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ローマ神はいつも気まぐれーロマンティックなSFラプソディ短編集ー  作者: 南瀬匡躬


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ジュピターからの贈り物にはご用心

ジュピターがカフェの一角に置いていった怪しげな箱。フォルトゥーナとディアナは、かつて人間界に遣わされた女性パンドラが開けてしまったあの忌まわしい箱とその箱がオーバーラップして見えていた。この箱は葛葉美羽の心の中、人生の構成要素と連動している概念みたいなモノだった。忌諱される災いの要素は溶解され、心の清らかな彼女の人生観に残ったのは「希望」だった。そして彼女はかつての恩人に報いて、彼とともに未来への幸せに向かって歩み始める。

ーメルシナ型・するなのタブーー

『メリュジーヌ物語 Roman de Mélusine』 (1387年とも1397年作とも言われる)は、フランスのジャン・ダラス(Jean d'Arras 生没不詳)によって著された散文物語で、中世によく見られる語り詩人の文学形式の物語である。これは今日の昔話研究の類型タイプである「メルシナ型」の名称の由来になった事でも知られる。

 この説話体系「メルシナ型」は日本では「見るなのタブー」、「食べるなのタブー」、「開けるなのタブー」などの禁忌展開の形をした物語を指すことが多い。浦島太郎も、つるの恩返しも、ケレスとプロセルピナ(ギリシャではデメテルとペルセポネ)の四季物語、伊弉諾(いざなぎ)黄泉(よみ)の国からの帰還、林檎(知恵の木の実)を食べたアダムとイブなど世界各地にこの手の物語は多い。

 概略で言えば、禁忌的行為である何かをすると結果がバッドエンドの物語になるという、即決結論型の禁忌約束が転機となってオチに繋がる物語群である。見るなのタブーは「見ないで下さいね」、開けるなのタブーは「開けてはいけないですよ」、そして食べるなのタブーは「この世界のものは食べないで」という約束が破られることが多い。最後のモノは冥界の食べ物を口にすると人間界や地上界に戻れなくなるというパターンが多く、世界各地に見られる。

 そんな中でもメルシナ型、すなわち「開けるなのタブー」でもよく知られている物語がギリシア・ローマ神話の『パンドラの箱』である。


 さて現代においてそんな禁忌的イベントなどあるはずもない。そんなお伽話の中でのこととは今や関係ないと思っている神々や人々しかいない世界、それが現代社会である。

 ここは横浜元町のはずれ、山手に向かう坂の途中。そこに建つ音楽喫茶「フランツ・リスト」の店内。頻繁にこの店にローマの神々が立ち寄る事実を、最近では、この物語の読者さんたちにも少しだけ浸透してきたようだ。

