欲求不満な娘
地方都市ネギールに到着して以後、リリエンシャールにはとある不満があった。
(違うわね。実際のところ、気に障りだしたのは……村を出た頃からよ!)
モノローグで即断を入れるあたりリリエンシャールのムカツキが根深いものだとうかがえる。では、肝心な話、彼女は何に不満を抱いているのであろうか? 領主の遣いが来るとされている〈舞う白鮫亭〉の二階客室を与えられ、寝台にゴロンと寝転がりながら窓越しに夜空の星を眺め、朔月の夜は月も恥じらう己の美貌がためであると確信するイケイケ美少女十七歳、あまつさえ宿屋の主人にねだり倒して食後にデザートとして早生ロシャーンイチゴ(特ランク)を食してのけた彼女に、いったい何の不満が――?
「そんなの、あのおっさんのことに決まってんじゃないの!」
憤懣やるかたない風情で寝台にこぶしを叩きつけ、リリエンシャールは起きあがった。誰にともなく叫んだ恨み節は、折りよく階下で上がった酔っぱらいたちの笑い声にかき消された。舞う白鮫亭は一階部分を酒場兼飯屋、二階部分を宿屋として営業しているのである。ちなみに逗留の資金はソン・ジーンからもらった報酬から捻出されており、税金免除の申請が通るまでその報酬はアートヒーが管理することとなっている。今現在リリエンシャールが手もちとしているのはお小遣いとして渡された銅貨二枚だけ。銅貨一枚で屋台の串焼き一つ分、と聞かされていたリリエンシャールは驚愕した。共通硬貨の銅貨二枚。ロシャーンスズメの涙ほどの小額に過ぎないではないか!
出立当初、アートヒーが報酬を管理すると聞いたリリエンシャールは依頼達成まで自由にできるおカネがあまりに少ないことを知って、彼に猛抗議したのだ。だが敵もさる者であった。道中お小遣いをせびられるたびにアートヒーは突然リリエンシャールの美貌を褒めた。脈絡もクソもなく褒めて褒めて褒めまくり、世辞を世辞と分からぬリリエンシャールはなんだかとっても幸せな気分になってお小遣いのことを忘れてしまうのだった。
それはさておき、リリエンシャールが不満を持つ、あのおっさん、に話を戻す。
アサダ村を出発して、男女の旅人を危機一髪の窮地から颯爽と助け(リリエンシャールの中であのできごとはそう解釈されている)、地方都市ネギールに至るまでの道中、そしてネギールに逗留して以降、あのおっさんことレブトライト・ロゴーニュが、リリエンシャールに対してまるでそこらの犬猫をしつけるような態度でもって挑んでくる。それがリリエンシャールの怒りの発端であった。
アサダ村で療養していた頃は違った。ヨルダ村が滅んでからも、レブトライト・ロゴーニュは彼の暮らす村外れの小屋でそれまでと同じような日々を粛々と過ごしており、あの災厄の夜以来でリリエンシャールと顔を合わせたのも、彼女が無理やり旅の道連れに選別したときがはじめてだった。それまでリリエンシャールの存在など気にも留めていなかったようなのに、アサダ村を出た途端、いつの間にか、兄エンリケの口うるささをそのままソン・レテの鉄拳制裁で置換したようなまったくありがたくないお目付け役が誕生していたのである。リリエンシャールがぶすくれた気持ちになってしまうのも当然の結果だった。
しかし納得がいかないのはその突然の変心にある。無関心と無気力の権化であるかのような陰気な男が、なぜ突然態度を変化させたのか。こと「他人に迷惑をかける行為」に関して、リリエンシャールの蛮行を矯正させようという意図を見せているのは何故なのか?
「うーん、うーん。……あッ! これってもしかして、広義の意味で言うところのお姫さま教育ってヤツじゃないの?」
ちなみに先ほどから内心をそのまま表に出しているリリエンシャールであるが、彼女に与えられた客室は個室であり、当然全て独り言である。なので彼女の愚かしい妄想に水を差す者はおらず、想像はますます膨らんでゆく。
――ああ、なんてこと! あのおっさん、私みたくカンペキ美少女を教育してさらにため息が漏れるようなたおやかなる絶世の美女に育て上げようとしているんだわ!
