表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
慈悲の系譜/続  作者: しおなか
慈悲の系譜
1/24

慈悲の系譜

1話は短編として投稿した「慈悲の系譜」と同じ内容です。

2話以降が続編です。

 緑と湖と氷河の国ロシャーンはまさに春を迎えようとしていた。

 高原には一面、豊かな草の海が広がっている。日一日と顔をのぞかせる時間が延びてゆく太陽を追いかけるように、柔らかい草たちはせっせと葉を太らせ丈を伸ばしているのだった。高原の西は切り立った崖になっている。北はなだらかな斜面が続き、丘陵地を抜けると深い森が広がっている。南には近くの農村に続く小道がある。西の崖にめいっぱい近づけば、断崖の淵から眼下に小さな村が見えるだろう。炊事の煙が立ち上るのも、あるいは。

 柔らかい新芽を目当てに、北の斜面から、ロシャーンカモシカの群れが姿を見せる。堂々たる体高の親ロシャーンカモシカの足元には、じゃれつく幼いロシャーンカモシカ兄弟の姿もあった。

 天頂からはさんさんと陽光が降り注ぐ。空は青く高く、ロシャーントンビがピーヨロロ。爽やかな冷風が緑の高原をわたってゆく。遠くで氷河が溶けだす音がする。草を食む動物たちは、つかの間の平穏を謳歌していた。

 なぜ、つかの間の平穏なのか?

 それは、この絵に描いたような平和な風景を打ち壊すモノが、すぐ近くまで迫ってきているからだった。

 ふいに、親ロシャーンカモシカがピンと耳をそばだてた。ケーッ! と鋭い鳴き声を上げ、草原で転がりまわっていた兄弟を呼び寄せる。幼い兄弟の首根っこに噛みつくと、親ロシャーンカモシカはそそくさと斜面を駆け降りはじめた。異変に気づいた他のロシャーンカモシカも、なんだなんだと耳を立て警戒をはじめる。首を伸ばしてきょろきょろあたりを見渡したロシャーンカモシカたちは、やがて風向きが変わった時、ほど近くの茂みが怪しいことに気がついた。なんか、クサい――まつげの長い、キュンとした黒目はそうものがたる。

 不吉な気配が漂いはじめた草原から去らんと、ロシャーンカモシカおのおのが元来た斜面を目指しはじめたところで――そいつは、現れた!

「待たんかあーっ!」

 ロシャーンカモシカたちが警戒していたまさにその場所、怪しい茂みから奇声を発し手斧片手に躍りあがったのは、一人の美少女であった。美少女は同年代の平均的婦女子をはるかに凌駕した跳躍力で、逃げまどうロシャーンカモシカの群れの真っただ中に降り立った。ふわりと広がったスカートが、も一度閉じる。

 肩を過ぎる黄金の巻き毛、ぱっちり大きなエメラルドの瞳、バラ色に上気した頬、若木のようにほっそりとした白い手足。ちょっと目元が勝ち気すぎる気もするけれど、町を歩けば十人が十人とも振り返る――かもしれない美貌である。誰もが振り向くであろう魅力を惜しげもなくふりまくこの娘、名をリリエンシャールという。芳紀十七。彼氏募集中!

 余談だが、美少女リリエンシャールはその麗しい容貌にもかかわらず、生まれてこのかたステディを持ったことはない。それは彼女が貞操観念のたいそう固いオクテな娘だから、ではなく、あまりの美貌に周囲の男どもが恐れをなしてしまったから、でもなく、ではなぜ恋人が作れないのかというと、それは専らリリエンシャールの性格に起因していた。

 空前絶後の美少女は、性格も飛び抜けて悪かったのである。

 他人の不幸を喜ぶどころか、彼女は身内の不幸まで喜んで肴にしたし、自身の容姿が飛び抜けて優れていることを十二分に承知したうえで、それを鼻にかけることもためらわない。唯一の身内である兄が恋人と別れた時は、それをさんざんに馬鹿にしたうえで村中に言いふらした。気に食わない村の悪ガキには全力で石を投げた。近所で葬式があれば物見に行く。結婚式があれば新郎新婦に嫉妬のこもった馬糞を投げた。なお彼女の言い分は以下の通りである。

 ――なんで、あのドブス女が結婚できるのに、私にゃ恋人の一人もいないってーの!

 完全な八つ当たりである。ムカつきのあまりうんこを投げつけたくなるという、摩訶不思議に複雑な乙女心!

 彼女に恋人ができない――それは幸いにも村の男たちが正しく物事を見る目を持っていた証左に他ならない。見せかけの美に騙されず、冷静に自分の伴侶を選びぬく真偽眼を備えた男衆は村の誇れる財産だといえよう。悪妻で身を持ち崩す者が増えては、村全体の発展にもかかわってくることになるからだ。村にとっては良いことだった。だが、リリエンシャールにとってはちっとも良くなかった。

 そのうち自分の魅力に男どもも気づくはず、とタカを括っていたのに、いつまでたっても求婚はなく、状況が改善しないのである。

 リリエンシャールは憤慨した。憤慨してキィーっと草をちぎっては投げちぎっては投げし、無為に時間を浪費するうちに、自分よりも容姿が著しく劣る娘がまた結婚する。リリエンシャールは再び苛立つ。モヤモヤとした気持ちのまま牛糞を投げつける。その姿を見た男たちはますます彼女を敬遠し、他の女性に目を向ける。リリエンシャールは地団太を踏み、次の式に備えて家畜の糞を探し、その姿を見た男たちは……と、要するに完全な悪循環に陥っていた。リリエンシャールがはじめて馬糞を手に取った日から、既に二年が経過していた。妖女糞投げババアとして村の七不思議に認知されるまで、もういくらの猶予もないだろう。

 そう、リリエンシャールは焦っていた。

 今日、村で同い年のリエラという娘が結婚した。それも、相手は結構な男前だったのである。これで、村の同世代の娘たちは皆貰われていったことになる。リリエンシャールを除いて。

 失意のリリエンシャールは式場で恒例行事を執り行ったあと、護身用の手斧を片手に、逃げ出すように村はずれの高原へ来た。ぬぐってもぬぐっても、あとから涙があふれてくる。鼻水は引きも切らさず、リリエンシャールは草っぱらに寝転んで、己が不幸に耽溺した――なんてかわいそうな私!

 そんなことよりも、事後、手は洗ったのか?……そういう声がどこからか聞こえてきそうだったが、残念、リリエンシャールの耳に入ってきたのは、冷静な突っ込みではなく、のこのこと高原にやってきたロシャーンカモシカたちの鳴き声だったのである。

 時刻は昼を少し回ったところだった。

 村から全力で走ってきたせいで、リリエンシャールはおなかが減っていた。美少女といえど、腹が減っては戦はできぬ、怒りを持続することもままならぬ。

 食欲は鬱憤晴らしと直結した。幸い手元には護身用に持ってきていた手斧がある。寝転んでいたのをいいことに、リリエンシャールは息をひそめ身をふせて姿を隠し、のんきなロシャーンカモシカたちに致命の一撃を見舞う好機を待った。

 ここで、話は冒頭に戻るのである。リリエンシャールが手斧を振り回す腕に力が入ってしまう理由も、読者諸兄の皆さまがたにもお察しいただけるのではないかと思う。

 そして――まさに今、リリエンシャールは逃げ遅れたロシャーンカモシカを一頭、ようやく崖際まで追い詰めたところだった。

 ロシャーンカモシカが、おびえて後ずさる。キュンキュンと哀れっぽく鳴く。

 美少女はニタニタと怪しい笑みを浮かべ、にじり寄る。

 彼女の不幸は、ある厳然たる事実にまるで気がついていないところにあるのだろう。すなわち、ロシャーンカモシカを今夜の食卓に上げるべく奇声を発して追い回す女は、たとえ絶世の美女であっても、決して男に歓迎されない。

 ともあれ、リリエンシャールが今にも襲いかからんと身をかがめた時――

「リリエンシャール!」

 割って入った男の声を合図に、ロシャーンカモシカはぱっと身をひるがえし、驚くリリエンシャールの横をすり抜け、走り去るお尻はあっという間に一跳ねして斜面の下に消えた。

 呆然と見送ったあと、視線だけで人を射殺せそうな眼つきで、リリエンシャールが振り返る。

 二十歩ばかり離れた草地に、若い男が立っていた。

 リリエンシャールの五つ年上の兄、エンリケである。彼はリエラの式場を逃げ出したリリエンシャールを追いかけてきたのだ。兄妹というだけあって、良く似た整ったおもざしをしている。

 彼は、村でリリエンシャールの相手をまともにする数少ない人間のうちの一人だ。

 余談ではあるがこのエンリケ、直近の恋人との別れの原因は、エキセントリックな妹にあった。というのも、リリエンシャールが恋人に嫌がらせを繰り返したのである。妹の報復を恐れて強気に咎めだてできないエンリケに、恋人は「私と妹さんのどっちが大切なのよぉおおろろ~ん」と言い放ち、別れを切り出した。お人好しで臆病で哀れな男は、結局恋人を引きとめることはできなかった。

 そんなエンリケが、なんだってクソ厄介な妹を追いかけてきたのか?

 馬糞をぶつけられた新郎新婦にひたすら謝罪し、ついさっき尻拭いを終えたばかりの彼は、もちろん傷心の妹を慰めに来たのだ。荒れているリリエンシャールをなだめるのは昔から彼の役目だった。ここでできるだけ早めに優しくしておかねば、摩訶不思議な感情機構を持つ妹は行き場のない恨みつらみをすべて兄にぶつけてくる――悲しき長年の経験は、そのような悟りを導き出している。兄妹愛というには保身の色が強すぎるそれだが、エンリケはこうしてやってきた。

「リリエンシャール。言いたかないけど、式で糞を投げるのはもうやめろよ。そんなんじゃ、ますますおまえ、恋人なんてできない……」

「こぉんの馬鹿兄ィ!」

 ごきん! と豪快な音が高原に響く。

 都合の悪い身内の苦言に手斧の柄で報い、黙らせてもなお、怒りにうち震える美少女の業腹は収まらなかった。なんせ、獲物を目前にしてみすみすと逃してしまった! の時点で腹に据えかねていたというのに、さらに兄の余計なひと言である。彼女のたっかいたっかいプライドは傷つけられ、油をジャーと注がれた胸中怒りの炎は、いよいよ盛んに立ちのぼる。なお、斧の柄でかち割られたエンリケの額も、ジャーと大量出血中であったが、リリエンシャールは舌鋒を緩めることはなかった。

「肉が逃げたじゃないの! この間抜け! だいたい、私に恋人ができないのは、男どもに見る目がないからであって、私にはこれっぽっちも悪い所なんてないんだから! あいつらの顔に嵌まってんのは、きっと目玉じゃなくて他のものなのよ。ヨーグルトババロアにイカ墨のちょん、よ。それか、ゆで卵でも嵌めてんだわ!」

 口角唾を飛ばしまくりでわめくリリエンシャールに辟易しながらも、エンリケは見事に猛獣使いの手並みを見せた。

「わかったわかった、腹が減ってるんだな。よし帰ろう、兄ちゃんがババロア用意してやるから。ゆで卵も作ろうか」

「えっ本当? やったー、でも嘘ついたら、髪の毛むしるわよ」

 リリエンシャールは言質を取ったとばかりに天使の微笑みを浮かべる。

 一方のエンリケは、内心ため息をついていた。

 自分の細いくせ毛の将来を危ぶんでいるのではない。ババロアの材料なんてあったかなー、というのでもない。天使が彼の額を血まみれにしてしまったことでも……いや、それはちょっとあったが、何より食い物にころっと騙されて機嫌を直した猛獣の笑顔を見てほだされてしまう自分に落胆したのだった。

 こんなだから被虐趣味だと陰口を叩かれ、せっかく作った恋人にも逃げられるのだ。おお、不完全な妹を見捨てられないこの不幸! エンリケは上目遣いに天使でもある猛獣をうかがった。

「なあ、リリエンシャール。おれのこと好き?」

「嫌いに決まってんじゃない馬鹿。気持ち悪い。あら、あれは何かしら?」

 ショックで固まるエンリケを置いて、リリエンシャールはすたこらと草原を走ってゆく。村へ向かう小道の方角である。どうやら本道からやや離れた草むらに汚いぼろきれのような塊が落ちており、それが彼女の気を引いたらしい。

 リリエンシャールを追いかけたエンリケは、よくよく近づいて、それがずた袋ではなく土埃まみれの人間であると気がつき、仰天した。小道にずたぼろの男が倒れているのだ。

「た、大変だあ!……ってあれ、あなたは隣村のケーズーさん?」

 思わず素っ頓狂な声が出る。抱き起した男の顔は、エンリケに見覚えのあるものだったのである。隣村で革職人をしているケーズーという男だ。

 ちなみにこの時、リリエンシャールは既にこの事象に興味を失くして一人村への帰路をたどっていた。薄情な娘である。

「その……声は、ヨルダ村の、エンリケ?」

 男は目を閉じたまま弱々しくうめいた。そのときはじめてエンリケはケーズーの服に赤黒い斑点が散っていること、顎に何かにぶつけたような鬱血の痕があることに気づいた。これは血だ! いやいや、ワインかも。はたしてうっかり転んだ酔っ払いなのか、心ない人間に襲われた重篤者なのか? 確かめるべく、エンリケはそっと聞いた。

「ケーズーさん、いったいどうしたんです、こんな所で。何かあったんですか?」

「と……、と……が」

「と?」

 しばらく謎の唸り声を喉の奥からしぼり出していたケーズーを、エンリケは辛抱強く待った。と、突如としてケーズーが閉じていた目を剥いた。

「盗賊だ! 盗賊が……うちの村を!」

 ぶるぶると震える腕でエンリケの肩をつかみ――ややあって、ぼそっと付け足す。

「あんた、頭、割れてるぞい」

 エンリケも、負けじと返した。

「ケーズーさん、なんかお酒の匂いがするんですけど」


 ☆


 気温とともにやたらに増えてきた羽虫を手のひらで追い払いながら、兄と何かよく知らない人間を小道に置き去りにして、リリエンシャールは一人スキップしながら村へと戻っている途中だった。傍目にもリリエンシャールは満ち足りた顔をしていた。形の良いつんと上向きの鼻からは、ふんふんと上機嫌の証、鼻歌と鼻息(スキップのせいで息が上がっているのだ)がないまぜになった妙な音が出ているくらいだ。さきほどエンリケを殴りつけた手斧の柄をもてあそぶ手つきも軽快だ。

 リリエンシャールは幸せだった。

 今朝のリエラの結婚式からずっと苛々していた彼女だが、それはエンリケを思いっきりぶん殴ったのと、ロシャーンカモシカを全力で追い回したことで、この瞬間にはだいぶすっきりしていた。いつもうるさいエンリケがババロアを作る旨を約束したのも大きいだろう。

 これであとは素敵な恋人がいれば……。

 思考がそこにたどり着いた途端、リリエンシャールの顔は曇った。

 スキップの足が止まり、幸せな気持ちがさっと逃げていく。

 エメラルドの湖面を思わせる瞳が揺れる。可憐な桃色の唇から、甘いため息が震えて落ちる――自分にどっぷり酩酊しつつ、リリエンシャールは嘆いた。

(どうして私には恋人ができないのかしら?)