 開店前の準備中に気難しい顔で女性の店主が困った顔をしている。その横では月の女神ディアナが変身した出井青菜(でいあおな)も腕を組んで渋い顔だ。

 ふたり、いや二柱の視線の先には古びた蓋付きの箱が置いてある。その形、よくお伽話に出てくる海賊の宝箱のようだ。

「これってジュピターからの贈り物なのよ」と女主人。

「フォルトゥーナ。あなた、ジュピターがプレゼントした箱っていったら……」とディアナ。女主人はフォルトゥーナであるらしい。

「例の箱って可能性があるわよね」とフォルトゥーナ。彼女はディアナが言わんとしていることを理解していた。

「勘弁してよ。ジュノーに頼んで天空に送り返したら?」

「うん。ちょっと怖いわよねえ」

「絶対に開けないでよ」とディアナ。

「もちろん」

 彼女たちはジュピターの箱の贈り物っていうだけでビビりまくりだ。そう、人類初めての女性であるパンドラに持たせた箱の物語を思い出していたからだ。

「タイタン族のプロメテウスが余計なことをして、ジュピターを怒らせたアレでしょう?」とディアナ。

「そうそう、物凄く遠い昔の話。彼が神々の宮殿から盗み出した炎を人間に与えてしまったことへの仕返しよね」と返すフォルトゥーナ。

「古代ローマでは、その炎で人間は火を使うことを知った、って言われているわね」

 その話で少し間を置いてからディアナは言う。

「ジュノーはこの店に近いうちには来るんでしょう?」

「うん、年一回ぐらいで来てくれるわ」

「その時にこの箱はジュノーに絶対返しましょう。危険だわ。ジュピターはジュノーに頭が上がらないし、なんとか相談にのってもらいましょうね」とディアナ。

「そうね。なんでよりによってこんな物を、ウチの店にジュピターは置いていったのかしら? はあ」と深いため息のフォルトゥーナ。

 ディアナも頷いてはいるが、完全に困った顔だ。始末に困るというのはこういうことである。


ーなげやりの人生ー

「出ていけ!」

 横浜の歓楽街の片隅にあるスナックでいきなり怒鳴り声が聞こえてきた。

 そして簡単な荷物を持った二十代半ばの女性が上着を肩に引っかけて、急いでその場を立ち去っていく。町中には似つかないお呼ばれに行きそうな綺麗な身なり。

「いやらしい。不潔だ。ウチの店はおさわりバーじゃないっての」と彼女は口走るとネオンがともり始めた歓楽街の目抜き通りをスタスタと駅に向かって歩き出す。

「やっちまったわ」と彼女。

 客商売をしている従事者にとって結構な事件だ。最近は減ったとはいえ、やはり勘違いをした客はいる。スナックは女性と話しに来るための店であり、色気を売る店ではない。中にはそういう店もあるかも知れないが、しかし少なくとも彼女の働く店はそういう店ではなかった。そして一般的にはスナックというのは社交場であるからセオリーとしても間違ってはいない。だが現実が理屈とは乖離していることはこの世界には多々ある。


 日ノ出町の駅が見えると人通りも多くなり人混みに紛れる。

「クビだろうな。客に水ぶっかけたのはまずかったなあ、ダメだろう葛葉美羽(くずはみう)」と我ながら自己嫌悪に浸る美羽。だが女性である以上、そんな破廉恥おじさんを認めるわけにはいかない。彼女の中には生活とプライドという意識の葛藤が渦巻いていた。


 改札前、券売機の並ぶ壁に寄りかかり黄昏時を過ぎたせわしい時間に駅構内で立ち止まる彼女。暫くスマホのメッセージを確認していた。そんな作業の途中で、彼女のスマホに稲妻のアイコンに載せたSNSのDMダイレクトメッセージが届く。

「なにこの稲妻アイコンって?」と不思議に思い開いてみると、そこには以下のような文章が入っていた。

「箱の中と汝の脳内概念は同一空間に存在する異次元のカオス空間だ。真面目に生きれば汝を助ける者に恵まれよう」というメッセージだった。そこに差出人ジュピターの署名もあった。

「ジュピターってハンドルネーム持っているの誰だろう? 昔、木星って誰かに教わった気がする」

 美羽は一応思い出してみる。だが見当が付かない。

「悪戯かな? この精神不安定なときにもう」

 そう呟くと再び着信音が鳴って、同じようにDMがザクロのアイコンに載せて届く。

「分からなくても大丈夫なように運命のプログラムを組みました。これから出会う人たちが汝を助け、その夢を叶えてくれるでしょう。ただ真面目に生きて行きなさい。それだけで大丈夫。上手く出来たらご褒美に六月の花嫁(ジューンブライド)をプレゼントしましょう。 ジュノー」

「ジュピターとジュノー? ローマ神話? へんなの」

 クビになった美羽はそんな悪戯メールにかまっている暇はない。明日からの生活を考えなくてはならない。

 ちなみに稲妻はローマ守護神ジュピターのアトリビュート、ザクロがその妻神ジュノーのアトリビュートである。

 



 彼女がSNSに夢中になっていると、「なんだ、葛葉じゃないか、何してんだ?」と聞き覚えのある声が美羽を呼んだ。

 顔を上げるとニコニコしながら彼女に軽く片手を挙げたのは、大検の高卒認定コースで理科を担当してくれた菱沼泰盛(ひしぬまやすもり)だった。

「あ、先生。お久しぶりです」と頭を下げる美羽。

「こんな場所で何黄昏れているんだよ」と歩きながら笑いかける菱沼。

「いや、今さっきクビになっちゃってさあ、職場」と美羽が苦笑いで愛嬌を振りまくと菱沼は足を止めた。そう、彼は声かけをしてそのまま通り過ぎて改札に入ろうとする手前で止まったのだ。そのまま、即振り向くと引き返して彼女の前に立つ。

「そっか。じゃあ葛葉、時間たっぷりあるなあ」と笑う。

「まあね。おかげで今やド暇だよ」と投げやりな美羽。

「よし、今日はオレの晩飯に付き合え」とまたまた笑う。美羽にはあの気さくで優しい授業が昨日のことのように思い出された。

「なにか奢ってくれんの?」と美羽は嬉し気だ。この嬉しさは奢ってもらえるというひもじさよりも、お気に入りの人物と久しぶりに話が出来るという懐かしさから来る嬉しさだ。

