第八話 客と栗と故郷の味
ベレンガリオが出立した翌日のことです。
午前の庭内の走り込みを這々の体で終え、風呂と着替えを終えたジョヴァンナが食堂で昼食を今か今かと心待ちにしていたら、老執事長ドナートが突然の来客を知らせました。
その来客の名を聞いて、ジョヴァンナは青ざめます。
「え!? お、叔父様がいらっしゃった……!?」
こくり、と老執事長は確かに頷きます。
ベレンガリオの叔父、つまり先代グレーゼ侯爵の弟に当たるセネラ子爵が、はるばる王都からグレーゼ侯爵領へやってきた——まさかの義理の叔父に、太った姿を見られることになってしまうのか、とジョヴァンナは激しく落ち込みます。
しかし、当主たるベレンガリオ不在の間は、来客には侯爵夫人が対応すべきです。それに、一概に悪いことでもないのです。
「セネラ子爵には、坊っちゃまに呪いをかけるような人物に心当たりはないかと尋ねておりましたので、その報告かと。ただ、わざわざいらしたということは」
「何か、重要な話があるかもしれません。そこに私が同席しなくてはならないのは……はい、諦めました……」
「心中、お察しいたします。しかし、呪いについて知識が足りない我々では、話をきちんと理解できないやもしれませんので、どうか」
呪いについて、ジョヴァンナも詳しいわけではありません。しかし、何の知識もないわけではなく、ダーナテスカ出身者のほうが何かと古にあった魔法や呪いについて耳にする機会もあり、金のブローチや指輪を持っている、つまりその伝手であるダーナテスカ伯爵夫人と問題なく情報を交換できるのは、ジョヴァンナだけです。
ならば、やはりジョヴァンナが直接セネラ子爵から話を聞いたほうが、正確かつ迅速に次の行動へ繋げられるでしょう。そこに反対すべき理由はないのです。
老執事長ドナートに、セネラ子爵を食堂へ招くよう伝え、ジョヴァンナは楕円形の食卓に突っ伏して盛大にため息を吐きました。ジョヴァンナは太った姿をあまり多くの人々、とりわけ親族に見られたくはないのですが、致し方ありません。このごろは何かあるたびため息を吐いている気がします。
そうして、セネラ子爵が食堂に姿を現しました。
短く揃えた銀髪もさることながら、グレーゼ侯爵家の血筋らしく端正な顔立ちの中年男性です。髭を揃え、年相応に深みのあるダンディな伊達男なのですが、どことなく胡散臭いのは気のせいでしょうか。王都公官庁に勤める文官の礼服を着崩したせいでもあり、首元の金色のショールのせいでもあるでしょう。
そのセネラ子爵は、ジョヴァンナを見て一瞬顔を引きつらせましたが、すぐに笑顔を繕いました。
「お、おお、ジョヴァンナか? ずいぶん、その、変わったな」
「申し訳ございません、呪いを受けましたので……こうなってしまいました。できれば、他言無用でお願いいたします」
「うむ、君を愛するベレンガリオが怒るからな」
そう言われると、ジョヴァンナは胸がちくりと痛みます。果たしてベレンガリオとの関係は、元どおりになるのでしょうか。いえ、呪いが治まり、ジョヴァンナが痩せれば、きっとベレンガリオは受け入れてくれるはずです。そう信じて、ジョヴァンナは少しでも呪いを何とかするヒントを得るために、対面の席に座ったセネラ子爵の話へ真剣に耳を傾けます。
「まず、ベレンガリオが出征していた今回の戦は、王都でもそれなりに関心があった。地方の小競り合いとはいえ、何せ総大将は王弟殿下とジェラルディ侯爵の争いだ。そこに隣国の領地を隣接する貴族たちが自らの権益堅守を主張しての横槍で大混乱、それが大規模な戦に発展しないよう上手く治めることがベレンガリオの使命だった」
「はい。半年にもわたる遠征、それに機微な外交問題の解決も含まれていましたから、きっと私には想像もできないほど大変だったのでしょう」
