ジェイナスの鍵と未来への扉
ローマの年神さま、ジェイナス。二面神でもあり、扉と鍵の神さまでもある。そんなジェイナスが二択を迫られたモテ期の音楽教室のアラサー女性講師に神託を与える。それは彼女にどんな託宣となるのか。
ーローマ神話の神登場ー
英語の一月、JANUARYはジェイナスの月を意味する。一年の始まりであるために、二つの世界を繋ぐ扉と鍵の番人であるジェイナスの鍵によって新年がこじ開けられたことを意味しているからだ。
古代ローマの歴史家ティトゥス・リウィウス(Titus Livius B.C.59頃 - A.D.17年)によれば、ローマ王政時代のヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilius 在位 B.C715 - B.C.673)の頃にジェイナス信仰が始まったとされている。この王は平和を大切にした王とも言われている。ただし史料の少ない時代なので伝説の枠を出ていない史実である。
もうひとつ特徴としては、この英語読みのジェイナスは、現地語ではヤヌスと呼ばれる二面神であり、後頭部にも顔を持つ神である。扉の両側を監視している関係でこのような容姿になったと考えられる。また周知事項として、当たり前のようにローマ神とギリシア神は互いに相当する神が神話の中にいるはずなのだが、ジェイナスに相当する神はギリシア神にはいないのもこの神がユニークかつ独特なローマ神として有名な話である。
そしてその扉の番人が持つ鍵こそが、このお話のギミック。扉と鍵がこころの境界線を示す役割となるのである。さてこのローマ神のジェイナス、この物語の中で、そして現代の世界では扉の番人など疾うの昔に引退しており、自由気ままに世界中を旅していた。そこで立ち寄ったのが極東の島国、日本である。
「おお、なんじゃこの異国の風景は」とその身で空を飛び、驚きを隠せないジェイナス。
「甍とはこういう屋根瓦のことか。フランスのプロバンス地方やイタリア西部では褐色の瓦を見るが、これは何ともエキゾチックな風景だ」
神々専用旅行ガイドマップを参考にしながら天空からの日本見物である。
「おっと次に何処に行くかの案内役を探さねば」
旅で困ったときには神々が立ち寄る場所というガイドマップのページを見つけると、そこには横浜元町の住所が記載されていた。『フランツ・リスト』というティールーム・カフェにはローマ神専門のインフォメーションサービスがあるというのだ。
「ほほう。気配を感じる」
気になった彼はひとっ飛びに横浜のティールーム・カフェを覗く。
彼はそこに神々の気配を感じた。
「アポロ、ディアナ、ジュノー。神々の気配だ。いろいろな神が立ち寄った痕跡がある。一体何で?」
店内に足を一歩踏み入れたところで、「その答えをお教えしましょうか?」とレジの前に立つ女性店員が不敵な笑みを浮かべる。
その彼女の気配からすでに彼女が誰であるのかもジェイナスには分かったようだ。
「フォルトゥーナか?」
彼女は無言で頷く。
「最近、ローマの丘で見かけないと思っていたらファーイーストのこんな街で呑気にカフェ経営をして過ごしていたのか」と加えるジェイナス。
「あらジェイナス、あなただって今この瞬間、世界一周で呑気にローマを空けているじゃないの」
「まあ、そうなのだけれど」
人のことは言えないという後ろめたさに小さく頷くジェイナス。
「ちょうど良いわ。日本に来たついでに私たちの友人を助けて欲しいわ。あなたにしか出来ない案件があるの。鍵の神威性を使った案件なの、ちょっと協力してくれるかしら?」
「鍵? 協力?」
「彼女はつい最近イタリア留学を終えて帰国したピアニストなの。特別有名なピアニストではないのだけれど、とても優しさを持った人間性溢れる人物。ジュノーの知らせでは彼女に最近モテ期が来るっていうのよ。折角ローマの風を肌で感じてくれたメイトなのに恋の相手の選択失敗で不幸になって欲しくないわ。彼女に啓示を使って幸せへの道を伝えてあげて。あなたになら出来るでしょう、ジェイナス」
ジェイナスはヤレヤレ顔だ。名所を教わりに来たつもりが神の仕事の依頼である。しかも旅先で。
ーピアノ講師アリアのモテ期ー
「アリア先生さようなら」
「お疲れ様でした」
音楽教室の生徒さんとその保護者を送り出した地井遷アリアは深々とお辞儀した。白のブラウスに臙脂色のスカートを翻してアリアは踵を返すと教室に戻った。五線譜のホワイトボードに書いた音符をイレーサーで消し始める。そして次にピアノの鍵盤をクロスで丁寧に拭き始めた。