「無職じゃひもじいんだろ?」と嫌みの無いジョークと笑顔で返す菱沼に、

「うん、ひもじい」と素直な美羽。この場は合わせてみる。その方が彼にも接しやすい。

「じゃあこっちだ」

 菱沼は美羽を連れてバスに乗ると元町方面へと向かった。

『先生はいつも私がひもじいときに現れてご飯を奢ってくれるんだね』と彼の後ろで内心懐かしい出来事を思い出していた。その心温まる菱沼の後ろ姿に彼女の心は感謝の気持ちで溢れていた。


ー社会に出て見えるモノー

 彼は美羽を元町商店街にあるイタリア料理店に連れてきた。元町センターの飲食街は世界各国の料理を扱う店が入る建物だ。

「凄い、サイゼじゃないイタリアンなんてほとんど来ない」と喜ぶ美羽に、

「ここもどっちかって言うとリーズナブルな店だよ。なのでオレの財布でも持ちこたえられる価格だ。好きなもん、頼んで良いぞ」とメニューを見ながら言う菱沼。

「うん」

「お前さあ、大検資格を取ったら大学の学費捻出して大学受けるっていっていたのを忘れてはいないよな?」

 菱沼はにこやかな顔で結構痛いところを突いてくる。おしぼりで手を拭き終わると、バケツ氷で冷やされた赤ワインのボトルを取り出して自分のグラスに注ぐ。

「そうなんだけど……」

 口ごもる彼女に菱沼は、

「って、卒業生に説教するつもりはないぞ。もう、二十五歳過ぎただろう。お前さんは自分の生き方でがんばっているんだ」と笑う。そしてグイッとワインの最初の一口を流し込んだ。

「単なる世間話と近況報告の類いだ」と加える菱沼。

「うん」

「先生はもう大検の予備校は行かないの? 学校で辞めたって聞いたから」

 少し残念そうな顔で美羽が言う。

「どうも学習参考書製作の方が性に合っているようだ。今の出版社に入ってからはすこぶる精神的に満たされている」

「そういうのってあるよね。自分の居やすい環境って言うのかな?」

「まあ、常識と思っていることが、場所を変えると意外と全く重要ではないことに気付くこともある。一世一代に感じての転職だったけど、そんなことを忘れるほどライトな世界、軽い気分に感じさせてくれた転職だったなあ」と菱沼。

「って、こっちの話はどうでもいいのよ。お前さんはどうしたのさ」


 菱沼の問いかけに堰を切ったように話し出す彼女。結構鬱憤が溜まっていたのだろう。

「なんかね、勤めていたスナックでさ、上得意の客にどうしても隣で話したいって言われてさ。通常は、カウンターから出ないんだけど、大お得意さんだっていうので断り切れなくてボックス席に座ったのよ。でも相席ってスナック業界ではいけなことなんだ。そしたら早速お尻触ってきた無礼なおじさんがいてさあ。頭にきて、おじさんに水をかけちゃったの。そしたらママさんに大目玉もらっちゃってさあ、クビになった。でも本当に私が悪いのかな?」と返す美羽。ついさっきの出来事だ。

「なるほどなあ。オレあんまりそういったお店に行かないから詳しいことは言えないけど、一般にはそのお客が良くないよな。お金を余計に払えばとか、常連の客だからとか、そんなちっぽけな特別感で世の中勘違いしている客もいるとは思う。総じてそんなのは、みんなカスハラだよ。社会全体の考えではそんな客の態度は間違っているし、見方によっては犯罪だ。でもそれが太客だと売り上げに響くんだろう。ああいう水商売の場合、一般小売業とは違って顧客ひとりあたりの単価が大きいからな。お金は正義だという考えの店もあるだろうな。それはケースバイケース。人によるし、店による。葛葉が気にすることはないよ」

 そう宥めながらも大検だけの中学卒の彼女が働ける職場なんて、社会の中ですごく少ないことを痛いほど知っている。そんなことを考慮しながら菱沼は頷く。

「世の中に出ると周囲は矛盾で一杯だもんな。本音と建て前。ズルと駆け引き。お金とコネ、イジメやハブは普段見えないだけで、結構その辺に蔓延している。一見真面目そうに見える企業のオーディションやコンテスト、コンペだって一部では出来レースっていうのもそこそこある。そんなもんにいちいち腹を立ててたらキリが無いよな。お前の慰めになっているか分からないけどな」と菱沼は再度励ましを入れる。

