アートなふたりの彩色絵葉書
七夕が近い初夏の日。事務所の独立を口に出したがゆえに、お洒落で気品のある恋人に振られた星彦。同じころ、似顔絵描きを生計にしているアートデザイナーの織女は無職となった。これまで二人は別々の人生を歩んでいるが、実は幼馴染だった。幼少期に近所に住む場越じいさんの家でよく遊んだのだ。三十歳前後になった二人は、ローマ神の導きで久しぶりに再開する。だがそれが誰なのかを互いには知らない。初恋同士で、幼馴染の二人は山下公園のベンチから空白を埋め始めるのだが……。
その昔、キャパ(Robert Capa 1913-1954)や木村伊兵衛(1901-1974)よりももっと昔の写真技師の時代にフリーチェ・ベアト(Felice Beato 1832-1909)というフォトグラファーがいた。その土地に合わせてフェリックスともフェリスとも名乗ったという。もともとはイタリアのヴェネツィアで生まれ、コンスタンチノープルで育ち、1863年に来日した際には英国籍の写真技師だった。彼の残した写真は幕末から明治期の日本のリアル。時代の実態をいまも我々に数多くの世俗的な部分において、庶民とその生活や日常を伝えている。当時の日本の衣服や生活用品、習慣なども写真として残されているのは、失われた文化の再発見に役立っている。そのため今も各地の美術館や歴史博物館、展示施設などで彼の写真を紹介する催しが行われる。
ベアトは画家のワーグマン(Charles Wirgman 1832-1891)とともに横浜で起業し、「Beato & Wirgman. Artists and Photographers」というユニット社名で写真家活動を行っている。
一方その相棒であるワーグマンはポンチ絵で近代化黎明期の日本のジャーナリズムに貢献したひとりで、雑誌『ジャパンパンチ』を創刊した人物だ。また西洋画を日本人に教えるなどの芸術に貢献した部分も語り継がれている。ポンチ絵とはその名の通り『パンチ』という雑誌に掲載されていた独特の漫画挿絵様式を指す。筆致は同時代にパリなどで流行していたカリカチュア(ジャーナリズムの風刺画)雑誌風で、パリのオノレ・ドーミエ(Honoré-Victorin Daumier 1808-1879)や英国のジョン・テニエル(John Tenniel 1820-1914)などに代表される線画作品だった。社会科の教科書でもおなじみ、風刺画で有名なビゴー(Georges Ferdinand Bigot 1860-1927)とも親交があったとされる。
当時は音声優先の文字おこしなので『パンチ』誌を『ポンチ』といった。同じ時代にヘボン式ローマ字の発案者ヘップバーン(James Curtis Hepburn 1815-1911)をヘボンと記したのも同じ理屈だ。
いずれにせよ、この二人、ベアトとワーグマン、彼らは明治維新の前後を写真に収め、風刺画に描き、西洋文化を日本に、日本文化や社会を西洋に広めた文芸や芸術、情報文化の伝道師だった。
フォトグラファーの末路
「はあ」とベアトの展示写真を脳裏に焼き付けながら、横浜の中心地、大さん橋への入り口交差点、開港記念広場に建つ文化施設から出てきたのが牽牛星彦である。彼は新港湾新聞社の報道カメラマン。独立事務所設立のために何ができるのかを探しまくっていた。
「ベアトさんは上手く独立できたんだな。相棒がいたのも大きいのか……」
どうやらため息の理由は独立のようだ。職場で彼は「暗室王子」と呼ばれるほど現像作業が得意なモノクロ写真好きだ。今では珍しくなったフィルム撮影を現役で続ける一人でもある。デジタルの撮影術も当然心得ている。そこはプロ、ニーズに合わせていかようにも変幻自在の仕事ぶりだ。
彼は山下公園通りをてくてくと歩きながら、マリンタワーの前を通る。銀杏並木の緑が美しい季節だ。観光客も多いこの地区は休日、今日もたいそうな賑わいである。辺りでは笹や竹で作った七夕飾りが目をひく。七夕の歌もBGMでどこからか流れてくる。そんな夏本番前の横浜の街に身を置く彼だった。
公園内で適当なベンチを見つけるとそこに腰を下ろす。パチンと缶を開けて、プシュッと缶から炭酸がぬける音が彼の周辺に響く。公園近くのコンビニでハイボールを数缶買ってベンチでそれを飲んでいた。時折タグボートのポンポンというエンジン音が聞こえてくる湾内を見ながら物思いにふける。
「ぷはあ。誰かがウイスキーをスモーキーな麦焼酎と言っていたけど、当たらずと遠からずだな。スコッチに関しては麦の偉大さ感じてしまう。最高! 僕の恋人はスコッチでいいや」
なんとも投げやりな、そしてあきらめを含んだ虚無の独り言だ。
『大きな会社の社員だからあなたとは付き合っていたのよ。個人事務所って、明日からの収入もわからない世界でしょう。そんなところに私を引っ張り込むの? ありえないわ』
