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赤毛のリリー・ローズ

作者: 月永こん

 へえ、たいしたものだ。

 あの地平線まで続く麦畑もみんなタッカー家のものか?

 向こうの工場もその向こうの牧場も?

 この辺鄙な、失礼、のどかな田園地帯、を全部とりしきってるのか。

 なんとなく聞いてはいたがここまでとはね。

 これを三代で成し遂げたのか。

 感心するな。さぞ立派な結婚式だろう。 

 そう、俺は結婚式の招待客。

 花婿の悪友、もといご学友というやつだ。

 大学を卒業したら即結婚、しかも生まれる前に決められていた相手というから、この時代に何とも古い話だと花婿には同情していた。

 しかも一度も顔を合わせたことが無いと来た。

 何しろ、この結婚にはいろんな思惑があるからな。

 簡単に説明しようか。

 タッカー家はこの地方では有名な領主だ。

 その昔ここはひどく貧しい土地でね。

 むろんタッカー家も貧しかった。

 この時のタッカー家の長男がなかなか賢い男だったらしく、一介の小作人だった所から始まって、一代でそれなりの家にしたんだ。 

 だがこの男はそれで満足しなかった。

 さらに上をめざし、着々と事業の手を広げた。

 それがどういうわけかとんとん拍子で進んで、二代目になるころにはこの辺では他の追随を許さないほどの金持ちになっていた。 

 たった二代で小金持ちだが、もちろん話には裏がある。 

 短期間でここまでになるにはいろいろと暗躍する必要があった。その分野をすべて引き受けたのが例の一代目の弟だった。

 これもなかなかの男だったそうだ。

 平々凡々とした両親からこんな兄弟が生まれるんだから世の中わからない。

 後ろに手が回りそうな仕事も、うまくすり抜けてタッカー家に貢献した。

 その頃には弟の方はタッカー家を名乗らず、マールバラといった。

 表のタッカー、裏のマールバラ。

 これを地元の人間で知らぬ者はいなかった。 

 タッカーがそれだけ財を成しても、都会へ出ることもせずにそのまま地元に根を下ろし、ますますこの地は豊かになった。

 それで、元は同じくしたマールバラに文句を言うやつがいるか?もちろんノーだ。 多少マールバラが踏み外していても、領民は見てみぬふりをした。何をやったかって?さあな、俺もそれほど詳しくないが、少々手荒なことがあったかもしれない。

 それでますますタッカーは栄えて、押しも押されぬ大富豪さ。

 なにしろ事業の失敗は無いは赤字は無いわ、優良株この上ない。 

 それの5代目が、本日めでたく結婚する、ライアン・タッカー。

 タッカー家は大きくなるたびに迎える女の質も向上したのか、世代を重ねるごとに美女が投入されたらしく、出来上がったライアンはずば抜けた容姿を持っていた。

 その上タッカーの一人息子となれば、大学時代は女が砂糖に群がる蟻のごとくだったよ。

 まあおかげでこっちはおこぼれに預かったわけで、それには楽しい思いもさせてもらったけれども。

 俺のことは置いといて、ライアンだ。

 ライアンは本当に育ちがいい。

 あれだけの事業をこなした家に生まれたにしては擦れたところが全然ない。

 まあ当然といえば当然で、ああいった成り上がりによくある暗い部分をタッカー家は一切触れなかった。

 そこはマールバラが一手に引き受けていたからね。 

 あれほど女にもてても見向きもしない。

 俺はひょっとしたらライアンは女に興味が無いのかもしれないと思ったほどだ。

 それとなく尋ねたらこう言ったんだ。

 自分には生まれた時から決められた相手がいるってね。

 別に遊んじゃいけないとはどこにも書いてないのに、自分にはただ一人とその約束を一生懸命守ってるんだから、呆れるほどまじめな男だ。

 その結婚相手。

 それが、マールバラの一人娘だ。

 驚いたろう? 

 金持ちケンカせずってよく言うように、三代目の爺さんはそれを絵に描いた様な人だった。一代目と二代目はそれなりに後ろ暗い部分があったが、三代目にはすっかりタッカーは王族の様な清廉潔白な部分しか見せなくなった。

 主だったのは慈善事業で、そんなことに浸かっていれば、まるで天使みたいな爺さんになってしまう。

 タッカーの後ろ暗い部分を全く持ち合わせない三代目の爺さんは、それでも自分の家の歴史は知っていたから、しりぬぐいの様な、元は同じ家のマールバラ家とまた再び一つの家に戻そうと考えた。

 それで約束したのが5代目同士の結婚だ。

 これで分かたれた家が元に戻る。

 ほんとにそれがタッカーにとっていい事なのか俺にはわからないけれど、まあとにかく、神がささやいたんだか天使が導いたんだか知らないが、約束は無事履行される運びとなったわけだ。 

 そのころのマールバラは裏の世界でも相当なところまで成り上がっていた。

 財産も、どうだろうか、どこか遠くの国の銀行にでも隠し財産なんてものがあったとしたら、タッカーもしのぐんじゃないのか?

 なにしろ裏ではタッカーの銀行とまで言われている家だからね。

 なんでそんなことを知ってるかというと、うちもそこそこの貿易商なんだ。

 わかるだろう?マールバラは敵にしたくない。

 そういう相手を見極めるのは、大事なことだからな。

 マールバラがどんな家か。

 それは天使の爺さんにはよく分かっていなくとも、周囲の凄腕の部下たちは知っていた。

 天使が如くの爺さんの天使が如くの孫を、マールバラと会わせるには少々気が引けたのか、真っ白なものに一点のシミもつけたくなかったのか、お互いの孫を遊ばせる機会は作らなかった。

 ライアンが幼き頃はタッカー家の嫡男らしく清く正しく育てるけれども、年ごろになって自分で物事を判断できるようになるころには、昔と違ってライアンも外から影響を受けて、女と遊んだりそれなりの悪い遊びもしてそれなりの成人男子なると踏んでいたから、教育方針を変えずマールバラの悪影響も避けた。

 ところが予想をはるかに裏切って、純粋培養の男になってしまったのだ。

 それに、周囲が気付いているかは知らないけれど。

 ともかくその純粋培養っぷりにはある意味括目していたんだが、それを欠点としてもライアンはいい男だ。

 正直だし親切だし頭もいい。

 成績もよかった。

 運動もよくできた。

 友達としてそばにいるのは楽しかった。 

 その天然ぶりも。 

 この結婚は、思惑があるとは公言されず、古い友人である爺さん同士が決めた事という話にされた。

 タッカーとマールバラの結びつきは無いとされているから、あくまでタッカーとマールバラは他人というわけだ。

 知ってるのは親族一同、と言いたいところだが地元の人間は皆知っていた。

 知っていて知らぬふりだ。

 それがここで生きていく最良の方法だと四代も続けば誰だって覚える。 

 そして今日、結婚式。

 俺は田舎町を運転する。

 まあたまにはこんな田舎もいいものかと、窓を全開にすれば草の匂いと太陽の匂いに濯がれる。

 そしてあのくそまじめな男の結婚式。

 思う存分からかってやるかと、アクセルを踏んだ。


*****


 結果的に言うと、からかうとかそういうレベルではなかった。 

 よく考えたら、結婚式というものに出席したのは物心ついてから初めてであって、親族関係では退屈な余興の一つにしか見えなかったものが、こと友人のとなると全く心に受けるものが違う。