「うむ。宮廷でも何度となく戦と交渉の経緯報告に接したが、よくもまああれを半年で無事調停したものだ。日増しにベレンガリオの手腕を評価する声が高まって、王弟殿下もジェラルディ侯爵も停戦の王命を無視できなくなった。両者納得のいく落とし所があるなら、とやっと剣を下ろしたわけだ」
諸侯の戦争を止め、停戦交渉を成功させる、というベレンガリオの活躍は、ジョヴァンナの予想以上に世間へ派手に鳴り響いているようです。ジョヴァンナも新聞に目を通しますから多少は知っています、しかし実際に王都の中枢で仕事をしているセネラ子爵が活躍を認めるほどですから、これはもう間違いなくすごいことです。
であればこそ、呪いを受けるには十分すぎるほど、ベレンガリオは悪い注目を集めてしまったのかもしれません。
セネラ子爵も、その点を懸念していたようです。
「だが、戦とは当事者たちだけのものではない。戦地から遠く離れた王都にも、戦を止めようとする者、続けさせようとする者、己の利益のために立場はさまざまだ。それゆえに、ベレンガリオを疎む……一見、無関係のような輩もいる。例えば、戦で稼ぐ商人や勝ち馬に乗ろうとした貴族だけでなく、それらの親戚、もしくは戦に送り込んだ本家の跡取りを亡き者にしようと企んでいた者なども、な」
「……複雑、ですね」
「ああ。まさか一人一人に、ベレンガリオへ呪いをかけたかと尋ね回るわけにもいかない。であれば、まずは呪いを扱う者を押さえて、接触した人間を洗いざらい調べていくしかない。魔法使いや呪術師を名乗る連中を、友人の協力もあって片っ端から当たっていった結果」
「結果、どうだったのでしょう?」
「残念ながら、重要人物には逃げられたよ。まあ、これ以上呪いをかけようとはしないだろう。それは安心していい」
「では、あとは私が痩せるだけですね。何とかなるといいのですけれども」
レディの機微な話題だけに、セネラ子爵は曖昧に苦笑いをしていました。これが頭の固いご老人であれば「家にいるだけの女のくせに、夫の役に立って光栄と思え」とか、「太って見栄えがいいだろう。これで他の男も寄りつかず、夫は安心するに違いない」だとかデリカシーのないことを言って、ジョヴァンナをより悲しませるところでしょう。
そう考えれば、その類のことを言わないセネラ子爵はいい人なのです。
セネラ子爵は、思い出したように話題を変えました。
「そういえば、君の故郷ダーナテスカは栗の産地だろう? 秋になって特産の栗が出回っていると聞いたから、取り寄せてドナートへ渡してある。たまには故郷の味を懐かしんでもバチは当たらないよ」
セネラ子爵の気の利いたお土産に、ジョヴァンナも少しは気が晴れます。
「まあ、ありがとうございます。たくさん練り粥が食べられますわ」
「ん? 栗を使うのか?」
「はい。実家では栗を挽いた粉で作ります。こちらはトウモロコシの粉とブイヨンで作るそうで……ベレンガリオ様にも食べていただけるかしら。うーん、好みではないかも」
「ま、まあ、それは追々だな。まずは君が味見をしてみるといい」
「そうですね。実家とは水質も何もかも違いますから、試してみないと」
練り粥とは、この国では主食の一つとして食べられる料理です。ひたすらに鍋で水と練るという作り方は同じですが、地域によって材料が異なり、ダーナテスカ伯爵領は特産の栗を使う独自の味を持っています。
幼いころから食べ慣れた秋の味覚でもあり、滅多に会わない叔父がジョヴァンナの故郷について憶えていてくれたことは、何とも喜ばしいものです。
そこへ、次の喜ばしい知らせが舞い込みました。
老執事長ドナートが食堂にやってきて、大事そうにトレイに載せて運んできたお菓子をジョヴァンナへと差し出したのです。
「失礼いたします。奥様、少々よろしいですか? シェフがカスタニャッチョを作ってみたとのことで、ぜひお味見をと」
「まあ、本当? すごいわ!」
