのが体内に残っとるんじゃないかと思う。花の状態からして、食ったのはここ一、二日前のことじゃろうしな」

「あの歓待は新たな獲物に向けたものだったってことですね」


忌々しげにマリが吐き捨てる。

ミカヤは屋敷が孤児院であったことや、人間のためにところどころリフォームしてあることを不自然なく答えていた。屋敷にいた人間に訊かれても大丈夫なように学習していたのだろう。

屋敷内に一切の痕跡もなかったのも、おそらく彼女が徹底的に隠蔽したためだ。人間のふりをした怪異なのだから、彼女自身の髪の毛などが残ることもない。

食糧を得る手間を省くのに他の怪異を利用するくらいなのだから、彼女は知能がかなり高く、用意周到な怪異であるようだ。


「でも、それなら何故、孤児院の怪異はミカヤを追い出さなかった……いや、出来なかったのか。怪異の性質上、招き入れることはできても追い出すことは出来ないんだ」

「じゃろうな。ミカヤが人間じゃない、どころか自分が集めた人間を食っとると気付いても、孤児院自身にはどうすることも出来んかったんじゃ」


人間が好きで世話をしていた孤児院の怪異にとって、それはどれほど悲しかっただろう。どれほど悔しかっただろう。自分が集めた人間が食われていくのをただ見ていることしか出来なかった、なんて。

しかし対策課の二人が抱いたのは同情などはなく、ただ面倒なことになったな、という認識だった。如何せん処理しなければならない怪異が二体に増えたのだ。カンパニーに帰ったら調査課に「いったい何の調査をしてきたのか」と文句の一つでも言ってやろう、なんて気分になるのも致し方ないことだろう。

マリは盛大に溜め息を吐いた後、しばらく握りっぱなしだったシキの手をそっと解放した。思考整理に脳のリソースを割いていて、離すのを忘れていたのかもしれない。


「ということは、何はともあれミカヤですね。アレをどうにかしないと食われた魂が解放されない。孤児院の処理はその後で」


真相の推測ができたところで、マリが今後の方針をまとめる。

そう、対策課の仕事としては、むしろこれからが本番なのだ。魂を引き留め続けている怪異を何とかしなければ、二人の仕事は終わらない。


「そうじゃな……にしてもどうしたもんか。俺ら死神が食われることはなかろうが、完全に消滅させんことにゃあ……」


怪異における解決の定義はそれぞれであった。基本的には、その怪異の本体や核となっている部分を消滅させることで怪異現象はなくなり、解決とされる。

ミカヤの場合、ひとまず彼女自身を消滅させるしかない。ミカヤという怪異の情報がないため一か八かではあるが、わざわざ擬態して能動的に活動している以上、あれが本体であると考えるのが自然だろう。


「……火が苦手、と」

「ん?」


考え込んでいたマリが、思いついたように呟いた。


「ミカヤ、そう言ってましたよね。あれが本当なら彼女を燃やしてしまえば、あるいは」


そういえば。

シキも、暖炉を前にした彼女がそう言っていたのを思い出す。確か屋敷に到着してすぐ、紅茶を飲んでいる時だっただろうか。火が苦手だからコンロを電気のものに取り換えたとまで言っていたはずだ。