 タッカー家の広大な庭園で行われたその式は、バラの匂いに包まれてそれだけで酔ってしまいそうだったというのに、そこに現れたライアンはさすがの風貌の花婿で、バラを背負っていても全く見劣りしなかった。

 やがてマールバラの当主の手を取って一人娘のコレット嬢がその姿を現した時、一目見ただけで息を飲むというのが一体どういうことなのか実感でもって知った。

 それほど、類稀なる美貌の娘だったんだよ。

 蜂蜜を流したような金髪に、薄い空色の瞳で、眩いほどの白に包まれた彼女が眼前を通り過ぎる時、本当にその場に彼女が存在しているのかわが目を疑ったほどだった。

 口元に微笑みを宿し、彼女は静かにライアンの傍に立った。

 見つめあう二人。

 本当にそうだ、これは生まれた時のからの運命だったんだと、そう誰もが納得するほど彼らは似合いだった。

 俺の頭の中で厳かにベルが鳴る。

 瞳が曇っていなければ俺には祝福の天使が見えていただろう。

 そうだ、俺は不覚にも、彼らが並んで立っただけで、涙を流して感動してしまったんだ。 

 式はつつがなく進行し、バラのフラワーシャワーの中、二人は一度タッカー邸へ姿を消す。 

 バラ園の向こうでは宴の支度が整えられていて、手入れの行き届いた芝生を踏み進めば、シックなナンバーのジャズの生演奏が耳を喜ばせる。人々は幸せそうに談笑し、なんだかどこかで見たことのあるような昼下がりの絵画のように、木々が零す影が人々の顔を踊っている。

 5月の風はさわやかに髪をさらった。俺はその空気を胸いっぱい吸い込む。

 深呼吸した時も、先ほどの光景が思い出されて目の奥が痛んだ。二人ならきっと幸せになるだろう。

 幸せの予感というものはこんなにも胸に清しいものなのだろうか。 


「メイヤー・ルース!」


 不意に呼ばれて振り返れば、ライアンの父親が笑顔で手を振っていた。 


「タッカーさん!今日はおめでとうございます」 

「よく来てくれた。遠かったろう?」 

「いえ、素晴らしい式ですね。俺、なんだか感動してしまって」 


 そう言うと、彼はふと目を押さえる。

 一人息子の結婚式というのもまた感慨ひとしおなんだろう。 

 なにしろ、母親に早くに先立たれ、男手ひとつでライアンを育てたんだから。

 それを思うとまたしても俺の涙腺は緩みそうだった。 


「料理がそろってから二人を迎えようと思うんだ。花嫁もお色直しだからね。ライアンの方は時間を持て余してしまうかもしれないから、控室の方に顔を出してやってくれないか?」 

「わかりました。ちょっとからかってやろうかと思っていたんで」 

「はははは!お手柔らかにな。こちらが始まったら誰かを呼びに行かすから」


 朗らかに笑って、顔の前で手を振った。   

 俺は庭園を抜けてテラスの方に顔を出す。 

 と、メイドの一人が俺を見つけ、ドアを開けて招き入れる。


 「ルース様ですね。ライアン様はこちらです」 


 何も言わずとも、するすると案内してくれる。

 さすが名門はメイドも違うよなあなどと変なところに感心しながら、一人であれば確実に迷ってしまうほど大きな建物の中を案内され、一つのドアの前に立たされる。 


「ライアン様、ルース様がお見えです」


 ドアのこちら側から呼ばわれば


「どうぞ」

 

 という聞きなれた声が響く。

 「失礼いたします」とメイドが静かにドアを開けると、光沢のあるグレイのスーツを着たライアンがいた。

 胸元には白いバラがさしてある。きざったらしいことになりかねないような組み合わせが、ライアンにかかれば花婿らしくしっくりくる。どこの国の王子なんだか。 


「メイヤー、よく来てくれた!ありがとう!」 


 ライアンは稀に見るほど上機嫌だった。

 あまり感情の起伏なく穏やかなこの男が、頬を紅潮させて勢い込むように話しかけてくるあたり、相当に浮足立っているようだ。


「素晴らしい式だったよ。不覚にも感動した」 


 俺もそのテンションに引きずられるように、ライアンに近づくとその両手を取ってそう言った。

 ところがライアンは先ほどのまでの表情をすっと落として「そうか」とだけ言った。 


「なんだ?何か、さっきの式が不満だったのか?」 

「いや、そんなことはない。タッカー家とマールバラ家の挙式としては上出来だと思う」


 事務的な口調が気になったが、うっかり興奮して掴んでしまった手を思い出し、なんだか気恥ずかしくなって、その手を離した。


「悪いな、ライアン。お前がそれほど嬉しそうにしているものだからこちらもつられてしまった」

 「これが喜ばずにいられるか?」 


 ライアンはその口元に極上の笑みを見せる。

 そりゃそうだろう。

 花嫁のあの容貌。

 思い返すだにその美しさが頭を去来する。

 生まれた時からの婚約者だし、しかもマールバラというから、一体どんなものかと下世話にも思ったわけなんだが、あれほどの美貌なんて願ったりかなったりだろう。

 ライアンの横に並び立つものとして寸分も見劣りしない。

 俺はそう考えて、大きく頷く。

 

「そうだろうよ。まったく親が決めた許嫁なんていうからちょっと心配してたんだが、あの美貌だ。あーあ。本当にうらやましいよ」 


 ライアンの肩を叩きながら同意する。

 ところがライアンは笑顔をすっと消してしまう。

 俺はそれに違和感を感じて、ライアンをじっと見た。 


「なあ、メイヤー。僕がうれしいのは、そんなことではなくて、これでようやく自由を手に入れられたからなんだ」 


 ライアンは急に瞳の光を落として、静かにそう言った。


「自由?」 

「ああ。俺は親の決めたとおりの道を歩いてきた。親の決めた大学に入り卒業し、親の決めたように仕事も継いだ。親の決めた女とも結婚した。だがここまでだ。僕が果たさなくてはいけないのは、ここまでなんだよ」 

