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7.千穂⑦

 強張った表情でこちらを見つめているギルバート君の視線を受けながら、心が捩れて千切れそうになるような痛みを感じた。

 私に向けられる彼の目にはもう、愛しいという感情は欠片も残っていない。それは当たり前のことなのだけれど、それでも言い知れない深い悲しみが襲ってくる。

「ここから出るんだ」

 そう彼に促されるままに、まだ痛む右足を庇いながら小屋を出る。

 けれど、そこには緋色の制服を着た騎士の姿はなかった。代わりに、強張った表情をした侍女が二人立っている。

 騎士団が身柄を引き取りに来たんじゃなかったんだ。でも、じゃあどうして……?

 疑問に思いながらも、そのまま勝手口から屋敷の中に連れていかれた。

 使用人達の休憩室まで来ると、私を二人の侍女に託して、ギルバート君は姿を消した。

「……全く。何であんたみたいな悪人の手当てなんてしなくちゃいけないのよ」

「本当。ご主人様も奥様もお優し過ぎるわ。さっさと騎士団に引き渡しちゃえばいいのに」

 彼女達の性格が悪くないことは、この数日で把握していた。それだけに、傷の手当てをしてくれながらも耳を塞ぎたくなるような言葉をぶつけてくる彼女達の心情を思うと、胸が張り裂けそうだった。

 彼女達にとって、私は大切な主を傷付けた極悪人なのだ。

 ぎゅっと下唇を噛んで、それは違うと叫びたくなる衝動を堪える。

 何があっても、本当の事は言わない。自分の為じゃない。これは、ギルバート君の為なのだから。


 傷の手当てを受けると、私は簡単な食事を与えられ、使用人用の個室の一室に連れて行かれた。そこで、白くごわついた生地の簡素な服を手渡される。

「そんな汚れた服でベッドに入られたら、シーツが汚れてしまうわ。それに着替えてちょうだい」

 どうやら、私はあの寒くて仕方がない小屋から、この部屋に移されたらしい。

 すぐにでも騎士団に引き渡されるかと思っていたのにそうはならず、急に待遇が改善されたのは何故だろう。とはいっても、私は相変わらずの犯人扱いで、決して真実が明らかにされた訳ではないようだったけれど。

 痛む身体を庇いながら、泥と血で汚れた服から白い服に着替え、ゆっくりとベッドに入る。背中の傷口に軟膏を塗って貰い、包帯を巻いてもらったおかげか、仰向けに寝てもそれほど痛みはなかった。

 そうしてどのくらい経っただろう。何だか寝付けずに天井を見つめていると、ふとドアの外で人の話し声が聞こえた。

 誰だろう。やっぱり、騎士団が来たのかな。

 そう思いながら私が身を起こすのと、部屋のドアが開いたのがほぼ同時だった。

「起こしてしまったかしら」

 ドアノブを握ったままにこやかな笑顔を浮かべているのは、薄暗い使用人の部屋には全く似つかわしくない、美しいヴィクトリアの姿だった。



 自分がその身体に入っていた時よりも、ヴィクトリアは数段美しく見える。それは、彼女が本来持つ気高さだったり、姿勢だったり、表情だったり。そういった器以外の要素での私と彼女との差なのだろう。

「本当に大丈夫かい、ヴィー」

 彼女の背後から、ギルバート君の声が聞こえてくる。

「ええ、大丈夫よ。何かあったら大声を出すから、心配しないで」

 後ろを振り返ってそう答えたヴィクトリアは、自分だけ室内に入るとドアを閉めた。

 ゆっくりと近づいてきた彼女は、壁際に置かれた小さな椅子をベッドの脇に持ってきて、それに腰掛ける。

 改めて、他人の目で彼女を見ると、その美しさに目が眩みそうになった。

 金糸のように輝く長い髪、その髪に包まれた顔は小さく、なのに目は大きくて長い睫毛に縁どられている。形のいい鼻は高過ぎず低過ぎず、ぷっくりとした唇は美味しそうな果実のようだ。抜けるように白いきめ細かい肌と、健康的に上気した頬。長い首に細い肩、すらりと伸びた四肢に、細く縊れたウエストの上で存在を主張している豊満な胸。

 思わず見とれていると、彼女は不意にその美しい手で私の手を握った。

「あなたは、私を救ってくれたのよ、ミーア。自分の主人がやろうとしている恐ろしい事を知って、止めようとしてくれた。本当にありがとう」

「え……」

「ああ、あなたは記憶喪失になっているそうね。だから、私と入れ替わっても、何の疑問も抱かずに『ヴィクトリア』として暮らしていたのね」

 ヴィクトリアはほんの少し恨みがましそうに私を睨んだ。

 ああ。彼女は、私の事をこの身体の本来の持ち主だと思っているのか。

 それから彼女は、この侍女のミーアと入れ替わってしまってから、今日元の身体に戻るまで何があったのか、こっちが驚くほど詳細に語った。

 意識が戻ってから、彼女も記憶喪失状態にあり、取り調べ中も錯乱状態で泣いてばかりで、自分が本当のヴィクトリアだなんて主張することもできなかったこと。

 ただ、ミーアが主の異変に気付き、何とか思いとどまるよう説得を続け、遂に暇を出されてお屋敷を追い出されながら、それでも令嬢の後を付けて何とか凶行を思いとどまらせようとしていたことを、彼女の身内や友人が証言してくれたこと。

