ディアナは天体観測がお好き?
ブラーエ(Tycho Brahe 1546-1601)の精密な星間位置観測はケプラー(Johannes Kepler 1571-1630)へと受け継がれた。彼の法則、すなわち『ケプラーの法則』は「惑星は太陽中心に楕円軌道を描く」、「太陽と惑星の間に引いた直線が描く動径は等時間に等面積が描かれる」、「惑星の公転周期の二乗は太陽からのその惑星への平均距離の三乗に比例する」という三つの条件が整って、観測から発見された実証事実からの基本事実だった。そしてこのケプラーの発見はニュートンの力学の発見の礎となった。1543年という、ほぼ同時代にコペルニクス(Nicolaus Copernicus 1473-1543)は『天体の回転について』という学術書を仕上げる。上梓は彼の没後すぐの1543年だった。当時のプトレマイオス体系、すなわち天動説では天体運動の観測とのズレの説明がつかないことを唱え、その昔の学術権威であった当時の教会に遠慮しながらも地動説に観測結果等のデータを照らし合わせると整合性がとれると主張した。
アレクサンドリアの天文学者、プトレマイオス(Claudius Ptolemæus 100頃-170頃 生没に諸説あり)の著書『アルマゲスト』記載の天動説の星間運動理論と計算が残されていたため、比較し地動説へとシフトは始まっていたのだが、まだまだコペルニクス時代までの天文学は、『アルマゲスト』にある惑星運動など、その理論のいくつかを継承してしまっていたという。
そしてその次の世代、これがガリレイ(Galileo Galilei 1569-1642)の科学根拠などを筆頭に地動説へと大きく発展していく。ここに近代天文学が盤石なものとなって、その後多くの観測者や研究者のもとで体系化されたのである。
パタリと閉じた天文学の歴史系譜に関する本から、
「この辺りの歴史にも触れてみよう」と独りごちた男がいた。齢二十八歳、この年齢の人、皆がそろそろお嫁さんの心配も気になる年頃だ。
この男、不思議なのは彼女と思われる人物を前にした喫茶店で読書をしていたのである。勿論、向かい席の女性は困惑顔だ。ボーッと窓の外の街並を眺めている。
「宙君。あなたにはもっと月の女神のような人がお似合いだわ」
喫茶店のコーヒーを一口含んですぐに、放たれた矢のような早口で彼の目の前に座る女性が言った。流行りの服とハイブランドに身を包んだ、今を装った女性だ。マイペースな彼に少し皮肉を交えた言葉だった。
「えっ?」
あまりの早口な言葉で聞き取れない宙。
「もう、社交辞令じゃ通じないってこと?」
本当に早口で聞き取れていないのに、彼が聞こえないふりをしていると思ったその女性は、焦れたように怒りを抑えながら言い方を変えた。
「会う度に、星の話、星座の話、宇宙の話、神話の話。もう飽きたわ。私、そんな教訓めいた説話を聞くためにあなたの彼女やってるんじゃないわ。デートはバカのひとつ覚えのようなプラネタリウムだし、映画と言えばギリシャやローマの神話ばかり……。たまにはいいけど、こう毎回じゃ萎えるわよ。ロマンティックの欠片もないわ。他に誰か趣味が合う人を見つけて、ごめんね。私は星空を駆け巡る女神様にはなれないの。もっと俗物的な女。そんな人がいるかどうか分からないけど、月の女神さまと恋人になれると良いわね」
そういうと彼女は五百円玉をテーブルに置いて、
「さよなら、天体の想い出をありがとう」とまたまた皮肉ともとれる礼を述べて、その女性は喫茶店から出ていった。
実はこの彼女、既に新しい交際相手がいる。その為この時を待っていて、様子を窺っていたのだ。その身につけたバッグも、口紅も、ファンデーションもすべて新しい彼からの贈り物だ。そんなファッション・アイテムの価値など勿論宙には理解できない。
たった今ふられたこの天文バカ。見ての通りのそのままなのだが、公立の天体学習センターに勤務する野辺山宙という。彼は、仕事だけでは飽き足らず三度のご飯よりもプラネタリウムや天文台が大好きな天文マニアでもある。勤務先から自宅のある阿佐ヶ谷は中央線で数駅だ。