「どういうことだ?」 

「だから言ってるだろう?僕は役目を果たした。今度は僕の番だ。ここから先は僕の自由だということだ」

「悪いけど、何を言っているかわからない」


 にわかにライアンの頬が紅潮してくる。

 こみ上げる喜びを隠しきれないというように。


「僕はやっと、僕の生涯愛する女を、探し出す権利を得たということだよ!メイヤー!」

「なんだって?」 


 俺の耳がおかしくなってしまったんだろうか。

 心で思ったつもりが、口に出てしまっていたらしい。


 「いやおかしくなんかない」そう言うと世界中の幸せを抱きしめているようにこの男が笑う。  


「マールバラとは結婚しなければいけなかった。だから僕は結婚した。そこまでだ。僕にはずっと恋しく思っている女がいる。今どこにいるのか見当もつかないが、これから徹底的に調べる。そして彼女を手に入れるんだ」

「なにいってんだ!おまえ、今日結婚したんだぞ!花嫁はどうするんだよ!」

「マールバラの女を僕は愛することはない。僕には人生でただ一人と決めてしまっていたんだから」

「はあ?何勝手な事を言ってんだ?じゃあどうするんだよ?今日誓い合ったあの子は、一体どうするんだ!」


 俺はライアンの胸ぐらをつかむ勢いでそう尋ねた。ところがライアンはうっすらと笑みすら浮かべているんだ。


「何も?マールバラはマールバラで生きればいい。マールバラの女を一人くらい遊んで暮らせてやるくらい、タッカーにはどうってことはない」


 ライアンの瞳の影に俺は竦んだ。

 こういう顔をしたことがあったろうか。

 ライアンはいつもにこにこと人当たりよく、育ちの良さも相まって、負の感情が存在することも知らないだろうと、そう思っていた。だがこの今目の前にいる男は誰だ?

 結婚式の日に、花嫁を愛さないと、そう高らかに宣言する男は一体… …。  


「どうした?親友の門出を喜んでくれないのか?」

「」お前の考えていることが俺にはわからないよ、ライアン。仮にその行方知らずの女を見つけたとして、正妻にはできないんだぞ!それは、その相手にも失礼じゃないか!」

「彼女は、孤児院にいたんだ。俺が慈善事業で赴いた孤児院にね。そんなところにいて、その後どんな人生を送れると思う?下手したら娼婦さ。それが正妻じゃないとしても、タッカーの財力で何不自由なく人生を送れる。それに」

「たとえそうだとしても、それをコレット嬢が許すものか」 

「コレット?ああ。マールバラの女の事か?あの女はまだ16だ。きれいに着飾らせて、毎日遊ばせておけば文句も出まい。なんなら、お前が相手してやってくれても構わない。夫の公認だ」


 俺は唖然としてライアンを見た。 

 ライアンはというと口元に満足そうな笑みを浮かべたままだ。

 ライアンの言葉をゆっくり頭で反芻して、あの花嫁がまだ16歳だという事実にめまいがした。 

 16歳といったらこれからハイスクールに入って、友だちやらボーイフレンドやら将来の展望やら、まだ日常に夢を描けるに十分な年齢だ。

 それが、結婚という制度に絡め取られて、ましてやそこには愛すらない。

 ライアンをそのまま見つめる。

 これは、あのライアンなのか?

 俺の知ってるライアンなのか?

 こうやって人を踏みにじることに呵責の心も感じないこの男が、あのライアンなのか? 


「ところで、君はまだのんびりする予定だろう?時間があるなら手伝ってくれないか?」 

「手伝う… …?」 


 俺は思考が停止したまま反射的にライアンの言葉を繰り返す。


「やっと表だって彼女を探せるからさ。これからあらゆる手を使って彼女を探す。忘れもしない、赤毛のリリーを」 

 

 ライアンはそれからずいぶん赤毛のリリーについて語った。 

 これほど何かを熱っぽく話すライアンは初めてだった。

 というか、今日のライアンは俺に初めて見せる顔をいくつも表した。

 熱に浮かされたように赤毛のリリーについて話したかと思うと、非情までに冷たい声でコレットを突き放す。

 いつも同じ温度で周りと平和に過ごしていたのがまるで嘘のように、ライアンの中にはその二つははっきりと違う温度を持っていた。 

 赤毛のリリーというのは、ライアンが15歳の時に訪れた孤児院にいた娘だ。 

 当時は9歳とか10歳とかそれくらいだったようだ。

 お転婆だが生き生きと自由に野原を駆け回るその姿に惹かれたという。

 声を潜めて秘密基地に案内してくれたり、うっかり破けてしまった上着をきれいに縫い合わせたり、年相応のそれらしい彼女の子供らしさと相対するようにある女らしさと、そういう自分をくるくると自由に動かす赤毛のリリーに、ライアンはすっかり惹かれてしまったそうだ。 

 俺なんかにしてみれば、そんな子は巷にたくさんいたし、特に珍しいものでもなかった。

 けれどライアンは純粋培養な上に、子供らしさを徹底的に取り除かされた。

 子供らしいという不安定さは、タッカー家の当主には不要だったからだ。

 早くから落ち着きを求められ、公平さと正しさの海の中、自由に泳ぐのではなく、彼は静かに歩くことを余儀なくされていたんだ。

 なるほど、そういう子供時代を送ったなら、確かに話に聞く赤毛のリリーはそれは魅力的に映ったろうと思う。


「リリーは素敵な赤毛だった。燃えるようなその髪の色はリリーというよりローズだった。だから俺は彼女をリリー・ローズと呼んだんだ。それは俺たちだけの秘密の名前で、他の誰も知らなかった。そういう秘密の名前というのも楽しくてね。いつか迎えに来ることを固く約束して、そしてその名前を他に明かしてはいけないと言ったんだ。それが外に知れたら、僕は迎えに来れなくなるよって」 


 そうして悲しげに目を伏せる。


「当時は一週間ばかりの慈善事業だった。他にも回らなければならない施設はあったし。それが一巡して、3年後また同じ孤児院へ行く機会ができた。けれど、もう彼女はいなかった。どこかにもらわれてしまったんだ。孤児院に聞いても教えてはくれなかった。リリーというのはあの孤児院でもよく付ける名前だと言われて、誰もリリーがどこへ行ったかどうしているかを知らないんだ。もしかしたら売られてしまったかもしれないと悪いほうへ悪いほうへと思考は捕らわれた。そうなってくると僕は居ても立ってもいられなくなった。どうにかして彼女を手に入れなければ。けれど僕には何の自由もないんだ。だから自由を手に入れる最短の方法が、早くに結婚することだった。マールバラと結婚し、タッカーを継ぐ。そこへゴールしてしまえば、あとは僕の自由なんだから」 