『コンコン』とノックをする若い男性。
「アリア先生」
彼はこの楽器店と同じ敷地内にある系列店の文具店員だ。
「あら喜井能人さん」
振り返ったアリアに愛想の良い笑顔で接する能人。
「アリア先生が好きな甘い物を買ってきたので、スタッフルームで皆と一緒に召し上がって下さい」
「ありがとうございます。お片付けが終わったら頂きますね」
「はい。真面目にご勤務は先生の鑑ですね」
「そんな大袈裟な。いつもお気遣い感謝です」とアリア。品の良い笑顔で彼に会釈をした。
アイビールックに身を包んだ彼は、優等生タイプの清潔感溢れる青年だ。売り場の女性スタッフにも人気が高い。だが彼はそんな笑顔の裏側でアリアへのロックオンを着実に進めていた。
アリアは教室の整理整頓が済むと所属長である課長嬰戸微斗のところに出欠簿と授業日報を持って行く。彼は、ジャケットにネクタイというシンプルなスタイルで、机に向かってしかめ面で何かを見ている。いつもながら気難しそうで話しかけづらい男だ。
「あの嬰戸課長、本日のレッスンの授業報告書類をお持ちしました。二クラスで欠席ゼロです」と言って彼の横に黒表紙のファイルを置く。
「ああ、ありがとう。ピアノのクラスとリコーダーだっけ?」
嬰戸の言葉に、
「はい」とだけ答えるアリア。
「ところでアリア先生は新学期からもウチの教室でやってもらえるんだっけ?」とここで初めて椅子の向きを変えて、横にいるアリアと対峙する。
「はい、やらせて頂けるのであれば……」
彼女の言葉を聞いて突然彼のしかめ面はにこやかになり、「そっか、よかった。じゃあ、またよろしく頼むよ」と優しい顔のまま視線をまた机に戻した。目線を書類に移すとまた彼の眉間にはしわが現れ、気難しい顔に戻った。
職場をキープするには恩を売っておくのも講座確保のための秘策の一つだ。講師の中にはいくつかの職場を掛け持ちしないと生活費が稼げない者も多いが、アリアはピアノというメジャーな楽器であることと、この職場が大規模展開していることもあって、幸運にもここだけで生活は確保されている。あくまでも謙虚にしながらも、寄り添うという姿勢はこの仕事では大切だ。
一礼をすると彼女はスタッフルームに戻る。
すると珍しく小和井部長と世間羽専務がスタッフルームで談笑していた。お偉方ふたりがスタッフルームにいるため、講師陣は皆そうそうに荷物を持って帰宅準備である。変に目でも付けられたら今後の人生設計に支障が出かねない。
アリアもその辺は十分に熟知していたので、スタッフルームの後ろにあるロッカーから自分の鞄を取り出してさっさと部屋を出ることにした。
すると小和井部長がアリアを呼び止める。
「地井遷先生」と言う。
「はい、あ、アリアで結構です」という彼女。
「はは、じゃあアリア先生」
「はい」と返事をすると、今度は世間羽専務が話しかける。
「明日の土曜日は夜になにかありますか?」と訊く。
「え、特にはありませんが、お仕事でしょうか?」とアリア。
「いや実は会食を兼ねた親睦会を考えていてねえ。君のお父上の承諾ももらっているんだけどお見合いを考えています」と世間羽専務。専務の世間羽とアリアの父親である地井遷太平良は大学時代の親友だ。実に断りづらい状況だ。
「は?」と耳を疑うアリア。
『今の時代にお見合い。ありえない!』と不快な表情を隠せないアリア。
「いや、そんな堅苦しいモノじゃなくて、気が合えば程度の顔見せなんだ。なにもその気が無ければ断ることもなくそのまま放置でかまわないので、お見合いというわけでもないんだ。だから親睦会なんだよ」と慌てて場をつくろう世間羽専務。
そう、だからといって上司、しかも専務の言葉を無下にするのも正直気が引ける。後でどんな仕返しがやって来るか分かったモノでも無い。父親も一枚かんでいると言うことなら、いざとなれば父親をとっちめれば済む話でもある。この場を納めるためにも仕方なく彼女は首を縦に振った。
「分かりました。では明日の晩、お伺いします」
深くお辞儀をすると小和井部長は「じゃあ時間と場所はSNSで飛ばしておくから」と安堵の笑顔でアリアを見送った。
この教室は三階にある。一階は店舗。半分は楽器店、半分は文具売り場。二階も店舗。書籍と雑誌、楽譜のフロアだ。しかも駅前のこの店舗はペデストリアンデッキから直接入れるため、実質的には二階の書籍売り場がこの店のフロント部分と言っても良い。
従業員用の通用口は一階で、そこには配達業者の荷物を待っている喜井能人が寒さに手を擦りながら待っていた。
