花に妖怪
あれはなんだろう
私が息抜きに自転車のペダルを漕いで駅前の商店街辺りを見て回っていた時だ
ふと、いま目の端を掠ったあの色はなんだろうと疑問を抱いて直ぐに思い出したかのようにそれが桜だと頭の中でひとり合点した
桜、桜かー-通り過ぎた景色を振り返ると一面のアスファルトの中にぽっかりと茶色の地面があってその先に細長い公園のようなところに続いている
ちょうど東京の中野区にある哲学堂公園のような具合でなんでもない所に突然土や緑が目に入るので何かうずうずと人を誘うような気配があるのだ
また、同公園と同じように敷地の側面にはコンクリートの高塀に左右を囲まれた川が流れ、例の桜はその川沿いに等間隔に植えられたものだった
ー-こんな所でこんな立派な桜が見れるとは
日本人らしく春を象徴するその花の美しさに感嘆し、どうせ急ぐこともないのだし2,3分桜を見上げるというのもいいじゃないかと移り気に道をUターンし、公園傍の歩道に自転車を置くと柔らかい土を踏みしめ例のこじんまりとした桜並木を散歩し目を喜ばせた
公園に先客がいる事にきづいたのは、さてそろそろと思って振り返った時だった
ベンチに一人の男が座っている
初老というのか中年というのか何となく年齢が分かりにくい男で恰好がまた妙だった
明治の頃を思わせるいやにかっちりした洋装にシルクハット、重ねた両手の下にはこれまた古めかしい上等な杖が地面を突いていた
それからあの顔は、、、何と言おうか白黒テレビのコメディアンのような
満月を思わすまん丸の眼鏡に先っぽがピンと張った口ひげ、後で何という名称か調べたのだがカイゼル髭というらしい
元々はドイツの皇帝から名付けられたというそれも丸縁眼鏡と合わさる事で男の顔を滑稽且つ間抜けに見せるのに一役買っている
目はきょろきょろとして落ち着きなくそれ以外の部分が堂々としている分、却って軽薄な印象を人に与えるのだ
と、ここまで男の容貌を事細かに述べたが、勿論ちらと見て得た感想ではない
私は自分の他に先客がいる事を知ると、妙な自尊心が生まれ、私が男の存在に気付いたということさえも男に悟られないように早急に公園を後にしようと思って男の方に目を向けることもなかった
それというのも、私がこの公園、ひいては桜並木を発見したのは偶然のことで私は人気もない見事な桜の穴場の発見に少なからず優越感を抱いていたからである
それが、私の他に先客がいるとなればー-無論、公園なのだろうから誰がいたところで問題ないのだがー-まるでこちらが好奇心丸出しの余所者のように思えてならなかった
それに、男一人粛々とした花見を興じていたというのにそれを邪魔した不粋者はさっさとその場を後にすべきだろう
ところが、ところがだ
何とない表情で内心赤面しながら身を翻した私を引き留めたのは紛れもないその男であった
「おや、もうよろしいんですか?」
男が私を呼び止めた時、私はその男から2メートルも離れていなかった
他に人もなしに、男が私に声を掛けたことは明瞭だったがまさか話しかけられると思っていなかった私は答えに渋った
「ここの桜は見事でしょう
そう性急に見るのも惜しいものですよ」
それから男は私に隣に座るように身振りで示した
男は奇妙なほどに陽気で少し常人とは異なる兆しも見られたが、痩せっぽちで見るからに弱そうな男に恐れを抱くなんて言うのもバカバカしいー-たとい男が何か私によからぬ事を企んでいようとも私は体を鍛えているし、金銭の類は持ち歩いていないのだから目にもとまらぬ凄技で金を盗まれる心配もない
別に男の誘いの乗ったところで私には害はないのだ、と半ば自分を嗜めた
この時の私の心持ちを説明するのは中々難しいのだが、もし理解してもらうのならそれは相手を自分よりも低く見ている時に起こるそれである
人と異なる、お粗末な様子が垣間見える人に対して憐れみを抱くことはないだろうか?また、相手がそのことに気付いてない場合、何とかその人物の尊厳を守ってやりたいと厚かましくも思う事は?
痴呆の母が老眼鏡がないと嘆けば、そうと気づかれないように頭の上のそれを机の上に乗せておいてやることは?