 そう言って俺を見た。

 そのきれいな瞳には何も映っていなかった。

 鏡のようだ。

 もしくは心を捕らわれた、赤毛のリリー・ローズ。


 静かに扉がノックされる。


 「ルース様。お待たせいたしました。会場までご案内いたします。ライアン様、コレット様のお支度整いましたので、テラスにお越しくださいませ」 

「わかった」


 ライアンはそう静かに返事をすると、さあ、と俺を促す。 


「茶番ももうじきおしまいだ。とはいえ、料理は素晴らしいよ。期待してくれ」

「ライアン!コレット嬢には何と言ってあるんだ?」 

「何も」 

「何も?」

「言う必要はないだろう?結婚をした夫婦の何割が最期まで添い遂げると思う?」


 俺は言葉を失う。 


「僕の妻になるにはマールバラの女は若すぎた、とか?理由なんて後からいくらでも作れる。夫婦仲がうまくいかなくて、僕が外に女を囲っても仕方がないと周りは思うさ。タッカーの跡取りなんだから。今後の予定については今夜話そう」

「今夜?今夜って… …」 

「大丈夫だ。ないしろ若すぎるからな。しばらくは寝室を別にしましょうと言ってある。それに僕は、リリーに会う前に、他の女でこの身を汚したくないんだ」


 そう言ってライアンは部屋を出ていった。

 俺はしばらく呆然と閉ざされたドアを見つめた。

 少し開いた窓から流れ込んだ風が、遠くの音楽を届ける。 

 外を見れば、手に手を取って歩む若い夫婦が目に入る。

 薄くかすむ金髪を陽に輝かせるライアンと、さっきとは変わって淡いブルーの短めのドレスに身を包み、幸せそうに夫を見上げるコレットと。

 この式に出席する人々はすべて彼らの幸せを信じるだろう。

 けれど、それが最初から、そんなものは存在しないなんて。

 盛大な拍手があって、ケーキカットがあって、それから新郎新婦が客の一人一人に挨拶しながらシャンパンを持ってまわっている。

 花嫁は花が咲き綻ぶような笑顔を向け、向けられた方が戸惑う程だ。

 年若ながら立派に妻を果たしている。

 やがて二人は俺の前にもやってきた。 

 

