なんとも伝わらぬ困惑
大陸北西部を広く支配しているロシャーン国には領地と呼ばれる行政区分が六つ設けられており、それぞれの領地に治世を布く領主が存在する。此度の減税嘆願の目的地は、六ある領地のひとつ北北西領の中心都市として栄えている地方都市ネギールである。ネギールは北寄りの内地の街で、本来は人が集まる地点ではない。この都市を支え、発展させてきた生命線は、ロシャーン西部を南北に割る大河〈牙の川〉に接岸した港を持っているというその一点のみである。北北西領は人が住める北限の地を抱えているだけあって、決して豊かとは言えぬ土地柄である。だが、寒波に強い土着のロシャーンヤギやロシャーントナカイらを扱うことでかろうじて畜産はなりたっているし、〈牙の川〉が流れ込む西海岸は毎年安定した塩と干物をもたらしてくれるので、厳しいながらも人々は暮らしをいとなむことができていた。
だがそれも、盗賊の襲撃や疫病の流行などの災禍がなければの話だ。
「この街、なんか物々しくないっすか?」
城郭の門を無事通り抜けたあと、思わずアートヒーの口に上ったのはそういう感想だった。悪人が跋扈する世情を反映するように、ネギールを囲う城郭の門は兵士たちによって固められていたのである。隣を歩く女旅人が悠々と頷いた。
「そうですね……悪い人が多い世の中ですから。門番が見張っているのはあなたがたのような旅人だけではないんですよ。門の外、南西のほうに緑の服を着た兵士たちが陣を張っていたのを見ましたか?」
「え? そんなのいましたっけ?」
振り返ってみるアートヒーだが、すでに城郭の中に入ってしまっている。ネギールを丸ごと囲う石壁の連なりは地平線を覆い隠し、その壁のちょっと上から山の端と青空が見えるばかりである。門衛以外の兵士の姿などどこにも見えない……後ろでチンタラ入門の手続きをしているリリエンシャールの平和そうな顔が見えるといえば、見える。
「ええ。南の川沿いに大勢の兵士がね。いまはただ野営しているだけなんですけど」
「へー。よく観察なさってるんですねえ」
実のところアートヒーにとって、この話はあまり興味を引くものではなかった。だが麗しい女旅人は言外に話を聞いてほしいんだけどなあ、みたいな雰囲気を醸し出していたため、アートヒーとしても踏み込んでみることにやぶさかではなかった。
「この街の兵士は、さっきの門番みたいな……ええと、茶色の布地に山羊の縫取りの、アレなんて言うんでしたっけ?」
水を向けると女旅人はにっこり笑って答えてくれる。
「〈山羊使いの紋章〉のことですか?」
「そそ。それですそれです。ここの領地の兵隊さんはみんなあの制服を着ているんですよね。ってことは、さっきの話の外にいる緑の兵隊さんって、この街の人じゃないってことなんですか?」
「あなたはそう思うの?」
「え? いや、だって、話の流れ的にそういうことなんじゃないんですか?」
「さあ……どうかしら」
自分から話を振ってきたというのに、このとぼけた返しである。ちょっとこれどういうこと? と二日ばかり離れた故郷の町のナン友(ナンパ友達の略称である)にテレパシーを飛ばしたい衝動がアートヒーの胸中を駆けめぐったが、残念ながら彼はごく普通の人間だったし、ナン友も受信能力を持っていなかったから、彼はおのれのこぶしをぐっと握り締めるだけにとどまった。
「ねーねー、私早く街の中を見て回りたいんだけど」
いつの間にかリリエンシャールら後続組の入門手続きが終わっていたらしい。余所行きのブーツを鳴らしながら駆け寄ってきたリリエンシャールは、ほとんど抱き着かんばかりの勢いでアートヒーの肩に両手をかけて、その場でぴょんぴょん跳ねはじめる。
「お金! ちょうだい! お小遣い!」
「落ち着け落ち着け。まずは貨幣の勉強をしてからだな……」
ちなみにリリエンシャールは都市で普及している貨幣価値に詳しくない。だがはじめて目にする都会のきらびやかな喧騒とバザールに夢うつつ状態の彼女にとって、そんな些事は欲望のブレーキになるはずがなかった。
「お小遣い! 憧れのウィンドウショッピング! お金!」
アートヒーが娘の相手に手いっぱい、とみるや否や、女旅人ヒーリー・フラウロウはいさぎよく目当ての男――レブトライトに向き直った。が、相対するべき男のほうは、ほんのりまなじりを潤ませた情感たっぷりの視線を黙殺すると、アートヒーに素っ気なく告げた。
「徴税官に急ぎの用があるときは、領主館より近くの出張所に話を持って行ったほうが早いらしい」
美女の秋波を無視してまで伝えたいとは余程のことかと思えば、門番から聞き出した豆知識の披露なのである。アートヒーは震えあがった。女旅人が立つ方角から、体毛の一本一本を丁寧に毛羽立たせるようなゾッとする視線を感じるのだ。彼らの過去の関係などアートヒーには知る由もないのだが、とにかく、女旅人は退役軍人の男に並々ならぬ執着を持っているらしい……らしいのだが、あのたき火の惨劇以降、街にたどり着くまでのおよそ一日のあいだ、手を変え品を変え話しかける女旅人を男は悉く不愛想と居心地悪げな態度で切って捨ててきたのである。ちょっとこれどういうこと? とアートヒーがナン友に無意味なテレパシーを飛ばしてしまったとして、いったい誰が彼を責められようか。
「さっきから私の話聞いてる? お金ちょうだいってば! お金!」
しかも肩に置かれていた娘の手が徐々に襟首を絞める方針にシフトしているというこの現実! 前門の悪鬼に後門の悪魔。アートヒーに残された選択肢は、もはやたった一つしかなかった。
「えっとー、あの、俺ちょっと先に行って出張所探してきまーす。あとよろしく!」
すなわち逃亡である。
襟首を掴んでいた万力のごとき……じゃなくて白魚のような娘の手を引きはがす。その手をレブトライト・ロゴーニュが身に着けていた外套の裾に付け替えさせるやいなや、ぱっと身をひるがえす。娘のおもりという面倒事を押し付けて、アートヒーは一人先行して出張所へと向かうことにしたのだった。