ジョヴァンナの前に置かれた、可愛らしく暖かみのある黄色の陶器の皿の上に、四角く切り揃えられた焼き菓子が盛られていました。カリカリに焼かれたカスタニャッチョ、紛れもなくジョヴァンナの故郷のお菓子が香っています。栗の粉とオリーブオイルと塩を混ぜて焼くだけ、という素朴な味に、レーズンや松の実、いちじくなどアレンジし放題で、実家では待ちに待った甘いデザートワインの試飲に供される秋の季節のお菓子。
香ばしいカスタニャッチョを前に目を輝かせるジョヴァンナは、セネラ子爵の存在をうっかり忘れてしまうところでした。慌てて、セネラ子爵にもカスタニャッチョを勧めます。
「叔父様もいかがでしょう? どうぞ、遠慮なさらないで」
セネラ子爵は困ったように微笑んで、首を横に振りました。どうやら、気遣わせてしまったようです。
「いや、私はいいよ。このあと、近くでワインの品評会があってね。腹を空かしておかなくてはならないんだ」
「そうなのですね。残念だわ」
「またの機会に頼むよ。それでは、そろそろお暇しようか」
ジョヴァンナは一旦カスタニャッチョを食堂に置いておき、早々に辞去するセネラ子爵を見送ります。とりあえず、これ以上ベレンガリオが呪いをかけられることはない、同時にこれ以上呪いによってジョヴァンナが太ることはない、という報告に安堵し、やっとジョヴァンナは肩の荷が一つ降りた気がしました。
昼食後の運動に励むやる気が出たところで、ジョヴァンナはいそいそと食堂へ戻ります。そこへ、老執事長ドナートがそっと一言。
「奥様。セネラ子爵の持ち込まれた栗はシェフに渡しておきますので、ご安心を」
「え? あ、はい、お願いします。そうだ、練り粥を作りたいので、あとで厨房に行きますとお伝えください」
「承知いたしました。まもなく昼食をお運びしますので、食堂でお待ちくださいませ。そうそう、昼食が食べられなくなりますので、カスタニャッチョの味見は控えめにお願いします」
「……は、はい、もちろん」
少しジョヴァンナの目が泳いでいましたが、老執事長ドナートはにこりと笑って立ち去りました。危ないところでした。つい久しぶりの故郷の味に、舌鼓どころか満腹になるまで食べ尽くすような悲劇は未然に防がれました。
食堂にポツンと残った黄色のお皿に、すでに冷めたカスタニャッチョが待っています。ジョヴァンナは一口大のそれを一つだけ摘み、もそりと頬張ります。
慣れ親しんだ栗の素朴な味、焼きすぎでもなく柔らかすぎでもなく、ちょうどいい塩梅の食感。何より、シェフの心づくしとばかりに、ジョヴァンナが求める甘いものがこっそり刻んで練り込まれています。
「甘い……実家のカスタニャッチョはそんなに甘くないけれど、これは梨のコンポートが混ざっていて甘くて美味しいわ」
ひとときの幸せに、ジョヴァンナは少しだけダイエットのことは忘れて、美味しいものを一つ、我慢できなくてもう一つ摘みました。食堂の外の廊下でカートを押す音が聞こえてきて、慌てて口の中に放り込み、怪しいことはしていませんとばかりに椅子に座って背筋を伸ばします。
昼食を食べたら、もうひと頑張りです。
食堂でジョヴァンナが昼食を摂っている最中のことです。
厨房の勝手口の外で、シェフと老執事長ドナートが声をひそめて話していました。
何やら、シェフは深刻な表情をしています。
「ドナート、やっぱりだ。セネラ子爵の持ってきたあの栗、毒が付いてる」
「そうですか。銀食器を当てると変色しましたから、おかしいと思ったのですよ」
「こっちで処分しておくよ。下手に捨てると厄介だ」
「しっかりと頼みますよ。奥様には内密に」
「坊っちゃまは大丈夫かね」
「大丈夫でしょう。何か確信があって行動なさっていると思われますので」
「ははっ、坊っちゃまもご立派になられたね」
「ええ、まったく」
二人は長くグレーゼ侯爵家に仕える者同士、当主ベレンガリオと妻ジョヴァンナを守る気持ちは一致しています。
それはかつてグレーゼ侯爵家の一員だったセネラ子爵が相手でも、同じことでした。