つまりは私は本音で言えばもう十分桜は鑑賞できたのだが、男の誘いが善意のモノであった場合に男の好意を無下にしない為にもベンチの端に腰を掛けた
男はそんな私を見て傍目でも分かるぐらい気をよくした
ただの人好きか
男の悪気のない様子に此方も少し過剰になりすぎてたかもしれないと思ったところで男は言った
「しかしまた見事なものです
桜というのは数ある花の内でも別格の美しさを持っている
これは生き物の枠にありながら文化を形成している」
曖昧に相槌を打つ
確かに毎年春が近づけばテレビは天気予報に合わせて開花予測を流し、桜の木の下には人が群がり宴を催す
そういった類の事を言うと男は大袈裟なほどに頭を縦に振ったー-がその顔は何か気に入らないようで黒縁眼鏡の上で二本の眉が額に縦三本の皺を作っていた
「そうでしょうそうでしょう
これの華やかさは万人の心を打つでしょうし、たとえそれが人でなくても違いはないのだと私は思います
しかし、私が言っているのはそう言う事ではない
何故、人はこの花を前にしてこの美しさに恐れを抱かないのか
桜にだって薄気味悪さ、不気味さを覚えてもいいはずなのです」
私が如何に?と問えば、男はこの時を待っていたかのように外側を繕っていたものをかなぐり捨てその本来の性質が日の下に晒されたかのようだった
ただ、抑えつけていたそれらを開放したおかげか先程まできょろきょろと落ち着きのなかった目は定まったー-物凄い斜視ではあったが
「それはどういうことかとあなたは問う!
素晴らしいことだ、最近の連中ときたら自分の範囲に合わない事に関しては最初から興味を示しませんしかし、あなたはまだ探究心というものがおありだ
つまりです、私の言いたいこととは桜の持つ霊的な要素が蔑ろにされているのではないかということです」
「霊的……」
「そうです
いいですかな、まず一つに「場」が存在します
「空間」でも何でも呼び方は何だっていいが、何もない空間を想像してください
それは私達の世界とは全く異なるモノで私達自体がそれに干渉することはできないし、見る事もできない、ただその存在を予測することしかできません
ところで私達の世界というのはこの「場」の中にある
それは二点を結んだ線の形をとっている
しかし、ここで勘違いされやすいのですが一本の世界ー-仮にそう名付けましょうー-は決して地球全体を示しているわけではありません
一枚の世界の一つ一つは種ごとにある
「蟻」の世界、「魚」の世界、「鳥」の世界、そしてあなたたち「人間」の世界
そしてこの数えきれない数の世界たちの集合体が球体となります
分かりやすくするとこうです」
男は杖を使って地面に絵を描き始めた
「まず一本の線を描く
それからもう一本の同じ長さの線を書き足すが、それは互いの線の真ん中と真ん中が交わるように書いていく
これを放射状に書き足していくと球体が完成するのです
人間の世界というのはこの球体を構成する一つの直径にすぎない
そして「世界」というのはこのいくつもの直径の集合によって構成されている
ここまでお分かりかな?
そう、そして私達が認識している仮の世界というのはこの沢山の直径と直径が交わる円の中央、小さな点でしかないのです
ここに私達が認識している世界と言うものがあります
沢山の生き物が相互に関わっている世界
しかし、・もまた突き詰めれば、円である
やはり、世界が丸いというのは間違ってないのでしょう
ー-ああ、話が逸れました
つまり人間というものの大半が世界というものがあらゆる生物が一緒くたになったものと思っている
勿論、これは別の視点からすると正しいのです
しかし、この「場」に関するものとしてはその解釈は間違っている
世界は全て同じではない
「蟻」には「蟻」の世界がある、「人間」には「人間」の世界がある
これは簡単に言葉にするほど理解してもらえないものです
つまり、まったく別物なのです
人間には人間の尺度と言うものがある
しかし、それは蟻の尺度とは全く異なるものであるし、一緒にして考えるなど馬鹿げたことをしてはならない
蟻の多くは真社会性生物と呼ばれますが、彼らは人間とは全く異なる生態をしている
しかし、たとえ働きアリたちが雄アリを殺そうと、人間たちとは違う世界を築いているのであるから、それは罪でも何でもない
蟻には蟻の価値観、人生の運び方があり、それらが一つの世界を構成しているのです
人間が時間という概念に支配されているが他の生き物たちがそうだとは言えません
また、人間の指し示すような思考がないからといって、彼らが人間よりも知能面で劣っているなどはこの世で最大の誤解です
