6.千穂⑥
「ヴィー、ヴィー、頼む、目を開けてくれっ!」
縋るようなギルバート君の声に、ゆっくりと目を開ける。彼が、あの甘く整った顔を苦し気に歪めながら、私を抱きしめてくれていると疑うことも無く。
けれど、視界に彼の姿はなく、私は玄関ホールの床に這いつくばっていた。
体中が痛い。特に背中が異常なまでに焼けるように痛かった。
けれど、それよりも、一体何が起きたのか、何故ギルバート君が私の名を呼んでいるのに、私は放置されたままでいるのか。その異常さを察知して身体が震える。
「……え」
顔を少しだけ上げて見回すと、私から少し離れたところで床に座り込んでいるギルバート君の姿があった。その腕の中に、纏めていた金糸のような髪を乱して力なく横たわる美女を抱えている。
「な、……んで?」
呆然とする私の目の前で、美女の目蓋が震え、目がゆっくりと開いていく。
「……ギル」
「ああ、ヴィー。気が付いたんだね」
何で? 何でヴィクトリアがそこにいるの? ……私はここにいるのに。
ヴィクトリアの繊細な白い手が、ギルバート君の胸元を縋るように掴む。
「ギル……、私、ようやく戻ってきたわ」
「ヴィー? まさか、記憶が……?」
頷くヴィクトリアを力強く抱きしめ、確かめるように彼女の全身を撫でながら嗚咽を漏らすギルバート君。そして、甘えている子供のようなギルバート君を、まるで女神様みたいに慈愛に満ちた笑顔で受け入れているヴィクトリア。
そんな彼らを呆然と見つめながら、私は何度も首を横に振る。
……何で? 記憶が戻ったって、そんな訳ない。だって、その人は私じゃない。私じゃないのに!
嘘だ。これは夢だ。階段から落ちて気を失ったまま、嫌な夢を見ているだけなんだ。
そう思おうとしたけれど、体中の痛みは夢だとは思えない。
ふと、私はある可能性に思い当って愕然となった。
……もしかして、私は『ヴィクトリア』じゃなかった?
オレンジ色の髪が視界に入り、ぎょっとする。私に襲い掛かり、一緒に階段から落ちた襲撃者のものだったその髪は、私の頭の動きに合わせて揺れている。
階段の上で襲ってきた時、確か、彼女はこう言った。――私の身体を返して、と。
まさか、彼女が本物のヴィクトリアだった……?
階段から二人して落ちて、私達は入れ替わったの?
「こいつ……!」
不意に遠慮なく床に押さえつけられた。その容赦のない力に、全身のあらゆる箇所が焼けるような痛みを発する。
「い、痛いっ、放して……」
「黙れ! どこのどいつか知らんが、貴族の屋敷に忍び込んで奥様を襲うとは。死罪は免れんぞ」
これまで聞いた事もない、地を這うようなパトリックの声に、衝撃のあまり意識が遠のきそうになった。
これまで、物静かで無表情で、けれど勉強やダンスレッスンを頑張っていると口元を綻ばせて褒めてくれた、優しくて紳士的な執事のパトリック。まさか彼からこんな乱暴な扱いを受け、こんな台詞を吐かれようとは思ってもみなかった。
「ち、……ちがう」
「違うだと? お前が奥様を階段から突き落とすところを、何人もが目撃しているのだぞ」
腕を捻りあげられ、尋常ではない痛みが襲ってくる。痛い、やめて、と何度も叫んだけれど、パトリックは力を緩めるどころか、更に力を加えてくる。
助けを求めるように周囲に縋るような視線を送ってみても、駆け付けてきた使用人達は皆、ゾッとするほど冷酷な目で私を見下ろしていた。
さっきまで、あんなに私の事を奥様と呼んで慕ってくれていた人達に、こんな憎しみの込められた目で見られるなんて。
体よりも先に、心が壊れてしまいそうだった。
捻りあげられている腕に尋常ではない痛みが走り、悲鳴を上げる。その声に反応したのか、ヴィクトリアを抱きしめたまま、ギルバート君がこちらに向き直った。
助けて、助けて、ギルバート君……!!