「彼はメイヤー・ルース。僕の大学時代の親友だよ。メイヤー。妻のコレットだ」 

「初めましてルース様。コレットと申します。よろしくお願いいたします」 

「こちらこそ。とても素敵ですよ。タッカー夫人」 

「まあ」 


 コレットは頬を染める。 


「ルース様、コレットと呼んでください。なんだか恥ずかしくて」 

「でしたらあなたも遠慮なくメイヤーと」 


 そう言うと、コレットは夫の顔を見上げる。

 ライアンは微笑む。


「ではメイヤー様、これからも夫をよろしくお願いします」 

「こちらこそ、コレット」

「じゃあ、また後で」 


 二人はそういうと、また次の客に挨拶に行った。

 信じているんだろう。

 いや、初めから裏切られている事を知らないんだ。

 世の中にそういった感情があることすら。

 俺は目を閉じる。

 日がまぶたを照らし、真っ赤に見える。

 リリーの髪はどれほど赤いのか。

 その赤はどれほど罪深いのか。


 やがてお開きになる。

 皆一様に幸せな気分に浸ったまま帰路についたようだ。

 俺はこのまましばらくタッカー邸へとどまることになっていたため、しばらくこの田園地帯でのんびりしようと当初は思っていたのだが。

 のんびりとした気持ちを味わうことなどできるだろうか。

 ただでさえ、何かがのどに刺さっているような違和感を感じたままだ。

 案内されたテラスで出されたお茶で喉を潤す。

 ずいぶん渇いていたようだ。

 酒にもまったく酔えなかったわりにはよく飲んだような気がする。

 ぼんやりと外の日が暮れていこうとするのを見ていた。


「メイヤー」 


 声がかけられ、顔を上がれば、ラフな服装のライアンとコレットが立っていた。

 ドレスやメイクを解いてしまっても、年相応の美しさは変わりなく、眩しく見る。 


「コレットは少し休んだ方がいいな」

「ええ、でも… …」 


 そう言って俺とライアンの顔を交互に見る。 


「僕たちのことは気にしなくてもいいよ。慣れないことで疲れたろう、今日はゆっくりして、晩餐には呼びに行かせるから」

「ええ。ライアン。じゃあお言葉に甘えて少し休ませてもらうわ。失礼するわね、メイヤー様」 

「俺は明日からしばらく滞在させてもらうことになってて、申し訳ないのだけど」 

「いいえ!メイヤー様は遠くからいらして下さったと聞きました。どうぞのんびりしていってください」 

「ありがとう、コレット」


 彼女はふわりとした笑顔を残して、軽やかにテラスを後にした。


「明日からの事なんだが」


 ライアンは真剣なまなざしで俺を見た。  

 こっちが本題だと言わんばかしに。


「僕が訪ねた孤児院はピックアップしてあるんだ。早速周ってみようと思う。メイヤーも一緒に来てくれないか?」 

「俺が?なんでまた」

「一人で孤児院を回るなんてちょっとおかしいだろう?メイヤーが一緒なら何かの事業に見せかけられる」


 俺は軽く頷いた。

 はっきり言って同意しかねる。

 けれどもライアンは、遠足を待ち望む子供のように明日を頭の中で思い描いているようだ。

 俺は頬杖をついたまま、ライアンから顔をそむけてため息をついた。

 それからしばらく、赤毛のリリーを探し回る日々が続いた。

 リストアップされた孤児院のリストは結構あって、宿を取らなければならないような遠い場所もあった。

 時に三日も家を空けることになり、新婚だというのにどうしたものかと思ったが、ライアンは全くそんなことは気にも留めない。

 屋敷に戻ってコレットと共の晩餐に、彼女がもの問いたげな視線をライアンに送っているが、ライアンはそれを完璧な笑顔でシャットアウトしている。

 気が付かない、というのは最大の武器だなと思った。

 だからこそ、ライアンは気づかないふりをしているのだろう。

 結婚して正式に跡を継ぐことが決まったとて、まだまだ事業の実権はライアンの父親にあった。 

 ライアンがあちこち出歩いているのも、今までの素行から、視察に回っているとでも思っているらしい。

 ところが当のライアンときたら。

 これを知ったら、どう思うだろうか。 


*****


 結婚式からそろそろひと月が経とうとしていた。

 たとえ暇な身とて、そろそろ家に帰りたいなと思い始めていた。

 とういうのも、仲の良い夫婦に歓待されているならいざ知らず、だんだんと雲行きが怪しくなってきているのを、俺が感じ始めるくらいだ。 

 気が付いているのかいないのかライアンは相変わらず完璧な笑顔を顔に張り付けている。

 テラスで俺たちは、不発に終わった孤児院をリストから外し今後の計画を練っていた。


「なあライアン。ここまで探していないんだ。もう諦めた方がいいと思うけど」

「まだ孤児院があるのに諦められるか!」 

「そうは言っても、俺だって家に帰って兄貴の仕事を手伝わなければ、そろそろ文句の一つも言われる頃だ」

「わかっている!わかっているさ、無理を言ってることも!でも今しかないんだ。何とか、何とかもう数日頼むよ」


 俺は黙ってライアンを見る。恋に狂っているとでもいうべきか。

 全く今までのライアンからは想像できない。

 遠慮がちに響いた靴音に顔を上げると、コレットが立っていた。

 不安げにその瞳が揺れている。


「ライアン」

「なんだ?」 


 いつもと違って、ライアンは声に不機嫌を滲ませた。


「あの、メイヤー様も困ってらっしゃるし、私でお手伝いできるならやらせてもらえないかしら」 

「コレットには関係ない」 

「でも、」 

「ここはいいから」 

「関係なくはないですわ。私はあなたの妻なんですから」


 そう言うと、ライアンの動きがぴたりと止まった。

 やや不機嫌ではあるが、普段通りの仮面を張り付けていたその顔から、はらりと剥がれた落ちた後の無表情を、コレットに向けた。 


「妻?」 


 冷たい一言に俺はぎくりとした。

 リリーが思ったように見つからない焦燥感が、ライアンを明らかに不安定にしている。

 俺は制しようとライアンを見たが、その横顔は俺の視線を振り返る余裕など一切なかった。 


「妻か。そうだな、お前は確かにタッカーの奥様だ。だがな、僕の妻として認めたわけじゃない。僕はお前を」

「ライアン!!」


 俺は立ち上がって叫び、その続きを打ち消そうとした。

 けれど、ライアンはゆっくりと俺を振り返りそのまま言葉を続けた。


「愛することなどない。永遠に」


 空気が凍りつく。

 俺はコレットを見た。

 彼女の顔は青ざめていた。

 形の良い唇を噛み、ガラスの様な薄いブルーの瞳を見開いたままライアンを見ていた。 

 ライアンは、そうライアンは薄く笑っていた。

 彼は口元を引いて、傷一つない美しい何かを少しずつ傷つけていく、ほの暗い愉悦に満ちた顔だった。 

 自分の叶えられない欲求をそうして果たしているようだった。

 それは傍から見て、なんとも不快なものだった。

 コレットはくるりと踵を返して、去って行った。

 水色のスカートが、テラスに差し込む眩い光に揺れる小さな影をひきつれて。


「ライアン」 

「なんだ?」

「俺はもうお前のしていることにはついていけない。例え思う人がいるにしても、16歳の少女を傷つけて良いわけがない」

「優しいんだなメイヤー。残念ながら、僕はリリー以外の女を気遣う気持ちは、もう一切持っていないんだ。なあメイヤー。お優しい君に、コレットを任すよ。慰めてやってくれよ」 

