弥五郎
数えで五歳になった修一は、春、初めて田植えに参加した。
坂元本家に居る時も、長の館で過ごす様になってからも、人目に殆ど晒されずに育てられていた修一が、下方限の子供達と会うのは、其れが初めてだった。
皆と同じ様に野良着を着せられているのに、何故か皆垢じみていて、修一とは違って見えた。
否、此れまで見てきた人間が皆、身形も容貌も、豪く整っていて美しかったのだという事を、修一は初めて知った。
富は本当に全く猿ではなかったらしい事を、修一は初めて理解した。
此の中に於いては修一の方が異質で、修一が何か異質だと感じていた巫女達や富は、修一側の、身形の良い、整った人間に属するらしかった。
持って生まれた容姿もさる事ながら、此れが貧富の差なのだという事を、言葉では分からずとも、修一は体験として実感してしまった。
重蔵も修一も其の子達も、姓は同じ、瀬原なのだという。だが、前述の理由から、同じ一門の子達だという意味が、修一には理解出来なかった。
稍あって、重蔵が作業の指揮に行って、傍らから居なくなると、青洟を二本垂らした、小汚い、如何にも悪餓鬼という顔をした、同じ年くらいの少年が、畦道に立って呆然としていた修一を、ドン、と押した。
修一は、何故そんな事をされるのか、意味が分からなかった。
修一は、畦の近くの草叢で尻餅をついた。
草叢には、草刈り鎌が放置してあった。
今にして思えば、子供が多い場所なのに、其の様に刃物の扱いが雑なのは迂闊な事だったが、後で其の場所を刈る予定だったのだろう。
修一は、危うく、其の鎌で手を切るところだった。
修一は、ムッとしながら、其の鎌の柄を掴んだ。
周囲から弥五郎と呼ばれている其の少年は、修一を小馬鹿にした様に笑いながら、言ってはならない事を言った。
「赤毛の捨て子」
弥五郎はニヤニヤしていた。
今にして思えば、数えで五つの弥五郎が思い付く言葉ではない。
里の誰かが、弥五郎が覚えてしまう程、修一の悪口を言っていたのだ。
其の時は、そんな事は分からないから、容姿の良さを称えられて育った修一は、今まで自分の髪と、他人の髪との間に感じていた違いが、揶揄される対象になり得るのだと、弥五郎の言葉で急に悟ってしまい、其れに酷く自尊心を傷付けられた。
修一はカッときて、弥五郎の足を、手にしていた鎌で切り付けてしまった。
弥五郎の右足の脹脛に、スッと赤い線が入った。
後の事は、よく覚えていないが、兎に角、大騒ぎになった事は確かだった。
修一は、重蔵と一緒に長の館に戻され、下働き達に清拭された後に、白装束に着替えさせられた。
立派な着流しと羽織を着た、背の高い人達が三人、長の館にやって来た。
長の館に大慌てでやって来た操は、修一の傍まで来て、火が付いた様に怒った。
普段の丁寧さは微塵も感じられなかった。
操が修一に殴りかかろうとするのを、増雄と糺が両脇から必死に止め、重蔵が泣きながら、修一を庇う様に抱いて、上座敷の床に蹲っていた。
未だに操の事が少し怖いのは、此の日の記憶のせいも有るかもしれない、と修一は思っている。
操は、修一を叱りながら、殆ど泣いていた。
刃物で他人に怪我をさせるとは何事だ、傷口から悪いものが入ってしまったら、相手は死んでしまう、そうしたら人殺しになってしまうぞ、と言われた。
修一は、ただただ、操が怖くて泣いた。
修一は悪い事をしたのだった。
震えながら、ごめんなさい、と言った。
増雄が、操を宥める様に、子供の手の届く場所に鎌が有るのも悪い、と言った。
修一の方が怪我をして破傷風になっていた可能性も有る、と、増雄が重蔵に言うと、重蔵は、修一を抱いた儘、床に這い蹲る様にして、操達に、泣きながら許しを請うた。
「頼む。此のくらいで勘弁してやってくれ。修は未だ幼いではないか。鎌が其の辺に有ったのは儂の監督不行き届きだった。其れに、修が、こんな事をしたのは、儂が目を離したからだ。頼む。な、修、もうしないな、しないな」
糺が、ボソリと言った。
「…弥五郎に、赤子の捨て子と言われたそうです。勿論、此の子が相手に怪我をさせたのは事実ですが…」
