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慈悲の系譜/続  作者: しおなか
慈悲の在処
8/24

再会は肉汁と血の香り

 さて、女旅人が水面下で思索を巡らせている間に、ロシャーンバイソンの肉は実にほどよく火が通ってきていた。たくましい繊維の隙間から脂がしたたりジュワジュワ煙を上げている。四周には肉の焼ける芳ばしい香りがただよい、肉が焼ける様子を指をくわえて見ていたリリエンシャールは、空腹と忍耐の狭間で気も狂わんばかりであった。

 引き上げのタイミングを見極めようと、炎に顔を寄せては前髪を焦がしそうになり、慌てて額を引っ込める、という動作を三回繰り返した後、リリエンシャールはさすがにもう焼けたんじゃないかしらん、という結論に至った。揉み手をすり合わせた後、地面に刺さった串に向けておもむろに手を伸ばす。目指すは、もちろん一番大きい肉塊が刺さっているそれである。が、伸ばした指が空を切り、リリエンシャールは危うく炎の中に手を突っ込みそうになった。

「あっつ!」

 反射的に手を引っ込めたおかげでなんとか火傷は免れた。だが、問題は、火傷ではない。

「あ、あんた、私が眼ェつけてた肉を……!」

 肉である。

 唸り声を喉の奥というよりは胃袋の底からひねり出しながら、リリエンシャールは一瞬の間に視界をかすめて行ったもの――彼女から肉を奪い取って行った者の影を追って振り返った。

 肉をかっさらったのは、リリエンシャールの背後に無言で控えていたレブトライト・ロゴーニュであった。

 この男、余程キモが据わっているのか、炎を背負った鬼の形相のリリエンシャール(効果・逆光)を前にして、一つも表情を変えない。美人は怒らせると恐ろしいなどと言われるものだが、リリエンシャールもその類に漏れず、妖精めいたかわいらしく整った面差しが怒りに染まった姿は、一種近寄りがたい、人間離れした壮絶さを宿らせていたのだが、退役軍人はまるで平生の様子で、立ったまま左手に掴んだ串をふうふうしながら肉の端をかじるなどしているのである。

 ちなみにいきり立つ美少女の背後では、隙だらけになったたき火を見てこれ幸いとアートヒーが二番目に大きな肉を確保していたのだが、天下無双の美少女といえど背中に眼が付いているわけではないし、教えたらきっとますます怒り狂うこと請け合いなので、ここは黙っておいたほうがいいだろう。

「今すぐ返しなさい! それ、私の肉なんだからっ!」

 言うが早いか、野生動物めいたしなやかな身のこなしで男が持つ肉に向かって飛びかかる。直後、がきん! という音とともに暗闇に火花が散る。氷海の王者ロシャーンホホジロザメもびっくりの大口を開けて肉にかじりつかんとした美少女の顎は、空振りを喫した際に打ち鳴らされた歯でもって火打石のごとく火を噴いたのである。なんて丈夫な前歯! と、健康的な美少女っぷりを見せつけたリリエンシャールであったが、悲しいかな、この場の人間で彼女の自然体なアッピールに胸をトキメかせた者はいなかった。

 猛獣使いのたしなみとでも呼ぶべき鮮やかさで狙われた肉を瞬時に持ち上げ、リリエンシャールの顎の間合いから外してみせた男は、宙に飛んだ火花に多少はたじろぎを見せたものの、怒りにうち震える娘が掲げられた肉に対してピョンピョン飛んだり跳ねたり掴みかかったり手を伸ばしたりをはじめたと見るやいなや、ぐすりと笑みをこぼした。暗いよどみで泥水を啜るようなかすかな微笑である。だが怒り心頭で興奮状態にあるリリエンシャールの眼にはなぜか認識された。コケにされている! そうと悟ったリリエンシャールは、頭上の肉に飛びかかるのを止めて、眼にもとまらぬ速さで前蹴りを繰り出した。突然脛の辺りを強打された男が、一瞬だけ体勢を崩し、左手で掲げていた肉がリリエンシャールの手に届く位置まで下りてきて、エメラルドの瞳が獲物を狙うロシャーンハゲタカのようにギラリと光った。実はこのとき、男の足が存外に固くて蹴った側のリリエンシャールもそれなりに痛い思いをしていたのだが、そこは純情可憐なオンナノコ、乙女の涙を見せるのは好きな人の前だけって決めてるモン! ここはぐっと我慢の子。いつか素敵な王子さまにめぐり合えるまで涙は見せないの……、瞬き一つもできない極限の時間の中で、リリエンシャールがそう考えたかどうかはさておき、彼女は痛みをものともせずに体勢を崩していた男に躍りかかったのである。

「私の、肉ぅーッ!」

 乙女の矜持というより、それは胃袋の欲求に従っただけかもしれないが、とにもかくにもリリエンシャールは奇襲に成功した。はっと男が気づいたときには、脂のしたたる肉に今まさに白い歯が突き立てられようとしている寸前であった。咄嗟に自分の身にかばうように肉の刺さった串を引き寄せる。が、男の反応は最悪のタイミングで遅きに失していた。肉を逃がすことには、なんとか成功したものの――。

「ふがっ」

 肉を逸れた顎が噛みついたのは、男の左腕であった。季節は春。それも北国の春である。まだ夜はずいぶん冷える季節だというのに男の背中は一瞬で脂汗に濡れた。噛まれたのは服の上からだが、はっきりと肉にまで達している傷だと分かる。ちなみにフガフガ言っているのは、夜の草原に現れると噂されているロシャーン名物の怪奇・入れ歯交換ばあさん(好みの男を見つけると、男の口内の歯を抜歯して、愛情の証として彼女が装着していた入れ歯を装着させてくるらしい)!……ではなく、芳紀十七、花も恥じらう乙女ことリリエンシャールの鼻息である。

