草原に響く怪鳥音
北の大国ロシャーンの最北に広がる草原の地は、まさに追われるように春を迎えようとしていた。
人間が住める北限の地とされる急峻な山脈からのびる裾野には、雪解け水がつくる伏流水の急造りの川が幾筋も伸び、土壌に豊かな栄養を運んでくる。水場には水草が覆い茂り、その水草を求めて川魚がやってくる。そして川魚を狙う小さな動物たちと、小さな動物たちをまた狙う小型の肉食獣が姿を見せる。さらには周辺の柔らかな草を求めて草食獣までも集まってくるのだから、この季節の最北の地は、しんと静まりかえっていた氷雪の冬に比べて、ずいぶんにぎやかだ。
そんな賑々しい草原に、とりわけ目を引く人工物がある。上空を舞うロシャーンハゲタカの眼をお借りして説明するならば、それは若草色のキャンパスに描かれた白いYの字のように見えることだろう(ところでYの字というのは古代のどこぞの国で使用されていたアルファーベットなる言語の文字であるが、ここでは古い時代の話は関係ないので、割愛させていただく)。
白い三叉路。つまり街道である。
街道は、草を割って南北、それから東へと延びている。
北の僻地にある集落と、南にある大都市と、東の大湖沼地帯を結ぶための街道だ。道のところどころは奔放な草に浸食されたり、ここらででかい顔をしてのさばっているロシャーンバイソンの落とし物なんかで臭いことになっていたり、さんざんなありさまだが、近辺の住民にとってはとても大事な街道なのだ。なにせ、この辺りは雪解け水と氷河の力で地面のあちこちが陥没しており、地割れや底なし沼の宝庫、そこらじゅうに危険な罠が口を開けて待っている。雪の時節が危険なのはもちろん、こうして春がやってきた今でも、草が伸び放題なので、地面がほとんど見えない。一歩草原の中に分け入ったが最後、底なし沼に足を取られてしまう不幸が後を絶たない。安全が証明されているのは街道周辺だけで、それは地域住民にとって間違いなく命綱なのだ。
という事情をふまえた上で、読者諸兄のみなさまには、こちらをご覧いただきたい。
馬にまたがり街道をゆく二人組の旅人の姿である。
駆け足で進む馬上の人物はどちらも煤けた砂色の外套を頭からすっぽりかぶっている。傍目には人相も知れないが、一方の旅人は体格が良く、またもう一方は華奢な輪郭をしており、男女の旅人であろうことが察せられる。彼らの行く手は二手に分かれている。南からきた旅人たちは、もうじき、辺境へ続く北の街道と、大湖沼地域および海岸線へと続く東の街道の、分かれ道にさしかかろうとしているのである。だが、その南北東の三路が交わる線上に、一つ問題があった。
最初に気が付いたのは、馬の嗅覚だった。男の旅人が鞍下の動揺をいち早く感じ取り、女に声をかけて手綱を引いた。ほとんど横に並んで駆けていた二人だが、女がやや先に行き過ぎたあと、馬首を返して立ち止まる。フードの下で怪訝そうに眉を寄せた女だったが、男に促されて道の先を眺め、すぐにソイツの存在に気が付いた。分かれ道をうろつく黒い影。遠目には、大型の獣のように見える。
「血の臭いがする……馬も怯えています。手負いかもしれません」
男が低い声でささやく。二人はすぐに厄介な事態を了解した。どうやらなんらかの理由で怪我を負っているらしいその獣は、ここらの野生の獣の中で、最も大型で、最も獰猛な、ロシャーンバイソンの雄だったのである。さいわい肉食獣でなく、草食獣なのだが、なわばり意識が強く、やっかいな放浪癖がある。草原のあちこちに現れては水場を荒らし、食料がなくなればまた放浪に戻る。雌たちの群に迎えられるのは力ある雄一頭だけという厳しい野生の掟で生きてきたロシャーンバイソンは、馬上にあるとはいえ人間の旅人二人が相手するには、ちょっとばかり、手に余る。
かといって、街道を避けて迂回するのも危険だ。前述の通り、春先の草原は底なし沼の危険にあふれている。手綱さばきを誤れば、馬ごと沈んでしまうだろう。
さて、どうしたものか……と、二人が目配せしていた、そのときだ。ロシャーンバイソンが、うなり声をあげて後ろ脚立ちになった。怒りの炎が渦巻く獣の眼に映るのは、まさに二人の姿。彼らは見つかってしまったのだ。しかも、八つ当たりめいた怒りの感情まで向けられている!