「……人間を食う怪異があんな嘘を吐く理由もわからんしな。試してみる価値は大いにある」

「というより、他に情報がない以上、あれが真実である可能性に賭けるしかないですね。普通に攻撃して通るかもわかりませんし」

「じゃな。そうと決まれば、」


「楽しそうですね。なんのお話をしていらっしゃるの?」


ふと。

視界に人型の影が落ち、囁くような声が背後から聞こえた。

二人は一瞬息を詰めるも、努めて冷静に振り返る。殺気は感じられないものの、同時に近付いてくる気配もまったく感じられなかった。


「どこへ行かれたのかと思いましたわ。お外へは出られませんよ……お二人はもうご存知なのでしょうけれど」


にこり、と。

マリとシキの視線を一身に受けたミカヤが、あたたかく微笑んでいた。黙って距離を取った二人をよそに、彼女は少し首を傾げながら疑問を口にする。


「でも、こんなところで何をしていらしたの?ここにはなにも──」

「人間を、食いましたね?ミカヤ」


警戒を顕にしたマリが、遮るようにして言葉を浴びせた。

その隣でシキが無言で先程記憶を読み取ったスコップを見せるも、それを目にしたミカヤはあら、と事も無げな反応を返すのみだった。


「食べ忘れがございました?私ったら。普段はお洋服もぬいぐるみもすべて一緒に平らげるのですけれど……お庭までは見ていませんでしたわね」


最早隠す気もないらしく、二人を迎え入れた時と同じ笑み、同じ穏やかさで彼女がそう語る。おそらく人間を食らう時も同様だったのだろう。この親切で人当たりの良い老婆の顔のまま獲物に近付いては、次々と腹に収めていったのだ。

シキは眉をしかめ、敵意もあからさまに吐き捨てる。


「そりゃ随分と用心深いこって」

「用心といいますか……そうね、食い意地ですわ。ぜんぶ食べなくちゃ勿体ないですもの。お部屋も綺麗だったでしょう?」

「……なるほど、それで」


屋敷内に何もなかった理由。

二人は意図的な隠蔽だと思っていたが、どうやら違ったらしい。

ミカヤはただ人間だけではなく、人間にまつわるものもすべて食らっていただけだと言った。髪の毛ひとすじですら食い物にする彼女という怪異に対して、二人はふとどうしようもなく嫌な予感に襲われる。


「私ね、思いましたの」


そんな予感を肯定するかのように、ミカヤは夢見る乙女の如き恍惚の表情を浮かべる。


「人間以外にも、美味しいものはたくさんあるんじゃないかって。彼らが遺したものもきちんといただけましたし、私、何でも食べられるみたいで」


一歩。

ミカヤが二人と距離を詰める。


「お二人はきっと人間ではないのでしょう?紅茶もなんともないようでしたし」


二歩。

じゃり、とマリとシキが後ずさる。


「うふ、ふふふ、ねえ、マリさん、シキさん?」


三歩。

ミカヤの纏う空気が変容し、肌がひりつく感覚に襲われる。


「貴方たちは、どんな味がするのかしら」

「──ッ!!」


彼女が言い終わるよりも速く、マリとシキは鞄を抱えて走り出した。

──まずい。これは、まずい。

怪異の中には死神をも消滅させかねないものもある。対策課の二人はもちろん理解しているが、すべてを食らわんとする悪食の怪異に出会ったのは流石に初めてだった。

おそらくミカヤであれば死神も食えてしまうだろう。少なくとも、捕まれば間違いなく無事では済まない。

とにかく今は彼女から逃げながら、打開策を考える他なかった。


「あら。どうせ逃げ場なんてありませんのに」


ここが孤児院の怪異の胎内であることを存分に利用してきた彼女は、余裕のある態度で二人が逃げた方へ向かって歩いてくる。門の外へは出られないのだから、どこへ逃げてもいつかは捕まると思っているのだろう。人間が相手であれば確かにそうだ。ただ彼らが疲弊するのを待てばいいのだから。彼女にとってここはまさに絶好の餌場だったということだ。


「マリ!屋敷に戻るぞ!」

「はい!?何を、……わかりました!」


危険ではあるが、このまま逃げていても事態は好転しない。相手の性質や能力がわからない以上、長引かせれば不利になるのはこちら側だった。ミカヤが先程の話──彼女を燃やす云々、を聞いていたのかどうかはわからないが、過剰に阻止しに来ないところを見るとおそらく聞こえてはいなかったのだろう。そう信じるしかない。

彼女に気付かれる前に、どうにか火を準備しなければならない。そのために屋敷の暖炉を利用しようと、シキはマリと共に屋敷の方へと駆け出した。


「ふふ、お屋敷での鬼ごっこをお望み?それも楽しそうですけれど──」


微笑んだままのミカヤが、老婆らしからぬ速さで動いた。大きく跳躍し、一気に二人との距離を詰めてくる。


「なっ……」

「獲物を捕まえることに関しては、私、負けませんわ」


彼女はそのままシキの眼前に降り立ち、腕をぶおん、と一薙ぎした。シキは咄嗟に背を反らして回避するが、まるで鈍器のような重さを以て振り抜かれたその攻撃は、当たれば死神であろうとただでは済まないと知らしめるのには十分すぎた。