彼女が置いていった五百円と自分のお金を合わせてお茶代の精算を済ませた。そして阿佐ヶ谷のアーケード街に出ると彼は少しだけ落ちる涙を拭い、「そうだよなあ。毎回プラネタリウムはないよなあ。長野や山梨の天文台旅行とか奮発すればよかった。調子に乗っちゃって彼女の気持ちを考えなかったなあ」と少し反省した。反省も良いのだが、少し分析がお門違いのような結論だ。
「でもさあ、一つ違うところがあったなあ。彼女の言う、ロマンティックっていうのは、そもそもローマ風という意味。すなわち高尚で荘厳なラテン風ではなく、民衆文化で、世俗的な恋愛や芸術を自由に謳歌するっていう意味でのローマ風、ロマンティックなので、ローマ神話はロマンティックなんだけど、彼女に教えてあげるべきだったかな?」
まあ、これが余計な一言なのだ。彼には永遠に分からないだろうが……。
出会って数ヶ月なので、心の傷はそれ程深くはないのだが、反省は山ほどある。見ての通り、彼は世間で好まれる『あ・うん』とか『ツーと言えばカー』ということを知らないのだ。そう、彼の辞書に意思疎通やコミュニケーションという言葉は存在しない。世の中に「天文一直線」という造語を作ることを許してもらえるなら、そんな言葉がピッタリの彼だ。その意味は当然「天文バカ」。
そう、人生それ以外のことを知らずに生きてきたような人なのだ。彼に適するのは『ツーと言えばカー』の関係ではなく、彼の生き方を主旋律とするならその対旋律に沿って生きるような性質の女性である。いうなれば、音楽のメロディで例えるならオブリガート的な男女関係なのである。
それから数日が過ぎ、いつものように彼は駅前で簡単な外食を済ませると、自宅のワンルームの部屋に帰ってきた。いまやオブリガートというよりもア・カペラのような毎日を送る宙。
その自分ひとりの自由な生活の城。こだわりの空間。その部屋は白色の壁が基調で、入れた家具類は全て腰の高さまでしかない。天井やその付近に白い壁を残しておきたいというのが彼のこだわりである。その理由は壁をスクリーンにするためだ。
スーツをハンガーに掛け、ジャージーに着替える。日課となっているくつろぎながら自宅で星空を眺める準備だ。彼は書棚から小さな箱に入った家庭用の小さなプラネタリウム投影機を部屋の中央にセットした。勿論部屋の隅には、天文マニアの部屋らしく、屈折式と反射式の天体望遠鏡が大きな筒を窓のほうに向けて二台並べておいてある。都内の空なので、ここから見える星は限られてしまうのだが。
実際の空、本日は残念だが曇天であった。でも日付と時間をセットすると、まるで晴天のように、しかも東京の光害に邪魔されない満天の星空が部屋一杯に映し出されていた。GPSのおかげで、もしこの地域が晴天ならという条件で、この町から見える五等星以上を映してくれる優秀なプラネタリウム投影機だ。そう現実には町の光で見えない星もちゃんと見えるのである。
先日購入したオプションキットの日月投影キットを本体に取り付けて、月と太陽の位置も天球に映すつもりなのだ。ところが映してみると月の姿がない。
「あれ? セットするの間違えたかな? それとも電池切れ?」
不思議そうに本体を持ち上げて機器の底を眺める。特に間違った取り付けはしていないようだ。
「不具合なのかもナ。しょうが無い。今日は月のお姿は諦めるか……」
そう言って、宙は家のすぐ近くにあるコンビニエンスストアまで、ジャージー姿でビールを買いに行くことにした。擬似とはいえ、自宅の部屋で星空を見ての一杯は至福の時間である。
彼の部屋は二階なので、外出はそう苦ではない。マンションの階段を降りきったところで真っ白なワンピースを着て、腰に黄色の帯紐を巻いた見知らぬ巻き毛で長い髪の女性が、「こんばんは」と斜めにお辞儀して微笑みかけてきた。三日月型の小さなアクセント・デコレーションが付いたカチュウシャをしている。お洒落な女性だ。
彼はご近所さんだと思い、「ああ、こんばんは」と返す。彼女の足取りもコンビニ方面なので、同じ目的かな? と感じた。