「フラウロウ様。お下がりください」
女を守るように前に出た男が、外套に隠されていた剣を抜く。陽光に反射するきらめきは、間違いなくよく手入れされ、磨かれた証であるが、頑健さと獰猛さの象徴である毛長獣の雄を前にして、それはいささか頼りなく女の眼に映ったようだった。
「追い払えるのですか?」
不安げな声が揺れている。女は男の技量を疑ってはいなかったが、此度の二人きりの強行軍は人目を避けるため軍馬を連れていない。ただ駅舎で荷運び用の馬を借りただけなのだ。しかし、女の恐れを振り払うための声を男がかけるよりも早く、ロシャーンバイソンのヒヅメは地面を蹴っていたのである。ぶもー、と嘶く声も勇猛に、巨体が人馬を押しつぶそうと突進してくる。迫り来る土煙と獣のにおい。女が両目を覆い、男が馬体をしめつけ自らの剣の切っ先に全神経を集中させた、そのときである。
「キエエエエーイっ!」
奇声一声、閃光一閃。甲高い怪鳥音の余韻もさめやらぬ草原に、軽い着地の足音と、ロシャーンバイソンが地に倒れ伏すどうという音が続いた。動揺した馬がパカパカ駆けまわる。二人の旅人はそれぞれの馬をなだめ、顔を見合わせたあと、呆然とその人物を視界におさめた。彼らの眼に映っているのは、若い娘の立ち姿だ。右手に手斧と、左手にロシャーンバイソンの首を携えた、金髪の娘である。
旅人の眼が幻を見たのでないならば、横手の草原から突然躍り上がったこの娘が、有無を言わさぬ手斧の一撃で、ロシャーンバイソンの首を落とし葬り去ったのである。
「ふっ……キマッたわね」
鈴の転がるような甘い響きの声で、その娘は自賛した。どちらかというとその人間離れした膂力からして別のキマりかたをしているようであるが、それはさておき、汗の滴をぱっと散らして娘が振り返る。ワンピースが鮮やかにひるがえる。見返る姿も軽やかな、緑豊かな草原に映える健康的にのびた四肢。波打つ黄金の髪は肩を半ばまで過ぎ、勝ち気なエメラルドグリーンの瞳はうぬぼれと陶酔に輝いている。こぼれるような笑みはバラ色に上気した頬に彩られ、顔と服にべったりついているロシャーンバイソンの返り血と両手に提げた生臭いハンティングの証拠がなければ、天下無双の美少女かもしれない。
突如として現れ、旅人たちのピンチをさっそうと救ったこの娘は、何者であるのか? それはどうやら本人様が自分語りをする気マンマンのようなので、しばし筆を預けてみるべきであろう。
「遠からん者は音にも聞けえーい! 近くば寄って眼にも見よ! ヨルダ村の英雄こと絶世の美少女リリエンシャールさまとは、私のことよっ!」
が、筆を渡したが最後このような展開になるのは目に見えているので、代わりに彼女が手斧を持ってハッスルしていたことの子細をおおまかに説明させていただくとしよう。だが、話がしばし時をさかのぼるその前に、ふいと吹いた風がはねのけたフードの下で、旅人の男女の唖然とした顔が印象的であったということだけは、記しておくべきであろう。