「ふがっふがっ」

「おまっ、何やってんだ! 野犬じゃあるまいし!」

 途中まで指さして笑いながらたき火の対岸で観戦にまわっていたアートヒーが、流血沙汰と見るや否や泡を食って飛び出してくる。アートヒーに羽交い締めにされてようやくリリエンシャールはレブトライト・ロゴーニュの腕から離れた。

「げっ、なんだこりゃ、血まみれじゃねーか!」

 悲鳴を上げたアートヒーの言葉の通り、手首のやや上を噛まれたレブトライトの袖はたき火の明かりでも分かるくらいに絶賛出血中であり、かたや噛みついた側のリリエンシャールも染み出た血で顔面が凄惨な状態になっている。

「かあーっ、ぺっぺっ! くさっ! 錆び臭っ!」

 ごしごし口元を拭ってレブトライトを糾弾するリリエンシャールは、周囲が彼女の蛮行にドン引きしているとも知らず、彼女の肉を奪ってのけた男にガンを飛ばした。

「錆び臭いって、噛んだのあんただろ」

 アートヒーがこっそりつぶやいた非難を無視して、リリエンシャールは口内にたまった血をペッと吐き捨て、左手をおさえて呆然としているらしい男に再度挑みかかろうと身をかがめたのだが、

「ちょい待ち!」

「んぐっ」

 背後からアートヒーが彼の食べかけていた肉を猛獣の口に押し込んだ。若者の咄嗟の機転は素晴らしい結果を見せた。一瞬粗雑な扱いに怒りを見せたリリエンシャールだったが、口の中に飛び込んできた肉汁あふるるロシャーンバイソンの肉の誘惑には勝てなかったものらしい。アチアチ言いながら、あっという間に肉の咀嚼に夢中になる。ほっぺを膨らませて肉をもぐもぐやっているリリエンシャールは、なんだかとっても素敵な笑顔を浮かべていて、まるで先ほどの凶行が嘘のようですらある。

「お、おい。大丈夫かい、あんた」

 とはいえ血は流された。さすがのお気楽なアートヒーでさえ、腕を噛まれた男を前に、青ざめた顔で無事を確認するのが精いっぱいだ。レブトライトはアートヒーの呼びかけが聞こえていないのか、右手で左腕の出血をおさえながら、いまだぼんやりと自身の血がにじむ服の袖を眺めている。

「おいってば。無事なのかって聞いてんだけど……」

 アートヒーに袖を引かれてはじめて、男は声をかけられたことに気がついたように、目深にかぶっていたフードの下で灰色の眼を瞬かせた。妙にうすぼんやりしているところがアートヒーは気にかかったが、男が冷や汗だか脂汗だか分からないが首の辺りを濡らしていることに気がついて、痛みのあまりショックで気が抜けているのだと合点しておくことにした。

 ところでこの間、旅人の男女が何をしていたかというと、彼らは何もしていなかった。突如目の前ではじまった凶行についてゆけずに、ぽかんと口を開けて事態を見守るばかりであったのだ。

「大変……、クザーフ。あのかたを手当てしてあげて」

 先に我を取り戻したのは女旅人である。主人に促された護衛の男はしぶるそぶりを見せたものの、女の気遣わしげにひそめられた眉宇を見ては強硬に拒むわけにもいかず、仕方なしに荷物の中から薬草と包帯を取り出して、たき火を迂回して負傷した男のもとへ向かう。

「腕を見せてください」

 クザーフがそう言って、レブトライトの傷に触れようとしたその時である。突然跳ねあがったレブトライトの腕が、介抱のために差し伸べられていた手を跳ねのけた。尋常でない勢いの抵抗は、クザーフの足を二三歩後退させたうえに、レブトライト自身がかぶっていたフードさえも頭の上から滑り落すほどであった。煤けた茶色の髪がこぼれて、隠す間もなくたき火の明かりに陰気な整った顔がさらされる。すぐそばでは泡を食ったアートヒーがまたわあわあ騒いでいる。行き場を失った手をなんなしに宙にさまよわせながら、クザーフは思った――スカしやがって、田舎者のぶんざいで!

 だが男の無礼を咎めようとしたクザーフを制したのは、他でもない、彼の敬愛すべき主人その人だったのである。

「うそ。その顔……あなた、もしかして……イル?」

 麗しき女旅人ヒーリー・フラウロウの唇が紡ぎだしたのは、この場にいる誰の名でもなかった。だが女の驚愕にいろどられた瞳はまっすぐに退役軍人レブトライト・ロゴーニュのしかめ面をとらえている。その陰気な顔が、少し歪んだ。思えばそれは皮肉げではあったが、笑顔だったのかもしれない。だが、その場の人間がそうと気が付く前に、リリエンシャールがかじっていた肉が彼女の胃袋にすっかりまるまるおさまってしまうほうが早かった。しゃがみこんだまま串にこびりついていた肉片を執拗にねぶっていた美少女は、もはやこれ以上何の旨味も得ることができぬと悟ると、串をその場にポイと捨て、時を越えた再会のはてに炎を挟んで見つめ合う男女に頓着せず立ち上がり、たき火の前からまだ残っていた串を地面から引っこ抜くやいなや大口を開けてかじりつき「うんまーいっ!」とゴキゲンな賛辞を述べて肉を咀嚼しながら聞くに堪えない鼻歌をフンフン歌いだしたものだから、なんというか感動の再会の雰囲気もたちまち吹き飛ばされてしまったのであった。

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