 それは、君の性格が悪いからさ!……と教えてくれる親切な人がいないから、いつまでたってもリリエンシャールは精神的に成長できない。

 というわけでは全然なかった。

 むしろ、狭い田舎町で育ったぶん、善意の忠告はよく貰っているほうだったろう。実際、かつての村人は、エンリケに同情しつつ、この救い難い小娘に人並みの情緒を持たせようと奮闘していたのだ。

 リリエンシャールの奇行・蛮行に意見する者がめっきり減ったのは、彼女が十二の時に怪我人に窃盗をはたらこうとしてからだ。未遂には終ったが、その出来事に付随するさまざまな経過ののち、リリエンシャールがどうも改心する見込みがないらしい――という共通認識が村人の間にようやく芽生えたのだった。

 ただし、エンリケは別だった。

 不幸にも、彼は妹を諦めきれなかったのである。

 今でもリリエンシャールは、彼からは耳にたこができるくらいに毎日お説教を貰っている。やれ人に糞を投げつけてはいけない、腹が立ったからといってすぐ相手を殴ってはいけない、初対面の相手に対して身体的特徴をあげつらってはいけない(要するにブスだとかブサイクだとかを言ってはいけない)、もっと人に、そしておれに優しくしたほうがいい、慈悲深くなってくれ……などなど。特に「慈悲深くなってくれ」はエンリケの口癖であった。

 物ごころついたころには既に悪童として目覚めていたリリエンシャールを、エンリケは唯一の身内としてずっといさめてきた。諫言、注意、そのたびに拝領する過剰な反撃――一方的な大げんかの果てに、針で縫う怪我をさせられたこともあるエンリケである。その経験が彼に「慈悲深く」そう言わしめたのかもしれない。

 が、せっかくの説教も当のリリエンシャールには、さっぱり響いていないようであった。リリエンシャールも慈悲深く、という言葉の定義が分からぬわけではない。優しくするみたいな感じの意味だとは知っている。

 実はエンリケを含めて村の誰も知らないことなのだが、悪鬼リリエンシャールも一度だけ自分の信じた「慈悲深く」を実践したことがあったのだ。が、いろいろあって、結局リリエンシャールの慈悲は兄を泣かせる結果に終ってしまった。それ以降リリエンシャールは慈悲深くをやめにしている……そういった事情もあるにはあったが、その経験のせいで優しさ・慈悲の心が分からないのだ、とひとえに結論できるほど、リリエンシャールの性格はなまやさしいものではなかった。

 それはさておき、村への小道の途中で再びモヤモヤに包まれてしまったリリエンシャールのことである。

 不機嫌に顔を曇らせたのも一瞬のことで、リリエンシャールはおもむろにつぶらな瞳をめいっぱい見開き、左右にキョロキョロさせはじめた。

 ちなみに、迷子になったわけではない。高原の原っぱから村までは一本道である。

 では何か探し物でもしているのだろうか?

 その通り、彼女は探しているのだ――哀れな、犠牲者を!

 リリエンシャールは「今自分が感じている苛々をぶつけて発散できる誰か」が目のとまるところにいないかを探しているのであった。傍目にはちょっと探し物をしているといった風情で、しかしよくよく観察すると、躁めいたきらめきで彩られた緑の瞳に、暴力の気配に陶酔するアブない色を見つけることができるだろう。鼻息も、なんか荒いし。

 げに恐ろしきかなリリエンシャール!

 そしてついに、悪魔の影を踏んでしまった哀れな犠牲者が一人――

「おお、リリエンシャール。探していた」

 ちっ、とリリエンシャールの可愛らしい唇から舌打ちが漏れる。

 小道を曲がった先でリリエンシャールがばったりと出くわしたのは、初老の男――ヨルダ村の村長ソン・レテであった。歳経た者だけが所有を許される余裕と貫禄、この男が持つそれこれの性質が、傍若無人のリリエンシャールをして苦手だと意識させるのであった。

「そりゃ御苦労さま。で、なんの用?」

 いかにもぶっきらぼうなリリエンシャールの問いかけに対して、ソン・レテのほうは、気負った様子もなく、気さくな笑みを浮かべている。手には一通の封筒を携えている。それを露骨にジロジロ見るリリエンシャールに気づいたのだろう、ソン・レテは笑みを深めて、封筒をひらひら振ってみせた。

「久しぶりにレブトライト・ロゴーニュ宛ての手紙だ。いつものように、届けてくれるな?」

「やだよ、面倒くさい。自分でやれば?」

「届けてくれたら、あとでお小遣いをやろう」

「うんまあ、引き受けてあげないこともないわ」

 見事な変わり身の早さである。村長がニコニコしながら差し出した紙切れを、リリエンシャールは精一杯「しょうがないわね感」を出しながら受け取った。手紙を受け取ると、すぐさまリリエンシャールは傲然とした。

「でもね、勘違いしないでちょうだい。たまたま私もあっちに行く用事があっただけで、あんたの頼みは、ついでよ、ついで。オーケー?」

「オーケーだ、リリエンシャール。ついでのついでだ、彼がきちんと封を切って手紙を読んだかどうかも、確認してきてくれるな?」

「やだよ、面倒くさい」

「彼のことだ。読まずに捨てるなんて平気でやりかねん。リリエンシャールがわざわざ届けに行ったのが無駄足になるかもしれんのだぞ」

「まあね、でも……」

「賢い子は無駄なことをしないものだ。さあ、賢いリリエンシャール、頼んだぞ」

「まーあ任せておきなさい、この賢いリリエンシャール様にね!」

 薄い胸を張ってオーホホホと高笑いをするリリエンシャール。その姿は賢さとは程遠かったが、わざわざそれを教えてやるほど野暮な村長ではない。単純さは時に美点となる――ほくそ笑みながら、リリエンシャールの気が変わらぬうちにと、彼は足早に村へと戻る道をたどって行くのだった。

 さて、手紙を託されたリリエンシャールはというと、彼女は小道を外れ、藪の中に分け入っているところだった。

 先ほどの手紙を、さっそく藪の中に捨てようという魂胆なのである――村長には嘘の報告をし、駄賃はしっかり掠め取る!……間違えた、届け先の家まで近道をしようとこの藪を通っているのである。

 リリエンシャールが持つ手紙の宛先には「レブトライト・ロゴーニュへ」と、きれいなロシャーン語の綴りが記されている。

 リリエンシャールはあまり字が読めない。

 この時代のロシャーン国は、識字率が高くなかった。というより、はっきり言えば低かった。文字を学び記し読むことは、王都に住むごく一部の知識人――王侯貴族や豪商豪農、医師に教師など、限られた人間にだけ許された特権だった。理由は簡単である。

 文字なんぞを読みはじめた日にゃ賢い民衆が増えっちまわァ!

 口伝による知恵や思想の伝承に限界がある以上、国家による文字の独占は、すなわち知識の囲い込みであった。自分の頭で考える民衆は扱いにくい。そういった厄介な国民を、時の権力者は必要としていなかったのである。ロシャーンでは文字を教えるには専門の国家資格が必要であり、国の許可なく文字の教授を行った者は例外なく禁固刑に処された。

 が、いつの時代の法もそうであるように、この法もまた完全に守られているわけではなかった。いびつな国のありさまを正すべく、王都では、監視の目を盗んで尖鋭的な革命家たちが躍起になって文字を広めようとしていた。当たり前だが、人目につかない場所での教授は、摘発されない限りは懲罰を受けないのである。

 王都の文字事情は上記の通りで、田舎の場合はまたそれとは少し異なった。

 この時代においては、ある意味では、監視の目が届かない地方のほうが文字を学ぶ機会があった。田舎の教育水準は最低であったが、それでも職人たちは親方について技術を学んでいたし、農民は村の長老や知恵者から占い混じりの天候の読みを学んでいた。徒弟制度の過程で「パン」「肉」「斧」「皮」といったそれぞれ職業の象徴的な言葉だけは、秘伝として師から弟子へと綴りが受け継がれていたのである。

 というロシャーン国の国家体制・風俗はともかく、ド田舎であるヨルダ村の話である。ヨルダ村もロシャーン国の基本教育方針の例に漏れず、村民のほとんどが文字を読めない。

 かつてリリエンシャールが読めたのも、「こんにちは」「さようなら」「ロシャーンヤギ」ぐらいであった。そこに、村長の頼みを受けて手紙の配達をするようになってからは、宛名でおなじみの「レブトライト・ロゴーニュへ」もラインナップに加えられた。他人の名前が読めて自分の名前が読めないことへの疑問は、まだ彼女の中には存在しない。

 レブトライトの名が記された手紙と手斧を持って、リリエンシャールは藪をさくさくかき分けてゆく。足取りは軽く、風に舞う妖精のごとくであった。と、少なくとも本人はそう思い込んでいる。

 ひょっとしたら、一生気づかない疑問かもしれなかった。


 ☆


 レブトライト・ロゴーニュは人付き合いの悪い男である。

 藪を通りぬけるのが近道、というだけあって、彼の家は村はずれにあった。村はずれというより正しくは村の外、なのだが、彼の家から一番近い村がリリエンシャールらの暮らすヨルダ村なので、所属も一応ヨルダ村になるのであった。彼への郵便物がたいていヨルダ村を経由するのも、そのためだろう。

 この時代、ロシャーンの郵便物は連絡馬車と伝達騎士の二つの手段によって各地に配達されていた。

 余談だが、件の革命家たちの行為も一役買って、最近のロシャーンは王都で内乱の兆しが生まれていた。古き国家体制は歳月による歪みをついに抱えきれなくなっていたのだ。中央の情勢は非常に不安定であり、その影響は国中に波及した。ここ数年、地方には役人の賄賂と盗賊が氾濫し、王都と地方をつなぐ連絡馬車のほとんどが、目的地に着くまでの街道なり関所なりでその荷を根こそぎにされるということが日常的に行われていた。隊商に護衛を付けることができるのは、裕福な商人くらいだった。

 連絡馬車は一度に多くの荷を運べたが、リスクもコストも高かった。そういう事情があり、単なる手紙配達といった荷も少ない用途には、専ら伝達騎士が携わっているのであった。伝達騎士は国家資格である。たいていの伝達騎士は退役後の軍人で、旅慣れた彼らは腕に覚えもあれば、野盗の目を引かないように動くすべも心得ていたのだ。今回ヨルダ村に二、三の手紙を届けたのも、壮年の伝達騎士であった。

 それはさておき、レブトライト・ロゴーニュという男に話は戻る。

 彼がヨルダ村に居着いたのは五年前である。

 レブトライト・ロゴーニュは、どこからともなく村に流れ着いた、いわば素浪人として村に登場したのだ。

 五年前、子どもの亡骸を抱えたよそ者の男が村はずれで行き倒れているのが見つかった。のちにその行き倒れは王都からやってきた退役軍人だと知れたのだが、当初の身元不明状態にもかかわらず、彼に家を都合してやったのは村長だ。さらに村長は、めったなことでもなければ村まで出てこないレブトライト・ロゴーニュというその男に、わざわざ仕事を紹介したり、ときおり村人を使ってまで様子を見に行かせたり、伝達騎士から謎めいた手紙が配達されるようになってからはそれを彼の家まで届けるように取り計らったりした。この贔屓とも見える方針、特別扱いに、村人たちは当然のごとく文句をブーたれ……なかったのは、いくつか理由があった。

 一つは、レブトライト・ロゴーニュが村に現れた時に起こった事件がきっかけで、村人たちが彼に負い目を感じている、というのがある。それがゆえに村人は多少の彼の特別扱いには目をつぶってしまう。

 もう一つは、レブトライト・ロゴーニュの持つ異様な雰囲気に村人が怖れを抱いてしまい、そもそも文句を言えない、というものである。

 ――あのよそ者は、幼い子どもの亡骸を後生大事に抱え込み、それと同居している。

 ヨルダ村の誰もが知るこの不気味な噂は、五年前は噂でなく事実であった。それとなく埋葬を勧めた村長の言を聞き流し、レブトライト・ロゴーニュが子どもを抱いて村はずれの小屋に引っ込んだ時の姿は、まだ村人たちの記憶にも新しい。

 それから五年が過ぎた。村の共同墓地に彼が近寄った姿を見た村人はまだいない。となれば、村人たちの見解も無理のない話であった。曰く、奴は死体と寝食をともにしている――。

 レブトライト・ロゴーニュの近寄りがたさを助けるのは目に見えにくい噂だけではなかった。彼は、もっとはっきり分かりやすく危険性を示した。村娘を暴行したのである。

 しかもその村娘とは、当時から既に手のつけられなかったクソ餓鬼リリエンシャールであった。

 レブトライト・ロゴーニュが村長から村はずれに家を譲り受けて間もない頃、ふらりと村の外に遊びに出ていたリリエンシャールが夕刻になって全身打撲・口唇裂傷・前歯損失、というロシャーンカモシカにでも顔面を蹴飛ばされなけりゃこうはなるまい、というほどの大怪我を負って村に戻ってきたことがあった。

 いったい、誰にやられたのか?

 プライドの高いリリエンシャールは周囲の尋問をサクッと無視し口を割らなかったが、その日の朝、お出かけの前に彼女は兄と以下のようなやり取りをしていたのである。

「どこ行くんだ?」

「あの汚いおっさんのとこ」

 兄エンリケからそれを伝え聞いた村人たちは、さすがに、あのってどの? などとのんきなことを聞いたりしなかった。レブトライト・ロゴーニュの危険度は即日ドカンと跳ねあがり、こういった背景を持つ男に「おまえばっかり贔屓されてずるいぞ!」なんて文句をつける度胸のある村人は、さすがにいないというわけであった。


 ☆


 さて与太話をしている間に、リリエンシャールは無事に藪を抜け、村はずれにあるレブトライト・ロゴーニュの家にたどり着いていた。

 ふう、と大きく息をつく美少女の口元には白い歯がこぼれんばかりに輝いている。幸い、いろいろと成長の遅かったリリエンシャールは、かつて折られた前歯も乳歯だったのである。

 それはさておき、ヨルダ村の治外法権・レブトライト・ロゴーニュに、なぜ村長は仇敵であるはずのリリエンシャールをして手紙を届けさせているのか?

 村に突然現れた、どこか秘密と影の気配がする年上の男。初めは反発するばかりだったうら若き村娘――しかしやがて、暗い過去に囚われた男の本当の姿が見えてくる。いつしか村娘の胸に灯るのは、秘かに育まれし恋心。それを悟った村長が気を回し、機会があるごとに身の回りの世話を言いつけて、やがて二人は……というわけではまったくなかった。

 前述の通り、村人はすっかりレブトライト・ロゴーニュを怖れ、敬遠している。何の因果か、彼の家に足を運ぶことにためらいを覚えない村人はもはや怖いもの知らずのリリエンシャールだけであったのだ。村長の思惑としては、じゃあ使いを頼んじゃえという、ただそれだけのことなのだった。

 リリエンシャールの数少ない美点のうちの一つに、過ぎたことを根に持たない、というものがある。もちろん普段は美点というよりは物忘れが激しいという欠点としての側面のほうが目につきやすいのは、ご愛敬である。

 過去に因縁があれど、レブトライト・ロゴーニュに対する彼女の態度は公平であった。よそ者である彼に対して、村人や兄に対するのとまったく同じように接したのである。具体的には、顔を合わせると馬鹿にし、ムカつけば石も投げ、居留守をされれば扉を壊し、気が向いた時には機嫌良く挨拶した。誰にも分け隔てなく公平に接することが良いこととは限らない、と身をもって証明しているようなリリエンシャールであった。

 一番最初に村長がレブトライト・ロゴーニュとのつなぎ役を頼んだ時も、ちょっとの小遣いを提示しただけで、リリエンシャールはすぐに飛びついた。ある意味で、村中の鼻つまみ者であるリリエンシャールが村に貢献できる唯一の役目がこれなのであった。行き倒れの怪しい男が元は王都の軍人で病を得て退役した、という情報も、リリエンシャールが手紙を持って村長とレブトライト・ロゴーニュの間を行ったり来たりしているうちに明らかになったことである。

 ちなみにリリエンシャールの家は代々ロシャーンヤギを飼い、肉や乳を売って生計を立てている。が、エンリケほどヤギの世話に精を出さない彼女は、労働力としてあまり村人に感謝されていないのである。リリエンシャールは狩りの腕にも優れていたが、あくまで金に困って森へ狩りに出かけるわけであって、獲物は自分の家の食卓に並ぶだけだ。村のためではない。