「あのアリア先生!」と喜井。
上着のファーコートとグルグル撒きのマフラーから顔を覗かせたアリアは、彼のいつもの笑顔に安心しながら返事する。
「実は今度デートにお誘いしたのですけど、差し支えないでしょうか?」
「えっ?」
アリアは同じ日にお見合いと告白一歩手前のような事態に驚く。しかも女性社員の憧れの的である喜井からの誘いだ。この状況を見ていた若い女性社員のひそひそ話が既に始まっている。
『まずい。どうしよう。あの子たちに睨まれたくない。かといって冷たくあしらえば、この優しい彼を傷つけてしまう』
彼女の中で少し脳内時計は止まった。
「今日は急いでおりますので、その話はまた今度でも良いですか」と彼女。ひきつった笑いなのは切迫した状況から仕方の無いことだった。
この居心地の悪い場所を早く切り抜けないと、あとで仕事場にも居づらい事態になりかねない。彼女は足早に通用口を後にした。
―アリアの気持ちー
『なんだか、年明けから忙しい話が増えたわね。まあ、三十歳も近くなってそういう気の遣いかたも増えていく年齢なのね。大学卒業後にどうにか留学できて、帰国後にこれまたどうにか職を見つけたけど、ドタバタの人生で何がなんだか。世の中の仕組みを学ぶ前に、年齢にあった知識以上の役割が私の前にどんどん並べられてくる。覚えることが追いついていないわ。しかも頼んでもいない出前のように次々と社会通念が増える。ピアノバカにこんな生活理解できないわよ』
「はあ」
湯船に浸かりながら困った顔のアリア。クレンジングで顔を撫でながら、浴槽から出る湯気をぼっと眺めている。
「まだ顔も知らないお見合い相手と気さくで親切な喜井さん。現時点では自由恋愛の喜井さんに舵を切っておけば、上役の勧めるお見合い相手にも後日断る口実になるのかな。ううん、でも売り場の女性陣に目の敵にされることを考えるとあっちも断るべきよ」
さっきから彼女の気持ちは選択肢の間を行ったり来たりの振り子時計だ。恋人の欲しい年齢ではあるのだがそれ以上に厄介な人間関係がつきまとうと、『そこまでして恋人欲しくない』という煩わしさが勝ってしまう。
アリアは二十代の後半になってからのあまりの時間の早さと急激に進む年齢に混乱していた。実年齢について行けない感情というのが、こういうモノなのかと実感していた。
「大学の先輩が言っていたとおりだな。そして三十五歳を過ぎるとぱったり浮いた話もなくなるっていっていたっけ……。社会通念というのは恐ろしいって言っていたのを身に浸みて分かったわ」
アリアはバスタオルを巻いて脱衣場に出る。そして鏡の前、洗面所で洗顔をして両頬をパンパンと軽く叩く。
「明日、何を着ていこう」
上役の顔を立てなくてはいけないため、彼女は一応フォーマルに近いカジュアルの服を考えていた。
ーお相手はサプライズー
横浜の桜木町。ここに航空会社の経営するホテルがある。高層ビルの上の方、まさに雲の上である。そこに白いワンピースで現れたのがアリアだ。装飾品も派手めなモノを控えてパールだけにした。動く歩道を乗り次いでやって来たのが、横浜港を見渡せる高層階の高級レストラン。薄給のアリアに自費ではとても出せない豪華な店だ。
「いやあ、来たのかアリア」
出迎えたのはアリアの父、太平良。白髪と長い眉毛、末娘の彼女の心配を一番している父親である。
「お父さん、これはどういうこと。私の身の上は自分で考えられます」と父親には強気なアリア。
バツの悪そうな父親は「まあ、悪いようにはせんので、今日一日お付き合いしてくれよ」と甘々な親ばかぶりを遺憾なく発揮している。
世間羽専務がレストランの入口を気にして見ていたときに現れたのがなんと、音楽教室部門課長の嬰戸微斗だった。
「え、上司がお二人も付き添うんですか?」とアリア。これはさすがに気まずい。断り辛くなる。しかもスケジュール管理、時間割管理をしている直属の上司嬰戸が同席とは。彼は普段のアリアをまるっとお見通しの人物だ。
「アリア先生、何か勘違いしてますよ。今日のお相手は嬰戸先生ですよ」と専務の軽い訂正が入る。
課長の嬰戸は嬰戸で、今日の相手がアリアだとは聞かされておらず、相手席にアリアが座っているのを確認すると「は?」という顔でテーブルにいる人の顔全員を見回した。
「まさか今日の相手ってアリア先生ですか?」
嬰戸の言葉に「そうだよ、嬰戸君。悪い話じゃないだろう」と専務は自信を持って答える。
彼は「はあ」と深いため息だけついてから、静かに一礼してアリアの前の席で落ち着いた。
