9.ヴィクトリア①
もしかしたら、神様は本当にいるのかも知れないーー。
目を開けたら、そこには記憶にあるよりふっくらしたヴィクトリアがいて、私を抱きかかえて微笑んでいた。
……ああ。もしかして私、ギルバート君とヴィクトリアとの子供に生まれ変わっちゃったのかな。
何だか複雑な気もする。好きな人の子供に生まれてくるなんて。凄まじいファザコンになって、結婚できなかったらどうしてくれるんだ。
ところが、私を抱きかかえたままのヴィクトリアを背後から抱きしめながら笑顔でこちらを覗き込んできたのは、ギルバート君ではない全くの別人だった。
ええっ、何で!?
明らかに、見た感じ完全に夫婦な二人。なのに、夫がギルバート君じゃない!?
どういうことなのっ! ギルバート君はどこに行っちゃったの? あの後、二人の間に一体何があったっていうのっっ!?
動揺した私は感情が昂ぶるに任せてギャン泣きし、見たこともない男は慌てて私をあやそうとしているけど、私は彼を威嚇するように激しく泣き続けた。
どういうことなのっ、誰が説明してーー!
「まあまあ、今日のヴィーはご機嫌斜めね」
「まるで、私のことを嫌っているみたいに泣いているね」
「そんなことないわ、エド。昨日まであなたの腕に抱かれて大人しく眠っていたじゃないの」
「そうだよね。ああ、フィル。私が代わりにあやしてみよう」
……ん?
ヴィー? エド? フィル……?
男の腕に移されながら、私は泣くのを止めて考えた。
私が、ヴィー? ……確か、ヴィクトリアの父親ってエドモント、母親はフィリアじゃなかったっけ?
狼狽えながらもよく見てみれば、ヴィクトリアだと思っていた女性の瞳の色は、ヴィクトリアと同じ菫色ではなく青だった。
「あはは。やっぱりヴィーはお父様のことが好きなのだね。ほーら、泣き止んだ」
逆に、黒髪で口髭を形よく整えた、やや優男風の男の瞳は菫色。
何という事だ。私はまた、ヴィクトリアと入れ替わってしまったのか!
再びギャン泣きを始めた私を、驚いた夫婦は必死であやしていた。
いや。よくよく考えてみれば、こんな赤ん坊と魂が入れ替わるなんておかしい。前回、ヴィクトリアは魔術師に攫われて、魂を入れ替えるなんてとんでもない魔術をかけられているところをミーアが阻止して……、という異常な状況下だった。
けれど、今回ヴィクトリアはそんな事件に巻き込まれた様子もない。
ということは、これは今度こそ普通に『転生』でいいのではないだろうか。
時系列的に、過去に転生するなんてありなのか、と思うけれど、こっちの世界は元いた世界とは違う魔術なんかも存在する異世界だから、まあそういうこともあり得るのかも知れない。
けれど、ほんの少しだけ疑ってもいた。母親がヴィクトリアにそっくりで、両親と兄と自分の名が一致するからって、私があの『ヴィクトリア』に転生したのだと本当に言い切れるのだろうかと。
だが、五歳の時にナタリーという、記憶にあるのより若い顔の侍女がお屋敷にやってきた時に確信した。
これは、本当に本当だ、間違いない。私はあのヴィクトリアだ!
だとしたら、こうしてはいられない。あと八年で、私はギルバート君と再会……、いや、運命的な出会いを果たす。その時、前世で聞いた通り、彼に一目惚れして貰えるように、自分を磨き上げないと。
……とはいえ、ヴィクトリアは今のままでも充分愛らしかった。
私が赤ん坊の時にヴィクトリアと見間違った母親フィリアにそっくりだと、誰もが口を揃えて言う。だから、このまま何もしなくても充分美人になれることは分かり切っている。
いや、駄目だ!
前世から引き続いている面倒くさがりで意志の弱い自分を一喝する。
ヴィクトリアが、あの美しさを保つためにどれだけ努力していたか、忘れた訳じゃないでしょう!?
私と魂が入れ替わってしまったヴィクトリアには、明らかに前世の記憶があったのだと今なら分かる。だから、私が前世で買っては挫折しお蔵入りにしていたエクササイズDVDの動きに似た運動を取り入れていたんだ。
とはいえ、まだ五歳の自分が、自重トレーニングとはいえ、初心者が全身筋肉痛になるようなエクササイズをしていいものだろうか。
前世で見たヴィクトリアは、すらりと背が高かった。必要も無いのに無理なダイエットを子供の頃から行って、身長が伸びず仕舞いになってしまっては困る。
「取り敢えず、食べるものから気をつけよう……」
そう意識し始めてから、私は気付いてしまった。食べ物の好みが、前世の自分に酷似していることに。
野菜は嫌い。酸味の強い果物は嫌い。好きなのは肉、それも肉汁が滴るような脂身の多い肉が。それから、口の中で芳醇な香りを漂わせるチーズ。香辛料の利いた味の濃いもの。お茶はミルクたっぷりお砂糖たっぷり。
両親が嗜めてくれていたから、馬鹿みたいに食べ過ぎることもなく、生まれ持った体質と成長期のお蔭か、今のところでっぷり肥えてはいない。けれど、このままの食生活を続ければおデブへまっしぐらだし、明らかに身体にも良くない。
努力。努力よ、ヴィクトリア!