「俺をばかにするのも大概にしろよ、ライアン!俺は明日にも帰らせてもらう!」

「いいな」 

「なんだ?」

「当事者ではないというのは気楽で。家に帰ってしまえば、もう関係ないもんな。僕のこともコレットのことも」 


 俺は大きく息をつく。 


「どうとでも言え」 


 テラスを離れる。

 今あいつと向かい合っていても、腹が立つだけだ。

 冷静にならなくては。

 そのまま俺は供されている部屋に戻るとそのままベッドに転がった。

 何も考えたくない。

 静かに目を閉じると、やがて訪れた眠りで心が凪ぐ。 

 どれくらいそうしていたか、気づいたら周囲は闇に落ちていた。

 俺は頭をすっきりさせようと窓を開け、ベランダに出た。

 明るい月の光が、タッカー邸にささやかな影を落とす。

 不意に横を見れば、壁続きの一番奥の部屋のベランダにコレットの姿を見た。

 ガウンを羽織って月を見上げている。

 その儚げな様子に俺は胸が痛んだ。

 まるで月に帰る事を請うような妖精のようだ。 

 そのまま引き寄せられるように俺はベランダの手すりを一つ一つ乗り越えて、やがてコレットの立っていた場所までやってきた。

 もうそこに彼女の姿はなく、部屋に入ったようだ。

 窓が少し開いていて、レースのカーテンがそよぐ。 

 俺はそっとその隙間から部屋に足を踏み入れた。

 照明を落としたベッドサイドの揺り椅子にコレットは座って、本を読んでいるようだった。

 けれど、その本のページはいつまでたっても手繰られることはなく、コレットの心がそこに無い事を示した。


 「コレット… …」 


 つい呼びかけると、驚いた彼女は本を落とした。

 ばさりという音と共に風でページがさらさらとめくられる。


「どうしてそんなところに?」

「昼間のことが気になって」 


 そう言うと、彼女の顔がにわかにこわばった。 


「お気遣いなく。大丈夫ですから」

「でも」 


 俺はそう言いながらまた一歩部屋に足を進める。

 コレットはそれを見て一歩下がる。

 白いガウンを羽織った胸元は、いつもよりも開いていてそこにあるものを予感させる。

 おろした髪はなめらかに頬に落ちた。 


「あまりにもひどい事を、ライアンが言うから」

「いいんです」

「いや、よくない」 

「私がいいと言ってるからいいんです」


 彼女は両手で自分の体を抱きしめる。細い。

 華奢な腕がガウンから零れ落ちる。足元から頭の先まで、俺はゆっくりと視線を動かしていく。


「ここから出ていってください」 

 その顔に浮かぶのは恐怖であり嫌悪だった。

 なぜ。

 ライアンにはそんな視線を投げたことなどないのに。


「ライアンがあんなふうに言うなら、君も楽しく過ごしたらどうだ?」

「いいえ!私はライアンの妻です。これ以上近寄らないでください」 

「コレット… …」 


 次の瞬間彼女は機敏に動いて、揺り椅子の傍のサイドボードから何かを取り出す。 


「コレット?」


 そして彼女は何か黒く鈍く光るものを俺に向けた。


「早くここから立ち去りなさい」

「コレット!」


 向けられているものは拳銃だった。

 彼女はそれをとても正確に構えて、俺を見ていた。


「私が誰だか知っている?マールバラの人間よ。余り安く見てもらっちゃ困るわね」 


 俺は二、三歩後ずさる。


「コレット、そんな物騒なものは下ろすんだ。小さくても反動で君の腕が外れでもしたら」 

「試してみる?」


そういうと艶やかに笑って、ためらいもなくその指に力を込めた。

 パンという乾いた音がしたかと思うと、頬に熱い何かが押し付けられたような痛みが走った。

 反射的に手をやると、血が付く。

 弾が頬をかすめたのだ。


「さあ、どうする?ねえメイヤー。お耳は大事かしらね?」


 彼女はふっと笑むと、まさに耳に狙いを定めた。

 俺は体に絡むカーテンを裂く勢いでベランダに飛び出る。

 いくつものベランダを乗り越えて、あわてたせいかあちこちぶつけて服も破けた。

 自分のベランダまで戻ると、そのままへたり込む。

 何をやってるんだ俺は。

 部屋の外が騒々しくなったが、やがて音は絶え、またしても静寂と闇に包まれる。その薄暗い部屋の中で俺は、ただ時計の針を見ていた。

 朝のきらめく陽光の中で、ライアンは澄ましてコーヒーを飲んでいる。

 長い脚を組んで、陽に透けるような金髪が顔に影を落とす。

 これが絵画だったらどれだけ心が安らぐかと思うが、残念ながらそれは生きている。そして憎らしいほどの完璧な笑顔を俺に向けるのだ。


「おはよう!メイヤー。昨夜は申し訳なかったね」 

「昨夜?」 

「ああ。コレットが、ベランダから獣か何かが顔を覗かしたらしく、驚いてうっかり銃を撃ってしまったそうだよ」 

「… …そうか」

「さてどんな獣だったかは知る由もないが」


 そう言うと俺の頬の傷を見てにやりと笑んだ。

 俺は黙って椅子に掛ける。 

 どこからかメイドがやってきて、テーブルに熱いコーヒーを置いた。


「何か、外が騒がしいようだが?」


 俺への興味を外へ移して、様子を見るような視線を投げたライアンがメイドに尋ねる。


「奥様がお出かけです」 

「出かける?どこへだ?申し訳ありません。私にはわかりかねます」


 ライアンは軽く舌打ちをすると、


「アクロイド!」


と邸の中に声をかける。

 ほどなく、どこからか壮年の執事らしき男がやってくる。


「お呼びでしょうか?」 

「コレットはどこに行くんだ?」

「どこか、古いお付き合いのある場所だそうで、車を出しました」 

「後をつけろ」

「承知いたしました」


 恭しく頭を下げると、静かに場を去る。


「後をつけるってなんだよ?気になるのか?」 

「男がいても構いやしないが、ろくでもないのだと困るからな。タッカーの名に泥を塗るようなことはさせるわけにはいかない」 


 自分の事は棚に上げて、と俺は胡乱な目でライアンを見れば


「メイヤーがしっかりしてくれれば、困ることはないんだがな」


と言って口の端を上げた。

ほどなくして、執事が戻ってくる。


「奥様は、ワーズワース孤児院へいらっしゃった模様です」

「孤児院?」 


 それは俺たちが持っていたリストにあった孤児院だった。

 確かここよりもっと田舎の方の、こじんまりとしたところで、近くの教会が面倒を見ていたようだ。


 「コレットが孤児院へ何の用だ?」


 ライアンは眉を寄せて、あからさまに不機嫌を顔に表した。

 つくづく驚くが、俺が過ごした大学生活の中で、この男のこんな顔は一度としてお目にかかったことが無かった。


「さあ、私にはわかりかねますが、こちらのお仕事のおひとつとお考えでも」 

「… …奥様気取りか。余計な事を」 


そう言い放つと、ライアンは立ち上がった。


「車を回してくれ。出かける」 

「承知いたしました」 


 歩き出すライアンの背に俺はコーヒーカップを持ったまま話しかける。


「ライアン!どこへ行くんだ?」 

「ワーズワース孤児院さ。行く予定ではあったからな」 


 まったく、なんという横暴だと思いながらも、俺はコーヒーを飲み干してライアンの後を追った。

 車窓を開けると、気持ちの良い風が舞い込んでくる。

 ハンドルを握ると先ほどまでの横暴さは消え失せて、あのころのような穏やかな気持になる運転だ。

 ライアンの本当はどっちなんだろうか。

 俺は同性の目から見ても秀麗なその横顔を伺う。 


「とりあえず、コレットが何をしに行っているのか、様子を見よう。どういうつもりかは知れないが、まあとにかく、この目で見ないことには仕方が無い」 


 ライアンはまっすぐ前を見ながらそう言った。

 俺の視線を感じて、彼なりに説明したといったところか。

 タッカー家の周辺の森を行き、いくつかの集落を抜け、途中で何度か休憩をはさみ2時間もすると拓けた草原に、孤児院にしてはかわいらしい作りの建物が見えてくる。

 すぐ近くに教会があって、点在する牧場や畑の近くに民家も見え、それなりに人が住んでいる土地ではありそうだ。

 しかしながらいかんせん田舎だ。

 どこをどう切り取っても同じように見えてしまうのは仕方がない。

 建物近くに車を停めて外から様子を伺う。

 孤児院のドアの目の前には不似合いなタッカー家の高級車がひっそりと停まっている。

 車を降りると、建物の裏から子供の声が響いてくる。

 ライアンは俺を一旦見ると、そのまま裏へ回る。

 壁に隠れてそっと覗き見れば、数人の子供たちが駆け回っていた。鬼ごっこでもしているのか、きゃあきゃあと声を上げて逃げ惑う子供たち。

 陽の光が彼らを包んで質素な服がいっそ不釣り合いなほど、彼らの髪をきらきらと輝かせていた。 

 楽しそうな彼らに思わず口がほころぶ。一人の少女が「待てー!!」と言いながら、この集団の中でも一番小さな子を追いかける。

 草色のワンピースを翻し、裸足で駆けるをものともせず、蜂蜜色の髪がきらめいた。


「え… …あれ、コレットじゃないか?」


 俺は小声でライアンを伺った。

 ライアンは答えず、ただ彼女をじっと見ていた。

 コレットは俺たちが覗き見ているのをもちろん知る由もなく、普段はきっちりとまとめた髪をゆるく束ねて風になびかせ、笑顔でいっぱいにしながら子どもの様に走り回っている。