そして男をそのような行為に走らせた理由はといえば、考えるまでもなく決っているのだ。世が世なら光源氏計画とでも称されるであろう、その意図は――。
「つまり、私に惚れたってーわけね! 美しさって罪……」
そう言ってリリエンシャールはひとしきり悦に入ってクネクネしていたが、惚れているならもっとこう、おカネをくれたり日がな一日世話を焼いてくれたりしても良いんじゃないのか? と盛り上がる気持ちにふとセルフ・突っ込みが入ってきた。惚れられている、イコール、貢がれること! リリエンシャールの中で好意はゲンナマと直結しているので、ちょっと考えたあと、彼女は惚れているの線を放棄した。だが惚れているのではないとすると、なぜあの男は小姑のごとくリリエンシャールのやることなすことにケチをつけてくるというのか?
「なんかキッカケでもあったかしら?」
リリエンシャールはなんとなしに記憶をさかのぼってみることにした。
まず、順を追って時間を巻き戻してみる。
この街に到着したときのこと。レブトライト・ロゴーニュは、すでに保護者ぶった態度になっていた。なんとなくグダグダのまま男女の旅人たちと別れたあとのことだ。リリエンシャールが本能のまま美味しい匂いの立ち上る屋台へ突っ込んでいこうとしたとき、男は足をひっかけて、彼女を転ばせたのだ。そして膝小僧をすりむいて半泣きの彼女に謝罪もなくこう言った。「無銭飲食なんてしようものならケツを引っ叩く」……リリエンシャールは怒りと恐れのない交ぜになった気持ちのまま震えあがった。嫁入り前の乙女になんつう暴言を吐きやがる!
つまりこのとき既にレブトライト・ロゴーニュは心機一転した後なのである。
ではその少し前、地方都市ネギールを目指す道中はどうだろうか。男女の旅人を加えて五人で街道を進んでいたときも、道ばたに落ちていたロシャーンアオダイショウの抜け殻をヒーリーとかいう女の外套の中に投げ込んでやろうとしていたら、すぐさま奪われて粉微塵に砕かれてしまった。このときも既に男は村外れでのらくら暮らしていたときとは違う何かになっていたのだ。
そのもう少し前、アサダ村を出て直ぐの頃、まだ旅人たちと邂逅する前の途上はどうか。
三人で街道を歩いていた頃は、特に問題も起きなかったため、リリエンシャールは退役軍人の男に注意を払ってはいなかった。麗しき女旅人ヒーリー・フラウロウが登場するまでは、なんのかんのと言いつつもアートヒーがリリエンシャールの気を引く係を受け持っていたので、それなりに穏やかな旅路が続いていたのである。
「よく分かんなくなってきた……つうか気分悪くなってきた」
考えながら、無意識のうちに部屋の中をぐるぐる歩き回っていたリリエンシャールである。うぷ、とこみ上げてくるものをこらえて、再び寝台に戻ってゆく。座り込んだ拍子に、シーツに沈んだ指先が固いものに当たる。食べかけのおせんべいでも落ちてたっけ? 年頃の乙女としてあるまじき心配をしつつ、リリエンシャールは手元を見下ろして、小奇麗な装飾のほどこされた小さな指輪を見つけた。彼女の細い小指にも入らない、子ども用のおもちゃのような指輪である。リリエンシャールはワンピースのポケットに手を突っ込んだ。彼女の記憶が正しければ、この指輪はポケットの中にあったはずだった。
「ありゃ?」
指先がスカートの裾から覗いている。どうやら、ポケットに穴が開いており、落っことしてしまっていたらしい。危ない危ないと呟いて、小さな指輪を拾い上げる。台座にはめ込まれた貴石は、指輪のこしらえに相応しいくすんだ小さな緑の石だ。
一見、無価値な指輪のようである。
だが実はこの指輪、リリエンシャールが旅立つ前に故郷の村で発掘した財宝なのである――と、少なくとも彼女はそう信じている。
「そういえばあのときは、おっさん、まだ説教臭くなかったかも……」
寝台にゴロンと仰向けに転がり、部屋の灯りに指輪の貴石を透かし見ながら、リリエンシャールはつぶやいた。やがてそのまぶたが眠気に負けて、ゆっくりと降りてくる。午前中は歩き詰め、午後からははじめての大都会に大ハシャギの一日を過ごしてきたのだ。いくらバイタリティあふれるぴちぴちの健康優良十七歳だとて、眠気に勝てなくても無理はない。ではここで、睡眠をとって体力回復を図るリリエンシャールに代わって、彼女が指輪を手に入れたいきさつについてこっそり振り返ってみることにしよう。