8.千穂⑧
「話は済んだかい? ヴィクトリア」
小さなノックの音と共に、ドアの向こうからギルバート君の声が微かに聞こえてきた。私と二人きりになっている愛しい妻の事が心配で、ずっとドアの外で様子を窺っていたのだろう。
ヴィクトリアは私を抱きしめていた腕を解くと、椅子から立ち上がってドアを開けた。
「ええ。ありがとう、ギル」
そういう妻の無事を確かめるように、ギルバート君はその細くしなやかな身体を抱きしめ、愛おしそうに背を摩る。
あんな風に、彼に愛されたら……。
今、この時になってもなお、そんな風に願ってしまう自分を浅ましいと思う。けれど、湧き上がる気持ちは止められなかった。
ふと、ヴィクトリアの身体を離したギルバート君が、入れ替わるように私の方へ近づいてくる。
「妻から聞いた。お前は、家族や友人の証言通り、本当に事件を未然に防ごうとしてくれていた。そして、当日も行われようとしていた魔術を止めようと奮闘してくれたのだと。そのお蔭で、妻は一時的に記憶喪失になったものの、命を失わずに済んだ。いや、決して褒められた方法ではなかったが、妻が記憶を取り戻せたのもお前のお蔭だ」
そして、ギルバート君は深々と頭を下げた。妻を害そうとしていた令嬢の元侍女に。
呆気に取られる私に、顔を上げたギルバート君はさらに続ける。
「それなのに、俺を含め我が子爵家の者は、随分と乱暴な真似をした。知らなかったとはいえ、本当に申し訳なく思う」
「……いえ、そんな」
侍女達の言う通り、ギルバート君もヴィクトリアも本当に人が良い。でも、そのお蔭で、私は最悪の状況から抜け出すことができそうだ。
「騎士団へは、俺からも再度減刑の嘆願を出す。修道院行きを免れることができたなら、どこか勤め先を探して紹介状を書いてやる」
そう言ってくれたギルバート君の私を見つめる目には、もう憎しみの色は見えなかった。けれど、階段から落ちるまで向けられていた、心が震えるほどの愛に満ちた光も、欠片も残っていなかった。
……もう一度、あの目が見たい。
震えるほどそう強く願ったけれど、その願いが叶うことはもう二度とないだろう。
――大丈夫。あなたはきっと幸せになれるから。
でも、例え修道院送りを免れたとしても、この世界で私がどうやって幸せになれるというのだろう。
ヴィクトリアの言葉を反芻しながら、固い掛布団を握り締めて自嘲する。
こんな平凡な顔なのに。髪の色も変に派手過ぎるし、瞳の色は地味だし。ただ若いだけで可愛くもないし、スタイルも良くないし。
まるで、こっちの世界で『上山千穂』に戻ってしまったみたいに、卑屈な気持ちになる。
これから先、どうなるのか全く分からない不安の中で、私は無理矢理目を瞑って眠りについた。これが全て夢だったらいいのに、という虚しい願いを抱きながら。
翌日、私はやってきた騎士団に連行された。
それよりも先に出勤していたギルバート君は、その中にはいなかった。きっと、彼らとは所属とか配置部署が違うのだろう。
最後にもう一度彼の姿を見たかったのに、という気持ちの一方で、彼の手から直接騎士団に引き渡されていたら、余りの悲しさに泣き喚いてしまったかも知れないという思いがあった。
これで良かったんだ。彼とはもう、生きる世界が違うのだから。
ギルバート君は貴族で、ミーアである私は平民。例えどこかで再会したとしても、決してヴィクトリアだった時の様な関係には戻れない。
ギルバート君やヴィクトリアの口添えがあったせいか、騎士達には手荒に扱われることはなかったけれど、一度護送中に逃走した私に対する視線はかなり厳しかった。
その後、簡易な牢獄のようなところに入れられたけれど、間もなく釈放された。
外に出た私を待ち構えていたのは、見ず知らずの人達ばかりだった。彼らは私の姿を見て泣いて喜んでいたけれど、一体誰が誰なのか、私、いやミーアとどういう関係の人達なのか全然分からなかった。
ああ。ここからまた、新しくやり直すのか。
ちょっとだけ、面倒くさいと思う気持ちもあった。けれど、私が魔術師の術のせいで記憶が混乱し、誰が誰だか分からなくなっていると知ると、笑いながら口々に自己紹介を始めた彼らを見ているうちに、少しずつ心が温かくなってきた。
彼らの明るさと、罪人であるミーアを受け入れてくれようとする彼らに、私は少しずつ心を動かされていった。
家族は、周囲から悪意に満ちた視線を向けられる度、ミーアはジェローム子爵夫人を助ける為に奮闘しただけなのだと、私の代わりに怒ってくれた。
友人たちは代わる代わる見舞いに来てくれて、中には王都から遠く離れた街で金持ちが女中を募集しているから応募してみないか、と提案してくれた。
そんな日が幾日か過ぎた頃、ようやく私は自分の気持ちが前向きになっていくのを感じていた。
ある日突然、ヴィクトリアのような絶世の美女で、しかも素敵な旦那様のいる貴族の御婦人になってしまったら、もうその人生の続きを生きていくしかない。
