初めての大都市と袖の下
地方都市ネギールの入り口付近で旅の連れと別れたアートヒーは、その足ですぐさま徴税官を探し始めた。
あの場からの離脱を一方的に宣言したとき、目深にかぶったフードの下で退役軍人が露骨に面倒くさそうな顔を見せていた。内心、ざまあみやがれ……なんて、思っていない。あの美人の女旅人と昔イイ仲であったらしいことに対する羨望と当てつけでは、決してない。空気を読まずに早く街に入って買い物したいと興奮状態でぴょんぴょん飛び跳ねていたリリエンシャールの姿を思い出すだけで変な笑いがこみ上げるなんてことは……。
(とはいえ、いくら薄幸の美少女だからって、あの騒ぎのタネを連れ歩くのは勘弁なんだよなあ)
リリエンシャールはヨルダ村壊滅の重要な証人である。ソン・ジーンが言っていたように、必ずその証言が必要とされるときが来るだろう。そのときまでは、おとなしくしてもらわなければ困る。
そういうわけで、アートヒーはいま、街の入り口付近に設けられていた徴税官の出張所で、初老の徴税官の男と机を挟んで、一人向き合っている。リリエンシャールを呼ぶのは、いざ証人が必要になったそのときだけで十分。俺って考えてるよなあ、村長ボーナス弾んでくれねえかなあ、と頭の片隅で願いながら、アートヒーは徴税官にかいつまんで事情を説明していたのである。
「……ふむ。そういう事情で、ヨルダ村は一夜にして壊滅。生き残りは若い娘と、五年前に流れ着いた余所者の男の二人だけ。被害額は去年の登記簿に載っている分が全部。アサダ村もまた男六人、女二人、子ども一人が死んだ、と。負傷者は分かっているだけで三十人。家屋の倒壊が四棟。備蓄用の食糧庫に被害。村の衛生状態に不安あり。ヤギの雄が十二頭、雌が四頭絞められた。仔ヤギは全滅、と。ん? アサダ村のトナカイは?」
「トナカイは、たまたまパトルスってじーさんが山の中を連れ歩いていたから、被害はないです」
「パトルス? まさか、ヒドゥメ・パトルスか? そうか、北部の出身だと聞いた憶えがあるような……。なんにせよ不幸中の幸いだったな」
ネギール中心街の一角にある徴税官の出張所で、やけに懐かしい名前を耳にしたアートヒーは思わず初老の役人に聞き返していた。
「パトルスのじーさん知ってんすか?」
「知ってるも何も、早駆けパトルスであろう。伝説の男だろうに、故郷の人間が知らぬとは」
早駆けのパトルス――それは数十年前にロシャーン流氷レースで前代未聞の十年連続最多勝を成し遂げた男の名である。長くスター不在であった流氷レース界に彗星のごとく現れた風雲児は、表舞台に姿を現すやいなや相棒のロシャーントナカイの白夜号とともにスターダムにのし上がって行った。貴人たちがパトロンにつくことが常識であった流氷レース参加者の中でなんとパトルスは後ろ盾もなく着の身着のまま、唯一相棒の白夜号だけを供に故郷を飛び出してきた男だった。驚嘆すべき経歴の持ち主である。最終的に彼は氷海レースを主催していた当時の大貴族から「ヒドゥメ」という家名を賜り、白夜号の怪我に泣いて引退を決意して以後は莫大な賞金を手に故郷の村へ帰ったとされている。残念ながら、昨今の経済状況の悪化に伴い流氷レースは二十年ほど前にその歴史に終止符を打っている。かつてのコース沿線だった大陸北西部の大湖沼地帯に観光客やレース関係者を迎えるため栄えたキャラバンも、一夜の幻のように消え去ってしまって久しい。なおヒドゥメとは古代ヤーパン語で蹄という意味である。古代ヤーパンとは今からさかのぼることウン百年前、東海の果てに栄えていた国の名で――という蘊蓄をやおら語りはじめた役人に、さすがにアートヒーも辟易した。
「あのう、役人どの。横道はどーでもいいから、サッサと話を進めてほしいんですけど」
「はて、話? 何の話だったか」
免税申請のハナシだよ! と怒鳴りたくなるのをグッとこらえて、アートヒーは笑顔を作った。
「ホラ、盗賊の被害総額をまとめてた途中ッスよ」
「あー、そうそう。そうであったな。だがなんていうのかなあ、被害総額が大きすぎやしないかね。特にここの、これ」
と言って、役人は被害総額をメモしていた紙をペン先でぺしぺし叩いた。字が読めないアートヒーにとっては、役人がどの点を指しているのかは不明であったが、さいわいにも役人は直ぐに続きを口にした。
「ヨルダ村が盗賊の略奪で全滅したっていうのは、本当かね? 人も、家畜も、家も?」
初老の徴税官の眼がちらりと光った。
「最近多いんだよねえ、虚偽の申請が。だいたい、いくら相手が盗賊団だったからって、皆殺しの目に遭うなんてちょっとおかしいよ。免税を釣り上げるための嘘なんてことないよね?」
「嘘だなんて、めっそうもない」
「これだけの額になると、当然こちら側も真偽をたしかめるための調査官をきみたちの村に派遣することになるけど」
「構いません。誓って自分たちは後ろ暗いことはしていませんので……ん?」
ふと、徴税官の手が机の上で不思議な動きをしている様子がアートヒーの目にとまった。てのひらを軽く開いた状態で、トントン、とノックでもするように手の甲で軽く机を叩いている。徴税官はというと、アートヒーの目が手の動きを追っていることに気づいているであろうに、その動作をやめない。
(なんだ? 手の甲がかゆいのか?)