それぞれの世界にはそれぞれが干渉できないようなその種のなかにだけある幾つかの感覚のようなものがあります
時間の概念、生死の概念、個体と全体の概念、それらは人間のもので他の生き物たちは全く違った概念の下生活をしているのかもしれない
そもそも、概念と言うのすらまちがっているのかもしれない
そしてそれらは大抵、この球の中央よりは外側にあり、そこには相互に理解する事のできない不可侵が存在するのです
一方で全ての生物はこの球体の中心で交わっており、それによって互いの世界というのが繋がり合っている、という訳です」
男はトントン、と幾重にも線が重なった球体ー-二次元に立体を描くのは難しかったのか、球体というよりは円のように見えたがー-の中央を杖で叩いた
それは線の数の多さに、近しい線と線が潰れ合って放射状に伸びたアメーバのように球体の中心に存在している
唐突に始まった講義に呆気に取られている私を放置して男は続ける
「さて、今私は場における球体の世界についてあなたにお話ししましたが、ここで球体を構成する直径以外にも線がそんざいします
それは一つ例をとるならこのようなものです」
男は地面に書かれた円の周りに歪な歪みを帯びた線を描いた
「いいですか?今書いたこのぐにゃぐにゃとした線
これが人間や他の生物たちとは全く異なる存在である世界ですー-人間で言えば、霊とか妖怪とかそういったのです
これらは真っすぐな線ではありません
全く異なる原理の存在なのです
その為に、このようにその他の真っ直ぐな世界と重なった地点において、真っ直ぐな世界の住民には理解の出来ない形として現れる
これが、霊的現象という奴です
私は説明の為にこの霊的世界をこのように書きましたが、勿論、こうであるとは限りません
一定間隔に消滅と点滅を繰り返す所謂、点線状の線なのかもしれないし、こちらも真っ直ぐでただし、所々折れ曲がったりした線なのかもしれない
一つ言えることはこの球体を形成する世界と法則を照らし合わせる事は難題だということです
しかし、理解ができなくとも確かにそれらは存在するのです」
男はそこで一つ大きなため息を吐いた
私はチャンスだとばかりに立ち上がろうとしたが、男は先手を打つように先程よりも意気込んで喋り始めた
「だと言うのに、近頃はどうですか!?
科学と言う言葉の普及により、霊的現象はプラズマやら精神の問題というカテゴリーに捨て置かれ、その存在を真に理解している人間がどれ程少ない事か
しかも、その信者たちは実際にその教義がどのようなものか理解していなくとも『科学的に』の四文字で神託を授かったように鵜呑みするのだからやりきれなくもなるのです
人間というのは知らないことを恐れる生き物だ
しかし、だからといって理解できないことを理解しているかのように振る舞うのは愚行でしかない
それは真実から遠ざかる行為でしかないのです
考えてもみてください
確かに火の玉が死体から気化したリンの自然発火である可能性はあります
感受性豊かな人間が夜の暗闇に幽霊を見たと空想と現実が入り乱れてしまった可能性ももちろんございましょう
しかし、そこに確かな証拠はないのです
勿論、あからさまに霊の仕業ではない場合もありますが、そうではない場合にも事実には二通りの可能性がある時ー-つまり、心霊現象か否かー-人は『科学的な』のつく方を、問答無用に選ぶのだから私達のような平等な思考を持つ者としてはやってられんのですよ
心霊現象である証拠がないのと同じように、『科学的な』理由とやらにも証拠がないというのに
ー-その点、昔の人間はまだ自分達が知らないと言う事を知っていました
だからこそ、理解の範疇を超える存在や力に恐れとそして敬意を払ってきたのです
ところが現代における幽霊、妖怪、化け物たちの扱いと言ったらなんと虚しいことか
ここ最近の若者なんてものは怪談なんぞを本気で怖がらないものです
逆に幽霊なんて出た暁には両手を叩いて小躍りし、やれインターネットや、やれえすえぬえすとやらに流してやろうと舌なめずり
これでは怪談たちの方が興が醒めてしまいます
古き良き時代の情緒は土と一緒にコンクリートの下に埋めてしまったんでしょうね
じゃあ、彼らはなにを怖がるのか、と問うとそれはもう何と風情のない事かー-財産が減る事、社会的立場を失う事、果ては同胞、生きている人間が一番怖いなどと……
何と虚しい事でしょう」
男は嘆かわしいと言うように弱弱しく頭を振り、口を閉ざした
さて、この男が独り言を言っていた訳ではない以上、彼の独擅場には聞き手がおり、その聞き手が人形じゃない以上は彼にも一端の自尊心というものがある
