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それから数日、お盆も無事終わりを迎え、テレビはUターンラッシュの過酷さを特集していた。
それを漫然と眺めながら麦茶を啜る。
開けた窓の向こうからはヒグラシが高い声で鳴き、何とも哀愁を誘う音が聞こえてくる。
その声に居心地の悪さを覚え、俺は窓を閉め、グラスに残った麦茶を一気に飲み干した。テーブルへ置けば、カランと氷が崩れ、冷たい音が部屋へ響いた。
それがまた俺の不安を増長させるようで、俺は気のせいだと言い聞かせるように一度かぶりを振った。
最近どうも調子が良くない。
理由は分かっている。透矢だ。
あの泊りから今日まで、一切透矢の姿を見なくなった。森田君とは、彼の出張帰りに一度顔を見せている。その時に、彼はこの後実家に帰省するとは言っていた。だから、もしかしたら森田君がしばらく不在と分かっているから、顔を出さないのかもしれない。
が、何がとは言えないが、こうずっと落ち着かず、胸の中で小さな不安が消えずにいる。
「せめて連絡先くらい聞いとけば良かったな。」
今までは透矢とすぐ会えたから、特に連絡の有無を気にすることは無かった。
だから、連絡先どころか透矢の部屋番号も知らない。透矢のアパートはセキュリティがしっかりしているようで、居住者の許可がないとエントランスにすら辿り着けない。
一日アパートを張り込む訳にもいかないし、詰んだな。
どうしたものか、うんうん考えるが何も案は出ず。
「よし、一度頭をスッキリさせるか!」
俺は財布を手に、コンビニへアイスを買いに行くことにした。
アパートを出れば空は暗く、黒雲が空の半分を覆っていた。それももうすぐここまで広がりそうだ。
何となく肌に触れる風も生暖かい。もしかしたら一雨来るかもな。
俺はコンビニへ足を速めた。
案の定、会計を済ます頃には空は更に暗くなり、大粒の雨が地面を打ち付け始めた。
雲からは稲光と雷鳴が引っ切り無しに轟き、外を歩いていた人たちは一斉に周囲の店へと避難した。
俺は再度レジへ向かいビニール傘を購入し、急いでアパートへと戻った。
外は風も強く、俺の体は傘が有ってもほぼ意味は無く、一瞬にして全身がずぶ濡れになった。いや、天気急変しすぎだろ!
どうにかアパートへ辿り着き、傘を畳みながら部屋へ進むと、視線の先に濡れた靴が目につき、顔を上げれば俺の部屋前に一人の男が立っていた。顔は俯き、濡れた髪と服からは水が滴り、足元には小さな水たまりが出来ている。
その姿に俺は目を見張った。俺以上に全身が雨で濡れ鼠となった人物、それは俺が今一番心配して会いたかった透矢その人だった。
「なっ、透矢どうしたんだ?!」
俺は慌てて駆け寄り髪をかき分け顔を見れば、表情は無く、ただただ黒く虚ろな瞳がぼうっと揺れていた。なんの反応も示さない。
触れた頬も青白く冷たい。
その様子に俺の背筋がぞわりと粟立ち、あの得も言えぬ不安が押し寄せてくる。
それを振り払うかのように、急いでドアを開け、透矢を部屋へと押し込んだ。
「とにかく体、体温めろ!!」
靴を脱がせるのも惜しく、俺はそのまま透矢を風呂場へと連れて行った。
急いで浴槽に湯を張り始め、その間に透矢の靴や張り付いた衣服を全て引っぺがす。
そうこうしている内に湯が溜まってきたので、そのまま浴槽へと放り込んだ。
手や腕、背中を摩りながら様子を見ていると、少しして頬に赤みが差し、「俺…」と呟く声が聞こえた。顔を見ると、まだぼおっとはしているものの、さっきよりも生者の表情をしているのが確認できる。
そこでようやく俺は安心し、へろへろと浴槽に手を付きへたり込んだ。
「ったく、心配させんなよな。」
はぁーっと大きく息を付き、肩を下げて見せれば、透矢は「ごめん」と一言。
全く力のない弱々しい声が、森田君と何があったのかを安易に想像させた。
けど俺は気付かない振りをして、普段通りニッと笑みを見せ、明るく声をかける。
「風邪引くと良くないから、しっかり温まって来いよ。」
頭をそっと撫で、そのまま浴槽を出ようと体の向きを変えた所で、透矢に腕を掴まれた。透矢を見やれば口をパクパク動かして俺をじっと見つめている。
床に膝をつき、顔を近づけ再度促せば小さな声で一言。「行かないで」と。
俺は掴まれた手とは反対の手で、再度ゆっくりと透矢の頭を撫でた。
「大丈夫、俺はここにいるよ。」
安心させるように何度も撫で、優しく声をかけると、もう片方の腕も掴まれた。
そのままぐいと力強く引かれ、バランスを崩した俺の体はバシャンッと水飛沫を上げながら、浴槽へと勢いよく突っ込んでいった。