けれど、彼の顔はこれまで見たこともないほど冷ややかで、視線は刃の様に冷たく鋭かった。
「パトリック。そいつを騎士団に引き渡せ」
「ギル……!」
思わず私の口から飛び出た愛称に、ギルバート君はこれまで見たこともない怒りの表情で私を睨みつけた。
「お前は確か、あの令嬢の侍女だったな。主人の仇討ちのつもりだったか?」
……あの令嬢の侍女?
「主の愚行を止めようとしていたという証言もあり、錯乱状態で当時の記憶も曖昧だった為、鞭打ちの刑と修道院送り程度で済むよう減刑の嘆願をしてやったのだが、まさかその温情が仇になるとは」
心を引き裂くように鋭い刃のような彼の視線。凍てつくように冷たい彼の声。
謂れのないことで責められている悲しさと、真実を伝えようとしても何か言おうと口を開くと襲ってくる腕の痛みと、例え言っても信じて貰えないだろう事情と。全てが混じり合い、ただ一番嫌われたくない人の怒りを買っている状況に、ただ涙を流すことしかできない。
もし、ヴィクトリアとして彼の甘い笑顔を見慣れたりしていなければ。情熱的な愛を囁く声を聞き慣れていなければ。愛される喜びを知らなければ。彼に恋したりしていなければ。
きっと、こんな風に冷たく睨まれても、どんなに厳しい声で断罪されても、ここまで心を引き裂かれるような思いをすることはなかっただろう。
もし、私はさっきまでヴィクトリアだったのだと伝えることができれば、ギルバート君はまた私に笑いかけてくれるだろうか。優しい声で、私を気遣ってくれるだろうか……。
有り得ない望みだと分かっていても、溢れる涙は止まらなかった。
「連れて行け」
非情な言葉と共に、物凄い力で無理矢理引き起こされ、床に着いた右足首が強烈な痛みを発する。足を捻ってしまったらしい。痛みを訴えても無視され、腕を引かれた拍子に右足に体重がかかり、悲鳴を上げながら崩れ落ちる。
「さっさと動け!」
苛立った声と共に、パトリックの足が振り上げられ、振り下ろされた。
お屋敷の敷地内に、小さな小屋がある。庭の手入れに使う道具を入れておく物置小屋だ。
中にあった道具を運び出し、蓆を一枚引いただけのその薄暗い空間で、私は呆然と座り込んでいた。
絶世の美女だった身体は、お世辞にも綺麗とか可愛いなどとは思えない、オレンジ色の髪に灰色の目をした背の低い少女へと変わっていた。
この少女が、ヴィクトリアを階段から突き落とした場面は、ナタリーやギルバート君をはじめこのお屋敷の多くの使用人が目撃している。だから、犯人であるこの少女が手荒に扱われるのは仕方がない。
けれど、本当は私が被害者で、今ヴィクトリアの中にいる人が犯人なのだ。けれど、言ってもきっと誰も信じてくれない。
私はこの小屋に監禁され、戸口には下男が見張りに立っている。
途切れ途切れに聞こえてきた会話から推察するに、この少女は鞭打ちの刑の後、修道院に護送される際に隙を見て逃走したらしい。今は、騎士団が身柄を引き取りにくるまで、この小屋に閉じ込められている。
本来ならもっと重い罪になるところを、ギルバート君の温情で減刑になったらしいのに、彼の家に忍び込んで彼の一番大切な人に危害を加えようとするなんて。私が彼なら絶対に許さない。彼の怒りに満ちた表情を思い出して、また涙が溢れてくる。
騎士団も、護送中に逃走されたとなれば、相当怒っているだろう。
自分がしたことじゃない。けれど、他人の目からみればそうじゃない。
あまりの理不尽さに身悶えすると、背中が焼けるように痛む。この痛みは、鞭打ちによるものだろう。
魂が入れ替わるなんて、ドラマや漫画くらいでしか見たことがない。けれど、現実に、私は今、主犯だった令嬢の侍女になっている。
……私は、ヴィクトリアに転生したんじゃなかったんだ。