先日別れた彼女のきつい一言を思い出し、星彦はまた、より一層のため息をつく。
「はあっ。独立の話。時期尚早だったのかな……」
公園のベンチでつぶやく星彦。しかし三十歳になっての今が最適と業界の皆がいう。
良家育ちで箱入り娘のまま有名私立女子大を出て、お洒落でチャーミング。装飾品をセンス良く使って魅力ある個性を出している彼女。彼女に首ったけの彼には強烈なパンチだ。銀座の大手広告系企業のОLだったが、独立を口にしたとたんに星彦への別れを口にした態度の豹変には驚いた。あっさりしたものだ。
そんな先日の出来事を回想しながら、最近手に入れた掌中の玉である最新のデジタル一眼レフを片手に、今日撮りためたショット画像を確認し始める星彦。
「若いの。昼間からいい酒を飲んでいるな」
白髪白髭の老人がベンチの横に並べてあるハイボールの未開封缶をちらりと見た。いい酒とはハイボール缶のことだろう。彼にとっては普段から飲んでいる普通の酒だ。
「飲みますか?」
「いいのか?」
老人は嬉しそうに彼に尋ね返した。
「ええ、勿論」と何の気にすることもなく、気前よくふるまう星彦。
ゴクリと生唾を飲み込む音をさせて老人はありがたそうに、星彦からそのひと缶を受け取った。
少しスペースを開けて彼の隣に座る老人。そのまま間髪入れずに、缶の蓋を開けてプシュッという音を立てると、おもむろに天を仰ぐような姿勢で、彼はそのまま嬉しそうにその酒を一気に飲み干した。
「あなた不思議な格好で散歩するんですね。何かのイベントですか?」
「いや、わしの世界ではこれが普通だ」
「ローマの神様みたいだ」と笑う星彦。
照れたようにその老人は「うーん。そうだな。じゃあ、酒好きのわしは、さながらバッコスってところかな? それでついでに言うとお前さんはきっとクイリヌスに気に入られたような香りがする。お前さんのそのカメラから麦の香りがする。それもケレスの耕しているやつとは別の香りだな」と言う。
星彦は内心『おかしなことを言う爺さんだな』と軽く笑っていた。
その老人は飲み終えた缶をのぞき込み、一滴の残りもないことを確かめると、「馳走になったな。お前さんが彼女を失ったことを知っているわしから、お酒のお礼といってはなんだが、お前さんには新しい伴侶を授けよう。お似合いの女性だ。仕事に対してや生き方について、お前さんと同じ考え方をしている人間じゃ。仲良く暮らせよ。それとこのサイコロをプレゼントしよう。これはここぞという時の勝負運を良い方向に誘ってくれる、神威のついたサイコロだ。心得て使えよ」と笑うと、おもむろに立ち上がって、半分千鳥足のまま公園の外へと行ってしまった。
立ち去り際、老人は内緒話のように手を彼の耳元に当てて、
「結構な美人になったんじゃぞ。そしてあの日のまま純粋な心を持った娘じゃ」と笑う。そんな意味不明な言動もまた彼に謎な人物感を与えるのだった。
しばらくの間、白髪白髭のじいさんが消えた公園の出口付近を、ポカンと見つめていた。手にはじいさんがくれた神威のサイコロ二つを握りしめて。
『あの日って、どの日だよ? 変なじいさんだな。まあ気持ちだけ受け取っておくか』と彼女との別れでこわばっていた顔が、不思議と和らぐ星彦だった。多分、その老人の滑稽さと親しみのある笑顔に、彼が固く閉じた心の扉を少しだけ開いたためなのかもしれない。そして彼女に振られた落ち込みの渦中にある筈の彼なのに、胸中くすぐったい様などこか懐かしさが溢れかえっていた。それはほんの少しだけ彼の心の痛手を和らげる出来事だった。
じいさんが視界から消えると、思い出したように中断していたショット画像の確認を再びし始める星彦。
紙芝居のようにカメラ背面のモニターに映し出される画像を次々とコマ送りしている。すると不思議な一枚に気づいた。
「なんだこれ?」
彼は午前中に山手の丘で写した一枚に、月桂冠を被ったり、巻蔓の杖を持った白装束のおかしな恰好の三人の男たちが映り込んでいることに気付く。ちょうどさっきの酒呑みじいさんと同じような格好だ。
「これって、丘の上の展望台からベイブリッジ方面を写した時のものだ。あの時人物なんて入り込んでいなかったぞ。そもそも近くに人などいなかった。崖の上だしな。手すりの両脇、辺りには十分注意して、人が途切れるのを待って撮った一枚なんだ。なんで人が写っているんだ!」と思わず声に出る。
すると通りすがりの女性が突然、その声を聞いて近寄って来る。膝丈ほどの地味なスカートに、小脇には大きな画板入れのトート、黒髪のストレートにベレー帽をかぶった二十代後半くらいの女性だ。そのまま「見せて!」といきなり彼のカメラのモニターをのぞき込んできた。
「これって、ローマ神の衣装よね。しかも朝のおじいさんと一緒の衣装」という。そして彼女は目を細めた。
『おじいさんが言っていた通りだわ。ベンチに座る一眼レフを持った青年がこの人なのね』