「先輩!」


焦った顔をしたマリがシキの腕を掴む。そのまま『強化』を使って地面を蹴り、瞬時にミカヤとの距離を取りなおした。


「は、そんな見た目して、案外武闘派なんじゃな……!」


シキの背中に冷たい汗が滲む。『強化』が使えるマリはともかく、シキは死神の中でも戦闘向きではない個体だ。対策課にいる以上最低限の自衛はできるが、それも長時間となると厳しいものがあった。今だって辛うじて紙一重で避けられただけで、次はわからない。


「いいでしょう?この姿、お気に入りですの。人間も釣れやすいですし」


対するミカヤは息すら上がっておらず、どころかエプロンドレスを翻すその足取りは鋭く軽い。どう見てもシキより先に力尽きることはなさそうな様子だ。

そんな状況を正しく理解したマリが、ミカヤに届かないよう小声でシキを呼んだ。その間も、視線はまっすぐミカヤを捉えている。


「先輩」

「おう」

「ミカヤの相手をします。先輩はその間に火を」

「丁度俺からも提案するところじゃった。頼む」


シキは、持つ能力こそ異質ではあるが、自身のことを足手まといだと思ったことはない。何事も適材適所、という精神で仕事をこなしていた。

出来る者に出来るところを任せて、出来ないところは他の出来る者に任せる──そうやって死神たちはカンパニーを、世界のシステムを回している。それが一番合理的なやり方だからだ。もしもすべてをうまくこなせる者がいたとしても、それはその死神が損を被って疲れるだけで、全体的に見れば変わりはないのだ。世界とはそういうものだと思っている。

だから、後輩であるマリに頼むことに躊躇も遠慮もない。逆にマリに出来ないことを自分がやる、それだけの話なのだから。

時折襲いかかるミカヤの腕や脚を何とか躱しながら、二人と一人は屋敷の入口に近づいていく。その中で何度か反撃を試みたが、彼女は力があるだけではなく俊敏で、攻撃を当てることがまず困難だった。つまり直接火をつける、という案は現実的でない。何とか屋敷の中に留め置いて、建物ごと燃やすほかなかった。

マリが襲い来るミカヤを外で押しとどめ、その隙にシキが屋敷内で工作をする。準備が整ったところでミカヤを屋敷におびき寄せて火をかける、という計画だ。

まずはマリがミカヤをうまく引き付けられるかが肝心だった。

二人は一度方向を変え、ミカヤが視界に入らない程度に大きく距離を取る。じゃり、と地面の砂を手に握り込んだマリがシキに囁いた。


「屋敷近くで交戦し、彼女の視界を遮ります。その隙に先輩は屋敷に入ってください。後はオレが意地でターゲットを取り続けます」

「ほんまに頼れる後輩じゃな。あ、鞄ちょうだい」

「はい。もっと褒めてもいいですよ」

「お前のそういうところ嫌いじゃないで」


マリがシキに鞄を手渡し、再びその腕を掴む。そしてミカヤがいた方向へ戻ると、二人を見失っていたらしい彼女が辺りを見回しながらゆっくりと歩いていた。戦闘能力がずば抜けて高く気配を消すこともできるが、あの様子であれば五感はおそらく人間並みなのだろう。目潰しも有効なはずだ。


「頃合を見て屋敷にミカヤを誘導します」

「無理しなさんなよ」

「お互いに」


ミカヤがゆったりとこちらを向いた。

彼女は愛おしげに二人を見つめ、我慢できないとでも言うように舌なめずりをする。


「まあ、どこに行ったのかと思っちゃったわ。足がお速いのね」

「じゃろう。諦める気んなった?」

「うふふ。まさか」


マリとミカヤが、同時に地を蹴った。

ミカヤが二人を狙ってくるのとすれ違うように、マリは屋敷の入口がある方向へ駆ける。するとミカヤもすぐさま距離を詰め、マリに向かって大きく拳を振るった。大振りなそれを避けたマリが逆に彼女の懐に詰め寄り、先程仕込んだ砂を顔に目掛けて放った。


