巫女
重蔵の家、即ち、長の館に移ってから暫くは、修一は泣き通しだった。
捺だけでも修一について来てくれたら、と思ったが、捺は、富の乳母になってしまったから其れは叶わなかった。
修一は、重蔵は大好きでも、やはり富が許せなくて、泣いた。
長の館には、巫女が十人居た。
瀬原集落は、『苗の神教』という宗教を信仰する者達で構成された百二十戸程の狭い土地で、其の信仰故に、なるべく外界と接触を絶ち、隠れ里として存在しており、地図にも載らない。
巫女とは其の『苗の神教』の巫女なのだった。
何故か顔も名前も全く思い出せないが、皆白い着物を着ていた。
上は四十路くらいから、下は数えで十四の年の女の人達で、『髪』は『神』に通じるとして、伸ばす決まりらしく、皆とても髪が長かった。
蚕を飼ったり、機を織ったりと、よく働く人達だったが、厨には立たなかった。
水垢離と桑畑に出る以外で殆ど外に出ない、否、出てはならない、色の白い人達だった。
巫女達は、とても修一に優しかった。
修一は其れが嬉しかった。
一番若い、数えで十四の巫女は愛らしく、修一の御気に入りだった。
本当に長い、美しい黒髪だった。
幼い修一が髪を触っても、其の巫女は怒らなかった。
本当は男の人が巫女に触ってはいけないが、修一は重蔵の息子なので特別だ、と、笑って言われた。
修一は、長とは、そういった特別な存在らしい、と思った。
巫女達には、何処か俗世とは浮いた雰囲気が漂っていた。
其れは幼い修一にも感じられた。
子供を産み育てる、とか、其れについての悲喜交々に振り回される、とか、そんな事とは無縁の女性達の様に、修一には思えたのだった。
富久や捺とは何かが違う人達だという事が、幼い修一にも分かった。
整った、調度品も少ない、ともすれば殺風景とも思える様な場所で、皆同じ白い着物を着て、何時も穏やかに微笑んで暮らしていた。
巫女とは常処女で、十人の巫女は誰も伴侶が居ない、と、キチンと教えられたのは、引き取られて暫くしてからだった。
巫女達の事は好きだったが、彼女達が如何して巫女になったのか、という経緯が修一には謎で、富久達とは全く違う生き方を選んだ理由が分らず、時折、巫女達の整った穏やかな様子に、何故か世の無常を拒む様な、寂しい感じを覚えた。
其の様にして過ごしていると、生まれて一ヶ月程経過した富が、操夫妻や捺と共に長の館にやって来た。
其の様にして長の館に参じる事を、里では何故か『宮参り』と呼ぶのである。
宮、と言っても集落の中に神社が在るわけでは無い。
単に、重蔵が祈祷をしてくれるだけである。
此の里では、冠婚葬祭、寺や神社で通常遣る事の全てを、重蔵が執り行い、農作業の指揮を取っていた。
久しぶりに見た富は、肌が彼方此方赤く爛れていて、湿疹が頭皮にまで広がり、産毛が全部抜けてしまっていた。
酷く肌が弱いのだそうである。
やっぱり猿だ、と修一は思った。
重蔵は、富の儀式を終え、操達が帰った後、珍しく、修一を館の外に連れ出してくれた。
「富が嫌いか?」
重蔵はニヤニヤしながら、そう言った。
重蔵に手を引かれながら、修一は、勿論、と言った。
そんな事を口にすると大抵叱られるが、構わない、と修一は思った。
しかし、予想に反して、重蔵は、其れが良い、と言ってケラケラ笑った。
修一は、そんなに笑う重蔵は珍しいな、と思った。
「嫌いで丁度良い。好きになったら大変だ」
「え?」
「地獄だぞ」
重蔵の明るい言い方に反して、其の口から出た内容が怖かったので、修一は、そんな怖い事を重蔵に言わせるなら、やっぱり、あの猿要らんわ、と思った。
だから、思った儘を言った。
「好きになんかならない。ずっと嫌いだ、あんな猿」
重蔵は、其れを聞いて、益々笑って言った。
「女の子はなぁ、男の子より大人になるのが早い。二、三年の差なら直ぐ追い付かれる。油断していると、花が咲いたみたいに綺麗になって、気付いた時には遅いのだ」
何が遅いのだろう、と修一は思ったが、明るい声の重蔵が、少し辛そうな顔をしていたので、詳しく聞けなかった。
手を繋いでいる重蔵と修一の間を、そっと春風が通り抜けていく。
桜は疾うに終わってしまった。
修一は、富の神立てをした日から、重蔵と御揃いの白装束しか着ていない。
行事としての花見すらした事も無い修一は、今年は桜の花の一輪すら見損ねていて、着ている物にも彩り一つ無く、何も春らしい感じはしなかった。
其れだけは、何だか味気なく感じたので、大人になったら色物を着てやろう、と、朧気に思った。
「儂にも妹の様な子が一人居た」
重蔵が、黒っぽい木の前で立ち止まって、そう言った。
其の場所が禁足地だと知ったのは後になってからの事だった。
重蔵は此の時、修一だけに、秘密の場所を教えてくれたのだが、其の意味を知る事になったのも、随分後の事だった。
「妹の様な子?」
修一の問いに、重蔵は、そうだ、と言った。
「最初は、皆が其の子をチヤホヤするもので、大嫌いだったが。本当に、ある日突然、綺麗になりよった。こんな風に」
重蔵が、修一の手を離し、黒っぽい木を指差した。
幹が撓んで、枝が地面近くまで垂れている木だった。
重蔵は、何事かを呟いた。
「もろともに、哀れと思へ山桜。花よりほかに、知る人もなし」
修一は、重蔵は、また何か綺麗な事を言っているな、と感心した。
山桜?と言って、修一が木を見ると、黒っぽい木の枝に、忽ち、サァッと白い花が咲いた。
そして、赤茶色っぽい小さな葉。
あまりにも綺麗だったので、修一は山桜の花に手を伸ばした。
桜は終わったのではなかったか、と修一が思った途端、花は、サァッと、溶ける様に消えてしまった。
此れが術かと、修一は再び感心した。
修一も操に習っているが、こんなに上手くは出来ない。
花が見えたか?と、重蔵が優しく言ったので、修一は頷いた。
「こんな風に、パッと咲いて。パッと、あっという間に手の届かない所へ行ってしまう。女の子というのは厄介だぞ」
「重蔵、寂しそうだな」
修一が、重蔵の顔を見上げて、そう言うと、重蔵は笑った。
「修は嫁でも貰え」
「嫁が居たら寂しくないのか?重蔵の嫁は?」
「四十路前になった頃から、考えん様になってしまった。まぁ、年は関係ない。誰と添うかという話だな」
重蔵は其処で言葉を切った。
修一には意味が分からなかった。
取り敢えず、重蔵は嫁を貰う気は無いという事らしい、と思ったのは覚えている。
長は生涯独身の決まりで、重蔵は、修一以降は嫁を取れるようにして、長を世襲制にせよと遺言していた事を知ったのは、かなり後になってからの事である。