『なに、私じゃ不満って事?』と少し立腹気味のアリア。しかめ面のおじさんに品定めされたような気分になって不快指数が上がった。
だがそうでは無く、嬰戸は嬰戸で、相手が職場の人間ということに懸念が生じ、明日からの仕事に禍根を残すのが嫌で戸惑っていたのだ。彼は四十歳前だ。もう社会の酸いも甘いも分かり始めた年齢だ。職場での人間関係と恋愛における個人間の節度に関する相関関係が分かる年齢なのだ。
黙りこくった嬰戸に専務は「おいおい、嬰戸先生。折角時間を作って来てくれたアリア先生になにかお声がけをしなくちゃダメだろう」と笑って後押しをする。
嬰戸は「ああ、そうですね」と言ってから、「いつもお綺麗ですが、今日はまた一段とお綺麗で、白もお似合いですね」と持ち上げた。
「まあ、月並みだけれど、ギリギリの合格点かなあ」と専務は笑って満足そうだ。
『なにこれ? 茶番劇。コントのネタになりそうよ』とアリアはますますふてくされている。
「なんで嬰戸課長なんですか?」と彼女は素朴な疑問を投げかける。勿論笑顔を忘れていない。
「音楽のことが分かって、彼女の立場のことも理解できて、包容力を持った大人の男性を娘にあてがいたい、と太平良社長の発案でね。それならウチのスタッフでは嬰戸先生しかいない、って事になって部長の小和井君の一声で彼になったんだ」
その理由を横で聞く嬰戸課長も眉をピクピクさせて、今にも『そんな理由なら他にも人材は沢山いただろう。意味の無い一声なんてやめてしまえ』と言い出しそうなのを堪えている風に見える。
『そもそも今どきお見合いってどうなのよ。昭和の早い時期にはもう死滅した文化だと思っていたわよ』
留学を経験した進歩的な女性のアリアならそう思って間違いない。
「まあ後はお二人の時間を設けて、我々は退散しましょう。午後五時くらいに料亭の予約を入れておくのでそれまでは二人で距離を近づけてくれればと思います」
専務の言葉に、太平良も頷く。
―ふたりの会話ー
専務と父親が消えると二人は同時に「ふう」と大きなため息をついた。
「申し訳なかったね。アリア先生にこんな失礼を押しつけているとは」と嬰戸。
「課長が悪いわけではないですよ。うちの父も一枚かんでますし。こちらもお詫びする次第です」とアリアも大人の対応だ。
「まあ、面倒な人たちもいなくなったし、タダ飯をお呼ばれしてさっさと帰りましょう」と嬰戸。
「そうですね。結構美味しそうなお料理が並んでいますものね」と言ってからアリアは、
「課長って、どんなご趣味なんですか?」と悪戯っぽく質問する。
「なに、お見合いごっこですか、勘弁して欲しいなあ」といつも見せる険しい表情と違ってタジタジのおじさんという面白さがアリアには新鮮だった。
「趣味はエフェクター集めですよ」
「えふぇくたあ?」
「クラッシック畑のアリア先生はご存じないでしょうけど、エレキギターの音を澄んだ音やバリバリの音にするアレですよ」
「ああ、よくエレキの人が足で踏んでいるアレですか?」
「そうそう、そのアレですよ」
「なるほど。嬰戸課長はポピュラー畑のご出身なんですね」
「ええ、ここに来るまではスタジオミュージシャンをやっていましたから」
「へえ、意外。事務系統のスペシャリストかと思っていました」
「職場にいればそう映りますよね。これでも昔はギブソンを唸らせていたんですよ。でもね、音楽や楽器に携わっていられるだけで、それを仕事にしているだけで幸せかなとも思うんです。この年齢になると」と寂しげに笑う。
「そうなんだ。音楽人だったんですね」
「今でもエレキギターやアコギのコースの講師が見つからないときは、初心者コースなら自分が入ることがあります。人件費の節約にもなりますからね」
「だから専務や部長は嬰戸先生って呼ぶんですね」
「はい。もともとは講師でしたからね」
「うん。今日は来て良かった。課長の意外な一面を知れて、おまけに美味しいご飯を食べれて最高です」
「それはよかった。どうせ支払いは専務なんで、ワインもじゃんじゃん頼んじゃいましょう。さすがに ロマネ・コンティはムリですけど」と笑う嬰戸。
アリアには、職場では見られない、プライベートでの課長の温かい人柄と音楽人気質が嬉しかった。
「なんでワインなんですか? 私言いましたっけ?」
「いや、勝手な僕の妄想で、イタリア帰りというのもあり、あと「ワインの匂い」っていう歌が昔あって、アリア先生はそんな感じかと……」
「オフコースの?」
「はい」
すると彼女は張り詰めていた警戒感が解かれたように「くすっ」と笑って、「光栄です、そんな上品に思って頂いて。でもそれ程陰りのある女ではないですよ、私」と言う。