「何──っ?」


ミカヤはすぐさま身を捩ったが、避けきれなかったらしい。飛び退いて両手で手を覆っている。その隙をついてマリは彼女に再接近し、その胸ぐらを掴んだ。少しでも意識を他へ向けるまでの時間を稼ぐ気だと理解したシキは、出来うる限りの全力で屋敷へと走る。振動で激しく揺れる鞄がガチャガチャ鳴るのを両腕で押さえつけながら、なんとか入口に辿り着いた。

極力そっと扉を開いて中に入り、再び扉を閉め終わるまで、ミカヤの攻撃がシキを向くことはなかった。マリがうまくやっているのだろう。ここからはシキが出来ることをやる番だ。

屋敷の中は、来た時と何も変わらない様子だった。そのまま歩みを進め、最初に通された暖炉のある部屋へと辿り着く。

小さな火が、暖炉の中でゆらゆらと燃えている。所作なさげにも見えるその火は、足下の薪に必死にしがみついているかのようだった。

それを見たシキは──悠長にしている時間はないのを十分理解したうえで──それでもすべてを確認しておかなければならない、と感じた。


「……」


部屋の壁に両手で触れる。

そして、僅かな時間でシキが『同調』をはじめた。


"

『ああ、かわいい、かわいいわたしの家族たち』

『もうどこに行かなくてもいい。ここでおやすみ』

『わたしはあなたたちを守る。誰にも悲しい思いなどさせないから』

『だから、ここにいて。わたしが家になるわ』


『減っていく。ミカヤが、子どもたちを食べている』

『ごめんなさい、ごめんなさい、わたしが守ると決めたのに』

『どうしたらいいの。ああ、ごめんなさい、もうやめて』

『おねがい、ミカヤ、やめて、やめて、わたしの家族なのに──』

"


「……人間なんぞ探さずに、最初っからこうしとけば良かったんじゃな」


流れてきた孤児院の怪異の感情が、シキの胸を締め付ける。頭が割れそうなほどに痛い。これはきっと悲しみだ。家族を失ったものの嘆きだ。

マリもシキも、最初は孤児院の怪異が人間の存在を隠蔽しているのではないかと疑っていた。だから能力を使うことすらしなかった。警戒されているなら、隠蔽する力があるなら、読み取っても何も出てこないと思ったから。

けれど違った。実際に隠蔽行為をしていたのはミカヤであり、孤児院の怪異は何も隠す気などなかったのだ。それどころかもしかすると、二人が入って来た時からずっと、助けを求めていたのかもしれない。


「おい聞こえとるか、孤児院!聞こえとるじゃろう」


たった今垣間見た、自分のものではない絶望を振り払うように、シキは渾身の力を以て屋敷そのものに呼びかけた。


「俺らは人間じゃない。孤児院に囚われた──ミカヤに食われた人間たちの魂を解放しに来た死神じゃ」


届いているかはわからない。確証はない。

けれど恐らく、孤児院の怪異には怪異なりの意思と自我がある。人間への純粋で歪んだ愛がある。特に「家族」だった彼らについて、思うところがないはずはないだろう。


「お前に悪気がなかったんも知っとる。お前が悔しかったのも悲しかったのもじゃ。でもな、じゃけえこそ」


やはり何処からも反応はない。

肯定も否定も返ってくることはない。

時折びり、と壁が震えるが、それはマリとミカヤが外で交戦している余波だろう。きっと孤児院の怪異は、意思はあってもそれを外に伝える術を持たないのだ。一方的に人間を可愛がるだけの怪異なのだから、持つ必要がなかったのだと考えると納得もできる。

それでもシキは続けて語りかけた。


「俺は、今からこの屋敷ごとミカヤを燃やす。ミカヤを確実に仕留めるために」


屋敷に火をつける。

孤児院の怪異からすれば、到底受け入れられることではないのかもしれない。だが、ここに怪異が愛した「家族」たちはもう誰もいない。帰ってくることももう二度とない。

ならば、せめて。


「アイツを完全に消さにゃあ、ここにおった人間たちは解放されん。お前もほんまに人間を愛しとったんなら覚悟決めんさい!」


怪異は人間の想像や願望、または恐怖によって生まれる存在である。だからこそ人間のような感情を持っているものも少なくない。『同調』の力を持つ対策課のシキは、他の死神の誰よりもそれを知っている。

