秘密の地下室
リリエンシャールが墓地で隻眼の男と邂逅していたその頃、アサダ村の若者アートヒーは人生ではじめてキャバクラ(意訳)の客引きに捕まっていた。
ヤギを買いにゆくと息巻いていたリリエンシャールと別れたあと、若者の足は逗留する宿に直行せず、ネギール西方の歓楽街へと赴いていた。リリエンシャールにスカートの中身の秘密を教えてあげたアートヒーであったが、実のところ口で言うほど彼は秘密の花園に詳しいわけではなかったのだ。
「だから実地経験が必要なわけで……」
そういうわけで、おのれの乱行に対する言い訳に興じていたアートヒーは、突然目の前に飛び出してきた者に対する反応が遅れてしまった。
「きゃあっ」
「うわっ」
倒れこむ華奢な人影をとっさに抱きとめて、アートヒーは驚いた。肩口にぶつかってきたのは、十代後半と思わしき娘だったのだが、その娘が彼の好みのド真ん中だったのである。猫を思わせるアーモンド型の眼がつりあがり、うなじで結んだ一本お下げの栗色の巻き毛がしっぽのように背中で跳ねている。
「いたいじゃないの!」
「あっ、ごめんね。俺よそ見しちゃってて……どこか怪我しちゃった?」
どこかで見た覚えのあるような気勢で文句をつけられて、条件反射的にアートヒーが下手に出ると、ぷんすか腹を立てていた娘もちょっぴり毒気を抜かれた様子で身を引いた。
「いや別に怪我したとかじゃないけどさあ。まあいいや。お兄さん、いま暇? 夜ごはん、もう食べちゃった?」
「へ?」
「まだ食べてないなら、あたし、イイお店知ってるんだ。連れて行ってあげるよ。なに? 怪しいお店じゃないかって? 大丈夫大丈夫。あたしを信じてくれないわけ? ふーん。あたしより可愛い子もいっぱいいるお店なんだけどな……お兄さん優しいから、きっとモテまくると思うんだけどなあ?」
「俺がモテる?」
「そうそう。ねえ、一緒に行こうよ!」
「そういうことなら……」
娘が自分の胸を押し付けるように腕を組んできたことがアートヒーにとどめを刺したとして、いったい誰が彼を責められようか? だが現実は無情であり、アートヒーがデレデレできた時間はあまりにも短かった。というのも、若干強引な娘に引っ張ってこられた裏通りの店で、薄暗い入り口を潜り抜けるなり横手に潜んでいた屈強な男に頬をぶん殴られ、地下室に連れ込まれ、後ろ手に縛られた状態で土の床に蹴り転がされたからである。アートヒーを殴った男は床に転がる彼を冷たい眼で一瞥すると、部屋の鍵を外側からかけたうえで階上に去っていった。足音が遠ざかり、アートヒーは一人暗い部屋の中に取り残された。
「なに、これ、どゆこと……?」
呆然とつぶやく。殴られた頬が熱を持っている。しゃべると口の中の傷がうずいたが、彼はひとりごとを止められなかった。
「俺、こんな目に遭わされるくらいのひどいこと、あの娘にしたっけ? いやしてないよな絶対。こんなのおかしいぞ……」
解せないのは、ぶん殴られて這いつくばっているアートヒーのすぐ横で、あの娘が彼を殴った男から金銭を受け取っていたということだ。見た光景をそのまま解釈するならば、あの娘は駄賃を貰って彼を嵌めたということになる。
「でも、理由がないだろ」
「そうかしら?」
女の声を先触れに、薄暗い地下室の扉が開いた。娘が戻ってきたのかと上体をねじったアートヒーは、すぐに自分の誤解に気がついた。片手にランプを提げ、ゆったりとした足取りで彼の元へ歩みを進めてきたのは――
「ヒーリーさん? どうしてここに」
さらりとプラチナブロンドの髪をかき上げ、女は場違いなほど豊かな微笑みを見せた。
「昨日の昼に別れて以来ですね、アートヒーさん」
「はあ。お久しぶりです……いやいや、それより、あの、俺、手を縛られているんですけど……あの……助けてくれません……?」
だんだんと声が尻すぼみになったのは、アートヒーも本能的に気がついたからだった。自分を見下ろしているこの美貌の女も、なにかおかしい。こんな異様な状況だというのに、彼女は余裕たっぷりの笑みを浮かべているのだ。
「あなた、さっき理由がないっておっしゃったわね。こんな目に遭う理由がないって。……さ、入って」
台詞の後半を女は背後に向けていた。上半身を起こしてその場に座り込む格好になったアートヒーは、室内に影のように滑り込んできた人物に目を奪われた。その男は、顔に包帯を巻き、薄汚れた衣服に身を包み、痩身を引きずるように歩いてきた。その男は、左手にノミを持ち、右手にはハンマーを提げていた。
「ちょっと待って」アートヒーは喘いだ。「ちょっと……ちょっと待って。待って。なんですか、それ……その人」
「それ? 彼の仕事道具よ。気にしないで」
この場に大工仕事はないはずだった。薄暗い地下室は、土の床で、地面には何も落ちていない。アートヒーが転がっているだけだ。
「理由がないっていうのは、実はその通りなの」
異様な男の進路をあけるように、女が一歩横に動いた。包帯の男はまっすぐアートヒーを目指して歩いてくる。
「だから、あなたが私の望む歌をさえずってくれるようになるまで、細工をするのよ。ねえ、教えて頂戴。あなたたちの村は、盗賊に襲われたのよね。そのとき、盗賊たちが何か言っていたはずよ……さあ、なんて言っていたの? 誰かに頼まれたとか、言っていなかったかしら?」
逃げを打って背を向けたアートヒーは包帯の男に横腹を蹴り上げられ、耐えきれず嘔吐した。昼間にリリエンシャールと一緒に買い食いした焼き串の肉が地面に吸い込まれてゆく。うつ伏せでもがく背中にしっとりとした男の温かみが覆いかぶさってきた。酷いにおいがした。
「ねえ、なんて言っていたのかしら」
女の声が聞こえてくる。
「し、知らない……俺は、水車小屋に、隠れていたんだ。あいつらが何を言ってたかなんて……」
背中の上の男が荒い鼻息を吹きながら、アートヒーの右肩を押した。
「俺は何も知らないんです!」
叫んだあと、何か尖った冷たいものが右肩にあてがわれている気配を感じて、アートヒーは震えた。全神経が右肩に集まっているかのような錯覚がする。肩に足があったなら、全力で逃げ出していただろう。男は、左手にノミを持ち、右手にはハンマーを持っていたのだ。
「何も知らない……本当なのに……ほんとに……」
はあ、と女のため息が漏れた。そのまま靴音が遠ざかる。扉を開く音がする。
「ヨウト、私が戻ってくるまでに、彼に思い出させてあげて」
そのまま女は出ていった。