それなりにふたりにとっての穏やかな時間が流れていた。そしてこの後の料亭では早々とふたりは解散して、世間羽専務とアリアの父太平良の懐かし話の同窓会モードに突入していた。
ー終業後の夕食ー
翌日は日曜日。親子でレッスンの講座の日である。母子で通うクラスの日だ。
「そうそう。ここはおとうさん指でドの鍵盤を押さえてね」
アリアはいつものように幼児クラスには分かり易く教えていた。
「じゃあ、ここまでのことを頭に入れて、来週までに半分を弾けるようにしましょうね。今日はこれで終わりです」と言ってこの日最後のレッスンを消化した。
そしていつものように鍵盤を拭いて、手の脂を拭き取っていると、喜井が入ってきて、
「スミマセンが今日夕食をご一緒できませんか。なんか専務の用意したお見合いに行かれたと言うことで、その辺をお聞かせ願えればと思いまして」と言う。
真剣な顔つきの喜井に、説明責任はあると感じたアリアは「わかりました」とだけ答えて承諾した。
ちょうどその時書類を持った嬰戸が廊下で教室をのぞき込む。人差し指を口元にあてて「シー」のジェスチャーである。自分が相手と言うことを言わないで欲しいというメッセージである。
アリアは軽く頷くと、喜井に、
「では教室の整理が終わったらお声かけをいたします」と伝える。
「ありがとうございます」
アリアはいつものように日報と出席簿を嬰戸の席に持って行く。
「課長、お持ちしました」
「ああ、ありがとうございます」
「お見合いのお相手が課長って言わなければ良いですか?」
その言葉に嬰戸は辺りを見回して、誰もいないことを確認すると小声で、
「はい、お願いします。あと、立場上多くは言えないけど、喜井さんには気をつけて」とだけ言う。
「えっ?」と意味が分からず首を傾げるが、アリアの方はもう向かないで伝票に目を通し始めた。
通用口では喜井が待っている。アリアは出口で彼に「お疲れ様です」と言って一緒に並んで歩き始めた。
「今日は予約した店があるんですよ。横浜でも有数のレストランです」
「そんな、お話だけならファストフードで十分ですから。私そんな格好で来てないので」と軽く断る。
「いやいや。アリア先生はいつでもオシャレなのでその服装で十分ですよ」と笑う喜井。
小雪が舞いだした夜道に異変を感じたのはすぐだった。アリアと喜井の後ろを付いてくる人影がある。
『付けられている?』
海外生活の長いアリアは周囲に気を配る習慣が染みついている。喜井が気付いている様子はない。
『二人だわ。女性ね』
会話している振りをしながらも背後を注視している。
レストランの前まで来たその時だった。
喜井が先にレストランの玄関先でクロークに上着を渡している間を利用して、
「ごめんなさい、先に行っていて。すぐにテーブルに行きます」と言うアリア。
急いで建物の外に出て、板塀の影にそっと顔を出すと売り場の女性がふたり厚着をして立っていた。まさかすぐに戻ってくるとは思わなかったので少し驚いている風だ。
「どうしたの?」
「アリア先生、彼を取らないで下さい」と懇願の眼差しで訴える文具売り場の女性。見ればまだ二十歳前の少女だ。
「あなた文具売り場の重源音叉さんよね。楽器に詳しいので何度かお話ししてくれたわね」とアリア。
「はい」
「とらないで? って」と復唱するアリアは不思議な顔つきだ。
「私、彼とお付き合いするつもり無いけど、一応訊いておくわ。この寒空、言いたいことだけちゃんと言ってすぐにお帰りなさい。風邪引いちゃうわよ」
相手を気遣った上で用件は逃さないのだ。彼女の気配りはこう言った機転から来ているモノだ。
「はい、付き合う気が無いのなら良かったです」
そういった音叉の目は涙目だが、少し安心しているようだ。敵対心が表情から消えているのが分かる。
「数ヶ月前に、彼に告白されて今は一緒に住んでいます」
「同棲しているって事ね」とアリア。
「はい、そして結婚も視野に入れていると言うことで私はOKしました。ところが彼、大雄電子の御曹司で私の他にも付き合っている女性が何人もいたんです。困ったあげく、この奈緒子に相談したところ、教室部門の嬰戸課長と文具部門の全部等課長の面談で、私との交際を優先させると約束してくれたんですが、会社もそれ以上は込み入った話には介入できないという判断になりました。それを知った彼は、介入できないことを逆手にとって、私のことなどお構いなく複数の女性と同時に大人の関係を持ち始めたんです」
「え?」
