現実の壁
銀貨二枚でヤギ一頭。
銀貨十枚なら、ヤギ五頭。
リリエンシャールのもくろむドキドキハーレム大作戦(はぁと)の大前提は、計画の立案よりわずか一刻も経たないうちに現実の壁によって打ち砕かれようとしていた。
「はぁああ? なんでよ! なんで、ヤギ一頭が、銀貨四十枚もするっていうの?」
地方都市ネギールの外縁部。時刻は昼下がり、いっときの人ごみラッシュの時間帯を抜けたいま、街中を行き交う人々は、道の端から突如上がった娘の怒声に、一瞬その歩みを止めた。
だが、衆目を集めたところで、リリエンシャールの憤懣やるかたない思いは止まらないし、店主に詰め寄り文句をブー垂れる可愛らしい口元から飛び出す唾もまた、止まらない。
「ちょっとあんた! 私が田舎モンだと思ってそーゆー舐めたコト言ってんだったら、ぶん殴って正気に戻してやるから、そこに直りなさい!」
場所は、ネギール中央通りをやや外れた、都市の外壁沿いにある通りの一本である。
あれからアートヒーと別れたリリエンシャールは、さっそくヤギを買おうと街中をぶらつき、たどり着いたのがここだったのだ。
辺りには、すでに午前中で荷をさばききり、手持ちぶさたな様子で談笑していた隊商の男たちがたむろしていた。その集団の中に、チラリと見かけたヤギ形の立看板。リリエンシャールの眼は、見逃さなかった。
さっそく近くにいた男の商人に声をかけ、彼がネギールからほど近い村で育てているヤギの売り込みにきているらしということを聞きだして、すわ交渉を……と持ちかけた矢先の話である。
ヤギが、高額なのだ。
リリエンシャールが想定していた相場の、実に二十倍である。
「あのなー、お嬢ちゃん。オレはべつにふっかけちゃいねえ、これがヤギってもんの適正価格なんだよ。疑うってんなら、そこらの奴らに聞いてみなァ」
そう言って商人の男はガハハと笑った。
リリエンシャールは笑えなかった。なんせ、彼女の一大事業はヤギを五頭仕入れるところから幕を開けるのである。ヤギが手に入らないのでは、おハナシにならない。こりゃメエったメェった……なんつーギャグを飛ばす余裕すら、ない。
こうなったら、最後の手段である。
すなわち、腕力にモノを言わせて恐喝をするのだ!
うつむき加減にくちびるを噛んで、腹の前で両のこぶしをぐっと握る。力をためて、勢いよく顔を上げ……
「ね、お願い……お値段、ま・け・て?」
繰り出されたのは秘儀アッパーカットではなく、渾身のキメ顔であった。
すなわち生まれたときから天より授かりし美貌でもって、値下げ交渉を試みるのだ。ちなみに彼女、生まれ持った才能という意味では、腕っ節の強さも相当なものであるが、自身の自己評価にまさか暴力の才能があるとは見なしていないので、この場は見目の良さでゴリ押す方針に倒れたのである。お目付け役のアートヒーもレブトライトも不在でリリエンシャールの暴走を止める者はがいない今、彼女が暴走しなかったのは双方にとって幸いだったと言えよう。
だが、リリエンシャールが牢にぶち込まれる将来は遠ざかったかもしれないが、窓辺でいけめんウォッチにいそしむ未来もまた遠ざかっていた。
「うーん、カワイイお嬢ちゃんにそこまで言われちゃなあ。じゃあ銀貨三十八枚までなら、まけてやってもいいかなぁ?」
「ほ、ホント? きゃーん嬉しい!」
と言って、リリエンシャールはピョンと飛び跳ね、天使もかくやという微笑みを浮かべた。一瞬だけ。
「……ってそれじゃ意味ないんだっつーの! 二枚よ、二枚! 銀貨二枚にまけろって言ってんのよ!」
「またまたぁ。お嬢ちゃんも冗談が好きだねェ」
これは、どうやら完全に相手にされていない。さすがに人の心の機微に対してどんくさいリリエンシャールであっても、さすがにその事実に思い至った(そりゃそうだ)。
値下げ交渉は失敗に終った。
ではどうするか?
うーんうーんとリリエンシャールが頭を抱えて唸っていた、その時である。
遠く、中心市街のほうから、カラーンカラーンと鐘の音が聞こえてきた。辺り一帯に高く澄んだ音が響きわたる。リリエンシャールも思わず眉間のしわを消して、不思議そうな顔で辺りを見渡す。
周囲に変化は……、あった。
そこらでたむろしていた隊商の面々が、おもむろに地面に放り出していた荷をかき集め、荷車に積みはじめたのである。
「へ? なに、なに?」
「おー、もうこんな時間か。いやあ、悪いねェ、お嬢ちゃん。そろそろ俺たちも、移動しなきゃならない時間になったみたいだ」
「どゆこと?」
「アレ、お嬢ちゃん、知らないの。さっきの鐘は閉門前の鐘さ。俺たちは街の中にはとどまらないから、この街から出なきゃなんねえんだが、治安維持って名目で街の中と外を結ぶ門の出入りが夜間は制限されてるのさァ。最近はおっかねえ他所の兵士もいることだし……」
「へ?」
「つまり、もうじき門が閉まっちまって、明日の朝までネギールから出られなくなっちまう。あの鐘を鳴らして、あと少しで閉めるって合図してんのさ。ほら、もう夜はすぐそこだ」
そう言って男があごをしゃくった先は、街をぐるりと囲む外壁の外側、遠く遙かなる地平に霞むトングランカ山の稜線である。太陽は、もうじきその姿を山の端に隠そうとしている。男の言う通り、薄暮と呼ぶべき刻は過ぎ、じきに夜になる。
そうしてリリエンシャールが山の遠景から隊商たちへと視線を戻したとき、彼らは既に荷車をまとめ、外門のほうへと足を向けている最中だった。
「え? え? ちょっと待ってよ! 私のヤギはどうなるのよ!」
「ハハハ! ほかの商人をあたってくれよ! じゃあな!」
言うなり男もまた駆け足気味の歩調で先行している隊商の仲間を追いはじめた。彼自身が言うように、門が閉まるまでの時間がほとんど残されていないということなのだろう。隊商が鮮やかに退場していった路上では、リリエンシャールが一人立ちつくしていた。
降りそそぐ日差しの色は橙の色味を強めてゆく。夜の訪れを告げるかのような、春のまだ冷たい風が、一張羅のワンピースのすそをふわりとふくらませた。
「……私のヤギ」
ぽつんと落ちたリリエンシャールの声は、そのまま風にとけた。