そもそもが、唐突に全くの他人に自説をとうとうと語るのも如何なものだが、それがまた真夜中に酒の勢いで思いついたようなモノで、その時には世界の真理を解いてしまったぞときゃっきゃし、翌朝どこか雑誌に投稿するつもりで書いたであろうその論文を封筒ごと破り捨ててしまいたくなるようなそんな身震いするような恥ずかしいそれ、ぐだぐだと中身がなく長いばかりで時間の浪費にしかならない名案のような戯言
これらから逃れる事も出来ず、事実長々と付き合わされて比較的温厚である私もいい加減うんざりしていた
私はとんだ休憩になってしまったものだと思いながら腰を上げ、そしてここまで付き合わされたのだから二言三言、この男の厚顔に対して鼻を明かすようなことを言ってもいいのではないだろうかと思い始めていた
そこで私はあくまでささやかな提言として男に告げた
「まぁ、そう躍起にならなくても
しかし、貴方は昔はよかったと言いますが、私はいい時代になったのだと思いますよ
最近の人達が幽霊を信じないというのは、つまり皆が等しく教育を受けたということです
世の中には迷信の類に溢れていますが、それらの大半は何かしらの理由から創作されたものです
例えば、墓場に多く咲いている彼岸花
あれも見た目のせいか、場所柄のせいか不吉な花だという印象を持たれる事が多いですが、それには彼岸花の球根に毒があるから迂闊に手をださないようにとも、毒抜きをすればその部位は立派な食糧になるからいざと言う時の為にとっておくためだとも言われています
しかし、当時その事実が理解されない場合、もしくはどちらの方が効力を増すか知れなかった為にか、何人かの知識ある人間がそういったデマを流すわけです
他にも、桜で例をとってみれば、この花は庭木には適さない、その散り際の潔さから住民が短命になるという半ば迷信のような話が流通していますが、それは民家のような小さな敷地では桜が性質から他の植物が育ちにくくなってしまったり、根の侵食で家の地盤が傾いてしまうという理由が裏に隠されていたのだともあります
こういった伝承や迷信、幽霊譚というのは昔のある少数の人間の特許だったわけです
それは言ってしまえば人々の間に知識に格差があった事に他ありません
しかし、今平等の教育を受けて、知識の独占ー-仕方のない場合もあったでしょうがー-また、格差による知識の悪用のほとんどが消滅したわけです
私は、皆が平等に読み書きを覚える機会を与えられー-悲しいことに例外もあるがー-平等に知識を得ることができ現代は素晴らしいものと思います」
外面は平然としたい体だったが、内面は鼻で笑ってやったような気分だった
お行儀のいい聴衆の反撃に男がひるんでいる内にさっさとこの場を後にしようと私は「では」と告げて公園の入り口へと体を向けた
が、独裁者は突然大きな笑い声をあげて私の持ち上げかけた足を止めた
暫くして彼は笑いすぎて目から涙をこぼして言った
「なるほど、つまりあなたは幽霊現象の類を信じていない、謂わば私の論敵なわけですね
であるならが、私はあなたに闘いを挑まないといけない
いいえ、暴力なんてつまらないものではないー-知恵比べといきましょう
花見にかこつけて丁度いい話を知っていましてね、桜の異聞奇譚ですよ
これから私が話す物語にあなたの宗派に適った説明ー-つまりはあなたたちで言う現実的な説明ができたなら貴方の勝ち
それが出来なければ、霊、超常現象を信じている私はそれを信じていない貴方よりも世の真理を理解しているということで知恵比べは私の勝ちです、どうです?まあちょっとした花見の席の余興ですよ」
男の何とも自信ありげな態度に私がそれを了承したのは言うまでもない
で、なければここに書き連ねた蝸牛角上にお付き合いしてくださった皆様に臆病者との謗りを受けかねない
やるなら森羅万象が此方に気付くまで
袂を分かつ2本の角の小競り合いに彼らが暇つぶしがてらに観戦するまで
ー-のちに私はその勝負を受けたことを後悔する羽目になるのだが……
×
以下、男が意気揚々と語りだした話
あれは今から300年ほど前、元禄4年(1691年)の話です
おっと、昔のことだからとその話の真偽があてにならないなどと言う事はおっしゃらない方がいい
芭蕉が伊賀上野にて降りしきる桜に詠んだというのが事実であるのと同様に、これからお話する出来事が起こったのも決して創作ではなく事実なのです
また、この話には他の怪談、幽霊譚の類とは異なって多くの目撃者がおり、且つそれらは多種多様な人間ー-その土地に根差した百姓衆だけでなく、そこに居合わせただけの旅人たちまでに及び、且つ彼らの間には何の関連性もなかったので、これが集団催眠の類ではないとご理解して頂きたい