アリアは絶句した。あの爽やか年下青年の腹黒さが、裏の顔があると言うことに。彼女の話を鵜呑みには出来ないが、自分に向けられた疑いも気分の良いモノでは無い。今日の夕食は早々に切り上げてことの真相を見極めることが先決と考えたアリアだった。
そんな音叉の話を聞いてしまったアリアは、食事の間喜井の言葉など上の空だ。彼はアリアに空振りのアプローチという事実で、勝手に自尊心を傷つけられた形だ。
「こんな素敵女性を前にすると、僕めろめろになってしまいますよお」
そんな口説き文句の時もアリアは静かに愛想笑いに徹する。
『ちっ、落ちない女だな』
柔らかそうな笑顔の裏で喜井は目を細めて次の作戦を考えていた。
「アリア先生、もっと呑んで下さいよお」と甘え口調で酒を勧めるが、アリアの警戒心は彼の知らない場所でマックスに達していた。
「じゃあ、お見合いって言うのは親睦会の間違いだったんですねえ。誤報だあ。良かった。こんな素敵な女性が誰かのモノになっちゃうなんていやだあ」と何を話しても酔ったフリして褒めちぎってくる男だ。
喜井は三十歳が近い女性にこの手の小手先の芸は通じないというのもまだ知らない若者だった。これが通用するのは同年代の無垢な女性だけである。拝金主義でもなければ、ルッキズムでもない、だからといって行き過ぎたワーカーホリックでも、恋愛狂でも無い、必要以上の綺麗事も、悪ぶった魅力も避けられるし通じない。この年齢の女性を落とすのはまだ喜井には至難の業だった。ほどほどとそこそこを理解した大人の女性は、極端なマウントや自慢話で落ちるほど甘くないのだ。
ー嬰戸との答え合わせー
また別の日。授業のあと日報と出欠簿を渡す瞬間にアリアは、嬰戸の耳元で、「今日夜お話しできますか?」と囁く。何でも無い会話なのだが、何故かアリアは少し気恥ずかしかった。まるでふたりで密会するような錯覚に陥ったからだ。
彼は無言で「駅前の『レスポール』という喫茶店。すぐ行く」とメモ用紙に書いた。
アリアはやはり無言で頷くと、「それでは失礼します」と荷物を取りに教室に戻る。途中で専務が「おお、今日はお父上とお会いするのだが、一緒にどうかね」とアリアに訊ねてくるが、「今日は課長と出かける約束があるので」と笑顔で断る。
その言葉を聞いて専務は嬉しそうに、「そうかそうか、これで我が社も安泰だな」と呟いた。
『おじさんの会社経営に協力する気などさらさらないけど、ひとりの女性社員が困っているのは見過ごせない。それが優先順位なんです』と言って専務の後ろ姿が見えなくなってから「べー」と舌を出した。どう見たって陰りのある女には見えない。彼女を勘違いしている嬰戸課長に、アリアの本当の姿を報告すべきだ。
カフェでは「どういう相談」と嬰戸。
遅れてきたアリアを席に着かせる間もなく声をかける。
出されたお冷やを飲み干すと、
「文具の音叉ちゃんから彼を取らないで! と言われました」
「うん」
嬰戸はそのことか、という顔で思い当たる節があるようだ。
「それなあ。結構前にも問題になってなあ。あの男、自信過剰って言うか、自分に振り向かない女はいないって思い込んでいる類いの人間なんだ。周りが何を言ってもダメなので、重源とその友人たちが喜井を囲って遊ばないようにガードしているみたいなんだ。そこまではオレのところに話が入っているよ。次のターゲットが君なんだろう。ただな彼の自由でもあるんだよ、誰を狙うのかは。しつこくされて困ったという話なら対処のしようもあるのだが、今の図式だとしつこくしているのは重源さんにされてしまうんだよ」
「そんな……」
「君もあまり彼には関わらない方が良い。問題が大きくなってから当事者のひとりになっても困るだろう」
「ええ、まあ」
「ただ今回のことは部長と専務には報告をあげておくよ。君が迷惑していることも含めて。君を守ってあげられるのは、唯一事前に全てを報告しておくことだ。先に知らせておけば、飛んで来た火の粉は払えるよ」
「ありがとうございます」
「じゃあ、オレは社に戻って残りの書類を仕上げちまうので、気をつけて帰ってくれよな。ワイン好きのお嬢さん」といって伝票と一緒にアリアの前から消えた嬰戸だった。
その仕草に少しだけ嬰戸がアリアの心を動かし始めたことをアリア自身もまだ気付いていなかった。
ー神威発動ー
アリアがマンションに着いたのは午後八時頃だった。共用部分の廊下にエレベーターを降りて差し掛かった時に声をかけられた。
「落としましたよ」と声をかけられる。振り向くとそこにはトウニカの上にトガを纏った人物がいる。
