テイクアウト@墓場 1
アサダ村でソン・ジーンから減税の嘆願と事件の証人を頼まれた後、旅立ちの準備に追われるソン・ジーンとアートヒーを後目に、リリエンシャールは報酬となった銅貨のきらめきをうっとり眺めながら日がな一日を過ごしていたということについては、既にお伝えした通りである。幸せの最中は時が駆けるように過ぎるものだ。リリエンシャールもその例にもれず、飽きもせず銅貨を眺め暮しているうちに、旅立ちの日はあっという間に迫ってきた。
「リリエンシャールよ。三日後にはきみとアートヒーにはネギールに向けて出発してもらうことになるが、準備は進んでいるかな?」
そういうわけで、ソン・ジーンからそう声をかけられたとき、リリエンシャールは晴天の霹靂の如く驚いたのであった。
「は? 明後日にはもう行かなきゃなんないワケ? 聞いてないんだけど!」
力いっぱい抗議するリリエンシャールだが、ソン・ジーンは以前にこの話は伝えていた。そもそも、出立の日程をそれまで全く気に留めていなかったという事実からして、この小娘がいつまでもソン・ジーンの屋敷で居候として居座るつもりであったことがうかがえる。身から出た錆、あるいは自業自得――常日頃からそういった自省的な発想に至っていれば、いまごろソン・ジーンの前でポカンとした顔をさらさずにすんだであろう。
「ネギールは遠い。この村からだと……そうだな、二日ほどはかかる。野宿もあるだろう。最低限のものは同行するアートヒーに持たせるようにしているが、きみにも用意するものがあるなら、今のうちにしておくといい」
「用意?」
ちなみにリリエンシャールはヨルダ村から外に出かけたことがほとんどない。軽い気持ちでハンティングに出かけたつもりが、獣を夢中で追いかけているうちに山三つ越えていた……なんてエピソードには事欠かないが、それを除けば、村を長期間離れたことがない。突然用意をした方がいいなんて言われても、必要なものが咄嗟に出てこないのだ。
「何をするにもまず斧は必要よね」
最初に思いついたのが愛用の片手斧の存在である。
「そういえば、私の斧は? こっちに来てから、見かけてないけど」
この場を去ろうとしていたソン・ジーンの後ろ姿に声をかける。ソン・ジーンは首を振って返した。退役軍人が意識のないリリエンシャールをアサダ村に運んで来たときには見かけなかったという。
「まだヨルダ村にあるのかしら?」
斧は斧で回収しに行くとして、他に持って行くものあるかな、と首をひねるが、その次のものが出てこない。しばらく考えたあと、リリエンシャールはヨルダ村に一度戻ろうと決めた。すべて焼けてしまったと聞いていたのだが、まだ何か残っているかもしれない。斧以外に、旅に持って行きたいと思うだけの何かが……そんなことを考えながら、テクテク山道を歩いて、リリエンシャールは実に三日ぶりに自らの村へと帰還したのである。
村の風景はまるきり様変わりしていた。
かつては、村の入り口からまっすぐ伸びた大通りをしばらく進むと、皆が憩いの場として利用していた噴水の広場があり、広場の正面には村長のソン・レテが住まう館と村の主要な商店が軒先を並べていた。そういえば、おさななじみのリエラが結婚式を挙げたのもこの広場だった。
今は廃墟のほか何もない。
燃え差しの煤けた柱が、かろうじてかつてそこにあった建物の形をしのばせる。リリエンシャールはざっと周囲を見渡した。ほんとうに、何もなかった。人影もなければ斧も落ちていないし、死体も転がっていない。
「なんにもないじゃない」
つぶやいた途端、静まりかえっていた廃墟に物音が落ちた。
すばやく目を向けて、リリエンシャールは舌打ちした。視界の隅をよぎったのはロシャーンカモシカの姿であった。倒壊した建物の影で二頭のロシャーンカモシカが戯れていた。今年の春に生まれたばかりと思われる小さな兄弟たちだった。それはもはやこの地が人間の住まう場所でなくなってしまったことを示唆しているのだが、リリエンシャールが舌打ちしたのは、人間の土地が分領されたことへの義憤ではなく、手元に斧がないことの不運に気づいたからである。
手斧さえあればチョイと仕留めて夕餉の食卓に上げることだってできる。なんなら、その辺の石ころでも投石して捕まえてやろうかしら……リリエンシャールが足元に目を離した隙に、勘の良い野生のカモシカたちは殺気を気取ることでもあったのか、軽い音を残して廃墟から駆け去って行く。
「あっ、待てこの!」
反射的に、リリエンシャールも追いかける。
「待てって言ってるでしょ、もう!」