「世の中ってこんなモノなのかな? ねえ。先生」

「葛葉が学生だった頃は、オレは立場上、大人社会とルールについては性善説を基本として教えるしかなかったからな」

「職業上からだよね」と力なく微笑む美羽。

「うん」

 彼女の愁いを含んだ瞳は菱沼にも痛く伝わった。何も出来ない自分が歯がゆかった。

「オレが若い頃はなあ、そういう仕事場、ズルのいる場所、ズルのある場所でも我慢して、耐えて居場所を作りなさい、っていうのが一般的だったんだ。そして目上の人からは半ば強制的にそう言われ続けた」

「ええ?」

 かなり驚く美羽。

「でもなあ、今はそういう場所や人間とは社会通念上、関わらないように自分の身の置き場を考慮しなさいっていう風に変わってきたんだ。だから今は人生の先輩としては、必要なら逃げてもいい世の中なんだよ、って事だけはお前さんに伝えておくよ」と菱沼。彼の頭の中も着実に時間は進んでいる。先生だった時代のように『負けるな!』という言葉の連続にはならない答えを彼女に渡す。

「今日先生と会って良かった。私の心の中に『希望』がまだ残っていたね」

「お前の心の中ってパンドラの箱かよ」と笑う菱沼。

「本当に励まされたし気が晴れた気がするよ。私、堂々としていて良いんだ、ってね」

「それが分かればOK。オレも連れ出した甲斐があったってもんだ」

 彼女は折り目正しく座り直すと正面を向いて、彼の目を真剣な眼差しで凝視する。

「ねえ先生、私が三十路(みそぢ)になってももらい手がなかったらお嫁さんにしてくれる」

 思いもよらぬおかしな依頼に食前酒のワインを吹き出した菱沼。ワイルドに手で唇を拭った。

「なんだよ、藪から棒に」と菱沼。

「だって先生も独身でしょう。相手がいないのなら私にもチャンスがあるのかな、って」と割と真面目に提案している。

 菱沼はしばらく「うーん」と悩んだ仕草だ。そして「お前はスナックで働けるくらいのルックスなんだからそれなりにいい人が現れるさ」と彼女の提案を軽くあしらった。

「だから現れなかったときの話よ、五年後だよ」と美羽。

「はいはい、保険の話ね。じゃあもしもその時は真面目に考えてやるよ。これはイエスって意味じゃないぞ。検討の俎上(そじょう)に載せてやるって意味だ」と菱沼。

「うん、分かった。じゃあ、その時は真面目に考えてね」

 彼女のその言葉を聞いたとき窯焼きピザと大皿のボロネーズパスタ、ラザニアが届いた。

「さあ、食べろ食べろ。今日はおごりだぞ」と菱沼。

 美羽は懐かしさと嬉しさの中で、元気よく「いただきます!」と皿に手を伸ばした。


―ラトナは女性の味方―

 その話を聞いていた隣のテーブルに座る女性ふたり組が、菱沼に話しかけてきた。

「ちょっと菱沼先生」と出井青菜が声をかけた。

「あれ? (そら)の奥さんですよね」と返す。

「ご無沙汰しています」

「意外なところでお会いしました。阿佐ヶ谷からなにか用事で?」

「ええ」といつもの美しい微笑みを向ける。

「こちらは?」と青菜。

「ああ、昔の教え子で大検を取った子でね、学費と生活費を稼ぐためにどうするかって人生相談ですよ」と答える菱沼。

「ああ、それでやめるやめないのお話なんですね。ごめんなさい。ちょっと聞こえちゃいました」と済まなそうに青菜が言う。

「はい」

 頷いた返事をしてから、「宙は元気ですか?」と菱沼が訊ねると、

「はい、相変わらず、いつも夜空を見上げて忙しくも楽しんでいます」と返す青菜。

「それはなによりだ。彗星の発見以来あいつ有名人だもんな」

「おかげさまで」と妻のポジションからも礼を述べる青菜。

「先生、誰?」と美羽。

「ああ、大学の同期だった友人の奥さんだ。天文バカで有名な頭脳明晰な学友なんだよ」と自慢げに話す。

「天文バカ? じゃあ先生と同じ穴の(むじな)だね」と笑う美羽。

「まあ、菱沼先生だって優秀じゃないですか」と菱沼の謙遜を打ち消す青菜。

「とんでもない。私なんて足下にも及ばないですよ。ところでそちらは?」

「ああ、私の母で楽唱菜(らとな)っていいます」

 もうお分かりだとは思うが、ラトナはジュノーに大激怒、大嫉妬を受けた双子神アポロとディアナの母神である。穏やかで寡黙な神とされ、そして双子を産んだことによって安産の神さまとして女性にも人気が高い存在である。