「ローマ人?」とアリア。
「それはどうも」と会釈をすると彼は鍵を差し出した。彼女がローマで購入した白色大理石神殿の図案が描かれたキーホルダーに付いた部屋の鍵だ。
「あ、今、これ落とされましたよ。エレベーターの前で」とそのホルダーキーを差し出す。
「あらやだ。ありがとうございます」
「何度でも扉を開けるのを躊躇わないで下さい。扉はいくつもあります」とローマ人。
急いでいることもあり、不思議なことを言うなと思ったが、アリアは再度会釈をすると自分の部屋の扉に向かった。
アリアは拾ってもらった鍵を鍵穴に差し込んだ。
するといつもの自分の部屋ではない玄関先に出る。
「どこ?」
どう見てもここは一軒家である。なのに鍵を差し込んだ外側はマンションの共用部だ。不思議に思い、彼女はあがってみる。中扉を開けて彼女は驚いた。そこには自分がいるのだ。
「いいな、お前は家にいて好きなときにだけ働いてさあ」とソファーに寝そべって小言を浴びせる喜井の姿がある。
キッチンで寡黙に料理をしてる自分が何かに耐えているのだ。
「明日なんだけど、実家のピアノで練習をしてきたいの」
「またか」と喜井。
「だってここで弱音器なしに弾いたら大変なことになるわ。強弱を大切にしないとイケない曲なのよ」
「職場の教室で弾けば良いじゃないか」
「お休みの日にまで押しかけられないわ」
「そうだよなあ。年下の旦那の稼ぎが悪いから防音設備のない環境では練習できません、って職場に言っているようなもんだよなあ」と喜井の皮肉にも思えるような口ぶりだ。
「そんな……」
「子どもの教育とか何だとか、お金の工面でお前の実家に頼ってオレが義父の前で頭が上がらないのを見て楽しんでいるんだろう。お前の家金持ちだもんな。ウチの実家は電機業界の不況と一緒に一瞬にしてパーになったんだからな」
自暴自棄になりたい気持ちも分からなくはない。だからといって妻にあたったところで問題解決にもならない。そこまで考えが達していないのだ。若さなのか、育ちなのか、あるいは無力感なのかは分からない。
まるで目の前に劇場舞台があるような未来図である。
『えっ? ナニコレ ネコ型ロボットのポケット道具?』とアリア。察するに見えているのは未来である。投影されている目の前の光景は、アリアの近未来を映したモノだ。
「喜井さん、なんてことを……」
聞き捨てならないどころか、見たくも無い未来を見せられているようでアリアは憔悴しきった。そもそもこれが自分の未来なのか、嘘の映像なのかすら区別がつかないほど動揺している。急いで玄関先に戻り扉を開けるとそのまま背中合わせにバタンと勢いよく玄関の戸を閉めた。
そして辺りを見ると「あれ?」と首を傾げた。もとの自分の部屋のあるマンションの共用通路である。
彼女は気を取り直してこんどこそと鍵を差し込みドアを開けた。すると今度は同じような分譲マンションの玄関である。まるでリノベーションされたような感覚だが、よくよく見るとやはり自分のマンションではない。新築マンションだ。
今度も中扉をそっと開けて、リビングをのぞき込む。
「おお、たっち出来たのか。えらいねえ」と父、太平良がなんと似つかない童言葉をつかって孫らしき乳児をあやしている。その横でなんと嬰戸課長がソファに座っておつまみを食べながらその様子に微笑んでいるのだ。
そして嬰戸がアリアに「ママ、少し座ったら、疲れちゃうよ。来週は発表会で練習があるんでしょう。少し休みなよ」と気遣いをしているではないか。
さっきの喜井の時とは大違いである。
何にしてもおかしな風景だ。アリアは再び玄関に戻るとそこには月桂冠をかぶって、白い衣装を纏ったローマ神が待っていた。
「ええ? 誰? 今度はコスプレ大会?」
現実が追いつかないアリアは月桂冠の人物に訊く。
「ははは。ご挨拶だな。私はジェイナス。ローマ神だな」と言う。
アリアは「ジェイナスって、ヤヌスって事?」と訊ねる。
「おお、勉強熱心だな。そういうところ見所あるぞ。ジュノーの伝言が入ってなあ、それを伝えに来たんだ。いわば神託だ」とジェイナス。
「ジェイナスは英語名、現地名ヤヌスは二面神で後ろにも顔があるのよね。そしてきっとこの鍵はあなたのモノね」と抜き取ってアリアはジェイナスに返した。
「私が扉と鍵の番人というのも知っているのか」
「ええ、ついでにさっきのローマ人に化けていたのもすぐにおかしいと思ったわ。東洋の国であの衣服はコスプレ以外の何ものでもないモノね。まあ、正月、一月だし、ジャニュアリーの語源でヤヌスは新年の扉を開ける神さまよね。ローマの年神さまね。有り難や」と合掌のアリア。