浴槽に落ちたことで透矢から手は解放された。が、今度は透矢の両腕ががっちりと俺の背中に回り込んだ。要は抱きしめられている。
浴槽へ前のめりにダイブしたせいで、俺は若干湯を飲み込み、そのまま透矢の胸元に顔を潰される。思わず「ぐえっ」と奇声が漏れた。瞬間、透矢の俺を掴む腕の力が緩んだ。
その数秒を見逃さず、俺は腕に力を入れて上半身を上へと押し上げる。流石に透矢の腕が離れることは無く、今は俺の腰をがっちりとホールドし胸元に顔を埋めて居る。
口に湯が入り命の危険を感じることは無くなり、俺はホッとしながら再度透矢の名前を呼んだ。ピクリと彼の肩は跳ねるが、特に何かを言う気配はない。代わりに、腰を抱きしめる腕にぐっと力が入った。まるで俺が離れていくのを怖がっているようだ。
安心させるように、俺は再度「大丈夫、ここに居るよ。」と声をかけ、頭を撫で、肩や背中をトントンと優しく触れ続けた。
それから暫くして、俺を掴む腕の力も若干落ち着いた。俺が離れないと安心出来たようで、今度はぐりぐりと透矢の額が俺の胸元に押し付けられる。
「優一郎、結婚するんだって。」
ぼそり。震える声でどうにか絞り出したような、とても弱々しい声で透矢は呟いた。
あぁついにこの日が来てしまったか。
俺は想像通りの展開に一度目を瞑り、それからそっと透矢の頭を撫でながら「そうか」と返した。
「俺、ずっと優一郎が好きだった。」
「そうだな。」
「彼女なんかより、よっぽど優一郎の良い所を知ってる。」
「ああ。」
ぼそりぼそりと呟く透矢。
俺はその一つ一つに頷き返す。
今まで心に仕舞い込み、溜めていた感情が、ついに溢れ出しているようだ。
もしかしたら、森田君を好きになった瞬間から、透矢は報われない恋と分かっていたのかもしれない。でも好きな気持ちを誤魔化すことは出来ず、森田君だけを見つめることで、彼への恋心を満足させようとしていた。彼女が出来ても、森田君の幸せをずっと願い続けた。森田君が幸せで有れば良い、それで俺は満足、そう思い込んでいたんだろう。
「…っ本当は、俺だけを見て欲しかった。」
「もっと優一郎の傍に居たい。あいつの隣に居たいのに、いつも違う奴に取られる。」
「…なんで俺じゃダメなんだろ。」
透矢の8年分の思いが溢れていく。
鼻を啜り、声もしゃくり上げながら、それでも必死に声を絞り出す。
その様子に、何度も俺は「そうだな。」「森田君の事、大好きだもんな」と返し続けた。
「…本当は分かってた。」
透矢が全ての思いを吐きだせた頃、彼は一度鼻を啜りそれからまた話し始めた。
さっきよりは幾分声に力が戻りつつある。
「優一郎の特別にはなれないって。俺だけがいつも優一郎を追いかけてた。あいつは優しいから、こんな俺に対しても全力で受け止めてた。」
そこまで一息で話すと、最後に、透矢はゆっくり息を吸い、「でも、それは単なる優しさで、それ以上のものは無かったんだよな。」と続けた。
自嘲ともとれる笑いを感じ、俺はそっと透矢の顔を見た。目は赤く腫れ、視線は湯を見続け、唇は若干震えている。
「透矢」
俺は両手で彼の両頬を包み込み、ゆっくりと顔を上げさせた。
俺と目が合うと、少し決まり悪そうに視線が逸れる。
「お前は凄いやつだよ。」
そんな透矢に向かって、俺はそっと声をかけた。
「森田君の事が大好きで、大好きで。その気持ちをずっと大切にしてきて凄いよ。」
「凄い?」
再び視線が俺へと戻り、きょとんと俺を見つめ返す。その視線に大きく頷いてみせた。
「ああ、それに森田君の幸せをいつも第一に考えてた。それってなかなか真似できないもんだと思うよ?だからさ、まずは透矢自身がすっごく頑張ったって、自分の事を誉めてやろうよ。」
「誉める…」理解が追い付かないのか、いまいちピンとこない透矢は、俺の言葉をオウム返しに何度も口の中で呟く。
「ああそうだ。ずっと森田君を第一に思い続けて凄い。一緒に居たい思いで、運動部に入部したのも、そこで真面目に練習したのも偉い。俺の決まりを守って、ルールの範囲内で森田君を見守れて偉い。彼女の事だって、森田君の幸せを願って見守り続けられて偉い。」
ゆっくり、一つ一つ誉めながら、俺は透矢の目を見つめる。その瞳にまた赤みが差し、どんどん涙が溢れ、零れ落ちていく。
「確かに、透矢は森田君にとっての特別にはなれなかったかもしれない。でも、一緒に過ごしてきた時間に変わりはないし、その間ずっと頑張ってた透矢の努力や思いは、決して無駄じゃ無いよ。」
「よく頑張ったな」そうもう一度笑みを浮かべよしよしと頭を撫でれば、透矢は腕に力を込め、俺の胸元に顔を埋め直す。それから何度も何度も森田君の名前を呟き、涙と嗚咽が浴室内に響いた。
透矢が落ち着くまで、俺はずっと彼の背中を撫で続けた。