内心あのじいさんが預言者なのかと思うくらいの的中したシチュエーションである。
「ローマ神?」と星彦。いわれてみれば歴史の本や博物館の白色大理石の石像で見た記憶のある格好だ。さっきの酒好きのじいさんと何か関連があるのだろうか、と邪推をする。
「ほらジュピターとか、ネプチューンとか、神話物語に出てくる神々よ」
彼が知らないと思ったのか説明を始める彼女。
「いやローマの神はわかるよ。でもなんで僕の画像に? ここに? 念写か?」
自分で写した画像に思い当たることがないというのも不思議なことだ。
「公園のコスプレ大会じゃないの?」と彼女。
「これを写したときは誰もいなかったんだ。しかもこの場所は展望台だからこの先は崖だよ。人が立っていられるような空間やスペースはないんだ。宙に浮いているってことになる」
彼女はこぶしを顎に当てたまま、首を傾げて考え込む。
「オカルティズムや心霊写真にしては、やけに像がはっきりしているわよね。朝のおじいさんと何か関係があるのかしら?」と小声で呟く彼女。
「そうだね、奇妙な画像だ。でもこの画像は嘘じゃないよ。信じてくれるかはわからないけど……」
星彦は『朝のおじいさん』というワードも気になったが、そこはあえてスルーすることにした。画像の正体を見極めることの方が先決だ。
彼女は静かにうなづくと、「これ写した場所に行ってみる? 何かわかるかも……」と星彦を誘う。
「うん。そうしよう」と言ってから、思い出したように彼は「僕は牽牛星彦っていうんだ。新港湾新聞の写真部にいるものです」と自己紹介をした。
「ああ、私は絵描き。普段は桜木町周辺の観光地で似顔絵かきをしているわ。でも本業はイラストレーターなの。輝夜織女よ」と優しい笑顔で応えた。その表情を目にしたとき、星彦はどこか見覚えのある笑顔と感じた。絵具と甘いコロンが混じった香りのする女性だった。
イラストレーターの末路
時を少しさかのぼってみよう。膝丈ほどのスカートにベレー帽の織女も送別会明けのオール状態で元町をふらついていた。まあ職をなくした絵描き女という感じだろうか?
地味な格好の割には、大胆に早朝の公園入口でビールを飲みながら石段に座って自分の将来について考えていた。彼女の横にはまだ開けていない洋物の小瓶のビールが二本。そこに白髪のローマ人のような衣装を着た老人が声をかける。
「おお、ピルスナーか。味の分かる御仁だね。どうだろう、一本わしにご馳走してはくれんか」
「誰?」
夜明け間もないフランス山のふもとで得体のしれない老人に声をかけられて驚く織女。所詮手土産でもらったビールだ。彼女は気前よく老人に手渡す。
「はい」
すると老人は嬉しそうに受け取る。その時に織女はこのおじいさんにどこかで会ったような気がしたが、思い出せなかった。
「ありがとうよ」
大事そうに受け取った彼は器用にライターの底を栓抜き代わりにして小瓶のビールの栓を抜く。そのままそのピルスナーで喉を潤し始める。それも早朝から。
「お前さんに良いことを教えよう。昼頃に山下公園のベンチでカメラのモニターを見ながら悩んでいる男性がいたら、わしの知り合いなので相談にのってやってくれ。大手新聞社の写真部にいる男だ。その人と出会えればおぬしの人生は好転の兆しが見える」
「ええ? なんで、あなたは普通の格好をしないで仮装しているだけで十分に怪しいのに、私に願いなんて託すのよ」としかめっ面の織女。
「これを託宣という」と簡潔な答えを返す老人。
「託宣?」
「それとこの格好でないとおぬしを神威のアクシデントに巻き込んでしまうからな」
そういってから残りのピルスナーを飲み干して続ける。
「でもな、ローマ神の本当の姿を人間が見てしまうと、生身の人間は焼け死ぬともいわれている。事実、わしの母親もジュピターの本当の姿を見たがために落雷死してしまったんだ。だから神もどきの冗談の範疇でごまかせるコスプレで登場したんじゃ」
酔っ払いのいうことはいつの時代も軽くみられる。まあ、彼女もその辺りは一緒だ。
「ふーん」と相槌だけの見え透いた返事。酔っ払いの戯言などにはほぼ興味もないといった風だ。
突然そのえせ神は彼女の脇に置いてある画板用のトートバッグに入ったスケッチブックに目をやった。
「それ見てもいいか?」
彼女は平静を装い、いや平静のままに「どうぞ」と言って、それを手に取ると男に差し出した。
彼はページをめくると驚く。そこにはジーペンの輪郭線に淡い水彩用色鉛筆で朦朧体装飾を施し彩ったコロセウムとピサの斜塔が描かれていた。ほかにもトレビの泉やにぎわうメルカートの風景が同じような技法で描かれていた。
「これはお前さんが描いたのかい?」
「そうよ。数か月前にイタリアに行って描いてきたの。お金がないから行動範囲が狭かったけど、それでもいいものが描けたわ」
「絵描きなのか?」