「おっさん、おっさん! お手紙よ!」

 リリエンシャールのノックは乱暴であった。粗末な立てつけの扉が、壊れるんじゃないかという勢いでぎしぎし軋む。が、レブトライト・ロゴーニュ宅は沈黙を守っていた。リリエンシャールの機嫌は急転直下、心は怪しき雲行き、どす黒い色に染まってゆく。忍耐の足りない娘である。

「また居留守? 開けなさいよ、おっさん。わざわざ手紙を届けに来てやったのよ、この、私が。開けなきゃ今すぐドアー壊して中、入るわよ!」

 くわ! とリリエンシャールが獲物を振り上げる。

 たとえ用事を携えているのだとしても、傍迷惑極まりない来訪者である。

 手斧を持つリリエンシャールにとって、扉を壊す旨の脅し文句は十分に実現可能なものである。レブトライト・ロゴーニュ宅の玄関扉は、新しい主人を迎え、美少女の訪問を受けるようになってから、既に七回もの代替わりを強制されている――が、幸いにも今回は破壊の憂き目を見ずに済みそうだった。

 わずかな物音のあと、扉が薄く開き、中から陰気な顔つきの男が顔を出す。

 レブトライト・ロゴーニュその人であった。


 ☆


 ヨルダ村は人口百人前後の、典型的な田舎の塊村である。

 中心に大広場と井戸があって、村の主要な商店はたいてい広場に面するように立地している。同心円の路地と村人の住居をいくつか挟んで、村の一番外側のぐるりは木の柵で取り囲まれている。村の南に畑を作っていて、北の山がちな谷間は家畜の放牧地だ。東のほうは、湿った地盤の湿地になっていて、毒虫や蛇がわんさかで、とても村人たちが近寄れたもんじゃなかった。村の西は山間にさしかかっていて、緩い勾配の小道を登って行くと、ロシャーンカモシカやロシャーントナカイなんかがくだを巻いてる高原の原っぱが見えてくる。時期によっては、村人もここで狩りをする。

 その高原に続く小道から、村に向かって全速力で駆け下りてくる若い男の姿があった。柵を抜け、路地を突っ切り、大広場に突っ込んできた男は、目にもとまらぬ速さで、村でもひときわ立派な村長の家の中へと駆け込んでいった。

 一瞬の出来事であった。

 あとに残るのは、広場にもうもうと立ちのぼる砂埃だけ……いや、正確に言うならば、呆然とした目撃者、も加えねばなるまい。

 広場に面した一等地に店を構えている靴屋のヘックソン(二十七歳既婚者、妻一、娘二)は、つむじ風のように通り過ぎて行った男を見送ったあと、一人首をかしげた――今のあれ、エンリケじゃね?

 歳こそ少々離れているものの、共通の趣味(バードウォッチングである)を持つヘックソンとエンリケは仲が良かった。良く言えば穏やかで優しい、悪く言えばヘナヘナした普段のエンリケを知るヘックソンは、常にない形相をしていた彼の姿から、何か大変なことが起こったのだとすぐに直観した。

(またリリエンシャールが何かやったのか? なんか、顔面血まみれだったし……)

 さすがに付き合いが深い分、察しの良い男であった。

 が、ヘックソンがそんなことをうんうん考えていたのも、三歳になったばかりの愛娘が店先に置いていた売り物の靴を口にくわえてガジガジしている! と気づくまでのことだった。

「あっ、アンナやめて、それ食べ物じゃないから」

 ぶうううう~と謎の唸りを発する娘の口から革靴を引っこ抜く。爪先のあたりに、生えそろわないいびつな歯型と、よだれの染みがばっちりついている。ヘックソンはトホホであった。こいつは売り物にならない……肩を落とし悄然とする父親に、しかし娘は容赦がなかった。父親の油断を見てとり、手の届く場所にあった他の靴をすばやく奪いとり、またもガジガジをはじめたのである。

「アンナぁ!」

 世にも情けない声で懇願するヘックソンの脳裏からは、とうにエンリケのことなど消えさっていた。

 次にヘックソンがエンリケのことを思い出したのは、夕刻、店をたたむ寸前であった。隣の隣でパン屋をしている幼馴染のセルジュが「村長が集会開くって」と青ざめた顔で告げに来るその時まで、ヘックソンの穏やかな日常は、しばらく続く。


 ☆


 レブトライト・ロゴーニュ宅は、元は森番の家である。少し天井の高い木造の平屋で、ほとんど小屋と呼んで差し支えがない。家の中央を渡す梁からは、かつての住人が用いた麻袋やら荒縄やら斧やらが無造作にぶら下がっている。間取りもいたってシンプルだ。玄関を入ってすぐが土間。奥が寝室。土間の中心には木製のテーブルがデンと鎮座している。ここが炊事場や居間を兼ねた生活の中心になっているのだろう。

 この粗末な小屋にリリエンシャールが踏み込んだ時、時刻はとうに昼を回っていたのだが、屋内は薄暗かった。冬季の寒さが厳しいため、採光窓が申し訳程度の大きさしかないのだ。おまけに油紙も貼っている。

 むき出しの土がのぞく土間には、桶や瓶、火鉢、炊事道具などの生活用品に混じって、黴の生えた薪や割れた土器の破片、獣の骨のような用途不明な物体も転がっている。ゴミは多いが、どれも放置されて以後長い時間が降り積もっているようで、生活の気配は薄い。

「相変わらずきったない家ねえ」

 家主の許可を待たずにずかずかと土間に踏み込んだリリエンシャールは、同じく許可を待たずにテーブルにどかっと腰かけ(この家には椅子がないのである)、縁に手をついて顔をしかめた。埃がたまっている! 姑よろしく指をツツーと滑らせるまでもない。

「あんた、ここでマジで生活してんの? 汚いにもほどがあるわよ」

 自分の家の自分の部屋の汚さを棚上げして、リリエンシャールが鼻を鳴らす。ちなみに一昨日、兄から部屋を掃除しろと注意されたばかりのリリエンシャールである。

「用件は」

 玄関扉を背に立つレブトライトは、簡潔に返した。小娘に居城を蹂躙されているまっただ中であることを思えば、十分に忍耐のある冷静な返答であった。が、リリエンシャールはその大人の対応をありがたがるわけでもなく、問いかけを無視して室内をきょときょと見渡していた。一度おもいきり鼻の頭にしわを寄せ、ひくひくと動かしたあと、手紙と手斧を埃の積もったテーブルに置くと、テーブルから勢いをつけてぴょんと飛び下りた。そのまま真顔で、言った。

「おっさん。ちゃんと体洗ってる? なんか、臭うんだけど」

 顔をひきつらせる男を無視して、勝手知ったる他人のなんとやら、リリエンシャールは動き回って必要なものをかき集めた。たちまち水の張った金だらいとタオルと剃刀と岩みたいな石鹸を用意する。それらとともにレブトライト・ロゴーニュを寝室に押し込み、扉を閉め、閉めた扉を一度蹴飛ばし「隅々まで洗うのよ!」とはっぱをかけたところで、リリエンシャールははたと気づいた。

「……先に手紙読んでもらうべきだったかしら」

 今のナシ! と扉に声をかけようとしたところでもう遅い。寝室の中では既に水音が聞こえはじめているのだ。こうなるとレブトライト・ロゴーニュはしばらくは出てこないだろうし、リリエンシャールも中に入るわけにはいかない。さすがのリリエンシャールも、そこのところは年相応の恥じらいと分別を持つ乙女であった。

 しかしそうすると、行水の終了を待つしかない。

 やることもなく残された彼女は、暇であった。


 ☆


 暇を持て余した人間は、とりとめのないことを考えるものである。

 リリエンシャールもまたそうだった。

 茫洋たる思考の海に漂う演目は、明日のお天気はどんなかしら、とか、あの壁の染みって村長の顔に似てるわね、とかいった他愛のない事象ばかりだ。そのうちに、彼女の意識はひょんなことから過去に行き当たった。レブトライト・ロゴーニュが村に来たばかりの頃のことだ。この時ちょっとした事件があった。リリエンシャールもしっかり関係していたのだが、忘れっぽい彼女にその事件を一人語りさせるのは無謀極まりない。なので代わりに、事のあらましだけを客観的に記述しておく。

 経緯はだいたい以下のようである。

 五年前。

 レブトライト・ロゴーニュは行き倒れとしてヨルダ村に登場した。

 村はずれに身なりのいい男が倒れている、という報告を受けて、村長以下村でそこそこの地位を占める顔ぶれが現場にたどり着いた時、レブトライト・ロゴーニュ(この時は誰も名前など知らなかった)は死にかけていた。彼が胸に固く抱きしめていた子ども――しっかりと布にくるまれ、芋虫のようなありさまだった――こちらは、顔色から既にはかなくなっていることは明らかだった。彼自身もひどく弱っていた。頬はこけ、眼窩は落ちくぼみ、身につけた上等の衣服は身体に合わずすかすかしている。干からびた痩せた身体が透けて見えるようだった。病でも得ていたのだろう。放っておけばいずれ子どもと同じ側に行きそうな、そんな雰囲気だったのだ。

 村人の誰もが男の風貌それこれから厄介事を痛感し、動けなくなっていた。いや、それどころか、村人の中に不穏が渦巻くのを、勘のいい村長ソン・レテははっきりと感じ取っていた。目ざとい村人の何人かの視線が、男が身につけている装飾品や剣、上等な衣服に向かっている。

 ヨルダ村は貧しい村ではないが、豊かな村でもなかった。こんな辺境では、金属や装飾品は非常に高値で取引される。

 行き倒れの男が死ぬのを待って、その持物をいただいたらどうか――。

 もちろん、誰もがそう考えたわけではないだろう。だが現実として、瀕死の男を前に、村人たちは普段の善良さを引っ込め、冷静な観察に徹していた。ソン・レテも、動けない。

 そんな不穏がプンプン臭う場に、唐突に登場したのが当時十二歳のリリエンシャールだった。

 すったかすったか軽快なスキップでやってきたリリエンシャールは、大人の囲いをくぐり、倒れた男を見てぱちぱち瞬いた。ふっくらした頬が紅潮し、大きなエメラルドの瞳が驚きで落っこちそうになっている。

「なに? このきったないの。死体?」

 どこから嗅ぎつけたのか? 唖然と固まる村人を押しのけ、リリエンシャールは倒れている男のそばまで歩いていった。遠くで、リリエンシャールを探すエンリケの声が場違いに響いており、リリエンシャールは一度だけ忌々しそうに舌打ちをした。それから、取り囲む村人をとっくり眺めまわし、誰も何も言わないことを確認すると、にたり、と笑った。整った容貌を差し引いてなお不気味さがにじむ笑顔だった。

「いいこと考えたわ」

 倒れた男に手を伸ばす。村人が凝視する中で、リリエンシャールはためらわず男が身につけていた指輪を抜きとった。瀕死の男はうつろな半開きのまなこで無抵抗だった。うっとりとした顔のリリエンシャールが、指輪を指に嵌める。ぶかぶかの指輪に目を輝かせ、ほとんどよだれを垂らしそうな相好である。

「素敵!」

 さらに意地汚さの透ける笑みを浮かべて、リリエンシャールはのたもうたのだ。

「これを売り払ってヤギをたくさん買えば、今日から私もお金持ち……私ったらあったまイイ!」

 これにはさすがに村長のソン・レテも黙ってはいられなかった。誇らしげに胸をそらす小娘につかつかと歩み寄り、なあに? とかしげたその頭をおもいきりぶん殴る。グエッと潰れた蛙のような悲鳴を上げて、リリエンシャールが地に転がる。だがソン・レテは容赦なくリリエンシャールをつかみ起こした。

「こともあろうに、行き倒れの旅人の持物を引き剥ぎ、なおかつそれを売り飛ばそうとは何事か!」

「な、なによ、だってあれ死んでるんでしょ?」

「生きておるわ!」

 顔面に飛ぶ村長の唾に顔をしかめつつ、痛む頭を押さえてリリエンシャールは背後をうかがった。倒れた男をよくよく見つめる。言われてみると、確かに……。

「あ、ほんとだ。生きてるじゃん」

「たわけが!」

 瞬間、バチーン! と、リリエンシャールの右頬が張られた。

「恥を知れ、普段の悪戯とは度が違うのだぞっ!」

 髭をふるわせ、鬼気迫る形相で言うソン・レテ――彼自身、少々のやりすぎの感はしていたが、村人たちの手前、生温い罰を与えるわけにはいかなかったのである。表向き折檻と説教を与えられているのはリリエンシャール一人だ。しかしその実、ソン・レテは周囲の村人に牽制をしかけていたのである。要は見せしめ、反面教師である。

 ソン・レテにダシにされた格好のリリエンシャールだったが、双方にとって幸いなことに、彼女は頭が悪かった。裏の意図にまるで勘付かなかったのである。

 グーに固めたこぶしでさんざん小娘の頭を殴ったところで、ソン・レテはようやく折檻の手を止めた。

 じりっとリリエンシャールを睨みつける。小さい集落ながら群衆民衆のトップ、村長という地位に就いて久しい彼は、無言の圧力でもって相手に迫るすべを熟知していたのである。

 誰も何も言わなかった。

 無数の目がリリエンシャールの動向に向けられる。一挙手一投足も見逃すまいとする。

 折れたのは、リリエンシャールが先だった。

「……わぁーったわよ。返せばいいんでしょ!」

 ケチ! と言い捨てたあと、リリエンシャールはしぶしぶ男に指輪を嵌めなおした。ふてくされた顔ににじむ反省の色は薄い。このクソ餓鬼、とソン・レテが再びこぶしを振り上げると、リリエンシャールは慌てて平身低頭した。

 誠意のない平謝りである。

 それは見ている者をなんとなくいやな気分にさせる構図であった。

 なんとなれば、リリエンシャールの浅ましい姿は、翻って村人たちの欲を暴いていたからだ。村人たちはリリエンシャールの蛮行に軽蔑の目を向ける一方で、ソン・レテの鋭い叫びに悪心を突かれ非常に居心地の悪い思いをしていたのである。

 ――よりにもよって、あの悪鬼リリエンシャールと同じ畜生道に堕ちるところだった!

 と、本人が耳にしたら怒り狂うこと間違いなしのこれが、悲しいかな村人たちの一致した心であった。

 悪夢から覚めた村人たちは、慌てて男を村に連れ帰り、抱いた邪な心を埋め合わせるように、献身的な看護をしたのであった。

 かくして村長の目論見どおりに事は運ばれた。策が上手く嵌まったおかげか、ヨルダの村人は現在も善良な気風を保つことに成功している。

 一方のリリエンシャールはというと、五年が経過しても相変わらずであった。


 ☆


 話はレブトライト・ロゴーニュの行水を待つリリエンシャールのところに戻る。

 暇を持て余してはいるものの、忍耐のないリリエンシャールが過去の思い出にぼんやりと浸れるはずがない。彼女は今、土間で一人創作ダンスに興じていた。激しいツイストのあとにエイトビートでステップを踏み、もうもうと舞う土埃をスモーク代わりに、華麗なターンを決める! ああ、聞こえるわ、幻の拍手喝采の嵐が……!