其れを聞いて、操は脱力した。
操は、自分を両脇で抱えて止めている、増雄と糺に、体重を預ける様にして、膝から崩れ落ちた。
糺と増雄が、慌てて操を抱え起こした。操は、修一が見た事も無いくらい、真っ青な顔をしていた。糺が、操を抱える様にして帰った。
操と糺が帰っても、重蔵は長の館の囲炉裏端で胡坐を掻いて、両手で顔を覆ってシクシクと泣いていた。
残った増雄が、黙って、重蔵の傍らに立っていた。
重蔵は、修一が傍に寄って行っても、未だ泣いていた。
増雄が、憐れむ様な顔をして、修一の顔を見た。
重蔵が、か細い声で、増雄ちゃん、と言ったので、修一は驚いた。
何処かに甘えが滲んだ声音だったからである。
「如何しても親になれん。遊んでやったり、甘やかしたりする事しか出来ん。上手く叱れん。これじゃあ単なる遊び相手だ。物も教えてやれん」
重蔵は、そう言いながら、更に、涙をボロボロ溢した。
修一も泣いた。
自分が仕出かした事が、重蔵を酷く追い詰めている事を、修一は知ってしまった。
「父」
修一が重蔵を呼ぶ声を聞いて、増雄は、重蔵の傍らに立った儘、ポン、と重蔵の肩を叩いて、ゆっくり言った。
「子供に気を遣わせるな。此の子が可愛いから、と、無理に貰ったのだろう?本家で今まで通り、せめて此の子が成人するまで育てても良かったものを」
重蔵は、ハッとした顔をして、やっと修一の顔を見た。
重蔵は、修一を抱き締めて、泣いた。
修一も泣きながら、言った。
「重蔵、俺の父親だろう?」
「そうだったなぁ」
歪な関係ではあったが、何とか親子になろうとしている二人を、増雄は、少し離れた場所に立って、悲しい目をして見詰めていた。
修一は、増雄には、一人ぼっちが二人に見えるのかもしれない、と思った。
後から聞いた話では、増雄は面倒見の良い人で、糺も、顔は怖いが子沢山の良い父親で、糞真面目な律儀者なのだという。
二人が重蔵と如何様な関係なのかは、修一には結局、詳細には分からなかった。
しかし其れが、修一の知る限りで、増雄と糺が長の館に来た、最初で最後の日になった。
意外にも、其の後、思ったより軽傷だった弥五郎は、破傷風になる事も無く、修一の子分になった。
弥五郎は、修一の方が弥五郎より強いと思ったらしかった。
そして、弥五郎の三人居る友達は、殆ど自動的に修一の子分になった。
そういう仕組みなのか、と思うと、修一は其れを少し迷惑に思った。
別に其れ程自分が強いとは思わなかったからである。
体格は他の子供より確かに良かったが、修一は、結局、立場の維持の為にだけ、というのでは無いが、其の日から、とても真面目に体術の練習をする羽目になった。
結局、其れ以降、修一は、周囲の子供からも、容姿才能を誉めそやされて育つ事になった。
しかし何故か、年の近い子供達に褒められると、相手を遠くに感じた。
長の後継の子供、という存在は、対等の友を得る事が難しいと知るのには、其れ程時間は掛からなかった。
相手が子分になってから付き合ってみると、弥五郎の悪口は、関心から来るものだった事が判明した。
如何やら、修一と仲良くしてみたかったが、大層言葉が下手だったらしい事が分かったのだった。
更に言えば、弥五郎は、御世辞にも賢くなかった。
弥五郎は、悪気が無かったどころか、既に自分が何を言ったかも記憶に残ってはいない様子で、修一に懐いてきた。
そんな弥五郎に、カッときて怪我をさせてしまった負い目は、弥五郎の右足の脹脛に残った傷跡により、一生、修一に付き纏う事になったが、兎に角、弥五郎が子分になった其の日から、修一は、四人の子分、もとい、仮初めには『友』と呼べる、同い年の仲間を手に入れた。
当時の事を思い出すと、修一は時々、友人の作り方まで歪だ、と自嘲してしまう。
何にせよ、其の時修一は、自分は、赤毛である事と、捨て子である事を指摘されると、カッとしてしまう人間らしい事を知った。
何方も、本当の事である上に、努力では変える事が出来ない事柄だからである。
其れ等は、誉めそやされて育った修一の劣等感であり、其れを出されるだけで、自分の美点が全て帳消しになる気がするものだった。