だからこれは、シキなりの気遣いだった。

孤児院の怪異はシキたちに危害を加える存在ではなかったわけで。たとえ相手が怪異であろうとも、何も知らせぬ内に勝手に火をつけるというのは何となく後味が悪いと思ってしまったのだ。


「まあ、そういうわけじゃ。俺らを許せとは言わん。火、借りるで」


伝えたいことを言い切ったシキは、ひとつ息を吐いた後に暖炉へと手を伸ばす。

暖炉の傍に僅かに積んである小さめの薪を追加でくべてみたが、元々が小さいためか、なかなか火は大きくなってくれない。暖炉を中心に火を広げていくことを考えていたが、この様子だと火をつけた薪を屋敷内の各所に落として行った方が早そうだ。

ただしどちらにせよ、多少時間がかかることに変わりはない。シキは内心でマリの心配をしつつ、いくらかの薪をまとめて持ち、そのすべてに火を移していった。


「よし。こんだけありゃあ足りるじゃろ」


シキがもう片方の手でカンパニーから持参した鞄を開ける。

中には、小分けした油の入った瓶と着火道具が詰まっていた。

当初の予定とは少し違うかたちにはなったが、孤児院を燃やすために持ってきた道具であることに変わりはない。薪と一緒に油を撒いていけば、いくら広い建物といえど短時間で火が広がるだろう。

薪と瓶を持ち、シキは走り出した。入口に近いこの部屋に火をつけるのは最後にしなければ、自分たちが脱出できない。とはいえ、高い身体能力を持ったミカヤを確かに燃やすためには、入口以外の出入りできる窓や扉のある部屋、そして二階に上がる階段はすべて炎で塞いでおかなければならないだろう。シキはまず、遠い部屋から火を落としていくことにした。

生憎と屋敷の見取り図などは持ち合わせていないため完全に手探りではあるが、とにかく屋敷の奥へと進んでいき、突き当たりの部屋から順に次々と油を撒いていく。絨毯のある部屋ならば絨毯全体に染み込ませるように、ない部屋ならば扉と窓付近に重点的に。

そうして油を撒いたところに小さな火のついた薪を落とすと、薪を中心に床を舐めるようにして火が燃え広がっていく。炎に巻き込まれないように注意しつつ、シキは一階すべての部屋を回った。

次に二階に上がり、階段から一番近く、丁度シキたちが寛いでいた部屋から絨毯を拝借し、階段を覆うように設置する。そしてそこへ油をたっぷりと撒きながら階段を降りていった。

一階へ戻ると火の手はまだ入口付近に届いてはおらず、各部屋の扉を閉めてきたため煙も充満していない。室内温度は確実に上がってきているが、これならば一見して火をかけたとは分からないだろう。今は、まだ。

シキが最後の仕上げと言わんばかりに暖炉のある部屋の絨毯に油を撒き、丁度すべての瓶が空になった、その時。

ばたん、と。

肩で息をするマリが、重たいはずの玄関扉をぶち破った大きな音と共に転がり入って来た。


「先輩、ッそろそろ、」


どうやらマリをもってしても流石に体力の限界らしく、切羽詰まった声を喉から押し出している。そんな場合ではないのに、一緒に居なくてこれなら別行動していてよかった、とシキは心底思った。シキに守る力がないからこそ、せめてマリをむざむざ危険に晒したくはないのだ。


「マリ!ようやってくれた、ここが最後じゃ!」

「あら、シキさん。ごきげんよう」


すかさずマリを追ってきたミカヤも扉があったところから侵入してくる。そのまま流れるようにマリに掴みかかろうとするが、彼は間一髪前転で避けた。


「はぁ、しつ……っこいな!」


疲弊したマリがたまらず悪態を吐く。対するミカヤは未だピンピンしており、シキは改めて彼女という怪異の恐ろしさを意識した。死神ですら相手取ってこれなのだから、人間などにはどうすることも出来ないだろう。孤児院の怪異のような閉ざされた空間ならば尚更である。


