明治の終わり
重蔵は、表情が乏しいせいか、髪形のせいか、何歳だか、よく分からない事が有った。
操より何歳かしか下ではないと聞くが、作り物の様に整って、表情の乏しい顔は、何処かで時間が止まってしまったかの様で、年齢を引き合いに、嫁取りを諦めた、と本人から聞いても、修一には今一つピンと来なかった。
修一は最初、操と富久の様に、十人の巫女のうち、どの人かは、重蔵の細君なのではないかと考えていたくらいだったのである。
しかし、恐らく、其れ等の事とは無関係で、重蔵は一人ぼっちだった。
十人の巫女と、数人の下働きの女性と暮らしていたが、其の中の誰とも、特別に親密にしている様子は無かった。
加えて、修一を引き取って同居しているというのに、如何にも、幼い修一の目から見ても、重蔵は一人ぼっちだった。
あんまり重蔵が寂しそうに見えたので、ある日、一緒に散歩している時、修一は言った。
「重蔵、俺の父親だろう?」
「修」
「重蔵、父だろう?元気を出せ」
重蔵は微笑んで、修一を持ち上げ、肩車してくれた。
其の日から、修一は重蔵を父と呼んだ。
其の方が、重蔵が少し寂しくなさそうに見えたからである。
重蔵は、修一を肩車した儘、何時だったか連れて来てくれた、山桜の在る場所まで来て、言った。
「此処は、本当は入ってはいけない場所だが、修にだけ此の山桜を見せてやろう。花が咲く頃、また連れて来よう。取って置きの花見の仕方を教えてやる」
「はい、父」
雨の日、重蔵の仕事が無いと、時々重蔵は、修一を坂元本家に連れて行ってくれた。
富久は、修一が行くと、とても喜んでくれたが、富を産んで半年くらいは酷く調子が悪そうで、何時も青い顔をしていた。
操は会うと決まって、最初に修一に、キチンと食べているか、と尋ねてくるので、修一は、其れが少し面倒だった。修一は偏食で少食だからである。はい、と言えない。其れから操は、口を開けば、布団は毎朝自分で畳んでいるか、草履は揃えて脱いだか、と、丁寧な言葉で、とても細かく尋ねてくる。そんな事を口煩く修一に言うのは操くらいのものなので、怖い先生の様な感じがして、修一は窮屈だった。
初めて、捺が、富を抱いて乳を飲ませているのを見た時は、修一は、泣きそうになるくらい腹が立った。
捺を富に取られた気がしたのだ。
修一は捺に恨み言を言った。
「捺は俺より富の方が好きなのだろう。皆そうだ」
修一は、捺には八つ当たりする事が出来た。
しかし、修一の本気の怒りを、捺は、ただ微笑んで受け止めたので、修一は拍子抜けした。
捺は、幼い修一に、諦観までをも感じさせる程、穏やかに言った。
「子供の何方が好きか、というものでは御座いませぬ。親というものは、そういうものではありません」
修一は其の時、重蔵同様、捺も、何時も何処か寂しそうである事に気付いた。
思い返す捺の顔を薄幸そうだと思ってしまうのは、優しい捺の表情の何処かに、修一が諦観を嗅ぎ取ってしまっていたからかもしれない。
亭主を亡くして、子供二人抱えて、坂元本家の富久に仕える様になった後、子供二人も亡くした、という事情を、修一が当時知らなかったのにも関わらず、である。
事程左様に、修一の周りの大人達は、寂しそうか、具合が悪そうか、厳しそうだった。
日々は、そうした中で、大した物音も立てずに、静かに過ぎていった。
修一自身も、其れ程、暴れたり、はしゃいだりする子供ではなかった。
だから、静かな日々の中で、生まれたばかりの富の泣き声が、いやに修一の耳に付いた。
修一は富が嫌いだった。
そうこうしているうちに、明治四十五年は七月三十日で唐突に終わり、七月三十一日から大正元年になった。
其れを修一が知ったのは、秋口になった頃の事だった。
意味は殆ど分からなかった。
生後三ヶ月まで首が据わらなかった富も、秋になると、赤子らしい動きをする様になってきた。
肌の弱い富は、全部抜けてしまった産毛のところから、行き成り、濃い、黒い髪の毛がゴッ、と生えて来て、まるで剃りたての坊主頭の様になった。
爛れていた肌の調子も、次第に赤みが引いて、猿から、稍人間寄りの容姿になってきた。
しかし、修一からしてみれば、前より少し強そうな猿になっただけ、という印象だった。