さて、話を本筋に戻しましょう
昔、向嶋という地は桜の名所としてその地方で有名でよく旅人が物見遊山に訪れたものです
元禄の4年、庄助という男がやはりそういった理由で向嶋を訪れました
この男は中々に勘に鋭く、頭も悪くはなかったのですが、酷く働き嫌いでまあ言ってしまえば道楽者だったわけです
ところで向嶋は桜の名所だったと先程申しましたが、それがまた普通の桜と違う桜でして
普通桜と言いますと春先の温かくなってきたあたりに咲いて春が終わる一足先に散るというのが常ですが、向嶋の桜は初夏ー-今でいう五月の始めから六月にかけて咲き、またその花の様子もどこか神秘じみた気配があり、その地域の農民やら百姓やらはこれをご神木として崇めて、余所者には一切近づかせなかった
しかしそれでもその桜の美しさは遠方からでも変わらず、旅人は遠くに浮かぶその景色を見に訪れるのだが先程の庄助という男はそれでは我慢できず、夜、人の目を盗んで桜の下に行くとそのあまりの美しさに心奪われ罰当たりにもその枝を折るとそれを盗んで行ってしまった
すると、桜の木は一斉に燃え上がり、辺りには火の子が吹いた
夜の暗闇に満開の桜からめらめらと炎は燃え上がり、その様は人を狂わせるような妖しさ、恐ろしさ、そして美しさがあった
驚いた庄助は命からがら火から逃れて彼の泊まっていた宿に戻ると、道中一緒にあった旅人たちが止めるのも待たずに夜の内に宿を後にした
朝になり、例の旅人たちが帰路についていると人の体がぷかぷかと湾に浮かんでおったそうだ
慌てて引き上げてみると、それは昨晩別れた庄助の亡骸だった
不思議な事は続くもので、彼がしっかりと懐に仕舞っていたはずの桜の枝はどこにもなく、水に流されてしまったのかはたまたそれこそ桜の霊力の為した業か
ただ、向嶋の人々はあの美しい桜を失ってしまった事を大変嘆いたと言う。そしこんむかし
×
恐山のイタコのように語り部が憑依した男はここでようやく現代に戻ってきた
彼の横で私は考え込んでいた
勿論、この話を創作だと切り捨てるのは簡単だろう
しかしそう主張した場合、それはすなわち私には先程の話に説明を点ける事ができなかったと言う事になり、結果としてこの男の中では私は負けなのだ
どうぞ、こんなものは作り話だ!と言っても構いませんよ?という奴の悠々とした表情の直訳は、『はやく諦めて降参してしまえ』だ
私はひとしきり考えた
この今では恨めしさすら感じる隣人に何とか泡を吹かせたい
ちくたくと左手首で秒針が時を刻む音がするー-それが妙にいい塩梅に思考を集中させ、一時私は桜も男も目に入らなくなった
先程男が言っていた「場」のようなところに私の意識はあって、そこでひたすらこの男を負かす現実的説明を考えていた
どのぐらいの時間が実際には経っていたのだろう
私は極めて思慮深げにー-と、自分で思っている表情ー-男に尋ねた
「先程の話で、『湾』とおっしゃっていましたが、つまり向嶋と言う場所は近くに海があるんですね」
男は答えた
「さあ、どうでしょう
湾には、海の他に湖にも使われる事がありますよ」
妙にすっとぼけたような口調だった
ー-そこで私は推理小説の探偵のごとく話を始めた
「もし、今して頂いた話を創作ではなく現実に起きたものとして説明しろというのなら、ポイントとなるのは場所、時代、そして宗助という人物の三点です
まず一つ目、「ムコウジマ」という地名
桜の名所と言われるとどうしても東京の「向島」を思い出してしまいますが、しかし向島にあるのは隅田川でとても『湾』と呼ぶには無理があると思います
また、向島は行楽地として栄えており、とてもその地域の人間が桜を独占するなどはできないでしょう
日本にはいくつか向島と名のつく地域があります
桜の名所として知られていながら人間の流通の制限が出来る。と言う点を考えると、私は向島とは水に囲まれた島だったのではないかと予測しました
いくらご神木として崇めていたとしても、農民というのは忙しいですからつきっきりで番をするわけにはいかないでしょう
しかし、周りが海に囲まれていたら、そもそも辿り着くのに船が必要なわけですから陸続きに比べたら随分規制はしやすいはずです
ところでですが、九州の鹿児島にあるあの有名な『桜島』は昔、『向嶋』とも呼ばれていて、その名称が『桜島』に統一されたのは1698年、元禄11年の事らしいです
現在、桜島は1914年の噴火で大隈半島と陸続きになっていますが、それ以前は桜島は鹿児島湾に浮かぶ火山島でした