「ふふ、マリさんもそろそろ疲れた頃でしょう?シキさんは……あら」


す、とミカヤの視線がシキに向く。シキは咄嗟に身体の後ろに薪を隠すが一手遅く、その動きを不審に思ったらしいミカヤが目を細めた。


「こんなところでおひとりで何をしてらっしゃったのかしら?」


言い終わるが早いか、ミカヤは一直線にシキの方へ跳ぶ。その勢いのままシキの胸元に接近し、抉るように脚を振り上げた。


「が、っ……!」

「先輩ッ!!」


ミカヤの蹴りでシキは軽く吹き飛び、壁に叩きつけられる。痩躯が衝撃で軋み、思わず口から呻き声が漏れた。早く動かなければと警鐘を鳴らす頭の片隅で、死神はどうせ怪我で死なないのだから痛覚も要らないだろうに、とシキは妙に冷めた思考をする。落ち着いているわけでは決してない。痛みのせいで頭がうまく回っておらず、余計な思考が紛れ込んでいるだけだ。

違う。今はとにかく、火を。


「っ、ぐ、ぁ……マ、リ」

「……ッ、待っててください、今……!」


聞いたこともないような声で叫んだマリに、自分は大丈夫だからと言い聞かせるように呼びかける。視界がぼやけ、マリがどんな顔をしているかまではわからないが、シキ以上に焦っていることは声音で察した。


「火、は……!」


シキが吹き飛ばされた時、火種は確かにその手を離れて床へ落ちていた。シキによって油を撒かれた絨毯は、落ちてきた火を手を広げて歓迎するかのように、瞬く間に大きな炎を生み出していく。この様子ならば、他の火と相まって、屋敷全体が焼け落ちるのもすぐだろう。


「あ、あ、なんてこと──」


そして、その様子を見たミカヤの足が止まった。

彼女はたたらを踏んで立ち竦み、忙しなく辺りを見回しはじめる。どうにかして逃れる道を探しているのだろうが、火の回りはそれよりも速く、あっという間に四方八方からミカヤの進路を塞いでいった。


「火は、火は駄目──!」


その隙をついて、マリは『強化』した足でシキの傍に駆け寄り、すぐさま腕を引く。ふらつくシキの身体を躊躇いなく抱きかかえ、脱出のために入口へと向かった。


「行きます!」

「頼、んだ……!」


マリは再びぐ、と足に力を込める。爆発的な加速と衝撃に振り落とされないよう、シキはマリの首に腕を回して必死にしがみついた。

どん、とまるで何かに背中を押されるかのように、マリは勢いをつけて屋敷の扉から飛び出る。

シキを抱えた彼が屋敷から離れた、その瞬間。


轟。


屋敷が。

屋敷すべてが激しく燃えはじめた。

逃げ道を火に遮られて出られないミカヤもまた、炎に抱かれていく。


「あ──嫌、まだ、食べたいのに──!」


燃えている。

慟哭するように。

哀泣するように。

赤い赤い炎は勢いを増していき、やがて爛爛と燃え盛る渦となって屋敷すべてを包み込んだ。

そのうちに炎の中に大きな光が見え、みるみるうちに膨張して炸裂する。眩しさに二人が思わず目を閉じ、次にそっと開けた時には──目の前に、屋敷も庭も門も、何もない空き地が広がっていた。


『ごめんね』

『ごめんね、みんな、守ってあげられなくて』

『大好きだった、かわいいわたしの──』


そんな声がどこからか聞こえたような気がして。


人間が大好きだった孤児院の怪異は、人間を食らった怪異を道連れにこの世から消えていったのだった。



「……一件落着、ですかね、これ」


どことなく途方に暮れたように立ち尽くしていたマリが、やはりどことなく哀愁の漂う声音でそう零した。それを聞いたシキは仕事は終わったと言わんばかりに口から長い息を吐く。先程受けたダメージは、自力で立っていられる程度には回復していた。


「げほっ……怪異が消えたけぇ魂は解放されたじゃろうし、あとは回収課の仕事じゃ。ミカヤについては、帰って報告せにゃならんが」

「肝心のミカヤが跡形もないんですよね。調査課に証拠を出せって言われたら面倒ですが……」


それはシキも解っていた。

しかしミカヤは孤児院の怪異とともに消滅してしまったのだ。今更何かしら残っているはずもなければ回収しようもない。怪異による案件は怪異の消滅を以て解決とすることが殆どなのだから、調査課も「正確な報告を」だなどと無茶を言わないでほしい、とも思う。

