第8話
アタシの握る石像。
それは、怪しく光る紅の眼をした邪神の像だった。
「この瞳に埋め込まれた紅玉でわかるでしょ。
紅の魔王、黄昏を統べし君の像よ…」
「紅の魔王、か…」
流れる沈黙。
これは、軽々にあってはならない物。
いわゆる邪神教の類いなのだろうか…
アイツの言った"儀式"というフレーズが頭を過り、背筋に冷たいものが伝うのを感じた。
「それで…ミカ?」
ごくり、と。
喉の詰まるような静けさに沈んだ部屋に、ラルフが二杯目の麦酒を飲み込んだ音が妙に大きく響いた。
アタシには、彼の顔を見ることが躊躇われてしまった。
もしかしたら、厄介なことに巻き込んでしまったのかもしれない…
「なに…ラルフ?」
言葉の先を促す。
もし、彼がアタシに非難の言葉を浴びせるのなら、素直に言おう。
ごめんなさい、と。
「その…なんだ、こういうこと聞いていいのかわからないんだが…」
ジワリと、手に嫌な汗をかく。
「…魔王ってなに?」
ガクッと膝から力が抜ける。
そ、そうきたか…。
「あ、アンタねぇ…!創世記を知らないっての!?」
思わず声が大きくなってしまう。いや、ほんとに勘弁してほしい。
魔王の存在なんざ、字を習い始めた程度の子供でも知ってるでしょうが。
「うーん、創世記かぁ…。
昔、爺さんに習った気もするが、忘れちまったな。ハハッ!」
「ハハッ、じゃないわよ!
しょうがないわね、教えてあげるわ。
アタシたちの生きている、この世界の成り立ちってやつを」
はぁ…この男、ほんとによく今まで旅して来れたわね。
アタシは部屋に備え付けられた整理棚の引き出しを順に開ける。
ビンゴ。
大抵はこういうところに収められてるのよね、聖書。
大陸でも最大手の宗派が発行している創世神話の書。ま、教科書代わりにはなるでしょ。
ペラペラとめくり、目次や教皇サマとやらのご挨拶をすっとばして第1章へ。
ほぉー目ざといもんだ、と感心しながら三杯目の麦酒に口をつけるラルフに開いた貢を見せながら席につく。
「じゃ、最初からね」
書を渡し、酢漬けキャベツをつまみながらアタシは話し始めた。
それは、世界が始まる物語ーーー
初めにあったのは、虚無だった。
果てなく続く、永遠の無。
いつしか、そこにゆらぎが起こる。
ゆらぎは次第に大きさを増し、それは虚無に歪みを生んだ。
やがて、歪みは虚無を飲み込み始め、混沌となる。
混沌は、徐々に広がり空間を覆い尽くした。
そして混沌はいつしか己の中にある光と闇に気付く。
光は闇を産み、闇は光を喰らう。逆もまた然り。
それは、まさに混沌を混沌たらしめる、共依存の因子。
彼らは混沌にとっての愛子であったが、混沌はしかし、自らの内に広がる陰と陽が、己の全てになることを厭い、切り離すことにする。
そして混沌は光と闇の為にゆりかごを作り出す。
嗚呼、我が愛しき子ども達。
貴方達が相争い合い、相育み合い、相想い合う世界を与えましょう。
混沌は己の身体を千切り、捏ねる。
それは次第に形を成し、大陸となった。
流れる血は川となり陸を伝って海を作る。
愛おしそうに吹きかける吐息は風となり、空を生んだ。
世界を作り、混沌は微笑む。
さあ、お行きなさい。
私の可愛い分け身たち。
願わくば末永く、貴方たちが愛し憎しみ合いますよう。
そして光と闇は混沌より出でて世界に降りる。
それでは光は空に住まおう。
それでは闇は地の底へ。
混沌の願いを叶えるために、愛と憎に満ちた世界を共に作ろう。
そして彼女らは世界を共に守り、共に壊し、共に奪い合うために自らの写し身を作り出した。
光の眷属。
大いなる光の化身、世界を守るもの、神。
四元素を司り世界を管理するもの、精霊。
大地を拓き耕し、愛を継ぎゆくもの、人。
闇の眷属。
大いなる闇の化身、世界を壊すもの、魔。