「それはさておき、ここに来たのは、横浜の元町にある『フランツ・リスト』という音楽喫茶の女将に頼まれてな。お前さんに運命を教えに来たんだ。格好良いイケメンもいいし、堅実な音楽人も悪くないだろう」という話でな。
アリアは軽く笑うと、
「もう答えは出ているじゃないの。家族を大切にして、私の音楽に理解を示してくれる人が運命の人なんでしょう」と肩をすくめた。
「それでも年下のイケメンも悪くはないだろうに。人間誰しも心に表裏の二面性を持っているモノだ」と二面神ジェイナスは言うが、「私、もう余裕があるほど若くはないし人生をそれだけでは決めないわ。一軒家を買えるほどの収入のある、年下のイケメン、おまけに専業主婦、理想の暮らしだというのに、心が晴れていない未来の私を目の当たりに見せられてどうするって感じよ」と返す彼女。
「同い年でこちらも若さを持って、彼の浮気を喧嘩しながらも許していく人生というのは一緒に歩くビジョンの中でなら成立するけど、若い年下の彼が他所でその都度オイタするのを毎回見て泣かされるのは神経が持たないわ。一面性の穏やかな生活がいいのよ」
苦笑いのアリアは「でも未来を少しだけ見せてくれてありがとう。きっとフォルトゥーナの前髪を掴めるのは二回目に見た課長との生活だったわ」と分かった風に言う。
「うん。そこまで分かればきっとまたイタリア、ローマでお前さんとは再会できるだろう。音楽を大切にしてくれよ。ローマで待っているぞ。立派な音楽家になりなさい。で、ジュノーのヤツが六月に『フランツ・リスト』でカフェウエディングをして、新婚旅行はイタリアに来るようにということだ。もう言われなくても私との約束もあるしなあ」
「そうね。お金もルックスも名誉も整っている若い彼よりも、音楽を愛している堅物だけど家を何より大切にしてくれる彼を選ぶわ」とアリア。
「安心したよ。これで私の役目は終わりだ。じゃあな」
そう言ってジェイナスはフッと目の前から消えてしまった。彼の立っていた場所にちゃりんと自分の部屋の鍵が落ちてきた。
アリアは静かに微笑んで「神託をどうもありがとうございました」と天に向かって呟いた。
ーお見合いの返答ー
「課長、ちょっといいですか。先日のお見合い。お返事の期限かなと思って」
前髪を耳にかける仕草で、アリアが嬰戸を後ろから呼ぶ。
「ああ、地井遷先生。あの件かな、土曜日の専務たちとの会合。その節はご苦労だったね。オレの方で断られたと上役には報告しておくよ、そもそも返事は要らないという約束だったからお気遣い無く」とデスクで応答する嬰戸。
「ううん、そうじゃ無くて。嬰戸さんさえ良かったら私をお嫁さんにもらって下さい」と耳元で囁く。かすれ声と柑橘系のコロンの香りさえも、その答えのまさかの驚きにかき消される。
「へ?」
目をパチクリさせて微動だにしない嬰戸。まるで時間が止まったかのように動かない。一点を凝視して固まっている。
「もしもし、聞こえていますか?」とアリア。
彼の目の前で掌をかざし動かす。
そして突然「ええええ!」と大きな声で立ち上がる嬰戸。そしてまた座る。
宝くじの前後賞が当たったような立ち振る舞いだ。
隣や近くのデスクで「どした、嬰戸。一千万円か、まさか億ごえじゃないだろうな」と言って自分のくじ券も引き出しから出す同僚が続出。
「何が起こったんだ」と嬰戸。再び思いついたように徐に立ち上がり、
「地井遷先生、お気は確かですか!」と両肩に手をやる。どっちかと言えばさっきから嬰戸の方が『気は確かか』と言われそうな行動なのだが。
確認を意味する質問にしては変な訊ね方だ。それほど動揺している嬰戸だ。
「はい」と笑顔のアリア。
「一つだけお願いがあります」
「はい」
直立不動で焦点の定まらない嬰戸。
「新婚旅行はイタリアのローマにしていただけないでしょうか?」
「はい。ローマでも廊下でもお好きなところへお供します!」
完全に壊れかけの嬰戸に、同僚たちがようやく分かったようで、
「嬰戸さん、地井遷先生、おめでとうございます!」と声を揃えて祝福の言葉を浴びせていた。
笑顔で「ありがとうございます」というアリアに対して、一方の嬰戸は直立不動のまま「けっこん、けっこん」と壊れた蓄音機のように、いや呪文を唱えるように唸っていた。
そのアリアの笑顔を見届けたジェイナスは、大空高く舞い上がると、「さてローマに帰ってパスタでも食べよう。寿司も食べ飽きたからな」と言い残してヨーロッパに帰っていった。
了