けれど、ミーアは一度罪人扱いされたせいで、この王都では生き辛い。しかも、この子はまだ若くて、磨く余地もある。だったら、これからどこか別の土地へ移って、新しく人生をやり直そう。
そう、ギルバート君もヴィクトリアもいない、彼らの噂も耳にすることない、どこか遠くで。
思い立つと、遠方の街で女中の募集をしているという羽振りのいい商人のことを思い出し、早速紹介してもらえるよう友人に連絡を取る。
本当は、ギルバート君に紹介状を書いて貰っても良かった。けれど、再び彼に会って、愛のない他人の顔をした彼を見て傷つくのは嫌だった。
数日後、商人から一度面接をしたいという返事を貰い、旅の支度を整える。
出発前日、私の旅の無事を祈って、家族や友人たちがささやかながら激励会を開いてくれた。
彼らだってミーアがこれまで築いてきた人脈であり、この素朴な幸せは本来ミーアが味わうべきものだ。けれど、あの事件で生き残ったのは二人。ヴィクトリアと、そして私。ミーアはもう、どこにもいない。
だから、彼女の分まで、私が残りの人生を歩いて行こう。
……けれどまさか、自分にそんな時間が少しも残されていないだなんて、その時の私は全く思いもしなかった。
真夜中、目が覚めると宙に浮いていた。
悲鳴を上げたのに、それは声として空気を震わせることはなかった。
恐る恐る見下ろせば、ベッドに横たわって眠っているように冷たくなっている少女がいた。
……何で?
もがいてもがいて、宙を泳ぐようにミーアの身体に近づき、必死に手を伸ばしても、もうその冷たい身体は私を受け入れてはくれなかった。
これで、終わりだなんて。
あまりに突然のことに愕然とする。
ひょっとしたら、魂は他人の身体には長く留まれないのかも知れない。
ここ数日、突然眩暈や寒気に似た体調不良に襲われていたことを思い出す。
ヴィクトリアだった時、馬車の中で具合が悪くなったことがあった。症状はその時と似ていて、安静にしていたらすぐに治まったので風邪でも引きかけているのだろうと思っていた。
けれど、今思えば、まるでこの身体に拒否されているような、身体が魂を吐き出そうとしているような、そんな感覚にも似ていた。
私の魂がヴィクトリアの身体に入ったのも、ヴィクトリアの魂がこの侍女の身体に入ったのも、魔術の最中だったから、多少は他人のものであっても魂と身体を結びつける力は働いていたのだろう。それでも、階段から二人一緒に転げ落ちたくらいで入れ替わってしまうくらいだから、結びつきはそれほど強くはなかったに違いない。
ヴィクトリアは、自分の身体に戻ったのだから、多分これから先も大丈夫だろう。けれど、私は……。
伸ばした私の半透明に透けた手は、ミーアの身体へ入っても、すぐにスルンと弾きだされてしまう。
……ああ。もう、本当に駄目なんだ。
ミーアの身体に戻ることを諦めた瞬間、ぐんぐんと魂が上へ上へと持ち上げられていく。
……あはは。何があなたはきっと幸せになれる、だ。そんな時間なんてなかったのに。適当なことを言って慰めてくれちゃって。
不意に込み上げてきたのは、ヴィクトリアへの怒りだった。
勿論、彼女には自分の身体を取り戻す権利があるし、ギルバート君の為にも彼女が戻ってきて良かったと思う。
けれど、そのせいで『ヴィクトリア』の身体から弾きだされた私の魂は、新しいこの身体に長く留まることができずに、今夜死を迎えてしまうのだ。新しい人生をやり直す時間も、新しい幸せを探す機会も与えられずに。
ああ、でも。
あのまま、『上山千穂』として枯れた独身生活しか知らずに人生を終えるよりは、心から人を愛しいと思える経験ができてよかった。例えそれが、転生したという勘違いの上に成り立った、他人の夫への叶えられない思いだったとしても。
いつの間にか天井をすり抜けた私の身体は、屋外に出て、どんどん高く昇っていく。
さようなら、みんな。
最後に、優しさで温かく包み込んでくれたミーアの家族や友人達に感謝する。
頭上いっぱいに広がる星空と、眼下に小さく遠ざかっていく、王都の下町にある小さな家。ミーアが生まれ育った、優しい家族が集う家。
もっとどんどん昇って行けば、やがて貴族街らしき広大な敷地を持つお屋敷が立ち並んだ一角か遥か足元に見えた。
あの明かりのどこか一つに、ギルバート君がいるんだ。
……ねえ、ギルバート君。
もし、またどこかで誰かに生まれ変われるとしたら、あなたのような素敵な人と廻り逢えるかな。そうしたら私、今度こそ頑張る。ヴィクトリアみたいに素敵な女性になって、幸せになるから。
見えない力に引き上げられて、やがて街の明かりも一つの仄明るい塊になって、それもどんどん小さくなっていく。
それと同時に私の意識も次第に薄らいでいって、いつの間にか夜の闇に溶けていくように、私という存在は消えてなくなっていった。