今でも桜島は山頂に夕日が沈む様の美しさにダイヤモンド桜島などと言われてその眺望は観光の一つとなっているのですが、お話にある「桜の名所」というのもそういった海に浮かぶ島に咲き誇る桜の様がもてはやされたのかもしれません
では、次に時代です
元禄4年ー-1691年は日本は江戸時代の鎖国真っ最中
ところで、この1691年というのはある日本で有名なドイツ人学者に縁がある年です
エンゲルベルト・ケンペル、出島の三学者の一人で18世紀に出版された『日本誌』の元となった論文を書いた人ですね
彼は元禄3年、1690年に長崎出島のオランダ商館医として日本に来日しました
日本地理、歴史、風俗、動植物など幅広い分野を研究し、彼が帰国後に公刊した『廻国奇観』は大きな反響を呼んだそうです
さて、昨今ではあまり耳にしない言葉ですがこの時代ーー大航海時代からそのに活躍した『プラントハンター』なる職種とでも言うべきか、ある人々を名指した言葉があります
プラントハンター『植物収集探検家』、自国にまだ見ぬ植物の収集、繁殖、馴化に携わった人々
ケンペルは日本に訪れた初期のプラントハンターでもあります
彼はその他様々の分野の他に植物採取にも取り組んでいたといいますが、鎖国時の日本ではそれは苦戦を強いられたといいます
ケンペルは1690年〜1692年まで日本に滞在し、その期間に二度、江戸参府に同行しました
(江戸参府……出島から年に一回、江戸幕府に献上品を携えた使節を派遣することになっていた)
江戸参府には数名のヨーロッパ人に対して大勢のーー50〜200名もの日本人が付き添いました
ケンペル自身は厳しい監視下にあって植物採取は不可能に近かったですが、そういった日本人随行者はケンペルの仕事に理解を示し、珍しい植物などを率先してケンペルに教えたり、その詳しい性質や効用を土地の人に熱心に尋ねてくれたとケンペル自身の言葉にあります
ーー散々、寄り道をしたように思えたかもしれませんがここが大事なポイントです
ケンペルが江戸参府に同行したのは、1691年と翌年92年のことで、江戸参府は3月から5月にかけて行われました
つまり、例の庄助が物見遊山とやらに出かけたのはケンペルが江戸参府に参加した直後の事なんです
では、最後のポイントです
もし、庄助という男がその江戸参府の様子をーーケンペルの様子を自分で見たなり、大勢の随行者のうちの誰かから秘密に聞いたり、もしくは庄助自身が随行者に花の名前を尋ねられたりしたとしたら、頭の回転が良く世情に聡い、それでいて汗水稼いで得た金にはてんで興味のない男はそこに一種のビジネスを見出すのではないでしょうか?
つまり、自身で採集が困難なケンペルに珍しい花木を監視にバレないように渡し、その礼に金銭などを頂こうという考えです
実際、約80年後に同職についたカール・ペーター・ツンベリーは日本人からいくらかの日本の植物を買い取ったという記録があります
勿論、ケンペルとツンベリーとでは年代が異なる為にヨーロッパ人に対する応対はかなり違ったものではあったでしょうが、いつの時代も金の匂いに敏感な人間はいるものです
そして、そう言った人間は平々凡々と小銭を稼ぐよりも危険を伴う稼ぎ方を好みますーー先駆者である事が大事なんです、一種のギャンブラー精神です
ケンペルは日本の火山などにも強い関心を寄せていたと言います
もしも、そう言った情報も庄助が把握していた場合、彼が『向島』の聖なる桜を標的にしたのも的外れとは言えないでしょう
私の推測はこうです
庄助は突発的に桜の枝を盗んだ、とありましたが、実際は最初から盗むつもりで夜、1人小船を漕いで『向島』に訪れ、事を成し遂げた」
ーー男が言った
「そう仮定したとして、一体今の話で何が証明されたんでしょうか」
ーー私は何とも良い合いの手を入れた男をちらと見た後、先を続けた
「そう、このままでは何も証明されていません
しかし、この前提が大事なのです
庄助は桜の枝を盗んで、ヨーロッパ人に売ろうとしていた
これが彼が命を落とし、桜が燃えた理由です」
「?」
「例えば、鳥のサギの仲間にゴイサギと言うのがいますが、夜間にカラスのような鳴き声を発することから、夜烏と呼ぶ地方もあります
私は『向島』で『桜』と島民が呼ぶ木は2種類あったと推測したんです
そして、向島を桜の名所に仕立てた桜は日本由来のものではなかった
愛称、紫の桜ーー北半球では5月から6月にかけて青紫の花を咲かすジャカランダという中南米原産の花木だった」
顔の筋肉が弛んで、男の髭の下からのぞく口がぽかりと開いて何とも間の抜けた顔だった
ーーここで怯んではいけない、強気で押せ!