「どうもお初にお目にかかります」と頭を下げて挨拶する菱沼と美羽。

「ねえ、そっちのおねえさんはまた職場に戻るの?」という楽唱菜の問いに、

「いいえ、もうムリじゃないかな……。あんだけやっちゃったし……」と少しうつむき加減で言う美羽。

 その返事を聞いた楽唱菜と青菜は互いに頷き合うと、

「良かったら、ウチの主人の事務所で雑務をやってくれませんか? 学術系のプロダクションみたいなものなんですよ。体裁はちゃんとした公益法人なので聞こえも良いわよ」と青菜からの依頼が出る。

「雑務ってどんな?」

「そう。コピーや書類整理、シンクの洗い物やお使いっていう誰にでも出来る作業なの。交通費は出すし、賞与も少しだけど出せるのよ。特に専門知識も要らないし、保証人には菱沼先生がなってくれると思うから大丈夫よ。お金が貯まったら働きながら大学に通っても良いし、二部のある大学なら収入もキープしながら安定して働けるわ。悪くない話よ。卒業したら給料は大卒に切り替えてあげる」と青菜は加える。捨てる神もあれば拾う神もある。その言葉通りの展開に美羽は少しだけ運気の上昇を感じた。

「うん」

 美羽は初対面の人物に何処まで甘えて良いのか分からずに、菱沼に目でサインを送る。

「飲み屋街で働くよりも菱沼さんも安心じゃないですか? しかもさっきのお話を聞いた限り、スナックを辞めた、そのいきさつはこの人に他意は無いと思えます。少なくとも私はそう判断しました」と楽唱菜の言葉に青菜も菱沼に判断を委ねる。

「良い話だね。宙が良いって言えばね。あとは本人の意志次第で、俺は賛成だけど」と笑う。

 するとたちまち美羽の顔は笑顔になって、「よろしくお願いします」と頭を下げる。

「じゃあ、お願いされちゃったので、明日にでも阿佐ヶ谷のオフィスにいらっしゃいな。メアドを頂ければ場所を飛ばしておくわ。くれぐれも勤務中は真面目にすることと、菱沼先生にご迷惑をかけないようにね」と青菜。


―十八歳の春ー

 横浜駅の西口から運河を越えて少し入った道沿いに予備校と塾が並ぶ通りがある。当時三十三歳の菱沼はそこの専任講師をしていた。理科の科目を中心に教えている講師だ。

 見慣れぬ生徒が廊下の中でうろうろしていた。それが美羽の登校初日、オリエンテーションの日だった。


「じゃあ私たちランチに行ってくるね」

 そう言って美羽以外の生徒は塊になって元気にエレベーターに乗り込んだ。

「なんだ、お昼行かないのか?」と菱沼。

「いえ、あの申し込みを済ませたので中を見学しながら、生活全般についてのアドバイスも誰かに聞きたいなと思いまして……」と恥ずかし気に答える美羽。

「いいよ、おいで。オレが答えるよ」

 そう言うと各階にあるロビーラウンジで菱沼は椅子を出して、彼女に勧めた。そしてカップコーヒーのボタンを押して、「コーヒーは飲めるかい、嫌いじゃないか」と言う。

「はい、大丈夫です」

 少し緊張気味の美羽はカップを受け取った。

「オレは菱沼、地学を主に教えている。不安材料はなに? 最初に全部ぶちまけちゃいなよ、あとから小出しだと我々も困る」と菱沼。

 どうやら菱沼を信用できる相手と判断した美羽は、

「あと三科目の単位が足りませんでした。理科系二つと社会がひとつです。それと、私、両親がいなくて遠縁の親戚の家にお世話になっているために、ここの学費を自分で払いたいんです。アルバイトとかしながらの通学は大変ですか、可能ですか。それに検定を合格してからの大学受験のスケジュールってどんな感じなのかも知りたいんです」と多くの疑問や不安を素直に出した。