 くるっとその場で一周した時、リリエンシャールの目が一点に吸い寄せられた。テーブルの上に置いた手紙である。虚しい興奮が去り、好奇心が頭をもたげる。つぶらな緑の瞳がキラリと光った。

 鼻歌を旋律に乗せ、リリエンシャールはもう一度土間のテーブルに腰かけた。ぴょんと跳び上がる足取りも軽い。さっき自分で置いた封筒を、優雅なしぐさ――人差し指と中指でつまんで持ち上げ、意味ありげに笑む。

「見ちまえ!」

 所詮リリエンシャールの倫理観などこの程度であった。すらりと伸びた足を組んで、行儀の悪さを一段階上げたあとに、手紙の封を切る。

「どうせ手紙を読んだかどうかを確認してくれって頼まれてんだから、順番がちょっと前後したって平気よね!」

 ずいぶんでっかい独り言を言いながら、どれどれ、と文面に目を落とす。

「んん? これって……」

 涼しげな面持ちでいたのが、徐々に眉間にしわがよりはじめる。組んでいた足も解かれ、苛立たしげな貧乏ゆすりがはじまる。ついにはぐしゃりと手紙を握りつぶし、憤然と顔を上げリリエンシャールは叫んだ。

「何よこれ! 女からの手紙じゃん! すれっからしのおっさんのくせに、どっかに女を作ってるってぇーの? ロシャーンハゼの災いあれかし!」

 つい北部ロシャーン訛り丸出しで、リリエンシャールは呪いの言葉を口にした。ちなみにロシャーンハゼとは北部ロシャーンでよく獲れる小骨の多い魚のことで、よく喉に骨が引っ掛かるため、畜生だとか忌々しいだとかの時に、北部ロシャーン人たちが好んでこの言い回しを口にするのである。

 文字が読めないリリエンシャールをして女からの手紙、と断じさせたのは、手紙の書体にあった。封筒の宛名書きにあった流麗な文字とはうって変わって、手紙本文の文字はどこか古風な匂いの漂う、太く丸っこい文字――いわゆるクッキー文字で記されていたのである。

 字は読めなくとも、リリエンシャールにはピンときた。

 これは女からの手紙!

 独特の媚を含んだような、まるまると太った妙にイラつく書体に集中力を乱されながらも――ええい、レブトライト・ロゴーニュへ、の「へ」にチョンチョンをつけるんじゃないわよバカ女!――、リリエンシャールは懸命に綴りを追った。

 が、前述の通り、リリエンシャールはほとんど字が読めない。文字列は踊る、されど進まず。というわけで払った時間と苦労の割に、リリエンシャールが得た情報はごくささいなものだった。冒頭の「レブトライト・ロゴーニュへ。ハーイ。お元気かしら?」的なところと、「じゃあまたね。チャオ」的なところが、なんとなく読めた(ような気がした)だけである。

「これじゃあ全然分かんないのと一緒じゃん!」

 きいいいっ、と癇癪を起し、くしゃくしゃに丸めた手紙を腹立ち紛れに寝室の扉に向かって投げつける!

 へなへなの放物線を描いて飛翔した手紙は、タイミング良く寝室のドアを開けた、風呂上りホヤホヤ、少しふやけたレブトライト・ロゴーニュの額に見事命中したのであった。反射でぱちんと瞬いた男は、次いで足元に落ちたゴミくずと見まごう手紙に目をやった。

 石鹸の香りが漂っていた。

 なお、おっさんおっさんと連呼されているレブトライト・ロゴーニュだが、年齢だけを量れば、彼はまだ世間一般からおっさんと指さされる歳ではない。彼の名誉のためにも、三十を数えるまでにまだ少しの猶予がある、とここに明記しておくべきだろう。

 かくも彼がおっさん扱いされるのには、それなりの外見上の理由がある。

 顔の造作自体は悪くない。

 鼻梁はすっきりと通っているし、物憂げな影を湛えた切れ長の目は涼しげだ。特に目元は、光彩の明暗が強い灰色の瞳も相まって、初見の目を惹くのに必要な要素を十分に備えていると断じて良いだろう。これだけなら、田舎には珍しいちょっと毛色の変わった青年、もう少し褒めて王都帰りの良い男、で済まされる。

 ただ、レブトライト・ロゴーニュは陰の気を過分に所有していたのである。要するに、根暗。おまけに自身の外見を取りつくろうとはしないのである。

 上背はあるが猫背気味。いつでもくたくたの野良着。表情は隠居老人のごとく薄い。くすんだ茶髪はたいてい不揃いな短髪になっている(村に下りてこないため理髪爺にも頼れず、自分で切りそろえているものと思われる)。髭も適当で、伸びていたり、中途半端に剃っていたりする。

 今は風呂上がりで無精髭をあたったこともあって、外貌が多少さっぱりしているものの、彼の本質と言うべき陰気さは隠しようがなくそこかしこににじみ出ているし、アホなリリエンシャールを前に、眉間のしわはますます深い。何より全身から発散されるくたびれた雰囲気が、やはりどうしようもなく彼をおっさんにしているのであった。

「おっさん、髭がないほうが良いわよ。少しは見れた顔になるわ」

 にやにやしながらリリエンシャールが言っても、レブトライトは取り合わなかった。

「用件は」

「だっからー、手紙を届けに来たって言ってるじゃない」

 現在その手紙はくしゃくしゃになってレブトライトの足元に転がっているわけだが、残念なことにこの場にその事実を指摘できる人間はいない。

「読んだのか」

「読もうとしたけど、読めなかったわ!」

 そう言い放ち、リリエンシャールはエヘンと胸を張った。完全な開き直りである。もはや無断で読もうとしたことを隠す気もない。

 ボタンがあれば押したくなる、ふすまがあれば破りたくなる、処女雪が積もれば足跡をつけたくなる、十段トランプタワーがあればつつきたくなる。リリエンシャールが未開封の手紙に手を伸ばしたのも、これと同じ理屈であった。

「まあ私のことはいいわ。さっさと手紙、読んでちょうだい」

 サクッとリリエンシャールはのぞきの事実を流した。

「村長が、おっさんが読んだか確かめろって言うのよ。なんならこの場で朗読してくれたっていいんだけど」

 リリエンシャールの御託なんざ聞いちゃいない男は、無言で手紙を拾い上げ、くしゃくしゃに入ったしわを伸ばして、紙面を一瞥すると、すぐに丸めて部屋の隅にあった火鉢に放った。紙は火鉢の縁にぶつかり、入らなかった。

 目ざとくそれを見ていたリリエンシャールは、おやと考えた。

 ほんのわずかの間、レブトライト・ロゴーニュの顔に覚えのある表情が浮かんだのを見逃さなかったのだ。怒ったような、失望したような、そういう顔だ。かつてリリエンシャールをぶん殴って以後、一度もお目にかけたことのない激しい一面。

 ロシャーンヤギの乳の絞りかすのような人生(要するにしみったれた、と言いたい)を送っているようにしか見えないレブトライト・ロゴーニュが、いまさらそんな顔をするということが、リリエンシャールには面白くてしかたがないのである。はたして彼は、手紙の紙面に何を見たのか? 思い当たることは、一つしかない。

(フられたんだわ! 手紙の女に!)

 つい先だって全世界の恋人に呪いあれかしを願ったばかりである。まさに他人の不幸は蜜の味。何か意地悪なことを言ってやろう――内心でざまーみろの快哉を叫びつつ、リリエンシャールがそう考えた時である。ドンドン! と玄関扉がノックの音に激しく揺れた。

「……レブトライトさん! そこにリリエンシャールが来ていませんか? 開けてください!」

 切羽詰まったような、これはエンリケの声である。

 レブトライトがぼんやりしてるので、代わりにリリエンシャールが返事をしてやった。

「開いてるわよ」

「あ、本当だ。お、お、おじゃみゃします」

 登場の際、エンリケは拍子抜けした顔を見せつつ愛想笑いを浮かべながら焦って舌を噛む、という器用な業をやってのけたが、誰も褒めたり関心を払ったりはしてくれなかった。ちょっとだけエンリケは傷ついたが、実際、そんなのんきなことを気にしている場合ではないのである。

(そうだ、早く伝えないと……! でも、ああ、なんて行儀の悪い!)

 リリエンシャールが堂々とテーブルに腰かけているのを目にし、たちまちエンリケは恥ずかしい気持ちでいっぱいになった。なぜか家主が黙認してくれているらしいのを見て、なんとか彼は気を取り直した。

「リリー」

「リリーって呼ばないで馬鹿。そう呼んでいいのは、私の未来のだんなさんだけよ。で、なに」

「リリエンシャール……あのな」

 できる限りのマジ顔で、エンリケは言った。

「落ち着いて、聞いてくれ。今すぐ村を離れるんだ。……盗賊がこの村に来る!」

「ふーん」

 悲しいほど、リリエンシャールは落ち着き払っていた。

 兄は妹を見つめ、妹は兄の向こう側に見える壁の人面染みを見つめ、兄妹から少し離れた位置では、レブトライト・ロゴーニュが何も考えていなさそうな顔で玄関扉を見つめている。

 誰もが何一つかみ合わないまま、外では陽が沈みつつあった。

 玄関扉の隙間から差し込む光は既に赤々と燃え、小屋を囲む森は黒のシルエットをますます濃くしてゆく。裾元を森に切り取られ窮屈になった空は、底から燃えるような茜色に染まり、不吉な色を呈していた。


 ☆


「だっかっらぁー、盗賊団だよ。来るの、盗賊が! 隣村のケーズーさんが知らせてくれた。明日には奴らが来る。さっさとこっから逃げなきゃいけないんだよ!」

「盗賊? 逃げるって? どーゆーこと? 意味分かんない」

「おまえがケーズーさんを置いてさっさとどっか行っちゃうからだろ。あれからおれはな、ぐでんぐでんに酔ってたケーズーさんから事の次第を聞き出すのに、すげえ苦労したんだよ。というのもな……」

 エンリケから事の次第を聞き出すのはすげえ苦労しそうなので、彼の話を簡単にまとめると、次のようになる。


 ☆


 隣村は盗賊団の襲撃を受け、ほぼ壊滅状態に陥っていた。家々に火が放たれ、女は奪われ、子どもらはふん縛られて袋詰めにされ、逆らう男は殺され、家畜は片端から絞められ血を抜かれ荒くれの胃袋に収められた。

 村人たちは、ただ蹂躙されるがままに、黙ってそれを甘受したのか?

 答えは是、である。

 惰弱な、となじる者がいるかもしれぬ。しかし、金属の武器鎧で完全武装した三十人からなる盗賊たちを前にした時、女子ども老人合わせて百にも満たぬ小集団にすぎない村人たちに、いったい何ができようか――現実的なラインは、ただ屈辱を呑み、冷たくなった同胞の横で泥に頭をこすりつけ、嵐が過ぎるのを待つことだけである。

 ケーズーによると、それが今朝の未明、彼の村に降りかかった災厄のすべてであった。

 そして本題はここからで、つまり盗賊たちによる隣村の略奪があらかた済めば、被害はヨルダ村に飛び火するという、当然なといえばあまりにも当然な顛末である。


 ――この北にも一つ、村があったっけな?

 ――どうせしけた集落だろうがな! ガハハ! この際だ、まとめて奪っちまわあ!

 ――明日の夜半にゃ出るぜ!

 ――今日じゃなくて、いいのかい?

 ――馬ッ鹿、今日は一日ここを味わい尽くすんだろうがよお!


 ふざけたことを言いながら、息子の妻を手近な小屋に連れ込む男どもの姿を見て、既に一度リンチを食らって無様にうずくまっていたケーズーは戦慄した。そう、彼にはヨルダ村に嫁いだ娘がいたのだ(余談だが、彼はヨルダ村にて靴屋を開業している義理の息子がバードウォッチングなどという実益とは程遠い趣味を持っていることにいささか腹を立てており、そのことを思い出してこの時少々ムッとした)。

 自分の娘がこのような目に遭うことは耐えられない。

 彼はふらつく足で、馬鹿騒ぎをしている盗賊たちの目を盗み、気付け用にワインの瓶を一本くすね、ヨルダ村に危機を知らせるために村を出た。

 盗賊どもに見つかれば、命はなかっただろう。しかし彼の頭にあったのは、いまや娘と、彼女によく似た愛らしい孫娘の顔ばかりであった。

 ケーズーの道行ははかばかしくなかった。暴行を受けていたせいか、途中何度も視界が暗転したり、足が勝手に絡んで転んだりした。そのたびに彼はワインをやって正気を保つのだった。意識朦朧としながらも歩きに歩いて、ついに精根尽き果て倒れたのが、ご存じ、ヨルダ村近くの高原の小道だったのである。

 エンリケの介抱を受けたケーズーは、すぐ村に迫る危機を知らせた。

 明日の夜半に盗賊が来る――。

 エンリケから話を聞き、事態を重く見たソン・レテは集会を開き、つい先ほどにそれは解散した。村人は全員、今日から明日の午前にかけて、持てる物だけすべて持って東に避難すると決った。東の湿地のさらに先にある森だ。年に一度豊穣の祭りを行うほかはめったに入らぬ深い森だから、村の人間も詳しい者でなければ奥まで進むことはできない。とりあえずの身を寄せる先は、そこしかない。

 もぬけの殻のヨルダ村を見て、怒り狂った盗賊が隣村にする仕打ちを想像すると村人たちの背筋は冷えたが、自分たちの身には代えられなかった。彼らは隣村を見捨てる方向で決議を得たのであった。

 なおこの知らせには、エンリケや村長のソン・レテ、さらには知らせた当人のケーズーすら気づいていない致命的な見落としがあった。

 せっせとアルコールによる気付けを行いヨルダ村にたどり着いたケーズーであったが、彼は彼自身の証言通り、道中に何度か意識を失っている。手酷く暴行を受けた身で道を急いだのだ。ある程度は仕方のないことである。

 正確に記すと、ケーズーは道中に四度ほど気を失った。彼にとっては数瞬の暗転である。だが、現実には三度目に彼が意識を失い、目を覚ました時、まるまる一日が経過していた。

 誰もその事実を知ることのないまま、盗賊たちの魔の手は既にヨルダ村に忍び寄っていたのである。


 ☆


「と、いうわけだから。さっさと帰るぞ。逃げる準備をしないと」

 いまいち話が呑みこめていない様子の妹に根気よく村の危機を伝え終わり、エンリケはようやく一息ついた。それから、と言いよどんで顔を上げる。付け足さねばならないことがあったのだ。

「レブトライトさん。あなたも、一緒に逃げましょう。ここは村はずれで森の中だけど、安全とは限らない」

「断る」

「でも……」

 それまでの空気のような存在感の薄さはどこへやら、レブトライト・ロゴーニュの拒絶はいやにはっきりとしていた。追いすがろうとするエンリケに一瞥をくれて、ふいと寝室に向かう。しばらくののち、行水に使った金だらいを抱えて、固まるエンリケの横を通り、半開きになっていた玄関扉を足で蹴り、レブトライト・ロゴーニュは外へ出ていった。どうやら水を捨てに行くらしい。

 完全に無視された格好になったエンリケは、目に落胆の色を浮かべた。もとより怪しい退役軍人で、どうしても引きとめねばならない理由もない。死にたがりに構って時間を浪費している場合ではない。そういうことは、分かっているのだ。

 それでも、エンリケはやるせないため息をついていた。

 この男、よほどのお人好しである。が、そのお人好しの妹はというと、相変わらずの緊張感のなさであった。リリエンシャールは、高いテーブルに腰かけ、足をぶーらぶーらさせている。今のやり取りで心を動かされた様子は、一切ない。

 諦念のはずが、がぜん腹立たしくなってきたエンリケである。つい彼は、扉の外に小声で(聞かれるのが怖いのである)毒づいた。

「……なんだよ、あれは」

「さっき体を洗ったから、水を捨てに行ったのよ」

「へえ。昼間から、行水なんてのんきなもんだぜ……」

 愚痴ってから、自分の言った内容に気づき、エンリケは顎をかっくーんと開いた。

「えっ、それって。え? どゆこと? え? 水浴びって。え? リリエンシャールもいたの? え。え?」

 青い顔でアタフタするエンリケを見て、フンとリリエンシャールが得意げに鼻を鳴らす。

「なんか臭うから体を洗えって言ってやったのよ」

「いや、おまえね……」

 狼狽も一転、玄関扉の向こうに心底の同情を向けたエンリケは、やはり善良で小心な村人の典型例であった。そして典型的なヨルダ村人である彼は、村人の間でささやかれるあの噂をつい思い出してしまう。レブトライト・ロゴーニュが死体と同居しているとかいないとかいう、それである。

 臭うって、まさか腐敗臭が? 一つ疑えば、夜の帳に包まれつつあるこの小屋が、急におどろおどろしいものに見えてくる。呼吸をするの一つにも、動作が重たくなってくる。

(あの扉の向こうに……?)