 それを聞いたギルバート君が、減刑を願い出てくれたこと。

 それから、鞭打ちの刑を受けた後、修道院に護送される間に隙を突いて脱走し、使用人達の使う勝手口からお屋敷に侵入して、二階の階段横の柱の陰に身を潜めるまでの詳しい経緯を彼女は語ってくれた。まるで、ミーアになった私と口裏を合わせようとしているかのように。

 それが終わると、ヴィクトリアは不意に悲し気に目を伏せた。

「あなたの元主は、夫が私と結婚した後も、彼を慕う心を抑えきれなかった。彼の心が変わらないのなら、怪しげな魔術師を使ってでも私と入れ替わり、私が持っている幸せをそっくりそのまま奪ってしまおうとした」

「……っ」

 それは、例え不可抗力だったとしても、私がここ数日、実際にやってしまったことに他ならなかった。暗に責められているような気がして、胸が痛かった。

「でも、あの時、あなたが飛び込んできてくれたお蔭で、魔術師の術は失敗した。入れ替わってしまったのは私とあなたで、あとの二人は命を失ってしまった。あなたも辛かったでしょう。解雇されても慕い続けていた彼女が、亡くなってしまったなんて」

 そんなことを言われても、私はミーアではないし、元主のご令嬢なんて会ったこともないし、名前を聞いたのも今日が初めてだ。

 でも、私がミーアだと思っているヴィクトリアが、そう言って慰めてくれようとしているのはごく当たり前のことだ。彼女の悲し気な表情に、小さく頷いて目を伏せる。

 すると、不意にヴィクトリアはぎゅっと強く私の手を握った。

「ねえ、お願いがあるの。あなたが私と入れ替わってしまっていたこと、誰にも言わずにいてくれる?」

 その言葉に、思わず目を見開く。

「それとも、もう誰かに言ってしまったかしら」

 そう言われて、慌てて首を横に振る。すると、安堵したようにヴィクトリアは息を吐いた。

「例えどんな事情があろうと、別人を妻だと思い込んでいたと知ったら、ギルは傷付くわ。それに、優秀な彼を妬んで、どんなことでも攻撃の材料にしてやろうとする人達もいるの。私は、ギルを守りたい」

 真っ直ぐな彼女の強い視線に狼狽えそうになりながらも、私は寸での所で踏みとどまり、同じくらい真っ直ぐに彼女を見つめ返した。

「それは、私も同じ気持ちです」

 すると、ほんの少し目を見開いたヴィクトリアは、ふんわりと笑った。

「ごめんなさい、あなたを巻き込んでしまって」

「……いえ」

「あなたの罪が軽くなるよう、私からも騎士団にお願いするわ。今回の事も、事件に関わった自分が目の前に現れてショックを受ければ、私の記憶が元に戻るのではと思ったからだったと。ただ、驚いた私が階段から落ちそうになり、慌てて助けようとしたけれど、一緒に落ちてしまったのだと、そういうことにしましょう」

 彼女の提案に、ただただ唖然とする。

 何故、ヴィクトリアはこのミーアという少女をそこまでして助けようとしてくれるのか。この子は、自分の幸せを乗っ取ろうとした令嬢に仕えていた侍女のはずだ。いくら、主の過ちを正そうとし、魔術の完成を阻止してくれたとはいっても、完全に信用できるはずなどないのに。

 見た目だけじゃない、心も美しいのだろう、ヴィクトリアは。だから、こんな風に他人を受け入れ、包み込んでしまうのだ。それは、決していいことじゃない。悪意を隠して近づく人間だっているのだから。

 けれど、千穂だった時の私はこんな風には人を信じられなかった。何かして貰っても、裏に何かあるんじゃないかと常に疑い、好意を感じてもまず疑ってかかった。見た目も可愛くなかったが、可愛げのある女じゃなかった。それで助かったこともあったけれど、今考えれば失ってきたものも多かったのだろう。

 もし、私がヴィクトリアなら、ミーアにこんな優しい言葉を掛けてあげられなかったし、こんな風に庇おうと思えたかどうか。

 胸が締め付けられるように痛んで、ぼろぼろと涙が出てきた。

 完敗だ。見た目だけじゃない。この人には何もかも敵わない。

 その時、ふんわりと甘い香りがして、私はヴィクトリアに抱き締められていた。

「……大丈夫。あなたはきっと、幸せになれるから」


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