すると彼女は並んで歩き始め、「曇天で残念ですね」と次の言葉を話しかけてくる。まるで天体のことを知っているようにも思えた。しかし彼は思い直すと『よくある天気の話だな』と割り切って、「そうですね」と返す。だれもかれもが天文に興味ある訳じゃない。都合良く自分と同じ趣味の人間がそうそういるものでもないのだ。振られて学習したこと、そう味わったばかりの話だ。
コンビニで焼き鳥とかまぼこを入手して、少し雑誌の立ち読みをした彼。のんびりと帰り道を歩いていると、小さな河川にかかる橋の欄干にポツンと佇むさっきの女性がいた。
『彼女、僕よりかなり前に帰ったはずだ。どうしたんだろう?』
「あれ? どうしたんですか?」と宙。
彼女は少し照れくさそうに、「まだ引越してきたばかりで、不慣れな道で迷子になったようです」と言う。スマホは持っていないようだ。
僕は軽く笑って「それは大変だ。同じ目的地なので、ご一緒しましょう」と言った。
「凄く助かります」
彼女はぺこりと頭を下げて笑った。そして「今日は新月なので、仮に晴れていても夜道は暗いですよね」と彼女。
宙は、「月齢にお詳しいんですね」と嬉しい表情を向ける。
「そうですね。それは私の生活の一部のようなモノなので」と彼女が返すと、
宙は「うわあ、僕の趣味と一致します」と本当に嬉しい表情をする。
「天体、お好きなんですか?」
「はい。仕事でも趣味でも、もうずっと大好きな事です」と子どものように目をキラキラさせる宙。
「まあ、高尚なお趣味ですね」と白い服の彼女。
「同じマンションですよね。お名前伺ってもよろしいですか?」
宙の言葉に、「出井青菜といいます。出るという字に井戸の井、二〇三号室の者です」と答えた。
「お隣さんなんですね。僕は二〇四号室なので……」
そういうと彼女は表情を変えて、「ごめんなさい。あのたまにカーテンに星空を映しているのはあなたのお部屋では?」と興味のある顔で訊ねる。
「ああ、家庭用のプラネタリウム投影機の一部がカーテンにも映ってますね」と笑う宙。
「私、お仕事帰りにちょっと羨ましく思ってました。道路から見えたりするので……」
「ははは。今日もこれから投影をするんですよ。それで一杯やりながら星空を部屋で眺めようかと……」と彼が言った途中で、青菜は「あの」と済まなそうに言う。
話の腰を折られた宙は「はい?」と訊ね返す。
「わたし少しだけお邪魔してはいけないでしょうか。天球が十五度ほど傾いたら帰りますので」とお願いが青菜から出る。
宙は「かまわないですけど、日周運動、天球の回転速度をサッと言えるとは、あなたも相当な天文マニアですね」と笑った。そう彼女が言う十五度の意味は一時間ということだ。学生時代に教わる二時間で三十度は、地球の自転速度から起きる天球の回転速度である。
恥ずかしげに彼女は「ありがとうございます」と笑って、満月のようなネーブルオレンジをコンビニの袋から取り出すと、「これ鑑賞料として納めて下さい」と差し出した。
そして宙は思い出したように、「あなたさっき今日は新月と仰いましたよね」と会話を続ける。
「はい、今日は曇天ですけど、雲が無くてもどのみち月は見えません」という。
「そっか、なるほど。僕としたことが……」と笑ってすっきりした顔の宙。
「えっ?」
彼女は首を傾げて「なに?」と加えた。
「いえ。先日、投影マシンの日月投影オプションキットを買ったんですけど、今日接続したら月が見えなかったんで、取り付け方を間違えたのかな、って思っていたんです。あなたの話で、新月じゃ映るわけがない、って初歩的なミスに納得したんですよ。故障していたのは僕の考え方だ」と笑う宙。
家について二人は一時間ほど投影された星を無言で見つめていた。
そしてきっかり一時間で彼女は、
「プラネタリウム。また伺って見せて頂いても良いですか?」と言う。結構な満足感である。
「勿論」
彼は二つ返事で答えると、彼女は嬉しそうにぺこりと頭を下げて、「お休みなさい」と言って部屋を出て行った。玄関先に、とても麗しい残り香を置いて。
それから彼女が彼の部屋のインターフォンを鳴らしたのは、一週間ほどした、やはり曇り空の夜だった。
「こんばんは」
モニター越しにお辞儀をすると彼女は大きなワインの瓶を見せて、