 菱沼は頷くと「今言ったこと、学校側としては全部心配は無い。アルバイトは昼間の仕事でも大丈夫だ。君の場合、科目数が少ないから時間的にも有利ではある。ちゃんと稼いでしっかり勉強だな。新聞配達やコンビニ、ファストフード、チェーンのカフェスタンドなんかでバイトしている子たちが多い。そこの窓から見えるファミレスやカフェでも雇ってくれるよ。オレたちの目の届くところでアルバイトしてくれていると、何かあったときにどっちにも対応しやすい。だからそういう子も多いな。大学受験はまず資格を取ってからだな」と一気に答える。

「ありがとうございます」

 彼女は礼儀正しい子で、境遇さえ皆と一緒ならきっと普通の人生を歩めた子だったと菱沼は悟る。この学校に通う子は結構いろいろな問題を抱えている子も多い。それは自らに問題がある子もいれば、他者からの被害を受けた場合もある。いずれにせよ人生のリスタートを願い繊細なこころで生活している子たちが半数近くいるのだ。

「ちょっと気になったのが、ご両親がいないのに大学に入ってからの費用は大丈夫なのか?」と菱沼。

「残してくれたものが少しあります。それには手を付けていないので大学の学費と生活費にします。お金は何とかなります。でもアルバイトなんかで働く際の身元保証人とかが心配です」

「それは学校や教員が何とかするよ。ここはそういう学校だ。気にするな。あとは学校内のアルバイトっていうのもあるから一階の掲示板で見てごらん。チラシ配りや教室点検などもある」

「そっか、じゃあそれもあとで確認して帰ります」

「うん、それが良い」

 そう言ったあとで、菱沼は「ちょっと待ってて」と言って美羽の足を止めた。すると講師室からさっき買ったであろうコンビニの弁当を持ってきた菱沼。、

「これよかったら食べてよ。オレさ、今日外食の日なんだけど、間違えて今さっき買って来てしまってね。余らせちゃうのも困るから」と笑ってレジ袋に入ったままの海苔(のり)弁当を手渡した。

 そして「じゃあ、来週から遅刻しないで来るんだよ」と彼は軽く笑顔でエレベーターの方に去って行った。

『あの先生、私がお金無くて皆とお昼に行けないの気付いていたんだ』

 そのまま美羽はロビーラウンジの机で窓の外を見ながら、少しだけ目の中に感謝の熱い礫が溜まっていくのが分かった。そしてそれは目の中に収まらなくなるとスッと頬を伝って流れ落ちていた。



ー三十路の春ー

 菱沼はついに五十歳を超えて久しく、おじさん街道の中盤に差し掛かっていた。問題集の出版社での原稿作成も大詰めだったのだが、今日は素直に定時あがりだ。

 そう、問題集の原稿を仕上げたが、残業はせずに彼はいつもよりも少し早く仕事をあがった。あの元町のイタリア・レストランへと足を運ぶ。今日は五十五歳の誕生日。自分で自分の誕生日を祝うという、ある意味で寂しいお一人様お食事会を自分に催していた。

「これこれ今日はやっぱりパエリアとロゼワイン。フォッカチャにローストチキンだよなあ」とメニューを眺めてひとり呟く。ネクタイを緩めてウエイターを呼び止める。

 注文が終わるとパタリとメニューを閉じた。ふと顔を上げると向かいの席に栗色のウエーブ巻き毛美人が微笑んでいる。化粧も上手で、厚すぎず派手すぎずの柔らかさを強調したナチュラルメイクだ。化粧っ気独特の不自然さが微塵もない女性だ。チークのピンクだけが目立つ程度の美人女性だった。

 そんな美女がくたびれた中年おじさんに微笑みかけるのがよく分からなかった。

『なにかのキャッチセールスか? 面倒事は勘弁してくれよ』と曇り顔。

 そもそも宙が青菜を射止めたと聞いたときだって美人が冴えない男に寄ってくるときは何かあるんじゃないかと疑念を抱いていたくらいだ。美人局(つつもたせ)やキャッチセールス以外に冴えない男に美女が興味を抱くことが全く信じられなかったのだ。天文オタク同士の固い絆で結ばれていた浮き世を離れた存在同士。