「ううん。絵葉書描きになりたかったのよ。油彩やアクリルもやったけど、ああいうのは性に合わないみたい。もっとフットワークの軽い旅のアーティストになりたくてね」と続ける。
「今ならCGやAIで描けてしまうのに、アナログな職業に魅了されているのか?」
老人の言葉に「温故知新よ」と織女。
「うむ……」
「技術と時間の伝承者、伝道者になれればと思うわ」
「技術と時間の伝承者?」
「ほら、今って、いろいろなものが新規格で立ち上げるのが一種の流行りみたいでしょ。グローバルスタンダードを手に入れて、経済的な覇者となれば、って一攫千金を競い合う変な潮流が社会や企業にはあるの。でもね、その傍らでかつてのPC-98シリーズの日本版МS-DOSのエンジニアが必要とされているのよ。GUI(※)が一般的になった現代で、今更のDOSよ。なんでかわかる?」
「ううん、なぜかな?」
「各地の工場やオフィスでは、その業種に合わせた八〇年代から使い続けているソフトウェアが膨大にあってね、Cバスっていう接続方法で作動する業務機器が未だ数多く残っていて、あらゆる業種に存在しているの。それらの業務機器を正確に動かせるのはCバスケーブルに接続できるマシンだけなの。だからいまだに中古のPC-98のハードを探す人やそれを修理できる人が大切なのよ。同じように観光用で各地に蒸気機関車が復活しているけど、現代社会において、今時蒸気動力で動くものなんてほぼないでしょう。スチームパンク文学の中だけよ。でも圧力やてこの原理だけで動いていた時代が確かにあったのよ、かつては。今のエンジニアには超電導リニアを動かす回路図は描けても、蒸気圧力で動力設計できる人、それを修理できる人、また運転できる人は少ないのよ。私はそんなニッチな世界に絵画というジャンルで挑みたいんだ。PCを使ったグラフィックデザインも素敵だけど、一方でハンドメイドの素晴らしさもあるのよ。お酒だってさ、勿論科学的な装置で作るものもおいしいし、衛生管理の面で安心だわ。でも一方で樽で自然に漬けこんだ自然発酵ものの良さもあるでしょう」と酔いも交じってか思わず力説してしまった織女。
その話を聞いて「ははは。大いに気に入ったぞ、おぬし」と声高らかに笑う老体。はたから見たら明け方の酔っ払い同士の会話でしかないのだが、結構な歴史論、文化論である。ローマ神の胸には刺さったようだ。
「それでどんなジャンルの作品を描きたいんだ」
「彩色絵葉書よ」
彼女の言葉に老人は穏やかで、どこか温かな笑顔を見せる。まるで待ってましたといった笑顔だ。
「覚えていてくれたのか……」
彼はつぶやくように、彼女には聞こえないほどの小声で呟いた。
「でもね」と彼女。
「どうしたんじゃ?」
問いただすじいさんに、
「今日、ううん、昨日で似顔絵かきの仕事をお払い箱になっちゃってさあ。お餞別にもらったのがこのビールってわけ。まあフランスのビールだから、そこそこの舶来品なんだけど、普段お酒なんてあまり飲まない私がもらってもねえ、猫に小判よ。おかげで彩色絵具というよりも、今や『無職透明』の悲しい似顔絵かきよ」
「そうか。でもすぐに仕事は見つかるよ。気にせずにな。果報は寝て待てというだろう。いや、飲んで待てでもいいな」と明るく励ますじいさん。
「おじいちゃん、ありがとう。飲んだらまっすぐ家に帰るのよ」と優しく笑う彼女。
「今日のお昼過ぎにカメラを持った若者が、カメラのモニターを見つめながら山下公園のベンチで悩んでいるはずだ。その彼に協力をしてやってはくれないか。今聞いてわかったが、おぬしと同じ思いを持った人間だ。頼んだぞ。では馳走になった」
ローマ神はなぜか妙にうれしそうな顔だ。その笑顔、織女はどこかで見覚えがあった。だがすぐには思い出せない。でもそんな印象的な笑顔だった。
「彩色絵葉書ができたら真っ先に買いに来るからな!」
そう言って老人は雀の鳴き声が響く公園の片隅を、石川町駅の方面に向かって歩き去った。
「はあ」とため息の織女。
「山下公園のベンチって結構な数あるわよ、おじいさん」
瓶をトンと階段の脇、自分の座る横に置くと、立膝に置いた腕で、頬杖をしながら困った顔をして笑った織女だった。
「販路も確定していないものをどうやって買うのよ、おじいちゃん。二十八歳にもなる行き遅れ女子に気遣っての慰みか?」
酔っ払いの彼女は体を揺らしながら、乾いた笑いと一緒にぼやきが漏れた。
湘南の場越じいさん
「おじいさんのところに行ってくる」
母親にそう告げると、織女はそういうとリボンを頭につけてタッと駆け出した。高台の自宅からは江ノ島とシーキャンドルが見える。彼女の生まれたほんの数年後、二〇〇三年にオープンした新しい江ノ島灯台である。旧灯台の老朽化に伴い二十一世紀に誕生した江ノ島のシンボルだ。