「イタリアに住む友人からの贈物です」と戯ける。その笑顔にドキッとする宙。頬が熱くなった。彼の中に彼女を慕う感情が生まれ始めていたからだ。
美しく澄んだ瞳と透き通った髪の光、そして華奢ななで型の双肩に色気を感じる女性である。
「今日もプラネタリウムを見ていきますか?」
宙の言葉に彼女は嬉しそうに、「お言葉に甘えて良いですか? いつも雲に邪魔されて、擬似的とはいえ、これだけ雲の無い空を見るのなんて……。本来なら一年を通してほんの数日だけですから」と答える。チェーンロックを外して鍵を回す。そして扉を開けて、彼女の顔を見ると宙は「どうぞ」と快く中に迎えた。
考えて見れば、女性を部屋に招き入れたのなんて何年ぶりだろう。そもそもここ数年、自宅は星空の投影盤を見てから寝るためだけの場所だった。
この日も見終わると彼女は「ありがとうございます」と頭を下げて玄関先に向かう。「次にお邪魔できるのは来週の土曜日です。もしご迷惑でなければまたお土産持参でお伺いしても良いですか?」と訊ねる。
「勿論です。ああ、お土産は無用ですよ」と宙。そして「そう言えば、お聞きしていなかったけど何のお仕事なのですか? 差しつかえなければなんですけど」と付け加えた。
彼女は少し考えて、「そうですね。小型の船で貴重品を運んでいます」と答えた。
「舟運業ですか?」
すると彼女は笑顔で「そのようなモノです」と言って去って行った。やがて隣の部屋の扉を閉める音が聞こえると、宙はドアロックをしてシャワーを浴び就寝した。
天球には十二の星座の主や惑星の化身たちが集まる部屋がある。ミルキーウェイのほとりの白色大理石で出来た宮殿だ。
ディアナは、同じローマ神のルーナを呼び出した。
「どうしたの?」
ルーナは欠伸顔でディアナに話しかける。
「ゴメン、暫く月を運ぶ船の当番を代わってくれないかしら?」
「それはいいけど、いつ? 最近ちょくちょく代役を頼むのね」
軽く笑顔でディアナは、
「うーん。多分今日から百年ぐらいの間……かな?」と言う。
「ひゃく?」とたじろぐルーナ。
ブルブルとあたまを振ると険しい顔でディアナを見る。
「こらあ! あんた自分のお役目をさぼるつもりか」
数日の代役だと思って聞いていたルーナは、そんな長期間になるとは思っていなかった。
それとは別に、百年という期限を聞いてルーナは思い当たることがあった。顔色を変えて、「まさか下界に降りるなんて言わないでしょうね」と問いただす。
「そのまさかなのよ」とルンルン気分でディアナは言う。しかもなにやら嬉しそうに鞄に詰め物をしている。
「人間と夫婦になる気?」
「そうよ。月や星座を愛してくれる優しい彼の心根に惹かれたのよ」
ルーナは少々うさんくさい顔で、「下界に降りて生活を始めてしまうと、その間は天空の世界には戻れないのよ。それに魔法を使うこともかなり制限される不自由な生活よ」という。
「分かっているわ」
平然とした顔で答えるディアナ。下界で調達してきたスーツケースに衣類を詰め込んでいる。
「本当に分かっているの?」
ルーナの不安そうな顔に、ディアナは全く動じず、下界での不自由な生活のことなどおくびにも出さない始末。
「二十九日で一回りの月の舟運は引き受けてあげる。でもね、早いうちに帰ってきなさいよ。あなたの弟のアポロも困ってしまうわよ」
「ああ、アポロなら平気」
「なんで?」
「下界に入り浸っているのは彼も一緒。なんでも横浜の元町にある『フランツ・リスト』って音楽喫茶を根城にしているみたい」
「あのフォルトゥーナが経営しているやつね」
「そう。だから私が地上人と結婚しても彼はなにも困らないの」
「そんなに地上人と一緒になるのが良いの? 私にはわからないわ」
ルーナの言葉に、ディアナはウインクひとつで答えた後、
「だって好きになっちゃったんだもん。守ってあげたいのよ、あの正直者の彼を」と言った。
まさに神さまに守ってもらうとは、宙には文字通りの『神のご加護』があったようだ。
さらにディアナは続ける。