言いながら、リリエンシャールは不思議なことに気がついた。普段ならぴょんぴょん跳ねまわる二匹のロシャーンカモシカを回りこんで追い詰めるなんてことは朝飯前なのだが、今日に限っては、それが上手くいかない。なぜかいつもよりも身体が重くて、回り込むどころか追いつくことすら難しい。
――まさか、太った? いやいや、そんなわけないし。
ゾッとしながらリリエンシャールは慌てて危険な考えを打ち消した。たしかに、ソン・ジーンの屋敷に厄介になってから、傷の療養がてら身の回りの世話をしてもらっていたのをいいことに、ベッドの上で食っちゃ寝くっちゃね好き放題に怠惰をやっていたのは事実である。でもまさか、絶世の美少女である自分が太るなんてそんなはずは……と、全速力で獲物を追いかけまわしている最中に、余計な思考で注意がおろそかになったのが良くなかった。
「あっ!」
地面に落っこちていたロシャーンカモシカの糞を踏んずけ、滑った足が木の根に引っ掛かり、最高速度の勢いそのまま、リリエンシャールは盛大に前方へとダイブした。地面に激突したら大怪我間違いなしの一瞬の中! ロシャーン黎明期に伝承される白い妖精・コーマネーチもびっくりの空中感覚で、なんとリリエンシャールは見事な受け身を取ったのである。ずさーっと地面に背中を擦ったが、勢いを利用して起きあがった姿は、服がちょっと汚れただけで怪我もない。
「ふ、決まった。自分の才能が恐ろしいわね」
拍手喝采、十点満点!……残念なことに美少女のウルトラ・シーを目撃できたのは道の先でキョトンとしているロシャーンカモシカたちだけであったが、彼女の機嫌を直すには観衆の力は必要なかったらしい。身軽な空中半ひねりがこなせたということは、太っているわけではない。そう結論付けたリリエンシャールは、そそくさとロシャーンカモシカがその場から逃げ出していることにも気がつかず、幸せいっぱいな笑みを浮かべて天を仰いだ。
実は、彼女の動きが鈍かったのは、単純に病み上がりと運動不足のせいである。ロシャーンカモシカとの追いかけっこが、偶然ちょうど良いリハビリになっていたのか、上機嫌で空を眺めるリリエンシャールの若い身体は、すでに力を取り戻していたのである。
その日は朝から晴天であった。すがすがしい春風が四周を吹き抜けてゆく。やさしい微風に金の巻き毛をなびかせ、一つ深呼吸して、リリエンシャールはハタと気がついた。
「あれっ。私ってばいつの間にこんなところに……?」
彼女の独白の通り、辺りを見渡せばそこは既に廃墟のヨルダ村ではない。カモシカたちを夢中で追ううちに、リリエンシャールの足は村の西に広がる丘陵地帯まで伸びていたのである。高原を渡る風に導かれ、背の高い草が手前から順にお辞儀して、さざなみのような音をたててゆく。緩やかな勾配の向こうには、かつて彼女がみずから作った墓があり、誰とも知らない遠いところから来た子どもが埋葬されているはずだ。春の時節には野生の草食動物たちのにぎわいが、きっと埋葬された少年を慰めてくれるだろう……そのはずなのだが、その普段はロシャーンカモシカやロシャーンヤギが憩いの場にしている緑の丘に、見慣れないものが点在していた。
「なにあれ?」
遠目には、等間隔に立てられた木の杭のように見える。誰かが狩り場の境界を示しているのだろうか? 不審に思ったリリエンシャールは、よくよく近寄ってみて、木の杭の正体を知った。杭の上方に設けられた小さな引っかかりに、野草で作った冠がかけられている。
この地方の墓である。
作ったばかりなのだろう。近くに寄ると、木を割ったときの匂いと、掘り返した土の匂いと、草の汁の匂いがした。草の冠をかぶった木の杭はそこらじゅうに突き立てられており、よく見ると、ひとつひとつ、木の表面にミミズがのたくったような跡が篆刻されている。
「なにこれ? 現代アート?」
テケトーなことを口にしているリリエンシャールに代わって解説すると、解説するまでもないかもしれないが、それは墓標である。土の下に眠る死者の名を記しているのだ。
とはいえ、字が読めないリリエンシャールにとっては、それがいったい何なのか、想像もつかない。もともとヨルダ村で墓を作るときは、死者を土に埋めて、木の杭を立てて、草輪を作る、という作業で終りなので、死者の名を刻む風習はない。名を刻まなくとも、誰かが死者の名を覚えていればいい――そういう思想だった。そういうわけなので、これが現代アートなのねえ、とありがたそうな面持ちでリリエンシャールは篆刻を眺めていたのである。
ついにはしゃがみこんで木の溝をつんつんしはじめた彼女の背後に、影が差したのはそのときだった。