腕の中には買ってもらったばかりの二十四色の水彩鉛筆セットが抱きしめてられている。後生大事に抱えていた彼女の顔の大きさよりも大きな金属製のケースに入った色鉛筆のセットが、じゃりじゃりと歩調に合わせて音を立てている。
低い竹垣で覆われた庭先。その前には低木のお茶の木の垣根があるこざっぱりした平屋の一軒家。黒い瓦に広い縁側、その庭先の藤棚には藤の花の甘い香りが漂っていた。藤棚の横にはウッドデッキがあり、そこに一客の接待用応接テーブルセット。南国風の籐で拵えたものだ。
彼女がそこに着いたとき、すでにそこには先客、いつものようにスターマンがいる。
「じゃあさ。絞りを絞るとピントの合う範囲が大きくなるの?」
「そうじゃよ。被写界深度っていうんじゃ。でもその代わり絞り羽が閉じるから、瞼を閉じるように光の量が少なくなって、長い時間シャッターを開けないといけない。つまり手振れしやすいということさ。三脚が必要だな」といつもながらの赤ら顔で、じいさんは嬉しそうに芸術論を子供相手にお披露目していた。
「こんにちは、おじちゃん!」
勢いよく格子戸をあける織女。
「おお、オードリー、来たのか」
赤ら顔の好々爺はワインのグラスを高らかに上げて、座れ座れと、籐で編んだチェアーをすすめた。彫の深い赤ら顔は日本人離れをした格好いい顔つきだ。
「オードリーも紅茶がいいかな? それともグレープジュースかな?」
「あたし麦茶!」
「ああ、そうだったな。お前さんは麦茶だった」と笑う爺さん。
その先客は「あ、どうも」と軽く頭を下げる。隣町の小学校の子だというのを知っている。自分より二三上のおにいさんということも知っていた。知らないのは本名と家の場所である。
「スターマンも麦茶飲むか?」と先客にも尋ねるじいちゃん。
「あ、うん。ありがとうございます」
スターマンとオードリー、それは場越じいさんが名付けた彼女たちへのニックネームだった。スターマンの語源は知らないのだが、織女はその名前の音とオードリー・ヘップバーンのように可愛いということでいつしかオードリーと呼ぶようになった。もちろんヘップバーンを初めてみたのは彼女が高校になって爺さんがこの地を転居した後のことだった。『ローマの休日』を見て、大人が自分をこんな風に見てくれていたのかと思うと、そのやさしさにとても幸せな気持ちになった。
「さて続きを始めるかな」
爺さんが二人の前に麦茶を置いたときに、織女が持つ水彩鉛筆を見つけた。
「おお、ステッドラー社(※)の水彩カラーペンシルか。いいものを買ってもらったなあ、オードリーは」と大きな目を細めて笑うじいさん。
「そうだ、いいものを見せてあげよう」
そう言って彼は立ち上がると、縁側の横にある納戸の中から茶封筒に入った何かを取り出してきた。
「そのペンシルでもこれに似たものを作ることができるよ」
彼がテーブルの上に広げたのは、明治期に日本土産、横浜土産といわれた「彩色絵葉書」だった。この当時の一級の美女と言われた芸者や横浜港の風景、富士山の風景など、湿版や乾板の感光ガラスで起こした白黒印画紙に水彩画で色付けをした絵葉書である。
アメリカやヨーロッパなどで和服を着た民衆や風光明媚な日本の風景をカラーで見れるとあってお土産に喜ばれたポストカードである。折しも前島密卿が郵便制度作り上げて、完成浸透したころとおおよその時期が一緒となる。
「わあ、淡くてきれいね」と織女。
「こんな写真、今でもとれるのかな?」と星彦。
星彦の言葉に「似たようなものはとれるよ。しかも大人になれば、自分で現像も出来るんだ。ネオパン(※)っていうモノクロフィルムを使ってね。デジタルならモノクロモードで撮るといい。でも雰囲気を出したいならやはりフィルムがいいな」
そういってじいさんは懐かしむように彩色絵葉書を眺めていた。
「じゃあ、僕もこの写真みたいなフィルムのモノクロ写真にいつかチャレンジしてみよう」
「あたしも本格的な水彩画にチャレンジするんだ」
二人のキラキラした目にじいさんは、うれしさと頼もしさを感じていた。
「二人は麦が好きか?」とじいさん。
「ん?」
二人はまんまる目玉を見開いて顔を見合わせた。
「麦?」
「いやあ、麦茶をよく飲むからなあ、あっちの奥で客人が嬉しそうにしているんじゃよ」とじいさん。
すると家の奥で同じく麦茶を飲んでいた年配の人が、縁側に歩み寄ってきた。
「ごめんなさい。僕はおじいさんの古い友人なんだ。麦農家だから、麦をおいしく食する人が大好きなのさ。杭里主っていうイタリア人です」
「へえ」と星彦。
そのまま残りの麦茶を飲みほした。
「来週にはおじいさんと一緒にイタリアに帰るんだ」
「え、おじいさんも帰るの?」と織女。
すると済まなそうに頭をかいてじいさんは言う。
「うん、そうなんだよ」
「なんでおじいさんは日本に来てたの?」
「そこにある湘南酒造・城南ワイン研究所っていうお酒の会社から呼ばれて、お仕事で日本に五年ほど来ていたんだよ」