「人間の一生なんて、たかが百年前後なんだもの。その間だけでも月を愛してくれた、星座を愛してくれたお礼に、彼と一緒に夫婦生活を送ってあげるのよ。別れた元カノが言っていたように、月の女神が彼にピッタリということなので、その言葉を実現してあげるの」
今日のディアナ、いや地上の人となった出井青菜は漆黒のワンピースに、品の良い銀色をしたベルトと三日月のペンダントを下げて、休日の昼に、宙の家を訪れた。
「今日は、曇りの日でもなく、夜でもないんだね」と宙。
「え?」と図星の指摘に驚く青菜。
青菜は自分が彼の前に現れる時を知っていたことに驚いた。そう、新月の日や曇天で月を運ばなくて良い日に限って、下界に降りてきたからだ。また弟のアポロが太陽を馬車で運んでいる日中は、天空にいる彼に二人でいるところを目撃される恐れがあったので避けていたのだ。
だがもう堂々とルーナにも宣言したため、人間界の一員として常時この下界にいられるようになった。
二人が夫婦となってからの宙は驚くような成功を収める。
彼は仕事で使う望遠鏡の調整中に、青菜の頼みで、とある星雲の写真を撮ろうとしていた。その時、その星雲の近くにガス状のもやを見つけた。仕事仲間と不思議に思い、そちらのガス雲を注視してみると、それが新しい彗星、帚星であることが判明。急いで宙の観測グループは分析結果をまとめ上げ、論文と研究ノートを天文雑誌に発表した。世界のどの国の研究者よりもいち早くその彗星の存在に気付いたのだ。
彼は天文ファンの間で一躍時の人となった。講演や著書の依頼が殺到し、生活はたちまち向上した。久しぶりに彼は妻、青菜と講演会の済んだ日に待ちあわせをしていた。高層ビルの講演会を終えた後で、新宿に繰り出したのだ。
ジャケットにネクタイ姿の彼、老舗百貨店のある交差点で妻を待っていると、見覚えのある顔が彼に声をかけた。
「宙じゃない?」
元カノである。
「ああ、久しぶり」
「凄いわねえ。たったひとつしか持っていない自分のスキルで大出世できたのね」
「知っているんだね」
彼は手持ち無沙汰、恥ずかしそうにネクタイを締め直す。
「だってニュースで見たわ。今はひとりなの?」
「いや、待ちあわせ。妻が来るんだ」と正直に答える宙。
それからまもなく青菜がカワイらしく手を振って横断歩道を渡ってきた。
「誰?」と悪戯っぽくけしかける青菜。
「うん。君と出会う前に付き合っていた元カノなんだ」
「元カノさんかあ」
そう言ってから、
「妻の青菜です」とお辞儀をする。
青菜のスタイルはやはり白いワンピースに、黄色のベルト、銀色のペンダントをつけている。髪のカチュウシャには黄色の三日月。
その格好を見た元カノは、
「本当に月の女神のような人を見つけたのね」と優しく笑うと、
「お幸せに」と少し残念そうに、お辞儀をしてその場を去って行った。
すると青菜は心中、言葉にはしなかったが、
『月の女神のような人ではなくて、本当に月の女神なのよ』とほくそ笑んだ。そして『あなたの言霊が、私を彼の元に導いたんだと思う。そこはお礼を言うわね、受け取ってね、これで貸し借りなしよ』と頷く。
地下鉄の駅に行く通路で、その元カノはウサギの着ぐるみを着たサンドウィッチマンに試供品として月見バーガーの無料券をもらった。少々女神さまの物々交換にしてはリーズナブルな『ギブ・アンド・テイク』である。
「さて奥様、今日はどこでデートしますか?」
青菜は少し考えてから、
「渋谷のプラネタリウムがいいわ。あそこはクラッシック音楽のBGMで投影するでしょう。今月はドビュッシーの『月の光』なのよ」と笑った。
宙は笑顔でうなずくと「OK。じゃあ行こうか」と新宿駅に向かって歩き出した。
世間を意識しない宙は、成功を収めても以前と変わらない生活をしている。それに合わせる青菜は宙にとって、オブリガートの伴奏旋律のような、とても良い伴侶なのだ。背伸びや贅沢もしない彼女は、まるで昔話に出てくる良妻賢母のようになるのは必至だ。しかも絶世の美女である。長者譚の類いであるこの物語の最後は、やはり「どんど晴れ」で締めくくるのが相応しい。
宙は月の女神と末永く幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
了