 そうだ。まだ16歳なんだ。

 こうやって走り回ることを楽しめる年なんだ。 

 そういう感慨の様なものが俺の中に浮かんだ。

 やがて、さっきの小さな女の子がすてんと見事に転ぶ。

 途端に大きな声を上げて泣き始め、ゲームは中断された。

 息を弾ませたコレットが彼女の傍にやってくる。


「大丈夫?ほらどっこも血も出てやしないわよ」 


 抱き起し服の土を払い、にっこりとほほ笑む。

 泣いていた子はまだしゃくりあげながらも、コレットの首筋にしがみついた。 

 両腕でその子を抱きしめると、軽々と抱き上げて腕の中に収める。

 細い指がその背を撫でた。


「ほらほら、もう泣かない。リリーと言う名の女の子は、みんなずっと強いのよ?」 

「そうなの?」 

「そうよ。こんなことで泣いてたらリリーの名が廃るわよ」


 女の子はぐいぐいと自分の目を袖で拭いて、泣き止む。 


「さあリリー!逃げて逃げて!!捕まえちゃうぞ!」


 そう言ってくすぐると、きゃっきゃと声を上げてのけぞり、コレットの腕から抜け出して一目散に逃げていく。


 「リリー… …。今、リリーと言ったな?」


 建物の陰にそっと隠れて覗き見ているはずのライアンが、気付くと歩み出てコレットにそう言った。

 名前を聞いただけで飛び出すのかよと俺はいささか鼻白んだ。

 驚いたのは、コレットだ。

 目を見開くと、ライアンが進んだ分だけ後ずさる。


「ラ、ライアン!なぜここに?」

「リリーを、知っているのか?」


 ライアンはそんなコレットの様子など目に入らないかのように、ただそれを問うた。


「リリー?」


 コレットは後ろを振り向かずに走っていく子の背を目で追う。

 さっきまで泣いてたのが嘘のように、にこにこと走るその子の髪色は茶色。

「違う、あの子じゃない。10年ほど前に、孤児院にいた赤毛の女の子だ。赤毛のリリー」 

「赤毛のリリーが、なんですか?」 


 コレットの口調が硬くなる。 


「知っているのかと聞いている」

 なおもかぶせるようにライアンは言う。 「ワーズワース孤児院にいたリリーのことですか?」 

「赤毛のリリーかと聞いている!どこの孤児院かなんてそんなことは」 

「赤毛のリリー・ローズでしたらよく存じてますわ」


 俺は息を飲んで思わずつぶやく。


「リリー・ローズ… …」


 瞬間ライアンを見れば、呼吸も忘れたかのように動きを止めた。 


「なぜ… …あの名は俺とリリーしか知らないはず、なんで… …なんで知ってるんだ?」 

「リリーに何のご用ですか?」

「約束を… …必ず迎えに行く約束を… …僕は」

「気付きもしなかったのね」 


 コレットは冷たい声でそう言った。ライアンはふっと顔を上げてコレットを見た。


「気付きもしないのに何の約束?」 

「何を?」 

「お忘れですか?リリー・ローズです。ワーズワース孤児院の、私が赤毛のリリー・ローズです」


 魂が抜けたようになっているライアンをしり目に、睨め上げるようにコレットは俺たちを見た。


「私が赤毛のリリー・ローズだと気付かなかったことに驚きだわ」

「しかし髪の色が」 


 と俺が尋ねると彼女は自分の髪を手にとって陽に透かした。


「昔はもっと赤かったの。今はジンジャーレッドかしら?金髪じゃないわ。だんだん色が薄くなってしまったのよね」 


 大げさに肩をすくめる。そしてまたまっすぐにライアンに向き合う。


「私はあなたのことをよく覚えているわ、ライアン。あなたはあのころ、私が何をするにも驚いてばっかりで、それがとても面白かった。お金持ちの男の子がこんなことも知らないのかしらって。木登りも鬼ごっこも影踏みもどんぐりのコマも草の実のくっつき虫も、なあんにも知らないんだもの。大きな弟ができたみたいで面白かったわ。だからあなたが迎えに来るといった約束をずっと覚えていたの。一緒に暮らせたら私はもっと楽しい事を教えてあげられるって。けれど私を貰いに来たのはマールバラの父だった。そこで知ったのよ。私はマールバラの父と娼婦との間に生まれたんだってことをね。マールバラには正妻との間に女の子がいたんだけど流行病で亡くなったの。それを隠して私を養女にしたのね。そういうことだから、孤児院の方でもマールバラに行った事は固く口止めされて、あの時から赤毛のリリーは消えたのよ。だから私は、結婚式の日あなたに会って、本当に驚いたわ。迎えに行くといったのは本当だったんだって。こういうことになるのをあなたは知っていたんだって。けれど微笑みながら冷たい視線を向けるあなたに、私が娼婦の子だと知れたんだと思った。リリー・ローズはそういう出自の女だったって

ね。幼かった頃は、ただのかわいそうな女の子だったけれど、分別もついた今、そんなのは幻だったって」 


 そこまで一息に告げると、コレットは遠くを見た。

 子供たちは草原の中を駆け回っている。 


「それが、気づいてもいなかったなんてね。笑っちゃうわ。それであなたはメイヤーと私を探し回っていたというの?滑稽だわね。おかげさまでライアン。私はタッカー家の奥様に収まることができたわ。約束は果たしてもらったから、これからせいぜい贅沢させてもらいましょうか?」


 皮肉な笑みを残して彼女は走り去る。若草色のワンピースはそのまま景色に溶けてしまいそうだ。

 俺はライアンを振り返る。

 抜け殻だ。

 あの綺麗な瞳は何もうつしていない。

 まあそりゃそうだろう。

 これから恋愛を始めるにしても、最悪のラインから出発だ。

 ゼロどころかマイナスから。

 どんなに甘い睦言を囁いたとして、彼女は果たして落ちるだろうか?

 馬鹿だなあ。

 ため息をつく。

 まあ逆に正直者なのかもな。

 頭に馬鹿が付くほど。

 俺は俺の中で精いっぱいフォローを入れた。 


「ライアン」 

 

 いつまでもここで呆けていても仕方がない。

 まるきり腑抜けになってしまったライアンを車に押し込み、俺の運転で来た道を戻った。

 ライアンはそれからずっと黙ったままで、コレットへの扱いに対して不満のあった俺からすると、まあなんだ、いい気味だ。

 それからどうなったかというと、ライアンは情けない事にしばらくそのままぼうっとしたままだった。 

 反対にコレットは生き生きとしていた。

 孤児院で啖呵を切った時のように、特に浪費する向きでもなかった。

 それよりも忙しそうに屋敷でも立ち働き、社交をこなし、いろんな孤児院に慰問へ行った。

 年若いながらもタッカーの妻として十二分に責務を果たしていた。

 屋敷内でも、親切で気立てがいい彼女は、人を顎で使うライアンと違って、すぐに使用人たちを味方にした。

 慰問先の孤児院では多くの子供たちに好かれ、次の催促が来るほどだった。

 輝くものは光を受けてなおも輝く。

 俺は眩しくコレットを見た。 

 


 さて、俺の長期滞在もそろそろ幕引きだな。

 コレットがリリーだと知れたときには、自分の事は棚上げしながらもライアンが何か強硬手段に出るのではないかと危惧していたが(むろん結婚しているんだから、第三者の俺が口をはさむことではないかもしれないけど)当の本人にそんな気概は無く、むしろこのままあの腑抜けはどうするんだろうかと逆の心配も出てきた。