 レブトライト・ロゴーニュが先ほど金だらいを取りに行った半開きの扉の隙間に、目をやったり外したり、落ち着きのなかったエンリケは、この場で落ち着き払っている妹に思い当たってはっとした。

 でも、待てよ。リリエンシャールは、村長の使いでよくここに来てるみたいだけど、全然平気そうな顔してるじゃないか。ってーことは、死体があるなんてデマなんじゃ? あれから五年も経ってるし……でも、待てよ。リリエンシャールだしなあ……。

 リリエンシャールは、エンリケの愛すべき妹だ。が、一般的なヨルダ村人に鑑みて、彼女の感性は極めて疑わしいレヴェルにあるというのもまた、悲しいかな事実なのである。

「リリエンシャール」

 あん? と露骨にめんどくさそうにリリエンシャールが応える。兄の優先順位が足のぶーらぶーらより低いことに打ちのめされつつも、疑問を解くべくエンリケは問いかけたのである。

「おまえ、よくこんなところに平気で来れるよな。怖くない?」

「そうよね、偉いわよね、私。こんな汚ったないボロ屋に住むおっさんのために、わざわざ足を運んであげる心優しい美少女なんて、そうそういないわよ。なんでこれで結婚相手が現れないのか不思議でしょうがないわ」

 的を外した回答を大真面目な顔で答えるリリエンシャールに、エンリケは遠回しに聞くことを諦めた。こうなってはもはや、そのものズバリを聞くしかない。幸い家主は席を外していることだし。

「いやー、そうじゃなくてさ。あ、いやおまえの寛大さは、うん、分かったよ、分かったから物投げないで」

 心優しい美少女、のくだりをスルーされたリリエンシャールの機嫌が暗雲漂うものになったことを察知し、ごますりを挟まざるをえないエンリケである。

「ここ、あれがあるだろ。その……子どもの死体がさ」

「死体?」

 しばらく首をひねっていたリリエンシャールだったが、やがて、ああ、と右手をこぶしに固め左の手のひらをポンと打つ。

「もうないわ」

 驚くエンリケに、答えるリリエンシャールは天気の話でもするような気軽さであった。

「私が埋めたもの」


 ☆


 話は再び、レブトライト・ロゴーニュが村に現れた場面までさかのぼる。

 小娘リリエンシャールに引き剥ぎ行為未遂をはたらかれた行き倒れ、ことレブトライト・ロゴーニュだったが、目を覚ました村人たちの献身的な世話の甲斐あってか、看病を受けて数日後、彼は死の床から快復した。ただ一つ異様だったのは、意識が朦朧とし、死の淵をさまよっていた間、男はずっと子どもの亡骸を離さなかったことである。

 布にくるまれ、かさかさに乾いたそれを腐臭ごと抱きすくめる患者に、当然村人たちは辟易していた。

 村人が説得しても、男は布の塊を片時も離さない。それどころか、埋葬してやれと説得するたびに、鋭すぎる視線が返ってくるほどだ。これにはソン・レテも手を焼き、男がすっかりよくなった頃を見計らって、表向きは村はずれの家を紹介し、その実厄介払いをしてのけるのが精一杯だったのだ。

 男がアブなすぎる二人暮らしをはじめた頃――その生活をかき乱したのが、またもリリエンシャールであった。強盗まがいの真似をしたとエンリケから散々に説教を食らったリリエンシャールは、しばらく「頼むから、もっと慈悲の心を持ってくれよ」というお決まりの言葉を聞き続ける羽目になった。

 あまりうるさかったので、報復措置として兄を散々に殴ったあと、ちょっと爽快な気分になっていたリリエンシャールは、少しだけ普段より素直になっていた。しょうがないなあ、とか思いながら、兄の言う「慈悲深く」を、なぜか実行しようと思い立ってしまったのだった。

 お年頃の十七になっても言動がかなり直情径行・短絡的なリリエンシャールである。餓鬼の時分は何をかいわんや。当時十二歳のリリエンシャールが考えた慈悲は非常にシンプルなものだった。

 ――埋葬されていない子どもがいる。

 ――子どもがかわいそうである。

 ――私が埋めてあげればいいんだわ!

 ロシャーン国の標準的な埋葬法は土葬であった。

 家を手に入れ、二人きりの生活に油断していたのだろう。案外隙のあった男の目を盗んで(家の近くにある切り株に腰かけて、薪と斧を脇にしてウトウトしていた)、彼の家に不法侵入を果たしたリリエンシャールは、すっかり軽くなっていた布の塊を寝室から首尾よく盗み出した。

 急いでいたリリエンシャールは、布の塊から何かの袋がポロっと落ちたことには気づかなかった。後ろも振り向かずすたこら小屋を逃げ出し、高原の崖際にあらかじめ掘っておいた穴に子どもをさっさと埋めてしまったのである。

 良いことをした――穴に土をかけ終わり、リリエンシャールは満足の吐息を落とした。労働の汗は爽やかだった。清廉な余韻が残る中、村へ帰ろうと振り返ったリリエンシャールの目の前に、人影が差した。件の男が息を荒らげ、立ちはだかっていたのである。

 瞬間、リリエンシャールは男のこぶしでブッ飛ばされていた。ふわっと浮いた小さな身体は、勢いのついたまま地面に激突、草の上をゴロンゴロンと転がっていく。ゴロンゴロンするリリエンシャールの耳に、一度だけ、何かの叫び声が聞こえた。

 けだものの咆哮が聞こえた。

 高原を覆う人間でない何かの絶叫がこだまとなり、谷間に吸い込まれた頃、リリエンシャールのほうも、ようやくゴロンゴロンの苦行を終えた。

 しかし、身体が止まっても受難は続く。

 身体のあちこちが痺れてしまったみたいになって、草むらにうつぶせになったまま立ち上がることができないのである。もがくこともままならない。

 仕方ないから、リリエンシャールは悪態を吐こうとする。口をもごもごさせたところで、歯が折れていることに気づいてびっくりする。びっくりのあとには、ショックのあまり吹っ飛んでいた痛覚が戻ってくる。前に村長から頬を張られた時とまるで違う、破壊された身体そのものが悲鳴を上げているかのような痛みだった。

 殴られたほっぺたが痛い。燃えるように熱い。頭がくらくらして、舌が苦い味にびりびりして、なぜか吐き気もして、転がった時の打ち身で手足が痛い。耐えきれずリリエンシャールは泣いてしまった。うつぶせのままの嗚咽というのはものすごく息苦しいものだが、それでも泣いた。わんわん泣いた。泣いて泣いて泣きまくった。折れた歯は途中で吐き出した。

 見る者が見れば気づいただろう。これは誰かに助けを求める泣き方である――幼子が母親に訴える時のような、原始的な本能に従った自衛手段だ。こうしていれば誰かが助けに来てくれる。ぜったいぜったい、来てくれる。涙にくれるリリエンシャールの姿からは、そういう切ない願いが透けて見えるのである。

 こんな場面で彼女を助けてくれるのは昔から決ってエンリケなのだが、この時彼は村の中央広場にて同級生のヨアンナから愛の告白を受けている真っ最中であった。当然リリエンシャールを慰めるのは不可能な話である。が、そんなこと知るわけないリリエンシャールは、救いの手を求めて泣き叫んだ。

 うわあああーん!

 と、こうである。全力で、手放しで、恥も外聞もない。とうてい十二歳にもなった女の子のする泣き方ではない。だがリリエンシャールは今わの際とばかりに泣き続けた。

 泣き声の合間に、ときどきエンリケへの罵声も混じる。これは「こんなに私が辛い思いをしているのにどうして助けに来てくれないの!」だとか「慈悲深くって言うからやったのに!」だとか「最近殴られてばっかじゃない!」だとかいった一方的な怒りの表れであったのだが、そういったものも織り交ぜつつ、リリエンシャールは泣きはらした。

 思う存分ブサイクに泣きまくったリリエンシャールは、やがて勝利をおさめることになる。

 泣きわめく少女を傍らで見ていた男が、ついに根負けしたのだ。男はリリエンシャールを抱え起こして、詫びるように頭をなでた。彼は知る由もなかったが、その手つきは実にエンリケそっくりだった。

 髪をなでる手の優しさに気分を良くしたリリエンシャールは、男の腕の中で、泣きはらした顔のまま笑った。

 普段はちょっとつり目がキツいリリエンシャールだが、笑うと目元が急に華やいで優しい顔になる。小娘の時分も圧倒的な美しさは健在で、腫れた唇と欠けた歯で笑う幼い姿は、妙に背徳的な愛らしさがあった――それを間近で見せられた男は、たまらずリリエンシャールを放り出して逃げた。リリエンシャールのお尻は再びドスンと草原に落ちる。理由も分からぬまま突然手のひらを返され、彼女は憤慨したが、その場はそれで収まったのである。

 夕刻、ぼろぼろになって村に帰還したリリエンシャールの姿に村人たちは仰天した。エンリケは心配のあまり半泣きで怪我の理由を問いただしたが、一度泣いてすっきりしてしまったリリエンシャールにとって、兄の心配は既に必要ないものだった。代価は大きかったが、リリエンシャールはこの機会に一つ大切なことを学んだ。兄はいつでも自分を助けにきてくれるわけではない。

 しつこいエンリケの追及をかわし、リリエンシャールはシラを切りとおしたが、容疑者は限られすぎるほどに限られていた。

 ――クソ餓鬼リリエンシャールが頬にすげえ痣をこさえてる。前歯も折れてるらしい。しかも、やったのはあの行き倒れのアブない男だっちゃ!

 人口に膾炙するそれが雷パンティ口調だったかは知る由もないが、噂はあっという間に村中に広まった。

 どうせリリエンシャールのほうがなんか悪さしたんだろ……とは村人誰もがうすうす感じていたが、それでも得体の知れない男の存在は村にとって脅威になった。村人は自然とレブトライト・ロゴーニュ本人とその話題を避けるようになった。

 その後、男の家から子どもの亡骸がいつのまにか消えていることに気づいたのは、村長のソン・レテだけである。


 ☆


 と、そんな事情など知らないエンリケは、目の前でテーブルに腰掛け足をぶーらぶーらさせている妹を疑惑の目で見た。

 埋めたって、どゆこと?

 聞こうとしたのだが、ちょうどその時、レブトライト・ロゴーニュが水を捨てて戻ってきたためエンリケは慌てて口を閉ざした。このタイミングで帰還とは、空気の読めない男である。

 空気は読めないかもしれなかったが、レブトライト・ロゴーニュは時機を見る目には長けていたらしい。金だらいを足で部屋の隅に寄せながら、彼は兄妹に告げた。

「死にたくないと思うだけの頭があるなら、さっさと逃げろ」

 頭は悪いが、挑発には人一倍敏感なリリエンシャールである。早くも目に険呑な光を灯した妹を見てとって、エンリケが慌てて声を上げる。

「ああーっと、そう、そう。そうだった。……リリエンシャール、説明はもうしたろ? 盗賊がこの村に来る前に、逃げる準備をしないと。明日の夜には来るんだ、こんなところでのんびりしてる場合じゃない」

「別にのんびりしてるわけじゃないわよ。用事があって来たんだから」

 決めつけられて、リリエンシャールがムッとする。

「うん、わかったわかった。村長の用事があったのな。で、それはもう済んだろ? 帰ろう、リリエンシャール」

「先に帰ってていいわよ。私、もう少しここにいるから」

 机に一歩近づこうと出した足を思わず止めて、エンリケはマジマジとリリエンシャールを見た。

「……リリエンシャール?」

「あの逃げないとか言ってるおっさんを、説得できたら帰るわ」

 そう言って、ちらっと、レブトライト・ロゴーニュに目をやる。エンリケは跳び上がった。この妹ちゃんは、いきなり、何言っちゃってんの?

「えっと、なんで?」

「慈悲よ」

 フフンと得意げに胸をそらして、リリエンシャールは弾みをつけてテーブルから飛び降りた。着地のあとに軽くステップを踏んだかと思うと、くるくると土間の土埃を立てながらその場で回転をはじめる。踊っているのである。しかも、本人は歌劇か何かでも踊っているつもりらしく、唐突に妙な節回しをつけて歌い出した。

「ラララ今にも~村に襲いかからんとする盗賊たち! タイムリミットは~明日の夜~だというのに~ラララ過去に縛られ頑なに家を離れぬ~愚かなおっさんシャイ・ボーイ!」

 ボーイ! と叫んだタイミングで、リリエンシャールはぴたりと動きを止めた。遠心力で広がっていたスカートが、白い足に再びまとわりついていく。偶然か計算か、回転をやめたリリエンシャールの目は、ちょうど部屋の隅で立ち尽くすレブトライト・ロゴーニュの正面を捉えていた。

 エンリケは泡を食った。

 よりにもよって当人の前で、とんでもないことを!

 なんだよその歌は!

 返事になってないだろ!

 と、言いたいことはいろいろあった。だが混乱しきった頭では、喉につかえた言葉を押し出すこともままならぬ。一人悶えていたエンリケは、しかしリリエンシャールの次の言葉にはっと胸を突かれた。

「そのおっさんを救い出してあげることこそ、慈悲の心なんじゃないの? あんたがいつも言ってるみたいな、さ」

 リリエンシャールはエンリケのほうを振り返り、ふっくらとしたバラ色の頬にいたずらな笑みを浮かべた。無邪気な表情だった。

 それを見た瞬間、エンリケはリリエンシャールが生まれてからの十七年、ずっと小言を言い続けてきた労苦が報われたことを知った。

 ああ、リリエンシャールもついに慈悲の心を!

 歓喜にむせぶ彼の心は、どこまでも晴れわたり、澄み切っていた。

 あたかもロシャーンの長く厳しい冬が終わる時節、重苦しい灰色の雲が切れた時のように。雲の切れ間から差し込む光は黒い森に注がれ、森の奥深くに眠る湖は、春の訪れに湖面をふるわせる。ロシャーンの緑の大地を駆け抜ける清廉な春風が、エンリケの心にも一筋吹きこんだようだった。

「余計なお世話だ、今すぐ帰れ」

 詩的表現に沈潜しかけたエンリケを現実に引き戻したのは、レブトライト・ロゴーニュの低い毒づきであった。

 現実に戻ってみると、何もこんな危険な場面で慈悲を発揮しなくても……とエンリケも思わないわけではない。というより、はっきりとやめてほしかった。それはあとでいいから、今はとにかく一緒に逃げる準備をしてほしい――そんなエンリケの心の呟きが伝わったのか、リリエンシャールが微笑む。

「大丈夫よ。朝までに説得できなかったら、ケツまくって逃げるから。なにもおっさんと心中するつもりってわけじゃないんだしさ」

 それに、と続けたところで微笑みは舌なめずりをする悪辣な猛獣の顔に化けた。ちょいちょい、とエンリケに耳打ちをするようなしぐさを見せる。促されるまま、エンリケはリリエンシャールの口元に耳を寄せた。

「ここで上手いことやっておけば、恩義を感じたおっさんが、いつか何か見返りをくれるかもしれないじゃない。おっさん字も読めるし、実は金持ちっぽいと思わない? まだ何か財産を隠してんじゃないかって、私は睨んでんだけど」

 おまえ、それは本当に慈悲の心なのか――?

 そしてそれを、本人を前にして言うのか――?