アサダ村では頭の回転が良いことで鳴らしているアートヒーが、トンチキな予測しかたてられなかったとて、彼を責めるのは酷だろう。見る者が見ればすぐに分かる。露骨とさえ言ってしまっても良い。徴税官が意図していたのはただひとつ。
「これで」
突然背後から上がった声に、アートヒーは飛び上がるほど驚いた。振り返るよりも先に、アートヒーの横から手が伸びて、徴税官のてのひらに小さな革袋を乗せた。乾いた皮膚の上で革袋が小さな金属の音を立てる。アートヒーの横から手を出したのはレブトライト・ロゴーニュであり、さらに後ろには物珍しげに出張所の内装を見まわしているリリエンシャールの姿もあった。あ、なんか口の中がモゴモゴ動いてる。とりあえずモノを食わせておけば静かになるということか? ますます獣じみてる……とかいろいろ考えているうちに、ようやくアートヒーの頭が正常回転をはじめる。理解が追いついてくる。
(いま、あの袋がチャリっていったよな。金が入ってる?……これってつまり……わ、わ……)
みなまで言わずとも賄賂である。
「ふむ……ほう」
徴税官の指が革袋を開く。すぐに徴税官の眼が袋からアートヒーに移る。一瞬で中を検めたのだ。金を差し出したレブトライトの方には見向きもせず、さもはじめからアートヒーしかこの場にいなかったという態度で続ける。
「きみは誠実そうであるし、嘘もつくまい。調査官には懸念点はなさそうだと口を利いておこう」
「え……あ、はい。ありがとうございます……」
なんとか言葉を返せたものの、二十年生きてきてはじめて目の当たりにした賄賂のやりとりに、しかも国のしもべたる徴税官が平然とそれをやってのけたということに、アートヒーはほんのりビビっていた。こんなしょうもない手段で自分たちの村の行く末が左右されているという事実は、いかに軟派を標榜していたとて田舎育ちの青年には大きすぎる衝撃だったのだ。
ちなみにレブトライトは賄賂をお菓子と勘違いしたリリエンシャールからちょーだいチョーダイ攻撃をくらっており、アートヒーにあとはなんとかしろと目くばせを送るやいなや小娘の襟首を掴んで出張所から逃げ出そうとしているところだった。リリエンシャールをあのまま放置しておくと高確率で暴れ出すこと請け合いなので、その行動は賢明な判断といえよう。
「とはいえ額が大きい」
ハタとアートヒーが意識を戻すと、徴税官の話はまだ続いていた。
「領主どのに事情をご説明せねばならん。事情聴取が必要だが、証人を用意するのにどれだけ時間がかかりそうか分かるかね」
「あ、それは、はい。生き残りの娘を連れてまいりましたので、すぐにでも」
「ならば話は早いな。領主さまのご予定を確認次第、きみたちが逗留している宿に知らせをやろう。場所は?」
実のところ宿はまだ決めていなかったが、アートヒーは出張所までの道行きでいい感じの店構えの宿があったことを思い出していた。自然と宿の名前が口をついて出る。
「舞う白鮫亭です」と徴税官に言って、すぐさま振り返るとほとんど扉の向こうに姿が消えかかっていた旅の道連れに、「舞う白鮫亭だから!」と念押しするのも忘れない。
そういうことで、出張所の会談はようやっとお開きになった。