ただ、何らかの理由で『上山千穂』の身体を離れた私の魂が、ヴィクトリアの身体に入り込んでいただけだった。恐らくは、本当のヴィクトリアの魂がこの侍女の身体に入り込んでしまったのと同時に。
そりゃ、過去を覚えていないはずだ。どんなに努力しても、記憶が戻るはずもないよ。
自嘲しながら、滲んできた涙を拭う。
結局、美女に転生したと思い込んでいた私は、たまたまその美女の身体を拝借していただけだった。何も知らずに、彼女が努力の果てに掴んだ幸せを自分のものだと思い込んで、何もかも盗むところだったのだ。
自分のせいじゃない、と思おうとしても、滲むように湧き上がる罪悪感。
妻として扱われるうちに、呆気なくギルバート君に恋をして、数日しか経っていないのに彼を求めようとしていた。
……何て情けなくて浅ましい。
乾いた笑いが喉から漏れて、私は泣きながら声も無く笑い続けた。
……ああ、やっぱり、神様なんていなかったんだ。大逆転の人生なんてない。努力もしないで、棚ぼたみたいに幸せが手に入るなんてことなんてないんだ。
そんなこと、これまでの人生で痛いほど分かっていたのに、突然転がり込んできた幸せに目が眩んで、自分に都合よく解釈した。そんな自分の弱さと愚かさが、情けなくて仕方がない。
もし、ギルバート君が本当のことを知ったらどう思うだろう。赤の他人のことを妻だと思い込んで、彼女との思い出を語って、愛の言葉を囁いて。きっと、真っ直ぐな彼は、私を本当のヴィクトリアだと思い込んでいた自分を責めるだろう。
……駄目だ。彼に本当の事を言う訳にはいかない。
今になって思えば、他人のような距離感を保っていて良かった、と思う。例え、ヴィクトリアが彼に真実を話さなくとも、『記憶を失っていた』間のことを彼から聞き出すだろう。その時、もし当たり前に身体を重ねていたなんて聞いたら、彼女の中に一生消えない不信感が残ってしまう。
正直、私はヴィクトリアのことが羨ましいし、妬ましい。けれど、あんなに幸せな夫婦の関係が、私のせいで拗れてしまうのは嫌だった。そんなことになるくらいなら、これからどんな目に遭ったってこの秘密を隠し通す。
そうして、あの二人がこれから先も幸せに暮らしていけるのは、私という犠牲があったからだと思っていたい。随分自分勝手な考えだけれど、私はそうしたいと思った。
日が傾き、周囲が薄暗くなっても、騎士団は現れなかった。
ひとしきり泣いて落ち着いてくると、今度襲ってくるのはこれから先の不安だった。
ヴィクトリアは元の身体に戻って、元通りの生活に戻る。けれど、私は元の『上山千穂』に戻った訳じゃない。そもそも、今いる世界から、日本にあるはずの『上山千穂』の身体にどうやって戻ればいいのかも分からないし、すでに『上山千穂』の身体は死んで失われているのかも知れない。
だから、これから先、何の取り得もなさそうなこの平凡な女性の身体で生きて行かなければならない。
しかも、田舎の修道院に護送される途中に脱走したことになっているこの侍女は、再び騎士団に引き渡され、本来の決定通り修道院送りになる。……ううん、逃走と、ジェローム子爵夫人を襲った罪が加わって、もっと重い罪に処せられるかも知れない。
ゴツゴツした地面に敷かれた筵の上に横たわり、身を縮めて小屋の隙間から吹き込む夜風の冷たさに耐える。仰向けに寝ると背中の傷が痛むので、左を下にして、小屋のドアの方向に顔を向ける形で横たわっていた。
そのまま、すこしまどろんだだろうか。ふと、小屋の前で人の声がした。
……騎士団が来た?
一気に恐怖が襲ってくる。飛び起きて身構える私の目の前で、軋む音を立てて小屋のドアが開いた。
ドアの外に立つ人物を見て、驚きのあまり目を見開く。
「ギル……バート様」
そこには、手燭を翳したギルバート君が立っていた。