1 聖女、ガチギレする
【聖女、ガチギレする】
人の世の悪意の塊が、ある魔術師に宿ったという。
闇の王がこの世を去って、六千回目の新月の夜、新たな闇の王が生まれる。
朽ちかけた古文書の通り、雲もないのに星さえ光らぬ闇夜にそれは訪れた。
抗えぬ言葉を持って。
「お前は真理を見てみたくないか?」
魔術師は刹那の逡巡さえ見せず、答えた。
「見たい」
闇夜は笑った。
その瞬間、魔術師は魔王になった。
だが魔王は魔王となっても、いや、自ら受け入れた「真理を見る」という願いが故必要な魔術師の意識、人間としての人格が残っていた。
知識欲が闇を呼ぶほどに肥大していたとは言え、幸か不幸か魔術師は、元来善良かつ厳しく倫理観を指導された人間であった。
己が魔王となったことに絶望し自害を試みるも、それは叶わなかった。ナイフを首に突き立てたがすぐさま傷は塞がり、血も流れない。自分を殺すという悪意にさえ、魔王の糧となる。
結果、優秀な魔術師だった青年は自らの責任を果たすため、闇の力を受け入れた際に増大化した魔力を使い、五百年前魔王を滅ぼしたという聖女を自ら召喚したのだった。
……………………
一方、日本では聖女が自分の部屋でスマートフォンを手にしていた。
彼女は日本に数多く生息する社畜の一人であり、その夜は積もった疲れを自覚せざるを得ない木曜日の夜であった。
そろそろ寝ようかな、と思っていた矢先、スマートフォンに通知が入った。憧れていた会社の先輩(男性)に明日の金曜日の夜に食事に誘われたのである。一頻り喜びでベッドの上で転げ回った後、いそいそとメッセージアプリに了承の返事を打ち込み、さぁ送信、と人差し指を微かに上げた瞬間、黒い光に包まれた。
……………………
そうして紆余曲折、大騒ぎの末、ようやくどうにかこうにか落ち着いた聖女は自分を喚び出した自称魔王の話を取り敢えず聞くことにした。
突っ込み所満載で話の途中で声を上げそうになったが、社会人の心得としてなんとか堪えて最後まで聞き終えた。内心自分の忍耐力を褒め称えつつ、魔王に確認する。
「――で、あんた自身を殺して欲しくてわたしを呼んだ、と」
「その通りでございます」
どうしても耐えられないのだと、魔王は言った。聖女の足元に跪き、頭を垂れ懇願した。
「どうかご慈悲を」
聖女は彼をしばらくジッと見ると、大きく長く息を吐いた。
さっきから何を言ってるのか、まったくわからないし、どちらかというと、脳が理解を拒否している。
取り敢えず、早く帰りたい。
そもそもわたしと先輩のその後の展開はどうなっちゃうわけ……?
週末の結果如何では、鐘が鳴り響くような展開が待っていそうなのに?
そうだ、美容の観点から、夜更ししている場合では無いのでは……?
だって、約束(まだ成立してなかったが)は明日だよ?
聖女は自らの足元でうなだれ、やたらツヤツヤとした髪の間から覗く魔王の旋毛を見下ろす。
……旅の恥は掻き捨て……いや、異世界の罪は掻き捨て……?
だってそもそも相手は魔王だし。
長考の果て、聖女は真っ直ぐ魔王を見た。神妙に頷く。
「わかった……殺してあげるから、どうやって帰るかを教えて」
「は?」
魔王が顔を上げた。驚くほど長いまつげが上下する。聖女のまつげも上下した。
「は?」
「帰、る……帰られる、のですか?」
「当たり前でしょう、こんな所にいつまでも用は無いわよ……え、え? ちょっと待って! まさか帰す方法を知らないとか言わないでしょうね!?」
聖女は目を見開いて、自らの足元に蹲る魔王を見下ろした。腹が立つことに、魔王まで目を見開いて、呆然としていた。
え、なにこいつのん気に呆然としているの?
「そのまさか、です」
「は、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!? あんた、何いってんの! 馬鹿なの!? 馬鹿でしょ!!! この……この役立たずっ!!!!」
「も、申し訳有りません!!!」
「薄い謝罪は要らないわ……今すぐ捻り出しなさい! 召喚魔術があるのだから、その逆もいけるはずよ。今すぐ、わたしの帰還魔術を捻り出しなさい!!」
「ひ、ひねる……」
思わずと言ったように魔王が自分の体を右へ捻る。
…………ぶちっ。
意識のどこかで、何かが切れる音がした。
日本の社畜として一日働き、先輩との明るい未来を妄想して返信したらもう寝ようとしていた所を召喚されすったもんだしていた聖女は、月曜日から始まった身体的疲労に加えての精神的疲労でなにかの一線を超えた。
「自分を捻ってどうすんの!!!! そんなんで出て来るわけないでしょ、バカっ!」
げしっ。
聖女の裸足の踵が、美しい輝きを放つ魔王の頭に沈む。
「眠たいことしてんじゃないわよ! このトンチンカン!!!!」
怒りに任せぐりぐりと踵で輝く旋毛を踏み躙り、聖女は叫んだ。
「いい!? 帰還魔法が出来るまで絶対殺してやらないからね! 今すぐやりなさい!! 今すぐ!!」
この瞬間、聖女は魔王の超弩級のパワハラ上司と化した。