 まさか裏切られ、あの美女と結婚とは瓢箪から駒である。しかも宙に先を越されるとは思ってもいなかった。

「おかげで五十五歳か。ひとりも悪くないな」と呟く菱沼。

 するとその美女が席を立って自分のテーブルの前の席に座る。

『はあ?』

 そして彼女はすかさず愛嬌のある微笑みで、

「約束だよ、先生!」と話しかけた。

 彼は困って「どなたでしょう?」とその美女に話しかけたのが第一声だ。

 彼女はあきれ果てたように、下目遣いで、

「葛葉美羽だって。相変わらずだね。五十五歳になっても天然のままかよ」と呟く。

 彼は美女と思っていたのが美羽だと言われて、まだ信じられなかった。

「本当に葛葉なの?」と目をまん丸に見開く菱沼。

『随分と上手く化けたもんだ』

 これが彼の正直な感想である。狸かなにかと勘違いしている。

「そうだよ。嘘ついてどうすんだっての。何もメリットないし」と不満げな美羽。

「たしかにその人なつこいブーたれた物言いは葛葉だな」と笑う。ようやく分かったようだ。

「なんでオレが今日ここに来るの知っていた」

「理事長に聞いたの」と彼女は宙の名前を出した。

「宙に?」と返す菱沼。

「そう、先生はいつも誕生日はここのイタリアンレストランでひとり飯してるって。この場所なら一度連れてきてもらったし。あの約束をした場所でもあるからちょうど良いって思ったんだよ。待ち伏せてゴメン」

 ごく普通に当たり前のように話す美羽。

「お前、まだ嫁に行っていなかったのかよ」と菱沼。

「あたしにもらい手なんか無いよ。孤児(みなしご)だし、陰キャだし、出会いもないし」とあっけらかんと笑う美羽。

「そっか」としみじみと言う菱沼。

 だが彼には言えないが、美羽は今日のこの日を入念に下調べはしていた。恋人が出来ていないか、気配がないか、というような情報を、逐一、宙と青菜に探りを入れてもらっていたようだ。即ちあのふたりは知ってのことで彼女をここに送り出しているようである。

「いやいや、これだけ美人さんになったのならちゃんともらい手はあるぞ。念入りに探せよ」と言う菱沼。彼は美羽との約束など全く覚えていない風だ。

「いいの。もう五年前から相手は決めていたんだから。いいでしょう」という彼女。

「五年前から誰かいたんだ。良かったじゃないか」という菱沼に、心の中で『アンタだよ!』とツッコむ美羽。

 そして「三十路で誰もいなかったら先生がもらってくれる約束だろう」と笑う。

「まだ決めつけなくても」と菱沼。

「いやだ。もう決めた」と相手にしない美羽。

 意外に少女のように真っ直ぐな眼差しの美羽。

 ヤレヤレ顔で語り始める菱沼。

「あのなあ、葛葉。オレはもう会社では役職解除をされたおじさんで、()()()()()予備群なのさ。あとは定年まで平社員として、その後はがんばっても嘱託採用の人生しか残っていないんだぞ。そんな将来性のないヤツがお前を幸せに出来るわけ無いだろう。昭和枯れススキだ。ましてや、若い女性のお前がそんな辺鄙な人間をこんなところでからかっていたって仕方なかろうに。もっと脂ののりきっている三十、四十代の男探しなよ。何が悲しく骨を拾うようなイベントしか残されていないおじさんを選ぶんだよ」と正論を並べた。

「大丈夫、骨、拾ってあげる覚悟できているから。私、肉より骨の方が好きだから」とまだまだ笑顔の美羽。なかなか手強い相手だ。

「お前は犬か?」と気の抜けた笑いの菱沼。

 そして「とにかく皆が納得する、もっと何でも揃っている男を見つけなよ」と付け加える。

「先生、忘れた? あたし身寄りが無いんだよ。遠縁の親戚に預けられて、大検スクールの学費はファミレスと新聞配達で働いて払っていた。高三の夏までは高校に通っていたから残っている単位は僅かだったのが救いで人よりはスムーズに合格できた。地学と物理と世界史だけだったからね。衣食住だけはその親戚に頼ったんだ。それもその遠縁の親戚のおじさんおばさんには恩返しが終わったんだ。先生が保証人になってくれたおかげで、お給料の良い場所でちゃんと働けた。あなたはここまでの私の人生を人並みになるまで支えてくれたんだ」

「なら尚更、今度は自分の幸せを探して、もっと自分に合う良い旦那さんを探しなよ」

「だから次は先生に恩返しなんだよ! 残りの人生を悔いなく楽しく暮らすためのお礼にさ。何より私自身があなた、菱沼さんと一緒にいたいんです、それが願いで希望なんです。あなたとの生活が私の幸せなんです。私の夢を叶えて下さい」と涙ながらに微笑んだ美羽だ。苦労が多かった分だけ、彼女の言葉には説得力もあった。