「知っている。あそこの前を通ると甘い香りがするの」
「そうそう。いい香りが漂ってくるよね」と嬉しそうなじいさんだ。
じいさんの家からの帰り道にスターマンこと星彦は、織女たるオードリーに尋ねた。
「ねえ、君んちって、あのお茶の生け垣がある角の家だよね」
「うん、そうよ」
織女は自分の家を知っているスターマンに驚く。
「なんで知っているの?」
「たまにね、君の家から聞こえてくる心地よいピアノのメロディを聴くことがあってさ。そっと覗いたら君が弾いていた」
「あ、うん。ピアノ教室に通っているのよ。その練習しているわ」
「へえ、上手だね。大人みたいな演奏するんだね」
織女は急に褒められてうれしくなる。
「あなたはどこの子なの?」
「僕の家は海の近くの商店街のお土産物屋なんだ。貝殻細工や浮き輪なんかを売っているよ。兄貴がいて、やっぱりピアノを習っているんだけど、兄貴も上手でね、それに負けないくらい君も上手だから気になって訊いてみた。教えてくれてありがとう」
「うん。ありがとう。褒められちゃった」
子供らしく素直な彼女の眼差し。それは星彦にとって、どこか清々しく思えた。
丘の上公園の展望台
時は変わって令和の世。はあ、はあ、と息を切らしてようやく、丘の頂上にあるこの公園へとたどり着いた星彦と織女。観光地と化した都市型の公園。記念館として保存されている古い洋館やおなじみのヒーローである『鞍馬天狗』の作者の文学館なども敷地内に存在する公園である。
「ここだよ。僕があの画像を写したのは」と星彦。
そこは横浜の高台にある西洋式庭園に近い公園内の一角。山下公園、マリンタワー、大さん橋、ベイブリッジが見渡せる崖の上にある展望台だ。バラ園なども隣接するデートスポットでもある。
すると二人の前に不思議な光景が広がる。
なんとあの例の酒飲み老人が身につけていたものと同じローマ人の衣装で、写真に写る三人がその場所に立っていた。しかもそのうちの一人に星彦は見覚えがあった。デジカメの画像では後ろ向きに映っていた人物のため、その時は気付かなかった。
「あの……」
星彦がその人物に声をかけると、あちらも気づいているようで、
「久しぶりだな、スターマン」と笑って握手を求めてきた。
星彦は彼の正体に確信が持てると、「やっぱりそうですよね、湘南ワインのおじいさんの同僚の方」と固く手を握る。
「覚えていてくれて、うれしいよ。オードリーのほうはまだ思い出せないのかい?」
彼のセリフに出てきた「スターマン」と「オードリー」に二人はピンときた。
「思い出したけど……」と織女。
そして織女は、「スターマンって、あなたあの時の場越さんちにいた少年なの?」と尋ねる。
「きみこそ、あの時のオードリーちゃんなんだ!」と驚く。
二人はかすかな幼少期の記憶を手繰り寄せる。
そして二人は、今そこにいる男性が場越さんの家に遊びに来ていた、あの時のワイン工場時代の友人であると確信している。ただ不思議なのが、彼はあの時と外見がほぼ変わらず歳をとった形跡が見えない。
「二人は運命と天職って信じる?」と杭里主がいう。
星彦は「まあ、ある程度は信じてます。回避できずにどうにもならない不幸なことや、偶然の連続で好転が続いたとき、自分の実力以上のことが起きた時などは素直にそう考えるようにしています」と素直に言う。
「スターマンはあの時と変わらずに素直だね」とほほ笑む杭里主。
「そうですね」と愛想笑いの星彦。
そんな表情の星彦に杭里主は一枚のメモ用紙を差し出す。
「なに、これ?」
「君たちの彩色絵葉書を販売してくれる準備ができているお店だ。我々との誓いを忘れずにこの道を学んできてくれたご褒美だ。我々はローマ神だ。君たちのその後もちゃんと見てきたんだ。それであの時の誓いをかなえてあげる時が来たので、バッコスと一緒に一芝居打ったのさ。オードリーのほうも彩色技術を学んでいるのを知っている。この販売店は横浜の中心部と羽田と成田など合わせて十五店舗ある。これから納品のために二人での作品作りとなるから忙しくなるよ」
「もしかして昼間に酒をあげたのって場越さんで、あの人もローマ神だったの?」
「おや、聞いていなかったのか。もちろん、彼は酒の神バッコスだよ」
「ははは、なるほど。全部つじつまが合いました。二十年越しの約束ってすごいな」
「我々神にとっては二十年なんて、君たち人間の時間の流れで言えば、数秒のことだ」と笑う。そして「まあ、とりあえずは工房も用意しておいたさ。お前さんの名義になっている。権利書は工房のテーブルの上にあるから受け取ってくれ。そしてこれが工房のカギだ。あとで渡そう。どうせ独立開業するつもりなら、ここでやるといいよ。異国の地日本での任務につかの間の安らぎを与えてくれた君たちに心からの贈り物だ。ありがとう」
彼が言い終わるのを待っていた織女は、「あなたは、ローマ三神のクイリヌスですね」と尋ねる。