「突飛だと笑うから笑えばいい
その代わり、貴方のこれまでの言い分にも同じように笑い返してやりますよ
良いですか?桜島は九州以南、その時代の薩摩藩にある島です
少し調べればずらずらと出てきますが、薩摩藩は密貿易の歴史があります
また、江戸幕府は一般の密貿易には死刑を含む厳刑を与えた、とあることから事実藩とは無関係の人々の間で外国との交流があったのでしょう
ーージャカランダという樹木は元は南米の植物ですが、大航海時代にヨーロッパに渡ったもので夏の気候が暑いポルトガルでは日本人が桜を好むのと同じようにジャカランダの開花を心待ちにしているそうです
ブラジルからポルトガルへジャガランダが伝わったのと同様に、桜島にもそれが持ち込まれたのなら、そして、その花木が土着したのなら
ジャガランダは寒さに弱く暑さに強い植物です
また栄養が豊富で水捌けの良い土壌を好みます、火山島である桜島は正にそういった地質を持っています
そうして上手いことにジャガランダは桜島に馴化した仮定します
しかし、これが異国からもたらされたと誰かに疑われたら……
だから、桜島の人々はこの木を『桜』と呼び、そして外部の人間を寄せ付けなかった
しかし、宗助がこの真相を知らずに木を盗み、ヨーロッパ人に渡そうと企む
もしもその花を見て異国人がこの花が異国の物だと気づいたら
もしもそれを口に出してしまったら
もしもそれが耳に入ってはいけない所まで伝わったら
再度、言います
一般の密貿易には厳しい罰が与えられ、その最たるは死罪です
ーーだから、人々は証拠である『桜』を焼き払い、庄助から桜を奪い返した
庄助の死には詳しい死因の描写がありませんから、それが事故なのか他殺なのかは分かりませんが、彼らは『桜』を失う事で命を守った、これが先程のお話を説明する一つの仮説です」
「……ひとつだけお聞きしたい」男は言った
「?」
「何故、そうまでしてこれまで向島の人々はその『桜』を残しておいたんですか?ーーその危険な証拠とやらを」
「ご自身でおっしゃったじゃないですか?
『ただ、向嶋の人々はあの美しい桜を失ってしまった事を大変嘆いたと言う』」
私の言葉に男は一瞬呆気に取られたようだった
丸渕眼鏡越しにあらぬ方向を見た両の目が驚きを湛えているーーそれから男は盛大に笑った
今度は此方が呆気に取られる番だった
男は私の両の手を彼の柳のような手で握り込むと見た目からは想像もできない力強さで大きく上下に揺さぶった
「素晴しい!素晴らすいっ!!
これが昔話であれば、私は貴方の快刀乱麻に金かお屋敷でも渡さなきゃいけないところだったでしょう
代わりと言ってはなんですが、アイスはお好きですか?」
「は?」
「氷菓です」
「……は?」
「失礼、何でもありません
いやはや大変愉快な時間を過ごさせていただきました
それでは、私はこれで」
男はそう言うと、公園の奥の方へとぎこちないステップなんかを踏みながら陽気に消えていった
なんだったんだ、あれは
黒いシルクハットが男の足取りに合わせて危なっかしげに揺れているのを見送ると、釈然としない心地で私もベンチを立ち、男が行った方とは反対にある公園の出口へと向かった
しかし、これはまったく……私は男を言い負かしたはずなのに何とも言えぬ気分だ
勝負事では、敗者は敗者らしく振る舞うのが礼儀というものだ
でなければ、まるで懸命に『勝ち』をとりにいった私が敗者のようではないかーーなどとひねくれた事を思いながら歩いていると、ポケットから聞き慣れた音がした
携帯の着信を押すと、これまた描き慣れた声が応じる
「先生!一体、今どこにいるんですか!?」
「一体、何をそんな慌てているんだ?」
電話の奥から悶絶しているような低い唸り声が聞こえた
「今日、『江戸時代における文化、思考の遷移』の論文を受け取りに伺うと言いましたよね?