 早くも妹に抱いた幻想がガラガラと崩れ落ちるかたわら、エンリケは無表情のレブトライト・ロゴーニュに向けて虚ろな笑みを浮かべた。

 手のひらを口元に寄せて密談の形式を取っていはするが、リリエンシャールの声量はヒソヒソ声にしてはずいぶんデカい。というより、ほとんど通常の会話と同じである。どうやら彼女にとって、耳打ちとは形式を取った時点で完遂されているものとみなされているらしい。致命的な不器用さである。

 エンリケはため息をついた。レブトライト・ロゴーニュがどういうつもりでこの小屋を離れる気がないのか、彼は知らない。大した理由がないのかもしれないし、のっぴきならない重大なわけがあるのかもしれない。いずれにせよこの会話が筒抜けである以上、間違ってもリリエンシャールの説得に耳を貸すとは思えない。

 となればこの茶番はまったくの無意味なわけで、村は一刻も無駄にはできないほどの危機にあり、つまり、彼はいち早く妹を家に連れて帰らなければならないのだ。ヤギを連れて、食料を持って、持てるだけの財産と命をつなぐためのそれこれを抱えて、湿地の先にある森を――必要とあらばさらなる遠くを、目指さなくては。手遅れになってしまう。

「リリエンシャール、帰ろう」

「あんたさ、私の話、聞いてた? 先に帰っていいって言ったじゃない」

「いいから帰るぞ」

 そう言って妹の腕を取ろうとしたエンリケだったが、伸ばした手は拒絶され、乱暴に振り払われた。ほとんど無意識のまま、エンリケは哀れっぽく言った。

「リリー……」

「リリーって呼ばないでって言ったでしょ」

「明日には盗賊が来るんだ。分かってるのか? ケーズーさんの話はしたろ。恐ろしい奴らだ。少しでも早く、村から逃げないと」

「だから、先に荷造りしてちょうだいって頼んでるんじゃない。私はあとから追っかけるから……」

「リリエンシャール!」

 ついにたまらずエンリケが叫んだ。

 普段の姿からかけ離れた兄の強気な姿勢に、リリエンシャールは少なからぬ衝撃を受けた。村長がこぶしを振り上げた時と同様の反射で、背筋をしゃきんと伸ばす。その隙を、エンリケが逃すはずがなかった。一度は振り払われた手で、彼はもう一度リリエンシャールの両腕を取った。

 向かい合う兄妹の緑の瞳が、互いの姿をあやまたず捉えて震えた。

 部屋の隅では、白けた顔のレブトライト・ロゴーニュがあくびをしている。

「おれは、おまえが心配なんだ。分かるだろ」

「でも、そのさ、別に逃げないって言ってるわけじゃ……もごもご」

 あたふたと動揺するリリエンシャールを見て、エンリケは自分の攻め方が的確だったことを知った。あともうひと押しで落ちる――確信を胸に抱き、エンリケは目をふせた。ちょっと芝居がかりすぎてるかもしれないと思いながらも、妹の腕をつかむ手に力をこめる。

「頼む。たまには言うことを聞いてくれ」

 じっくり間を取ったあと、エンリケは上目遣いにリリエンシャールを見やった。

 ほれぼれするような完璧な作戦である。

 だが目を上げた先でエンリケが見たものは、申し訳なさと感動にうち震える妹の姿ではなかった。ではどうしていたかというと、リリエンシャールは眉間にしわを寄せていた。端的に言えば苛ついていたのである。一度はあらわにしたはずの動揺でさえ、もはや欠片も見当たらない。

(なんで?)

 その答えは、本人に聞いてほしい。

 懇願するような言葉が癇に障ったのかもしれないし、ひょっとしたら、慈悲を行うことに水を差されたといまさら気づいたのかもしれない。

 エンリケはおおいに戸惑ったが、幸いにも本人様はすぐ答える気になってくれたようである。問いただすまでもなく、ぷんすか怒って頬を膨らませながら、リリエンシャールが主張する。

「あーあー、ちょーやる気が失せたわ。さっきまでは帰ってもいいかなって思ってたんだけど、あんたに言われたせいで、マジ帰る気なくなったし。あーあー」

 村の子どもたちが手伝いをさぼる時に使う口実と、なんら差のない理由であった。「ちょっとあんた、宿題終ったの?」「いまやろーと思ってたんだよお。でもカーチャンにうるさく言われたせいでやる気なくしたー」とぬかすクソ餓鬼と同じである。身の危険が迫っているというのにこの体たらく。あまりの程度の低さに数瞬絶句していたエンリケだったが、我に返ってなんとか反論を試みる。

「リリエンシャール、わがままを言うなよ。頼むから、一緒に帰ろう。早く逃げるんだ」

「いつまでも私が、なんでもかんでもお願いして言うこと聞くような歳だと思ってんなら、そりゃ大間違いよ。そんなんは、餓鬼の時分に終ってんだから!」

「終ってるって、……おれにとっては、おまえはまだ子どもだよ。全然、子どもだ。おまえ、昔っからほとんど変わってないじゃないか。乱暴だし、人の話は聞かないし、素直じゃないしさ。だいたい、恋人の一人だって作ったことがない。だけど」

 ふとエンリケは目の前のリリエンシャールがわなわなと震えていることに気がついた。可愛らしい唇も、への字にひん曲がっている。

 これはうっかり口が滑って失言してしまったかもしれない。慌てて付け足した。

「あ、今のは本当冗談みたいなものだから。おまえ、最近めっきりかわいくなったよね」

「ふざけてんじゃないわよ!」

 そういえばこれ、説得というよりは、挑発に近いかもしれない――そうエンリケが悟った時には、手遅れである。怒り狂ったリリエンシャールに頭頂部を斧の柄で殴られ、哀れエンリケは血しぶきながら床に沈んだ。崩れ落ちる兄になおも蹴りをくれようとしたところで、リリエンシャールはハタと彼が既に意識を手放していることに気づいた。一旦は後ろに引いた蹴り足を下ろして、舌打ち一つと冷たい一瞥をくれるだけにとどめる。

 さすがの彼女も気を失っている身内に対しては、追い打ちを行えない。死人に鞭打つような非道なマネだと認識しているからではない。気絶している相手を小突いても反応が返らず、すっきりしないからである。手製の木偶人形をボコボコにした折に襲ってくる虚しさと同じだ。だから殴ったりはしない。

「ちょっと頭をどついたくらいでぶっ倒れるなんて。ヤワなんだから」

 非難の声が飛んだわけではなかったが、リリエンシャールは虚空に向けて言い訳をした。ホホホとわざとらしい声を上げたあとに、ぐるんと勢いよく後ろに振り返る。いまさら何をごまかそうとしているのかははなはだ疑問であるが――壁に寄り添い空気と化していた男に向けて、リリエンシャールは小首をかしげた。

「というわけでさ、一緒に逃げましょうよ」

「断ると言ったはずだ」

「おっさん、死にたいわけ?」

 リリエンシャールは軽口のつもりである。が、レブトライト・ロゴーニュは少し考えるようなしぐさのあと、希薄な声で呟いた。

「積極的に生きる理由がもうない」

 頭の回転があまり早くないリリエンシャールである。言葉を理解するのにしばしの時間を要し、ようやくレブトライト・ロゴーニュの言わんとする意味を捉えた時には、むらむらと不機嫌の雲がわいてくる。

「あっ、そう」

 生意気なことを言うおっさんだわ、とリリエンシャールは考えた。肯定するなら素直に「死にたいんです」と言えばいいのに、なんじゃかんじゃと回りくどいことこの上ない。この男がいつから死体になったつもりでいるのかは知らないが、ここは一発、どうしても言ってやらなければならないだろう。

「おっさん!」

 リリエンシャールの発した声はそれまでよりも強かった。レブトライト・ロゴーニュの顔に浮かぶのは面倒くさくてたまらないといった表情である。

「でも息吸って吐いてご飯食べてるわ。もうずっとよ」

 レブトライトが瞬いた。そういうしぐさはいちいち生者のそれであり、揚げ足取りに成功したリリエンシャールは一人ニヤニヤした。が、それもすぐに飽きが来た。というより、悔しいがエンリケの言う通り、ぐずぐずしている場合ではないのだ。

「さて、さて」

 リリエンシャールは気を取り直すためにパンパン、と手を打ちあわせた。その姿は妙におばさん臭かった。

「さっさと荷物、まとめましょ。準備も手伝うわ。戦略的撤退の際に必要なのは、武器と食料、何日かをしのげるだけの油と服……」

 スタスタと部屋を横切り、寝室の扉に手をかけて笑う。

「あとは貴重品、これで決まりね。どこに隠し持ってんの?」


 ☆


 エンリケが気絶から覚めると、辺りはすっかり暗くなっていた。小屋の外から聞こえてくるのは、ロシャーンミミズクがホーホー鳴く声である。夜になってしまったのだ。

 エンリケは相変わらずレブトライト・ロゴーニュ宅の冷たい土間に転がされたままであった。

 ぶっ倒れていた自分の去就に思いをめぐらせることよりも、まずエンリケが行ったのは、起き上がって妹の姿を探すことだった。自分の目が届かないところでリリエンシャールが問題を起こしていることを想像すると、不安で仕方がない。

 兄妹げんかの果てに気絶する、などというのはエンリケにとってはよくあることだ。けんかの現場は自宅の中に限られない。うっかり野外で流血沙汰に発展し、挙句に昏倒した回数も数え切れない。

 おかげさまで、前後の記憶があやふやなままいきなり慣れない場所で目を覚ましたとしても、体のどこかに鈍痛を覚えれば(今回は額である)、エンリケの混乱はいつでも最小限で済む。ああ、またか……とそう思うだけである。

 というエンリケの悲しい習い性はさておき、ぐるりと部屋を見渡した彼が見つけることができたのは、テーブルの中央に置かれたランプと、部屋の隅で憑かれたように黙々と何か作業をしているレブトライト・ロゴーニュの姿だけであった。

「あのー、リリエンシャールは? ひょっとして、帰った?」

 いかにも間抜けな問いであった。が、レブトライト・ロゴーニュの気を引くには十分だったらしい。没入していた作業の手が止まる。無言であっち、と顎で示された先は寝室の扉である。扉は半開きであった。あちらの室内にも光源があるのか、中途半端に開いた隙間は、少しだけ明るい。

 日中の死体の話を思い出し、エンリケは一気に気分が悪くなった。リリエンシャールが中にいる以上、見るに堪えない光景が広がっているわけではなさそうだと、信じたい。そんなことを考えながら部屋を横切った時、壁際にいた男の手元が鈍く光った。光量を絞ったランプの灯りを反射したのは、一振りの剣である。どうやら剣の手入れをしていたらしい。そういえばレブトライト・ロゴーニュはもともと軍人をしていたという話だ。軍属時代の名残でいまだに剣を所有しているのは納得できることだが、こんなに暗い時分まで手入れとは御苦労さまなことである。

 そこでふいにエンリケは自分の思い違いに気づいた。

(剣の用意をしてるってことは……まさか、逃げる準備を? リリエンシャールが説得できたのか?)

 それとも単なる日課の一部をたまたま目撃しただけなのか。

 目を悪くしそうなレブトライト・ロゴーニュにはあえて触れずに、エンリケは寝室へ踏み込んだ。説得が成功していたとしても、自分が余計なことを言って、状況をもつれさせてしまっては困る。彼は自分の不器用さを自覚しているのであった。

 寝室の中は続きの土間と同じで、シンプルな内装だった。土間のテーブルを寝台に置き換えて、床を板張りしただけである。床に所狭しとぶちまけられたゴミまでも同じである。まるで盗人に入られた直後の家のように、ひっくり返された木箱や、その中身と思しきがらくた――剣やら斧やら、封を切られた手紙の束やら、錆びた腕章やら、獣の頭骨やら――が散らばっている。あとは、小さな窓が一つ、南向きに設けられているくらいか。

 光源であるランプは、がらくたを積み上げてこしらえた台のようなもの、の上で不安定に揺れていた。なんとも危険極まりない部屋であった。

 リリエンシャールは、比較的きれいな状態を保っていた部屋の中央にいた。部屋のまん真ん中にある寝台の上で、シーツをすっかり身にまとった状態で寝こけているのである。寝息はすやすや、穏やかそのものだ。目元には長いまつげの影が落ち、金髪の巻き毛はランプの光で陰影を濃くし、暗がりに浮かぶ肌は血の色が透けそうに白い。眠る姿は、おとぎ話の中の眠り姫そのものであった……あ、よだれがシーツに垂れてる。

「どうなってんだ、こりゃ……」

「財宝探しのあとだ。ないと言っても、聞かなかった。結果はご覧の有様で、家探しに疲れたお姫さまはお休みになられた」

 背後からの声をエンリケは二重の驚きでもって迎えた。返るはずのない独り言への返答があった驚き。もう一つは、この気難しそうな男が自ら口を開くとは思わなかったからである。たとえ内容が皮肉であったとしてもだ。

 ちなみに、この部屋の惨状を作りだした犯人がリリエンシャールだったという事実に関してのエンリケの驚きは薄かった。気絶前、彼女と交わした会話を鑑みるに、うすうす予測のついた事態ではあったからである。

「あの、なんか。すみません。妹が迷惑を……」

 レブトライト・ロゴーニュは返事をしなかった。

 本人以外の謝罪に意味がないということなのだろうか? だとしても、なんだか気まずい。

 エンリケは救いを求めるように、寝台でまどろんでいるリリエンシャールに目を向けた。寝息にあわせて、肩が少し上下している。毎朝エンリケが部屋に起こしに行く時と同じ姿だ。

 背中を丸めてシーツにくるまる姿は、昔からいっかな変わらない。

 いつしかエンリケの心は夜を離れ、遠い昔にあった。

 彼ら兄妹の母親は、産褥で亡くなった。ロシャーンモンキーのように顔をくしゃくしゃにして泣く赤子を連れて、悲痛な顔のまま産屋から出てきた産婆を前に、その頃は健在だった父親とエンリケは途方に暮れたものである。

 あれから十七回、ロシャーンの厳しい冬がめぐった。リリエンシャールが生意気な口を叩けるような歳になってから何度目かの冬、父親は町にヤギを売りに行った帰りにクレバスに足を取られて亡くなった。ヤギ二十頭を卸した財産も氷雪の下に飲み込まれ、残された兄妹はたちまち生活苦に陥った。リリエンシャールが手斧を取り獣を狩る生活を覚えたのは、その時からだ。

 どんなに性格が悪くても、乱暴者でも、粗忽者でも、はじめて手ずから仕留めた獣を引きずって、誇らしげに家に帰ってきた時のリリエンシャールの笑顔を覚えているエンリケにとっては、どれも無意味なのだった。たとえ現状が馬鹿にされ足蹴にされる生活で、その逃避のために思い出を美化しているのだとしても。

 厳しい環境下で生き抜くためか、ロシャーンの北部に住む獣は一様に身体が大きく力が強かった。勘がよく度胸のあったリリエンシャールだから、蹴り殺されずに済んだのだ。エンリケではとうてい相手にならなかっただろう。今ではリリエンシャールの狩りの腕は必要以上に上達してしまった。ロシャーンバイソンですら一人で狩れてしまう妹だ。村の男が恐れるのは、きっとリリエンシャールの性格だけではないはず……と、信じたい。

 小さくてかわいかったリリエンシャール。

 そして今、明日にも盗賊に襲われるかという時に、村はずれの男の家を荒らしまわって平然としているリリエンシャール。

 唐突に、エンリケは弱気がこみあげてきた。

(おれは、育て方を間違ったんですか? 父さん、母さん)

 エンリケは亡き両親に心の中で問いかけた。慈悲深くあれと、あれだけ口を酸っぱくして言い聞かせてきた結果が、これである。

「あいつが慈悲を理解する時を、おれは、見届けることができるのかな……」

 ついついこぼれたエンリケの愚痴めいた呟きは、しかし、意外な方向から返答を得たのである。

「あんたの妹は、もう慈悲を知ってる」

「なんだって?」

 ものすごい勢いで、エンリケは振り返った。扉の前で、背後に闇を従えたレブトライト・ロゴーニュが表情のないまま目を細めていた。

「冥界の門番が居眠りしてる隙に、かわいそうな子どもに墓を作ってやったのさ」

 あんた、なに言ってんの? とはさすがにエンリケも言わず、ただ眉を寄せた。なんとなく五年前の事件を指しているのだと気づいたのだ。

 リリエンシャールは言っていた。「私が埋めたもの」と。

 押し黙ったまま、エンリケは眠るリリエンシャールの傍へ近づいた。枕元にしゃがみこんで、閉じたまぶたと目の高さを合わせるようにする。

「なあ。それって、いつだい。おまえがほっぺた腫らした、あの時?」

 優しい呼びかけであった。

「なあ」

 夢うつつに、兄の呼びかけが聞こえたのだろうか? リリエンシャールがむにゃむにゃ寝言を言いながら、身じろぎした。桃色の唇が薄く開く。薄明かりの中、にいちゃん、という形にそれが動いたのをエンリケは確かに見た。リリエンシャールは、さらに何事かを呟いている。その言葉を拾い上げるべく、エンリケが耳を近づけた、その時である。

 突然、寝ぼけたリリエンシャールがその耳をガブッと噛んだ!

