第52話 五次元空間
鏡面世界。ブラックホール内。
去年の12月14日。在りし日の出来事。
物置部屋の過去の光景が、再生されていく。
『……そうかい。あの子のために、あたしはこれから殺されるんだね』
扉の前に立つのは、灰色の着物を着た、白髪のおばさん。
体はふくよかで、いつも明るくて、厳しかった育ての親がいた。
(間違いない。生きてた頃のマルタおばさんだ……)
目頭がぐっと熱くなるのを感じる。
ジェノはそれを堪え、事象を観測していく。
俯瞰で撮影されたカメラから映像を読み取るように。
『ええ。黒の極点に至るには必要な工程です』
対し、淡々と答えるのは、大柄の男。
黒い肌に、白いタキシードを着ている。
肩書きは元アメリカ大統領兼白教大司教。
(レオナルド・アンダーソン……)
組織に入る、間接的な要因を作った張本人。
この後、マルタを殺されたことで運命が変わった。
今、見ているのは、殺される少し前ぐらいの映像だった。
『必要悪とその演出ってわけだね。胸は痛まないのかい?』
話は着々と進んでいき、マルタは尋ねていく。
その表情は、内容に反し、どこかサッパリしていた。
(演出……。殺されるのに同意したってこと……? いや、でも……)
もう少し前の時間から、観測すればよかった。
二人の関係性や、ワードに分からないことが多すぎる。
ただ、時間を巻き戻せる自信がない。黙って観るしかなかった。
『当然、痛みますよ。愛しの我が妻に手をかけるのですからね』
そこで語られたのは、思いもよらなかった内容。
にわかには信じられない、耳を疑ってしまうような情報。
(マルタおばさんが、レオナルドの妻……? 嘘でしょ……)
あり得ない。そんな事実はあってはならない。
レオナルドは、悪逆非道で、血も涙もない人なんだ。
殺したいから殺した。そう言ってくれた方がスッキリする。
それなのに、目の前で行われているのは、その真逆の光景だった。
『そうかい。だったら、せいぜい泣いとくれ。それで、少しは報われる』
マルタはレオナルドのそばに寄り、唇を近づける。
あまりにも自然な会話。あまりにも疑いようのない動作。
他人にこんなことはしない。密室の状況で嘘をつく必要がない。
(これじゃあ、まんまと乗せられた俺が、馬鹿みたいじゃないか……)
刀を握った手で、ガシッと映像を叩く。
レオナルドに恨みがないわけじゃなかった。
その恨みを別の原動力に変え、今の自分がある。
でも映像を見る限り、ただの逆恨みでしかなかった。
「……っ」
そんな複雑な心情で観ていると、椅子がバタンと倒れた。
まるで、俯瞰するこっちの動作が反映されてるみたいだった。
『……お待ちください。どうやら、覗き見している方がいるようです』
ビクッと、背筋が伸びるのを感じる。
レオナルドはキスを止め、そう言い放った。
しかも、観ているこちらの視点に目を合わせている。
(まずい……そろそろ、ここから出ないと……)
空間切断と空間接合は、元々、レオナルドが使っていた能力。
この中の事象も、彼であれば、把握できてしまう可能性はあった。
もしかしたら、この空間の中に乗り込んでくることさえ、考えられる。
「――あっ」
焦りが募る中、再び両手の刀に力を込めようとする。
しかし、うっかり手が滑り、二刀とも落としてしまっていた。
(待って待って待って……なんで、こんな時に限って……)
ここから脱出できる頼みの綱。
それが、重力の沼に落ちていく。
回収するのは、まず不可能だった。
(最悪だ……。一番脱出できる確率が高かったのに……)
映像から手を放し、ジェノは問題に目を向ける。
ここから抜け出せる方法が、ないわけではなかった。
あるにはあるけど、不確実。成功する保証はまるでない。
「――仕方ない。またこいつに頼るしかないか」
懐に手を伸ばし、取り出したのは、〝悪魔の右手〟。
物質分解能力がある、出所や由来は、よく分からない代物。
これまでこいつに何度も助けられてきた。今回も上手くいくはずだ。
(ブラックホールの外側を消した経験がある。内側も要領は同じ)
根拠のある自信と共に、目を向けるのは、真下。
体に纏う銀色の光で薄っすらと見える、重力の特異点。
「ここがどんな高尚な空間なんて知ったことか」
狙いは中心。空間に囚われる根幹。樹の根っこのようなもの。
右手に力を込め、血液を込め、意思を込め、狙いを定め、打ち放つ。
「……消え失せろっ!!!」
生じたのは、強い意思を宿す、赤い稲妻。
人一人が抱える、願望を押し通すためだけの力。
稲妻は、中心に自ら吸い寄せられるように、闇を走った。