「そんな話もあったね」と根負けした菱沼は急に優しい笑顔で、「考えて見るよ」と言って彼女にハンカチを差し出した。

 結局、そこまで言われた菱沼は彼女の積年の思いを拒めなかった。押し切られる形で柔和な笑顔を向けて承諾した。



ージュピターの箱の行方ー

 美羽の婚約の一件から久しくして、数年ぶりにディアナが音楽喫茶の『フランツ・リスト』を訪れたときだった。

「ねえ、そう言えば、あのジュピターが置いていった箱って、結局どうなったの? ジュノーが持って行ったの? まさか開けていないわよね」と訊ねる。

 皿を拭きながら店主に扮したフォルトゥーナは、

「あれね。なんかジュノーに聞いたところ、人間の女の子に連動していたらしいのよ。あの箱の内部と彼女の心が亜空間で繋がれていたんですって。なんでも葛葉美羽って言ったかな? ジュピターもややこしい事やってくれるわよね」と話す。

「それウチの夫の職場で雇った子よ」というディアナ。

「そうなんだ。彼女が不遇で逆境にも負けず正しく生きて、世話になった人に恩返しをして、全てが公正に、正義の元で心と運命の対価が支払われたと言うことでその箱と彼女のこころとの繫がりは無事絶たれたそうよ。その亜空間の繫がりを切る判断をしたのが、女神アストラエアー。彼女が善意と悪意を秤で量って、悪意の中身が空っぽになっている、って事で決着がついてあの箱を持ち帰ってくれたの」

 アストラエラーはもちろん黄道十二宮星座である天秤座の天秤を持った正義を判断する女神である。世の中から犯罪や戦争が無くなるために尽力した女神である。

「あの高貴なアストラエアーがここにまで来てくれてたの?」

「うん。私も初めて会ったわ。凄く優しくて凜々しい姿の女神だったわよ」

 概念の具現化した神であることから、その姿は十二神コンセンテス・ディの神々のような著名ではない。しかもアストラエアーに起因する地名や企業名などの名称もそう多くない。せいぜい小惑星の名前くらいにしかなっていない。でも一番尊い神のひと柱で、神話の中では、最後まで人類に寄り添い戦争の後始末をして、人類の味方をしてくれた平和のシンボルだ。

「じゃあ本当に、ジュピターの置いていったあの箱の中にあった悪事と恐怖と災いの元は消されたってことなのね」

「それは希望だけを葛葉美羽が手に出来たのを意味することになるわ。つまり彼女がなによりも美しい心を持っていたおかげが大きいわね。ジュピターはね、天涯孤独で、苦労人で、不遇で、逆境に負けない精神力を持った彼女が真面目に正直に生きる事を知っていたのね。人は有名になったり、権力者になったり、富豪になったりすることを一番の幸運と勘違いするわ。でも彼女が望んだのは、無力で、貧乏な自分を優しく支えてくれた男性と一緒に慎ましく暮らすことだったし、それを選んだ。それがジュピターの琴線に触れたようね」

 フォルトゥーナは微笑んでいる。彼女はそもそも運命の女神だ。幸運が人々の元にごく自然に生まれることがなによりも喜びとなる神である。

「そっか。じゃあ彼女自身は勿論、かつてその指導の一端を担った菱沼先生の行いもひっくるめて良かったってのも一因みたいね。そう考えれば、途中からだけど、私たちも間接的に、彼女の生活を支えてあげたという意味で、災いの種が拡散されないように、パンドラの箱が開かないようにするための手助けが出来たって事になるわ」とディアナも自己満足に浸る。

「そもそも今の人間は太昔の人間と違って考え方がしっかりしているし、理性も持っているからそう簡単にあの箱は開かないわよ」とフォルトゥーナも嬉しそうだ。

「そうよね。今回は勝手に自分で開けようとしたパンドラちゃんもいなかったしね」と加えるディアナ。

 お騒がせジュピターの悪戯はどうにか一件落着したとフォルトゥーナも安堵である。彼女は「で、上手くいきそうなの? あのふたり」と話の主題を菱沼と美羽に変える。

 ディアナは彼女にウインクを向けると「もちろん!」と自信ありげに親指を立てて微笑んだ。

「そう、じゃあジュノーも喜ぶわね。また結婚する人が増えるんだもの。あの女神ジュノーったら皆を結婚させることに使命感を燃やすから、おせっかい仲人おばさんみたいよね」と笑うフォルトゥーナ。

「まあね」とディアナ。そう言いながらも、何にせよ、一件落着の人間界の心の穢れとパンドラの箱の危機が回避されたことに、胸をなで下ろす二柱だった。



 

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