「いってぇええええ!」

 完全に無防備だったところへの攻撃に、エンリケが悲鳴を上げて跳び上がった。枕元で絶叫されたリリエンシャールも、さすがにうるさかったのか「なによぉ」と目をこすりながら起きあがる。

「おま、おま、おまえおれの耳を!」

「ちょっと、うるさいわよ。静かにしてよ。ってゆーか、あんた、まだ帰ってなかったの? 準備しておいてって言ったのに」

「さっき目が覚めたばっかりなんだよ!」

 おまえに意識を刈り取られたせいでな、という言葉はかろうじて呑み込んだものの、エンリケは涙目である。対して、起きぬけのリリエンシャールは至極冷静であった。あふーん、とあくびを一つかます。きょろきょろとあたりを見渡し、窓に目を留めて呟いた。

「あら。もうすっかり暗くなってるじゃない」

 その通りで、外は既にまったきの暗闇であった。一度室内に静けさが戻ってくると、聞こえてくるのは、夜の森で鳴くロシャーンミミズクの声ばかり……の、はずだったのだが。

「今なんか聞こえなかった? 絹を裂くよな誰かの悲鳴が」

 リリエンシャールはすばやく寝台から起き上がった。男二人の間を抜けて、土間を通り、玄関扉を勢いよく開けて外に飛び出す。

 深い闇色の裾野を持つ黒い森。

 普段なら星灯りをかすかに届けるばかりの木々の梢の向こうに、今現在透かし見えているのは、赤い光であった。

 方角は集落。

 焦げ臭い臭いが、夜風に乗って漂ってくる。

 村に燃え盛る火の手が上がっているのであった。


 ☆


 鍛冶職人ペンテラーは後悔していた。

 彼の後悔とは、以下の通りである。

 すなわち、やはり明日の朝まで待つべきだったのではないか。

 避難するために必要なそれこれを積んだ手押し車の車輪が、村を出てすぐの道で、暗闇に隠れていた穴ぼこに嵌まってしまい立ち往生してしまったのである。

 ペンテラーは慎重な男であった。明日の夜に盗賊が村を襲撃すると聞かされたのが、夕刻の集会でのこと。では明日の朝に逃げればいいや、と短絡できない程度には慎重であったのである。天秤の片側に乗るのが己の命なのだ。彼は手早く鍛冶道具をまとめにかかり、ようやくすべてを手押し車に積んだのが、夜もとっぷりと暮れた頃――すなわち、つい先ほどであった。慎重な彼は、朝まで待つなどという悠長な策を取らなかった。朝出発しようとして、思わぬトラブルに見舞われ、出足が遅れたらことである。だから、今晩のうちに、ひと足早く湿原の奥、黒の森を目指すことにしたのだ。

 そして、太陽が姿を見せている間はまず確実に避けられる災いに足を取られたのであった。

 まったく、ツいてない――。

 舌打ちしながら、どうするかと考える。面倒くさいが、一度荷を下ろして、車輪を引っ張り上げ、改めて荷を積みなおすしかないだろう。やれやれ。

「手伝ってやろうか」

 ため息をつき、首を振ったところで、ペンテラーはいきなり背中に声をかけられた。すくみあがって悲鳴を上げそうになるのをなんとかこらえる。まさか自分以外に、今晩のうちに村を出ようとする者がいたのか。それにしても、聞き覚えのない声だが……。

「いや結構……大事な商売道具だから」

 やんわりと辞退の言葉を告げ、背後に向き直る。瞬間、ペンテラーの喉元にはぎらりと光る大ぶりのナイフが突きつけられていた。

「そう遠慮すんなって」

 暗闇の中から、どこに隠れていたのか、いくつもの男たちの影が現れる。ちゃらちゃらと金属のこすれ合う音がする。剣鎧に武装した三十もの盗賊に囲まれ、ペンテラーは震えあがった。

「と、と、盗ぞっ」

 村に危機を伝えるべく悲鳴を上げたその喉を、ナイフがすかっと切り裂いた。

 地面にくず折れた村人を無数の目がしばらく眺めまわしていたが、やがて、うちの一人がぼそりと言った。

「こんな時間に車押して、こいつぁ何やってんだ」

 もう一人が続く。

「俺にゃ、逃げようとしてたように見えたな」

「……話がどっかから漏れたのか?」

 ざわざわとしていた男たちの視線が、やがて頭目へと集まって行く。筋骨隆々の大男である頭目は、十分に注意を引いてから、言った。

「舐めた真似しやがって。逃げるってんなら、その前に奪うだけだ。急げ! 全員、ぶっ殺してこい!」

 わあっ。

 狂気の炎が立ちのぼる。略奪の火ぶたは切って落とされた。鬨の声を上げ、あらくれどもが村になだれ込む。

 逆上した盗賊たちは、もはや手の付けようがなかった。

 鉈やナイフを手に、村になだれ込む。所構わず火を放ち、皆が血に飢えたけだもののようにふるまった。奪い、燃やし、殺し、犯し、また奪う。富の上澄みをかすめるどころの話ではなかった。雪解けとともに現れるロシャーンイナゴも真っ青の根こそぎである。

 柵はなぎ倒された。

 扉は打ち壊された。

 家々には火が放たれた。

 村はロシャーンミツバチの巣を突いたような騒ぎであった。

 村人たちも逃げる準備はしていたのだが、それはあくまで翌朝の出発に備えたものである。突然の襲撃に役立つはずもない。

 夜半に誰かの叫び声――盗賊の襲撃に気づいて寝床から飛び起き、幸か不幸か、就寝前にまとめていた荷物に思い当たる。中には貴重な金属製の農具も詰め込んだ。震える腕で鍬やら鎌やらを構え、家に押し入る輩に抵抗する。盗賊は思わぬ反撃にますます逆上する。切害する。悲鳴が上がる。哄笑が上がる。

 騒ぎは次第に拡大していった。

 数だけは盗賊団に勝っている村人だ。ただでやられはしなかった。集団から離れた盗賊を見つけては、まだ燃えていない家の影に引きずり込み、家族を殺された者同士でよってたかって鎧の隙間に包丁や鎌の刃を突きたてる。鍬で打ち砕く。略奪の狂乱に酔っていた盗賊たちも、仲間がぽろぽろと欠けていくことにようやく気づく。建物の影という死角からの攻撃を恐れ、ところ構わず火をつけまくる。身をひそめる影すら炎熱に奪われた村人は、もはや盗賊に突きかかって行くほかない。女たちでさえ晩餐のロシャーンジャガイモを刻んだ包丁を手に、死に物狂いで外敵に斬りかかる。

 血で血を洗う狂気の連鎖は止まらない。

 略奪は殲滅戦の様相を呈していた。


 ☆


「あれ燃えてんの、村じゃない?」

 ぼんやりと橙に染まる木々の向こうを指して、リリエンシャールが背伸びをする。ランプを提げて、遅れて外に出たエンリケも妹と同じ光景を見た。黒い影を背負った森の向こう側。ゆらゆら立ちのぼる炎と煙。

「あんたの話じゃ、盗賊が来るのって、明日の夜じゃなかったっけ?」

「おれっていうか。ケーズーさんの話だけど……単なる火事かもしれないよ」

 そうは言ったが、エンリケの手のひらは緊張の汗でびっしょりと濡れていた。ふいにその手が、何かに掴まれる。びくりとしたエンリケは、繋がれた手を見つけ、白い腕をたどって、決意を宿したリリエンシャールの目とかちあった。

 この瞬間、エンリケの迷いはすっと晴れた。

「私は行くからね」

 行くべきか、行かざるべきか。それが問題だ――といった煩悶をすっとばし、リリエンシャールはそう宣言した。

「……おれも」

 エンリケもまた、つられるように答えていた。思えばこれが、この兄妹の心が通じ合ったはじめての瞬間かもしれなかった。

 それからの兄妹の行動は早かった。

 リリエンシャールは室内に駆け戻り、テーブルの上に置き放しだった自分の手斧を引っつかむ。エンリケもまた、玄関脇に転がっていたレブトライト宅の鉈を拝借した。互いに視線を交わし、意思を確かめる。村を守るのだ。

 頷き合う。あとは脇目もふらなかった。一人レブトライト・ロゴーニュを家に残し、村めがけて一目散に駆けだした。藪を突っ切り、木の根を避けて、走る、走る!

 が、いざ木々を抜けて、燃え盛る村に踏み込んだところで、リリエンシャールはソッコー後悔したのであった。来るんじゃなかった!

 なぜなら、炎と廃墟が広がるそこでは――

「糞共があっ! 死ねこらぁ!」

「くたばれぇあああ」

 といった声が敵味方双方の口から飛び交っていたのである。エンリケと二人息を切らして、リリエンシャールは村の入り口、五代前の村長像(花崗岩)の前で立ち尽くしていた。幸いまだ盗賊たちには見つかっていない。引き返すなら今のうちである。

 村はすっかり凄惨になっていた。

 目の色がすっかりヤバくなった盗賊と村人が、血みどろの殺し合いを演じている。五体満足なものなどほとんど見当たらない。誰もがどこかしら血を流し、笑ったり叫んだり泣いたりしながら、廃墟の中、敵を追い求めて武器を振り回しているのである。というかたった今、目の前で村人の男が盗賊に鉈で頭をかち割られた。と思ったら、頭頂から大出血しながらも男が鎌を盗賊の首にぶっ刺した。二人はげらげら笑って倒れ、やがて動かなくなった。

 まさに狂気の沙汰である。

 狂乱する村で静けさを保っているのは、もはや地面に倒れて動かなくなってしまった無言の体だけだった。

 動く者も死んだ者も、どれもこれも、人相の判別もまともにできないほど、形相が歪んでいた。

 そんな中リリエンシャールはふとあるものに目を引かれた。村長の家の前に誰かが倒れている。誰かというか、はっきり言えばそのシルエットは、ソン・レテその人に見えるのである。

(まさか、あの村長、死んだの?)

 驚いて、リリエンシャールが村のほうへと一歩踏み出した時である。盗賊の一人が、ふらふらと進み出た彼女に気づいてしまったのだ。

「まあーだ残っていやがったかあっ!」

 唾を飛ばし顔をゆがめて、男が飛びかかってくる。この盗賊も既に手負いの状態で、片足を引きずり引きずりの突進だ。下唇を湿して、リリエンシャールは手斧を構えた。血にまみれた大ぶりのナイフを掲げ、二歩三歩、距離を詰めてくる盗賊を睨みつける。大丈夫大丈夫、私はロシャーンバイソンだって狩れるんだから――来るなら、来なさい!

 覚悟を決めて息を吸い込んだ時、

「リリエンシャール!」

 リリエンシャールは突然どーんと横に突き飛ばされたのであった。どすんと尻もちをついてしまう。転んだはずみに手斧で身を傷つけはしなかったが、リリエンシャールはたいそうムカついた。

(こちとら刃物持ってんのよ、危ないじゃない! お尻もぶつけちゃって、腫れてでっかくなったらどうすんのよ!)

 ケツでか女のあだ名だけは断固避けたい。そんな年頃の乙女らしい心配も、時にはリリエンシャールの脳裏をよぎることもある。犯人、断固許すまじ!

 誰よまったく、プンプン!――そんなことを言うまでもなく、やったのはエンリケであった。妹を盗賊の魔の手から守るべく、彼は行動したのであった。

 そして地面に倒れた。

 炎に照らされたエンリケのうつぶせの背中は真っ赤に染まっている。背中のど真ん中に突き立ったナイフはなかなか抜けないようだ。かがみこんだ盗賊が、両手で柄をつかんでウンウン言いながら奮闘している。揺さぶられるたびにエンリケのシャツを赤が侵してゆく。

 リリエンシャールはぺったんと地面にお尻をつけて、その光景を呆然と眺めていた。

「なにそれ」と、ありとあらゆる理不尽に対して、思わずそうこぼしていた。

 なんで突然出てくるの。

 私より弱いくせに。

 一人でなんとかできたのに。

 手に持ってた鉈、なんで使わなかったの。

 完全に余計なお世話なんですけど。

 ナイフ、抜けないし。

 なにそれ。

 笑えない。

 ……笑えない。

「馬鹿ぁあ!」

 リリエンシャールの叫びに、エンリケの背中にすがりついていた盗賊が顔を上げる。なんだうるせーなぁ、と彼が思うよりも早く、立ちあがったリリエンシャールが手斧を一閃させていた。鈍った肉厚の刃があやまたず鎧の隙間を貫く。リリエンシャールの足元に、盗賊の首より上がゴロンと転がった。遅れて、膝立ちだった胴体が崩れ落ちる。ロシャーンバイソンをも屠るリリエンシャールの腕前は、伊達ではなかった。

「馬鹿馬鹿、エンリケの馬鹿あ!」

 自分が置かれた状況も忘れて、リリエンシャールは叫んだ。手斧を握り締める指は真っ白だ。

 バカバカと一言叫ぶごとに、息を吸うごとに、リリエンシャールの緑の瞳が揺らめいた。悲しみの涙だけではない。村を侵した地獄の炎熱が、リリエンシャールの内をもまた焦がしているのであった。

 当然、リリエンシャールの嘆きとも罵倒ともつかない甲高い悲鳴を聞き逃す盗賊たちではなかった。既にだいぶ数を減らしてはいたものの、村人たちもまた、リリエンシャールに気がついた。炎の嵐が吹き荒れる中、村の入口に現れ、いきなり暴漢の首を足元に転がした美少女を中心に、一瞬だけ村が静まり返る。

「う、お、わああああっ!」

 はじかれたように、一人の盗賊がリリエンシャールに向かって跳び出した。手負いの身体を引きずりながら、ナイフをリリエンシャールに突き出す! 紅に翻るナイフが少女の白磁のやわ肌に触れるか触れないか――といったところで斧がスカッと閃いた。ナイフを握った腕がぽーんと飛んだ。

「わぎゃああああ!」

「やっちまええあああ!」

 腕を失くした男の悲鳴に怒号がかぶさった。喚声を上げ、盗賊たちがリリエンシャールの元に殺到する。村人たちもまた鬨の声を上げ、リリエンシャールめがけて駆けだした。最後の力を振り絞り、狂乱の炎熱に身を投げる。

 炎が一層強く巻き上がる。踊りまわる影の群れはもはや人間の形を失くしていた。

 人の海に呑みこまれ、盗賊と村人の見分けももはやほとんど付かない状態で、リリエンシャールは無茶苦茶に手斧を振り回していた。とにもかくにも斬る。斬って斬って斬りまくる。そのあとのことは、知らない。さっき踏みつけた柔らかいものがエンリケかもしれないとかいうのも、後回しだ。今はただ斬り払う。

 血しぶきを浴びる。辛くてたまらない。掴まれた腕を振り払う。誰か助けて。頭を殴られる。視界が真っ赤に染まる。怖くてたまらない。斧をふるう。叫び声を上げて、振り回す。誰か助けて!

 砂埃でかすんだ目からは、いつのまにか滂沱の涙が流れていた。

 泣いても助けはこない。リリエンシャールだってそんなことは知っているのだ。

 それでも、誰か……。


 ☆


 あるところに、傲慢な王様と美しい王妃様がいた。

 彼ら夫婦には一つ悩みがあった。一人息子である王子が非常に虚弱体質であったのである。部屋から外に出せば風邪を引く。室内にこもれば喘息になる。養生のために与えた食事で腹を下す。書類にサインをしたら腱鞘炎になる。一度寝込めば一月は寝台から離れることはかなわない。いずれ早世の身であることが明らかなのである。

 しかし、彼は王子。

 立太子の儀を終えて、正式に世襲王制の王太子と見なされて以後はこなさねばならぬ役目も増えた。ついでに民衆の前に姿を見せることもせねばならない。

 でも虚弱。

 そこで重臣たちは考えた。本人が駄目なら、影武者を立てればいいじゃない!