暗き情念で世界の秩序を壊すもの、鬼。
大地を走り力を撒き散らす、怒りと悲しみを伝えるもの、獣。
そして光と闇の間に産まれ、境界に生きるもの、竜。
こうして生じた七の種族は、やがて世界の隅々にまで広がり、破壊と創造を繰り返す。
いつしかそこは、七つの繁栄と呼ばれる世となった。
「…まぁ、こんなトコね」
パタンと書を閉じ、グラスに残されたジュースを飲み干す。既に炭酸は失われ、果肉はグラスの底に固まっていた。
「アタシたちの住むこの世界には、7つの大種族が存在すると言われているの。
そのうち、最も闇に近しく世界の破滅を望む存在、それが魔族であり、その長が魔王ってわけ」
まぁ、その魔王も永い年月を経て、分裂したりいずれかの種族に倒されたりしているわけだが…
「うんうん、なんとなく思い出したぞ。魔王な、うん」
腕を組んでコクコクとうなづくラルフ。
…ホントに分かってんのか、アンタ。
「だが待てよ、さっきの話だと7つしか種族が出なかったが、オレたちエルフはどこから来たんだ?魔物だって色々いるだろ?」
あー、はいはい。よくある質問ね。
というか、自分とこの起源くらい、覚えておきなさいよ…
「アンタたちは、いわゆる亜種と呼ばれているわ。
大種族は、イメージ的には円形で表されるの。
ちょっと待って…
うん、こんな感じ」
チェストにあったペンを取り、聖書の余白に円を描く(神さま、ごめんなさい)。
竜を頂点に起き、右回りに神、精霊、人、獣、鬼、魔。そして一周して竜へ。
「この円の隣同士の種族は混ざりやすいとされてるわ。
アンタ達、エルフは人と精霊が混ざった、より精神世界に近い種族ね。アンタは使わないみたいだけど、精霊魔術は元々、人はエルフから教わったらしいわよ。
逆を辿ると、獣と人の混血は獣人だし、獣と鬼が混ざれば魔獣や獣鬼のような魔物になるわ。
混ざる要因は色々あるみたいだけどね」
「ほぉー、なるほどなぁ。
そうすると、人と神や魔が混ざることもあるってことか?」
ちらりと、邪神像を見るラルフ。
そう、その発想が世に言う邪教などを生んでいたりもするのだが…
「可能性は否定できないわね…
でも、これまではこの種族円の隣同士を超えた種族は混ざることはなかったとされているの。
神と魔が混ざったりしたら、それこそ混沌の再現、世界なんて即終わりよ。
ま、"力を授かる"なんて現象は起きるみたいだけどね…」
頭によぎる、身内の顔(複数)。
うぅ…幼少のころの地獄の修行が思い起こされ、顔が引きつる。
「おそらくだけど…
この像は、魔王の力を得ようとした何者かによって作られた。
魔を信奉する邪教のモノにね。
あの時の男が行なっていた儀式とやらが、どんなものかはわからないけどね」
あの戦闘のあと、アタシ達は洞窟に入ってすぐに、この像を見つけた。
簡易的な祭壇のように飾られた燭台に、これ見よがしに祀られていたのだから間違いないだろう。
だが、この像自体からは特に魔力の波動のようなものは感じられず、ただ関わりになることを極力避けたくなる、そんな不吉な予感だけを垂れ流していた。
「…ミカ、その像はどうするつもりのんだ?」
「んー…、正直、手放したいんだけどね。とりあえずは明日、これもまずは鑑定にかけてみるわ」
本当に、とりあえずだ。
流石のアタシも、こんな物騒なものをただ放置するワケにはいかない。
もし相手が厄介なタイプの教団であれば、こんな小さな街ではこの像が在るというだけで不幸な事が起こりかねない。
最悪、王都の然るべき人間に引き渡すべきか…
「ま、像に関しては、あとは明日また考えるわ。
お次はこっちなんだけど…」
像をしまい、もう一つの処分に困る品を取り出す。
それは、厳重に封のされた飾り気のない箱だった。