「うん、そうだ。隣の二人がジュピターとマースだよ。どうもこれらの二柱より私の知名度は落ちるんだ。よく知っていたな」とジョークの笑いを浮かべて言った。
「だって時間ができると格安のチケット使ってローマに飛ぶことが多いんです」
織女の言葉に「知っているよ。いつも私たちの文化を大切にしてくれてありがとう」と返す。
「ほらジュピターもマースもお礼ぐらい言えよ」
そう言ってクイリヌスが紹介するので、しぶしぶ感を出しながらも後ろの二人も手を振って挨拶して見せる。
「ありがとう、ローマ三神」と星彦。
「ははは。元気でな、汝に幸運あれ!」
そういうと三柱はすっと消えていなくなってしまった。
それと同時に家のカギ、ディンプルキーが空宙からきらりと光りながら落ちてきた。星彦は右手で素早くキャッチして固く握った。そこに織女のスマートフォンからSNSメールの着信音が鳴り響く。慌ててスマホの画面を見ると、着信履歴にマップのリンク案内が載っている。
「そのカギ、ここで使えってさ」と画面を見せる織女。
「了解!」
山手の商店街
二人はクイリヌスの指示した地図に従って山手の商店街にやってきた。
「おお、ここって本牧に抜ける大通りがある道に抜ける商店街だな。ちょうど元町の商店街からトンネルを抜けた反対側だ」と星彦は言う。
「あなたがあの時のスターマンだとは知らなかったわ」と織女。
「それはお互い様だよ。君がまさかオードリーだとはな」と笑う星彦。
「おまけに昼間会ったあの酒好きの老人が場越のじいちゃんだったとはね。当時のあの外見からしたら、もう今は百歳はこえていそうだから、とっくの昔に星になっていると思った。でも神様じゃ、まだまだいや、永遠に存在するよなあ」と納得する星彦。
「酒の神バッコスじゃそうなるわ」
二人は商店街の横町にあるアトリエ風の一軒家を見つけた。なんと表札には『バッコス工房』と書いてある。庭先からは微かに麹の香りやワインの甘い香りが漂う。そう麹の香りは日本酒の蔵元に行くと香るあれだし、ワインの香りは場越宅近くの香りである。
その星彦の表情を察したのか、聞き覚えのある声が玄関からした。
「ここはなあ、昔っからわしが使っていた酒蔵なんじゃ。じゃが、もう日本住むことはなくてな。数年前からちょうど分水嶺、山手の丘の稜線の反対側になる大岡川や元町の方だが、フランス山の山すそに『フランツ・リスト』っていう音楽喫茶を開いたローマ神がおってなあ、その女神がわしの代わりに常駐で極東の道案内の役目をやってくれているのさ。もう数年前から始まっていてなあ。もう役目の終わったわしのこの建物はお払い箱ってことさ。どうせたたむのなら、有効に使ってくれるお前さんたちに融通しようと今回はジュピターにも相談したって感じなんだ」
「あの丘の上の展望台で三柱いたうちの一柱よね」と織女。
「そうじゃ、よくわかったな」
「全知全能の神にして雷神でもある、ローマ十二神であるコーンセンテス・デイのリーダー神。そしてローマ三神で木星の守護者でもあるわ」と織女はつづけた。
「そうそう。そのジュピターの了承を得たのさ。わしの提案に、さっきおぬしたちも会ったと思うが、クイリヌスがかなりの援護をしてくれた。旧ローマ三神の一人でジュピターの信頼も厚い彼からの進言は結構ジュピターの心に響いたようだ。おかげでおぬしたちはここを工房として使えるようになった。子供時代にクイリヌスは、おぬしたち二人をとてもいとおしく感じたようでな。しかもその後の人生で、その将来の夢、その時の約束を忘れないように努力をし続けた姿にも感銘を受けたようだ。なのでここを自由に使う権利はそっくりそのままわしから引き継がれる。少々酒の香りはするかもしれないけどな」
笑顔のバッコスは言い終わると頷いて立ち上がる。すると、
「あと忘れちゃならないのが、クイリヌスはお前さんたちが今でも麦の香りが好きだと言ってくれたことにも感謝しているようだ」と付け加えた。
「ああ、麦茶、ビールの件ね」と織女。
「うむ」と腕組みのバッコス。
そこに女神の登場である。粒子が空間に集まって、まるで星の誕生のように輝き始めると、やがてそれは人の輪郭を形成し始めた。
「お、奥方のお出ましじゃ」とバッコス。
その光る人の輪郭から声がする。
「バッコス、この二人がそうなのか?」
「そうじゃ」
そういうと光の輪郭はローマの装束で装った美しい女神の姿になった。
バッコスは「ジュピターのお妃、ジュノーじゃ」と紹介する。
ジュノーは「ふむ」と言って頷く。それは織女の姿を上から下まで嘗め回すように確認してのこと。
「なんですか?」と尋ねた織女。
「あの男、結構な成功運の持ち主じゃぞ。お目が高いなお主は」とほほ笑むジュノー。
「そうですか」と興味なさげに、平静を装う織女。今さっき判明した正体の男性に恋に落ちるなどありえない。そう言いたげな織女だ。