 それでも、いつまでもライアンにかかってばかりはいられない。 

 俺はある天気の良い日に、ライアンの部屋をノックした。

 季節はうつろい、日差しはかなりきつくなって、夏の予感をはらんでいる。 


「ライアン、俺はそろそろ帰るよ」

「… …ああ。メイヤーか。帰るのか?」 

「ああ」 

「… …そうか」


 やれやれ。 


「ライアンしっかりしろよ。とにかく、お前のリリーは手に入ったんだろ?」 

「どうすればいい?」


 捨てられた犬のような目をして俺を見る。

 やめてくれ。

 こんなこと俺にだってわかりはしない。 


「誠意を見せるしかないんじゃないか?信じてくれそうもないけど、お前の気持ちをぶつけるしかないだろ?こうしていたって何にも変わらないんだから。ごらんよ、コレットを。最近はますますきれいになって。あれじゃ他所の誰と恋に落ちるかわからんな」 


 急にライアンの目つきが変わる。


「ぼんやりする暇があったら、少しはあがいちゃどうだ?もっともお前のそのくだらないプライドが、コレットよりも大事なら仕方がないがな。そう言えば、お前はコレットを俺にくれるんだっけ?」

「メイヤー!!」 

「じゃあな、ライアン、せいぜい頑張れよ」


 ドアを閉める瞬間、ライアンを見る。嫉妬心だけは人一倍かよめんどくせ。

 そんなわけで、俺は夏を迎える前に家に戻った。

 あれからライアンからは何も連絡はない。

 噂では、タッカーの跡継ぎは奥さんにぞっこんで、尻を追いかけまわしてるとか。

 ところでそのタッカー家の若奥様コレットは、どういうわけか週一で俺に手紙をくれるようになった。

 最初は、結婚式のお礼状だった。

 俺は返信に長期滞在を詫び、また滞在中のあれこれを詫び、それからライアンをよろしく頼む旨を書き添えた。

 ライアンはどうしようもない男だが、大学時代は彼のおかげで楽しく過ごせたのは事実だ。

 俺にとって大事な人物であることは変わりない。

 しばらくすると返信が届き、タッカー家の周りの様子や孤児院でのことやなにやかや、たわいも無い事が記されていた。

 手紙に書かれる彼女の周りの生き生きとした景色に思いを馳せながらのやりとりは、いつしか楽しみになった。

 日々慣れない仕事に追われる身で、なんというかそう、癒しみたいなものになっていった。

 そうしているうちに、内容は身辺のことから段々と世の中の情勢にいたるようになった。

 それもごく簡単に近所の話でもするように記されたそれはなかなか読むべきところがあった。

 うちは貿易商で、長男が事業を引き継いでいるが、次男がなぜか芸術家になってしまったので、俺が兄の仕事を夏過ぎから手伝うようになった。

 大学ではてんで経済なんて勉強しなかった俺は、最初のころはいろんな情報で頭がパンクしそうだったけれど、ある日兄に意見を求められて、そう言えばとコレットの手紙に記されていたいくつかの懸案を話せば、兄の俺を見る目が変わった。 

 そういうことが度重なり、俺はだんだんと経済というものの見方がわかってきて、今じゃ驚くなかれ、兄の片腕になっているんだ。

 後で知ったことだが、コレットはすさまじく賢い女の子だった。

 マールバラはそれをすぐに見抜いて、引き取ったときから学校と並行して経済を教えていたんだそうだ。

 今のタッカーにいて、彼女の特質が発揮されればいいのだけど、どうもライアンの目は曇っているような気がしてならない。

 秋はひっそりと訪れて、いつしか冬の足音が聞こえるような肌寒い日だった。

 俺にもわかるくらい、我が商事は好成績を叩きだすようになった。

 しがない三流貿易商だったが、なんと有名どころと肩を並べてもいいくらいになってきた。

 それで俺は温かい懐にホクホクしながら気分良く、昼時に街へ繰り出す。

 今夜はどこか面白い場所にでも行って、派手に遊ぶのもいいかもしれない。


「メイヤー?」 


 聞き覚えのある澄んだ声が、街の喧騒の隙間から俺の耳に飛び込んできた。

 はじかれたように振り向くと、トレンチコートに身を包み、しゃれた帽子をかぶった美人が立っている。


「コレット!」 


 そう呼び掛けると、ニッコリと彼女がほほ笑む。


「こうしてお会いするのはお久しぶりね、メイヤー」 

「やあ、どうしたんだい、こんなところで」

「買い物に連れてきてくれるというから思い切って羽を伸ばしてみたのよ。確かあなたの会社がこの辺りだったと聞いていたから」 

「奥様ぶりがすっかり板についているじゃないか。今でも子供たちと走り回っているというからどんなお転婆になっているかと思ったら」 

「そういうことは内緒にしといてね」


 片目をつぶる。

 そろそろ17歳になる彼女はずいぶんと魅力的になったものだ。


「ところで、メイヤー。あなたの会社もだんだん羽振りが良くなってきたようね?」

「ああ!そのことに関しても感謝してるんだ。いろいろと参考になる意見をありがとう」 

「どういたしまして。所帯を持つくらいの蓄えになったかしら?」 

「おかげさまで、ささやかなぜいたくをしてあげられるくらいにはなったさ。ま、相手がいればだけど」 


 満足げにコレットは頷く。


 「ところで、ライアンは?」 


 そう言うと、くるりと周囲を見渡し肩をすくめる。


 「さあ、どうかしら?」


 と言うないなや、いやに高級な車がスピードを上げてやってきて、びしりと横に停まる。

 中から転がるようにライアンが飛び出てくる。 


「ライアン!」 

「コレット!なんでこんなところにいるんだ?運転手も使わずに!」 


 ライアンは俺をスルーしてコレットに走り寄る。 


「あなたが好きなものを買えばいいというからお店を探していたのよ」

「そういう店はこんなところにはないだろう?しかも慣れない土地を一人で歩き回るなんて!」 

「田舎者だと思ってバカにしないで。地下鉄だってバスだって、タクシーだって乗ることくらい知ってます」 


 つんと上を向くと、ゆるりと表情をほどいて俺を見る。 


「お会いできて楽しかったわ。メイヤー」 

「ああ、メイヤー。妻が引きとめたようで悪かったね」 


 ライアンは懐かしさを滲ませるどころか、いやにぎらつく目で俺を見る。 

 やれやれ。困った男だな。


「いや、美人に引き止められて悪い気なんかしない」 


 ライアンの目にひんやりとした冷気が漂う。 


「さあ、車に乗るんだ、コレット」

「はいはい」


 そう言うと、腰に回した手をコレットは叩き落とす。

 やるなあ、あの娘。 

 こうして歩いていれば、あの夫婦はこれ以上ないほどの似合いなんだから。

 俺はささやかな胸の痛みを感じながら頭を掻く。

 車に乗る瞬間、コレットが俺を見る。

 その艶めく唇が「メイヤー」と声は無く呼ぶ。

 切なげな眼差しを残して彼女はドアの向こうに消えた。 

 当て馬なんかにされるのはもちろん、ごめんだ。

 けれど。

 コレットが街角に残していった眼差しの意味を計りかねて俺は立ち尽くす。

 のるか?そるか? 

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