 それから三日後には、どこからともなく王太子そっくりの少年がお城に連れてこられていた。傍目には信じられない無茶振りも、権力者特有の手軽さで成し遂げられたのであった。

 影武者の少年は与えられた使命によく励んだ。虚弱な王太子に代わって、お城のバルコニーから民衆に手を振ったり、隣国のお姫様と歓談したり、重要な書類にサインをしたり、胃弱の者が口にはできないような凝った料理を食べたりした。

 その頃虚弱な王太子は、花粉症をこじらせて気管支炎を罹患していた。

 影武者の王太子はまた、美しい王妃様が病死なされた時の葬儀を取り仕切ったり、隣国との交渉の席に立ったり、仲良くなったお姫様との間に待望の世継ぎを授かったりした。

 その頃虚弱な王太子はお城に偶然紛れ込んだ野犬に噛みつかれ、怪しい病気をうつされていた。王室かかりつけの医師は、その病を得ては十日と生き延びることはできぬと宣告した。

 かくして影武者の王太子は本物の王太子になり、虚弱な王太子はただの病人になった。秘密は傲慢な王様と重臣たちの胸にしまわれ、二度と陽の目を浴びることはない。

 本物の王太子はますます精力的に活動し、周囲の者もまた、それを歓迎した。

 そんな時にだ。余命数日のただの病人とその従者が、ある日忽然とお城から姿を消したとして、気に留める者はいるだろうか?


 ☆


 ――なあ、なぜおれは用済みなのに殺されないんだ?

「彼らが慈悲深いからでしょう」

 ――慈悲? 違うだろ。殺さないのが慈悲なのか。死ぬまで閉じ込めて飼い殺すのが、慈悲なのか!

「では何が慈悲なのですか」

 ――おれに聞くか。では答えよう。慈悲とは外に出たがってる囚われ人を連れ出すことさ。

「ここの医師は優秀です」

 ――なんだいきなり。

「あなたが城を出たとして、医師らのいない外で身体がいつまで持つか。それに」

 ――それに?

「まず追手がかかりましょう」

 ――追手? こんな役立たずがいなくなったところで、誰も気にしない。

「それを決めるのはあなたではない。奇跡的な快癒を見せる可能性がある限り、彼らは……」

 ――奇跡はねえよ。

「それを決めるのはあなたでないと言いました。彼らは少しの不安も見逃さない。追手のかかる厳しい道行にあなたが耐えきれるか」

 ――なあ。ここらではっきりさせておくがな、おれは生きながらえさせてくれって頼んでるんじゃないんだぜ。おれは、外へ、出たいんだ。

「さようですか」

 ――頼む。もうおれが頼れるのは、あんただけなんだ。

「さようですか」

 ――頼むと言っている。

「聞いております」

 ――おねがいだ。かわいい甥の頼みだぜ。

「口ばかり達者になられる」

 ――叔父さん、頼む。

「系図の上では十年も前からあなたとは他人です。叔父呼ばわりはご容赦を」

 ――そうか、では親しみをこめておっさんにする。庶民は近しい年長の者をそう呼ぶらしいぜ、便利だよな。なあ、おっさん。頼むよ。外へ行きたいんだ。なあ……!

「十六にもなって泣かないでくれませんか。……仕方のない方だ」

 ――おっさん。

「承知したと言っているのです」

 ――本当か!

「後戻りも待ったも効かぬ道ですが、よろしいのですか」

 ――後戻りなどしない。それにもうおれは十分待った。これ以上は駄目だ。

「では」

 ――ありがとうな。おっさん。ありがとう。


 ありがとう、と笑った少年は、その翌日に犬に噛まれた。たまたま城の奥深くまで迷い込んだ野犬の牙は、たまたま不潔で、襲われた少年は不運にも死の病に感染した。もともと病弱な少年は高熱に侵され、噛まれた腕は腐り異臭を放った。王室付きの医師より、もってあと十日の命だとの見解がなされた。

 宮廷に渦巻く策謀を思えば、不運の事故とやらが偶然ではありえない。少年の逃亡を察知した何者かが、王室の種が世にまかれぬように先手を打ったに違いなかった。下手人である野犬が、下働きたちの捜索にもかかわらず見つけられなかったというのも臭かった。聞き込みをしても、誰も獣の侵入を目撃していない。手引きをした者がいることは、確実だった。

 だがどこから少年が逃亡するという情報が漏れたのか。

 会話は閉ざされた密室で行った。逃亡の話はどこにも漏れようがないはずであった。その点が彼はどうしても気に入らなかったが、当の少年はケロリとしていた。「不幸にして幸運なる事故」のおかげで今度こそおれは完全に用済みだぞ、と熱に浮かされた顔で満足げに嘯いていたのである。病床にいるにもかかわらず――病床だからこそと言えばいいのか――本当に口ばかりよく回る少年だった。

 実際、沙汰は少年が予言した通りにはなった。

 彼は医師の見解が出されたその日のうちに、少年を連れてひっそり城を抜け出した。追手はおろか、咎める者さえ現れなかった。これが少年の死出の旅だと誰もが確信していたのだろう。種をばらまくこともできぬか弱い命だ、と。

 安堵している時間はなかった。時間は限られていたのだ。少年の熱い身体を背負って、彼は遠く、遠くへと、歩き続けた。

 十六歳になっているはずの少年は、年少の頃から成長を病に抑えつけられ、驚くほど小さくて軽かった。

 現実味がないほど幼い身体は、あっけなく死んでしまった。

 あっという間だった。城を出て七日目の晩だった。

 あまりに短すぎて、彼は一度は閉ざされた少年の目を無理やりこじ開けた。こんなもので足りるはずがない。もっと世界を見せてあげなければならない――そう思って歩き続け、歩き続け、歩き疲れて倒れた地にて、彼が少し目を離した隙に少年はあるべき場所に埋められてしまった。

 それから何年も過ぎた。

 王都の噂もほとんど届かぬ僻地の村では、記憶の風化も早かった。注ぎ足された歳月の分だけ、古い記憶は零れ落ちていく。人間一人が抱えきれる重さは極限されているのだ。新たな荷が積まれれば、古い荷から捨てられてゆくのが道理だった。お上品なお仕着せはやがて窮屈になり、身の丈に合ったボロ着をまとう。肩書も、王太子の従者から素浪人、素浪人から村はずれの退役軍人、と変遷した。傷痍兵として軍籍を除す、と知らせが来たのは何通目の手紙の時だったか。その時は自分がまだあの城に属していたのか、と驚いたことを憶えている。

 外見ついでに中身も入れ替わったのだろう。ときどき届く友人からの手紙も、昨日届いたような善意か陰謀か見分けのつかぬ復職を要請する手紙も、苛立ちを覚えることはあっても、等しく燃やして良心は疼かない。城にいた頃では信じられないことだ。

 少し笑って、かつて従者だった男は顔を上げた。

 外では夜が明けようとしていた。

 窓の外はほの白く光をはらみはじめている。光はまだるっこしいほどのささやかさで、寝台に座り込んだ男と、小娘に荒らされた寝室の様子を白々と浮かびあがらせる。

 足元に散在するがらくたの山に、犬の顎の骨が無造作にぽんと置かれていた。それを取り上げ、指でかちかちと歯をならしてみる。

 こんなもので、死んだのだ。

 犬の顎骨は、少年が城から持ち出した荷物の内の一つ、「お守り」と称していた巾着の中から出てきたものだ。少年は「お守り」を生きている間は決して手放さなかった。絶対に中を見せなかったし、彼も見るなと言われていた。さらには、少年が病に倒れた時はこれと一緒に埋めてくれ、とも言付けられていた。

 本来その正体を知られぬまま埋葬されるはずだったこれがまだ手元にあるのは、小娘が少年を勝手に埋葬してしまったからだ。小娘を腹立ち紛れにぶん殴り、帰宅したあと、彼は寝台の上に巾着が落ちているのに気づいた。そそっかしい子どもだったから、落としたことに気づかなかったのだろう。

 遺言は叶えられなかった。

 巾着は男の手元に残された。まるで男を試すように、だ。

 見るまいとするそばから目は惹きつけられ、ある日、男はついに少年の嘘を白日にさらしてしまった。巾着の中身を知る前から、触った感じでひょっとしたらと期するところはあった。その通りだった。布切れが隠していたのは獣の頭骨。赤黒く汚れた牙が並ぶ不潔な犬の顎骨だった。

 昔日の少年は、これを自らの身に押し付け、死すべき運命を手に入れたに違いなかった。引き換えは、追手だ。

 地位を捨て、友人を捨て、同僚を捨て、ともに外を目指すことを誓った従者に対しての、せめてもの慈悲だったのだろうか。

 ――慈悲、慈悲、か。

 レブトライト・ロゴーニュは口の端をゆがめた。

 頭にあるのは、夜半に飛び出していったあの兄妹のことである。慈悲を知っている、と教えてやった時の兄の顔が離れない。

 あんなことを言ってしまったのは、生意気な妹が「慈悲」を口走ったからだ。あんなに堂々と偉そうに慈悲の口上を垂れ、おっさんおっさんと連呼する人間を、レブトライト・ロゴーニュはあと一人しか知らない。


 ☆


 夜が明けた。

 災禍の一晩が過ぎたが、村はずれの小屋は結局略奪を受けることのないまま朝日を迎えた。

 小屋の扉が開いて、中から陰気な顔つきの男が顔を出す。長剣を腰に佩いた、レブトライト・ロゴーニュである。何気ない足取りで、彼は朝靄が漂う森へと足を進めた。村へ下りるつもりなのである。

 下草を踏みつけ進む藪の道は、緑の匂いが充満していた。陽が昇り、気温が上がれば、この森の中にも腐臭が流れてくるのだろうか? そんなことを考えながら、レブトライト・ロゴーニュは頭を振った。

 森を抜け、しばらく歩いたところで、急激に生臭い濃密な臭いが辺りに満ちてくる。遠目にも焼き払われた村の様子が見えてくる。

 時刻は早朝であった。

 近づくうちに、彼は違和感を覚えはじめた。村に動く人影が見当たらないのだ。村人はともかく、武装した盗賊の姿も見当たらない。しかし声だけは聞こえてくる。苦痛に耐えるうめき声だけは、風に乗って間断なく届けられていた。

 ようやく村の全貌が見える位置、すなわち村長像がある入り口までたどり着いた時、レブトライト・ロゴーニュは思わず首をかしげていた。

 なんで殲滅戦になっているんだ?

 地面に折り重なる死屍累々の山、さらにはもうじき列席させられるであろう瀕死の村人に盗賊、ぶちまけられた血だまり、一軒の例外もなく焼き払われ炭化した家屋。やまないうめき声。

 立ち動く人の姿が見られないのは殲滅戦のせい。それは了解できた。だが、なんだって互いが互いを殺しつくすまで戦う必要があったのか……。

 何かを見定めるように、レブトライト・ロゴーニュは村の中心広場まで足を進めた。途中途中で「慈悲を……」とすがる顔見知りないし他人に、そのためだけに佩いてきた長剣を振り下ろしては再び歩いた。

 やがて、レブトライト・ロゴーニュは目的のものを見つけた。

 中心広場の、特に人間が密集して倒れこんでいるところに、血でギトギトになった金髪の兄妹が並んで倒れているのを見つけたのだ。妹は比較的マシな部類の状態で転がっていたが、兄のほうは完全に駄目だった。直前に身に着けていた服を見ていなければ、だれそれとの同定もできないありさまだった。横向きに転がっていたため、背中にナイフが刺さったままなのが見てとれた。レブトライト・ロゴーニュは、冷たくなっていた身体からそっとそれを抜き取った。

 周囲には手やら足やら、単品でいろいろなものが落ちていた。ふと彼は、この惨状の中で妹のほうが斧をしっかりと握りしめたままでいることに気づいた。比較的身ぎれいなこと、最後まで武器を手放さなかったことの二つから、この凄惨な光景の大部分をこの娘が作りだした可能性に思い至る。

「う……」

 ふいに、見つめるレブトライト・ロゴーニュの前でリリエンシャールが身じろぎをした。まだ息があるらしい。固く閉じられていたまぶたが開き、朝日のまぶしさに細められて閉じ、再び開く。涙が一筋こぼれた。苦痛に歪んだ顔は蒼白だった。

「慈悲は」

 気がつけば、レブトライト・ロゴーニュはリリエンシャールの傍にかがみこみ、そう尋ねていた。

「なに……だれ……?」

 目が良く見えていないのか、リリエンシャールは弱々しくうめいた。

「誰でもいい。慈悲は要るかと言ったんだ」

「……おっさん?」

 問いかけには答えず、レブトライト・ロゴーニュは既に鞘から抜き放っていた剣を握りなおした。自分をおっさん、と呼びつけるこの娘を見ていると、かつて甥から罵られたことを思い出す。

 ――殺さないことが慈悲なのか!

 請われるまま慈悲をやり遂げようとした結果、少年はおぞましい手段で自らの命を縮める選択をした。

 レブトライト・ロゴーニュは心底倦んだ声で低く唸った。広場にたどり着くまでの道中、何人もの慈悲を聞き遂げて苦痛を終わらせた。正当性はさておき、彼がかかわる先には命を奪う慈悲しかないのだ。

 血まみれで転がる娘の顔を注視する。

 おまえの慈悲は何だ。おまえも願うのか。苦痛を終わらせる慈悲を?

 リリエンシャールは意識が混濁しているらしく、しばらく聞き取れない声でウムウムと唸っていたが、やがて、痛みに耐えるように吐き出した。

「じゃあ、慈悲を、ちょうだい」

「……ああ」

 そう言って立ちあがろうとしたところで、レブトライト・ロゴーニュは動きを止めた。いきなり伸びたリリエンシャールの手が、意外に強い力で彼の服をつかんでいたのである。

「何の真似だ」

「慈悲って、や、優しくするってことなんでしょ?」

 その声はほとんど懇願であった。目いっぱい見開かれた瞳が、彼をまっすぐに射止めた。

「じゃあ、頭をなでてちょうだい。本当は、さっきから馬鹿にずっと頼んでたの。でも、こんなに痛いのに、頼んでるのに、あの馬鹿、なでてくれないの。よしよしって、してくれれば、それだけでいいのに。なんで、なんでよ、馬鹿……エンリケの馬鹿が……うう……ど、どこにいるのよお……」

 あとはもうレブトライト・ロゴーニュには聞きとることができなかった。顔をぐしゃぐしゃにしてリリエンシャールが泣き崩れる。

 その様子に、構えた剣を引っ込める。これはさんざっぱら返り血を浴びただけで、案外大した傷も負ってないのかもしれない。それとも、単なる最後の力を振り絞っただけなのだろうか。

 生き延びるのかもしれない。

 これから死ぬのかもしれない。

 何も分からない。分からないまま、何かの衝動が胸につかえている。おかしな感じだが、確かに、あるのだ。

 兄は妹に慈悲を教えた。教授された妹は、慈悲の心で少年を埋葬した。少年が地中深くに埋められたことで、かつて少年が彼に与えた慈悲が明らかになった。

 ならば、おまえは。

(おれは……)

 連綿と続く慈悲の系譜にもう一度名を連ねるとしたら、その時は今なのか。

 泣きやまぬリリエンシャールに、剣を握っていないほうの手を、レブトライト・ロゴーニュはこわごわと伸ばした。慣れない手つきで、小さな丸い頭をゆっくりなでる。

 血でベタベタに見えた髪は、太陽の光を吸って温まったおかげか、思ったよりも乾いていた。

 柔らかかった。

 金色の髪が、指先に優しく巻きついてきた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