「そんな付け焼刃のような態度を見抜けない私とでも思うか? うん?」と織女の心中を読み取った物言いだ。
これまた織女の心を見透かしたような不敵な笑みで下目遣いのジュノー。そして小声で織女の耳元にそっと語り掛ける。
「あやつのお気に入りに仕立ててやろう。さながら時間無制限のシンデレラのようにな」
そういうとたちまち織女の姿は、黒髪ロングのハーフアップに大きなリボンの美人仕様に変化。白レースのワンピースに白のローヒールである。
さわやかで清楚な身なりに突如として変化したのだ。
『ちょっとこんな女の子女の子した格好なんて過去にしたことないわよ。アートな私に白なんて。汚れるじゃないのよ。しかもこんな八十年代後半から九十年代初頭の正統派アイドルみたいな恰好で落ちる男性が令和の時代にいるわけ……』と怪訝な顔つきの織女。
とその時、明らかに瞳がハート形に変化している星彦がいた。
「可愛い。もろタイプ!」
「え? ここにいたー!」と予想外の状況変化に戸惑い驚く織女。効果てきめんでヤラセじゃないかと思うレベルである。
「私にはモテ期なんて来ないと思っていたわ」と織女。
「安心なさい。こやつには一生解けない惚れ薬を仕込んでおいた。仲良く二人、今後の人生はアートに精を出すがいい」と笑うジュノー。
「結婚の女神にそこまでおぜん立てされちゃ、期待に応えないとね」言って、しゃなりと歩く彼女。なんならスカートのすそを軽く手で振って、美人アピールのしぐさだ。
「うふっ。こんど私とデートする?」と織女。
二つ返事の星彦は「ぜひぜひ」と彼女の手を握った。
『うわっ、チョロ。今までの私の非モテ人生はなんだったのよ。これが正解の装いなの。まるで八十年代のアイドル歌手なのよ。こういうのがお好みだったのかよ? 時代錯誤してないか? スターマン』と内心腑に落ちない織女。この勢いなら握手券をつけたCDを百枚くらい買ってくれそうな様子だ。
「さっ、これでまた結婚の若者が増える。私の神としての徳と神威もまた一段と増すというものだ」
自己満足に浸るジュノーは嬉しそうに目的の達成感を携えて光始めた。現れた時と同様にまた粒子になって消えてしまった。
「幼馴染同士、互いの思いが伝わったであろう。ジュノーに感謝だな」とバッコス。そして「初恋は叶わないとか、幼馴染とは結ばれないとかいうどうでもよい都市伝説が多いが、そんなのはおぬしたちが破壊してしまえ。コーンセンテス・デイの神々やわしがおるぞ」と自分の胸をドンと右手で叩くバッコス。
そして「経営判断で困ったときはあのサイコロを振れ。その目が奇数ならゴー、偶数ならステイ、ストップじゃ。神威のサイコロに間違いはおきない。信じて大丈夫じゃ」と付け加えた。
静かに二人を見てほほ笑むと、再び頷いてからバッコスは、「いざ、別れの時じゃ。たまにこっちに来たときは寄らせてもらうぞ。それまで元気でな。もしローマに来ることがあれば、声をかけなさい。さっき言った『フランツ・リスト』の女将に言ってくれ。彼女が連絡係だ。待っているぞ。では、さらば」と言い残すとものすごいスピードで空へと垂直に舞い上がった。
アトリエにて
「さて、オードリーさんよ。これからどうするかね」
星彦の言葉に「『星彦&織女』で工房名はいいと思う。でも販売店第一号は『フランツ・リスト』で考えているわ。今風の世界をモノクロで写して、その印画紙を水彩で彩る。いいんじゃないかな」と織女。
「かつて明治の世に横浜でお土産として売られたポストカードを現代風にアレンジして販売する。まずはローマ神の中継基地っていっていた『フランツ・リスト』で販売してみましょう。小瓶のワインと抱き合わせての商品もいいわね。バッコスも喜ぶしね」とウインクの織女。
「わかった。販路とマネジメントは君に任せるよ。工房のメカとセッティングは僕に任せて」
そういった彼は、自分の預金通帳をドンと作業台の上に置く。
「独立のための開業資金だ。この工房のために使おう」
その男気に織女はかつてのスターマンだった彼と重なった。あの時の利発で勤勉なまなざしの少年をその姿に重ね合わせている。
そして織女はオードリーだった自分も悪くないと思った。
『幼馴染の恋は成就しないって通説、軽く私が打ち破ってやったわ』と胸の奥に秘めた闘志はなかなかな心意気であった。
了
※GUI・グラフィックユーザー・インターフェイス アイコンを使ったMacOSやwindowsなどのデスクトップ画面を用いるPCの操作方法。それ以前のMSーDOSなどのコマンドは今でいうバイオス画面のように拡張子や番号、YNの選択オーダーで操る方法だった。
※ネオパン モノクロの銀塩写真用フィルムの名称。
※ステッドラー ドイツに本社を置く画材、文具メーカー。とりわけ水彩鉛筆では多くのアーティストが愛用していることで知られる。