何度目の締め切りだと思っているんですか?」
そう言えば、そうだった
あのおかしな男のせいですっかり忘れていたが、私は息抜きに来ていたのだったーーしかし、こうも頭の中から抜け落ちていたとなると、あの男のお陰で十分に息抜きは出来たと言える
「すまない、すまない
桜の穴場を見つけてしまってね、気分変えにちょっと立ち寄ってただけなんだ、ああ、もう大丈夫、9割は書けてるから」
私の言葉に長い付き合いである彼は呆れたように告げた
「下手な言い訳はやめてくださいよ
もう5月の終わりですよ?」
通信が途絶えた事を伝える機械音を右耳に、私は急に目が覚めたように思えた
慌てて背後を振り返るーーそこには不動産とラーメン屋の間に車2台ほどの小さな駐車場があるだけだった
あの公園どころか、その側を流れていた川も何もない
夕方の下校時刻の商店街は学生と主婦とが入り混じってちらほらと見えるが、あの公園にいた時にはその駆ける足音や笑い声などには全く気付かなかった
それどころか正面の道路を走る自動車の音がしないことにすら疑問を抱かなかったのだ
ーー私はどうかしてしまったのだろうか
実際には本来、私がいる筈の現実の世界にいるのに、まるで突然見知らぬ世界にぽつんと取り残されてしまったように呆然とした
一体、今までのは何だったんだろうか
あの桜は?そして、あの男は?
全て疲労が見せた幻なのか?
しかし、私には幻覚を見る症状はこれまでに無かったはずだし、腕時計を確かめれば、時間はしっかりと経過している
私は暫し呆けたようにそこでぼうとしていたが、通行人が怪訝な目で此方を見たのでとりあえず家に帰ろうと足を踏み出して、そしてあるものを発見してまた棒立ちになった
ーー否、それは発見したとも発見できなかったといえよう
私が発見したものーーすぐそばの電柱に立てかけられた真っ黄色の立て看板には大きく警告の赤字、その下に地図が記され、こう続いていた
『放置禁止区域
上図の指定された区域内の路上に置いてある自転車、原動機付自転車は条例により撤去します
また、返還の際には、手数料を徴収します。」
【謝罪と自己弁護】
長ったらしい講釈じみた何の講も釈もない前半部分に見捨てず、途端に薄っぺらい歴史への知識、作者の無知が晒される後半部分もせせらいはしても最後まで寛大な対処で読み切って下さった皆様には多大なる感謝を捧げます
言い訳をしますが、私は日本史、歴史共に大の苦手ですー-ただの活字好きの理系モドキです
自分なりに懸命に調べてはいますが、時代解釈におかしな点があっても罵倒せずに優しく教えてもらえたらありがたいです
また、作中で桜島の方々に謂れなき罪を負わせてしまいましたが、あれは『私』が事実も偽りもどうでもよいと、ただ『男』を負かす為に創作した話です
決して、桜島の方々を中傷しようなどとは思っていません
ですから、もしここまで読んでくださった方の中に桜島と縁のある方、または、ない方でもどうか私を名誉棄損で訴えようなどとは思わずに寛大な心で受け入れていただけたら幸いです
【蛇足】
以前、私もこの自転車撤去にしてやられました
寝坊をしてどうにも間に合わずに自転車を使って路駐したところ夕方にはきれいさっぱり美しい道路
5000円を失いました
この事について私の一番の友人に知られたところ、「お前が悪い」と一刀両断されました
いや、そりゃ分かってるけど……てか、いちいち言わんでいい!!
こうしてあの悔しさを作品に昇華?できてよかったです
言いたいことはつまり、寝坊はするな、と作品を書く時は余裕をもって書け、ですね
本当はもう一作、『祖父の遺言状』というのを書くつもりだったのですが、いつかもしも投稿できたら読んでいただけたら嬉しいです
最後まで読んでくださって本当にありがとうございます!!