仕方がないので、シキはとっておきの笑みでマリの方を向いてみることにした。投げやりの無茶振りである。


「そこはマリくんが何とかしてくれるじゃろ。愛しい先輩のために」

「無理ですね」

「つれんなあ、……痛ッ」


間髪入れない返答にシキはカラカラと笑うが、そのはずみで打ち付けた背中が痛み、つい小さく声を上げてしまう。瞬間、マリがシキの袖を引き、そのまま身体を抱きすくめた。痛いくらいに強い力が込められた腕の中で、シキはごく普通に戸惑っていた。


「は……」

「ごめんなさい、先輩。オレがついていながら」

「え、ああ、えーっと……?気にしなさんな……?」


お前そんなキャラじゃったっけ?と訝しむ気持ちを何とか堪え、返す言葉を選ぶ。マリとシキが対策課でコンビを組むのはこれが初めてではない。とはいえまだ両手で数えられるほどであり、お互いに理解が及んでいるとはまったく言い難いのである。

だから、マリにはこんな一面もあるんだな、とシキは一人頷くことにした。


「……心配、したんですよ」

「死神なのに?変な奴じゃな」

「死神だって怪異に食われたら死にます」

「そりゃあそうじゃけど。別に俺が消えても他がおるし」


マリが少し身体を離し、真正面からシキを見つめる。

何だか見たことのない真剣な顔をしている気がして、意味もなく居心地が悪くなった。


「オレのパートナーは先輩なんですから」

「……お前にゃあ、もっと他の奴の方が合うとるんじゃないんか。今日も、だいぶそっちの方が負担デカかったと思うんじゃけど」

「違うんです。……違うんですよ」


なにが、と問おうとした唇が唐突に塞がれる。

口付けられたのだ、とシキがようやく理解する頃にはもう、マリの顔は遠ざかっていた。

完全に言葉を失っているシキを見て、マリは満足そうに口端を上げる。


「オレはシキがいい」


追撃。

よくもまあそんなことを恥ずかしげもなく、だとか、よく言うわいっつも憎まれ口ばっかり叩きよるくせに、だとか。普段なら出てくるはずの反論の数々は喉奥ですべて蒸発し、シキの喉をカラカラに渇かせた。


「……、……あ、そう。……え?何、今の」


更に何秒か経ってようやっと押し出されたのは、何とも中身のない馬鹿みたいな疑問だけ。それでも今のシキにとっての精一杯だった。


「ずっとずっと追いかけてるのに、先輩が全然気付いてくれないから。さ、帰って一緒に報告書……いやその前に治療センターに行きましょう。付き添います」


来た時に立ち込めていた霧はすっかり晴れていた。

だから道に迷うことももうないはずなのに、マリは軽やかにシキの手を取って歩き出す。


──ずっと?

未だ動揺冷めやらぬシキの脳内に、マリの言葉が鋭く引っかかった。

マリとシキは対策課で初めて顔を合わせた。マリが対策課に来てまだそこまで期間は経っておらず、少なくともずっとなどと形容するほど付き合いは長くないはずだ。彼が対策課に来る前にどこかで会ったことがあるのだろうか、とも考えたが、生憎とシキのろくでもない記憶力では何も思い出せない。

とはいえ何となく聞き返し辛い雰囲気で、何よりシキ自身が味わったことのないいたたまれなさに襲われていたものだから、その場で訊くのはやめておいた。

代わりに別の疑問をぶつけることにする。


「……マリくん?手ェ……」

「カンパニーに帰るまで。いいでしょ、先輩」


言及されてもまったく離す気配はない。寧ろ文句は受け付けないとでも言うようなマリの強引さが珍しくて、シキは勢いに押し返されてしまった。


「いやまあええんじゃけど。……ええか」

「ふふ」


それでも、目の前の後輩があんまり嬉しそうなものだから。

シキはやけに熱を持ったままの顔を逸らすことも出来ず、半ば自棄っぱちに破顔したのだった。


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