そう。私は誓ったのだ。死の間際に、今度生まれ変わったら、好きな人と幸せになれる為の努力を惜しまないと。
「あら、ヴィー。今日はちゃんと好き嫌いせずに野菜も食べているのね。えらいわ」
嬉しそうに目を細める母親に頷いて、私はフォークに突き刺したニンジンを口の中に押し込む。
……うえぇ。子供の味覚に、ニンジンの青臭さはやっぱりきついわ。
思えば、前世でも子供の頃は野菜が嫌いで、ニンジンなんてカレーかハンバーグに紛れているものくらいしか食べられなかった。
今食べているのも、茹でて何やら高尚なソースがかけられてはいるけれど、素材の味はしっかり残っている。
「私、これからは好きな物ばかりではなく、いろんな物をバランス良く食べようと決めましたの」
母親にそう答えると、目を丸くする家族の前で、気前よく厚切りにした肉を取り分けようとしている給仕係に、そんなにいらないと首を横に振る。
……ああ、本当は肉だけ腹いっぱい食べたいんだけどなぁ。
そんな気持ちを飲み込みながら、気を取り直して食事を続けていると、向かいの席に座る兄が怪訝な表情を浮かべていた。
「ヴィー。どこか具合でも悪いのか」
「いいえ」
「ならいいけど」
兄のアレクシスは、黒髪に青い瞳の可愛らしい少年だ。父親の髪色に母親の瞳の色を受け継いだ彼は、顔は父親似らしく、私とは全然似ていない。
この兄がギルバート君と騎士団で仲良くなって、この家に遊びに連れてきてくれる、はずなのだが。
三歳年上のこの兄は、現在八歳の時点で三つ年下のヴィクトリアとさほど背が変わらない。女の子の成長は早いものだし、男の子はある日突然一気に背が伸びるとはいえ……。
部屋で本を読んで静かに過ごすのが好きな穏やかな兄を見ていると、この人が自主的に騎士になるとは考えられない。
兄は長男で伯爵家の跡取りであり、そもそも余程の理由が無い限り騎士になる理由などない。
でも、この人が騎士団に入ってくれないと、ギルバート君との出会い自体なくなっちゃうんだけどな……。ま、いずれは逞しくなってくれるんだろうけど。
「何だよ」
上目遣いに見つめていたのに気付かれ、慌てて目を伏せる。
「何でもありません」
前世では、ギルバート君との馴れ初めやデート、新婚生活なんかの話は彼からけっこう詳しく教えてもらったけれど、実家の家族の事はあまり聞いていなかった。
こんな優しくて素敵な両親の反対を押し切って、ヴィクトリアはギルバート君と結婚しちゃったんだな……。
恐らく、私も同じ道を辿ることになる。そう思うと切なくなって、ギルバート君を選ぶ時が来るまでは両親にとって誇らしい娘であろうと密かに誓った。
食生活の改善、といってもカロリーをやみくもに抑えるのではなく、成長に必要な栄養をバランス良く食べることを心掛けるようになって半年。
六歳になると、私に礼儀作法の家庭教師がつけられた。
貴族令嬢らしい美しい立ち居振る舞いは、実は結構インナーマッスルを使う。それに加えてダンスのレッスンも加わった。
……あれ、そう言えば、三歳くらいからバレエとか習っていた子もいたっけ。
不意にそんな前世の記憶を思い出した。
だとすれば、六歳からでも多少身体を鍛えても成長に差し障りはないかも知れない。ふとそう思った。
何しろ、そういった習い事には全く縁がなかったもので、バレエを習っていた子が実際にどんなレッスンを受けていたかなんて知らない。
取り敢えず、背筋を伸ばし肩を落として胸を張る、という貴族令嬢としての基本的な立ち姿勢を維持するのに必要と思われるエクササイズから、少しずつ始めてみた。
バレエ、というキーワードを思い出した為、バレエ系のエクササイズDVDの動きを思い出し、筋肉痛にならない程度に少しずつやってみる。
「……お嬢様。何をなさっておいでです?」
寝る前にベッドの上で密かにやっていたのに、ある日、物音に気付いて寝室を覗きに来たナタリーにその場面を目撃されてしまった。
「ダンスをもっと上手にできるように、鍛えているの」
「まあ……」
お嬢様の向上心に感動したのか涙ぐむナタリーに、嘘ついて御免と私は心の中で謝る。
あ、そうだ。前世の私に、ヴィクトリアがどれだけ日々努力して美しさを保っていたのか教えてくれたのはナタリーだ。今はまだ早すぎるけれど、いずれ彼女にはちゃんと私がやっている努力の目的と内容を教えておかないといけない。