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5.千穂⑤

 それからの日々は、ほぼ同じことの繰り返しだった。

 早朝に起きて運動、朝食後にギルバート君を見送ってから、パトリックとお勉強。昼食をはさんで午後からダンスレッスンにエクササイズ。合間をみて屋敷の中を歩き回り、女主人としての仕事を再開できるように現状を把握する。

 夕方、ギルバート君が戻ってくれば夕食を共にし、その後二人で長い話をする。失ってしまった過去を取り戻すかのように。

 ギルバート君の『ヴィクトリア』との思い出話と、時々混じる愛の言葉に、胸がじんわりと熱くなって言い知れない幸せに包まれる。

 時々、何かを堪えているような彼の熱の籠った視線にどぎまぎしながらも、もしこのまま求められたなら拒否できないかも知れないと思うこともあった。

 けれど、ギルバート君は宣言した通り、私の記憶が戻るか心の準備が整うまで待ってくれるつもりらしい。キスどころか、あれから手や髪に触れることさえなかった。

 そして、私は知らず知らずのうちに、それを不満に思うようになっていた。記憶はなくとも、夫婦なのだからと自分から積極的な態度に出てもいいんじゃないか、という衝動的な思いを堪えたのも一度や二度じゃない。

 でも、まさか、そうしておいてよかった、と思う日が来るとは思ってもみなかった。



 五日ほど経って、ギルバート君のお休みの日がやってきた。

「今日は一緒に出掛けよう」

 そう言われて、思わず身構える。

 もし、外で偶然『ヴィクトリア』の知人に会っても、私にはその人が誰か分からない。変な対応をしてしまって、そのせいでもしギルバート君に迷惑が及ぶことになってしまったら。

 ここ数日のパトリックとのお勉強で、貴族社会では人間関係や礼儀作法がとても重要だと分かった。妻である私の失態は、そのままギルバート君の社会的評価へ繋がってしまうらしい。

「外へ? ……でも」

 尻込みする私の背を、ギルバート君がそっと押してくれた。

「大丈夫。俺がついているから。それに、馬車に乗ったままだから、誰かと出くわす心配もないよ」

 まあ、それなら大丈夫か。

 小さく頷くと、早速ナタリーが外出の支度をしてくれる。

 こんな風に身の回りのことをやってもらうことにも、ここ数日で随分と慣れた。最初は気恥ずかしくて申し訳ない感じもしたけれど、主として彼女達に奉仕してもらうことも貴族として大切なことらしい。

 こうして、私はギルバート君に手を引かれ、玄関前に用意されていた馬車に乗り込んだ。


 ギルバート君の言った通り、私達は馬車に乗ったまま王都を巡った。

 馬車の窓から色々な景色を眺めつつ、あの場所であんなことがあった、こんなことがあった、とギルバート君は懐かしそうに語る。

 勿論、全く私の記憶にない。記憶喪失なのだから仕方がない。

 ギルバート君の熱心さを見ていれば、早く私の記憶が戻ることを強く願っているのは明らかだった。けれど、残念なことに私はこれまで『ヴィクトリア』としての記憶を何一つ思い出すことはできなかった。

 時々、思い出したような錯覚に陥ることはある。けれど、それはギルバート君から聞かされた話が記憶に残っているからに過ぎなくて、決して『ヴィクトリア』の記憶が戻った訳ではなかった。

「ああ、懐かしいね。この通りを馬車で帰る途中、君は……」

 一人、語りながら思い出し笑いを浮かべるギルバート君。彼の語るエピソードに同調できない自分が悲しい。

「ねえ、ギル」

 ここ数日、私は彼に求められるがままに、彼を愛称で呼んでいた。『ヴィクトリア』が彼をそう呼んでいたというので。

「私が記憶喪失になったのは、どんな目に遭ったせいなの?」

 これまで、誰に訊いても、曖昧に言葉を濁すだけで詳しいことは教えてくれなかった。

 けれど、それを知ることが、記憶を取り戻す最も早い手段なんじゃないだろうか。その恐怖を克服しなければ、『ヴィクトリア』は戻って来ない気がした。

「それは……」

 ギルバート君は言葉を濁し、僅かに眉間に皺を寄せる。その表情は、私のことを心配している時に見せる顔だった。

「私は平気よ。それに、記憶喪失になるきっかけを知ることで、何か思い出すかも知れないから」

 明るい口調で促すと、ギルバート君は躊躇うように沈黙した後、ようやく重い口を開いた。



 異性に執着されていたのは、『ヴィクトリア』だけじゃなかった。三男とはいえ侯爵家子息であり、美丈夫で騎士団でも出世頭のギルバート君に、積極的に思いを伝えてくる令嬢は幾人もいた。

 特に、養子を迎える必要がある令嬢達とその家族にとって、彼は喉から手が出るほど欲しい人材だったらしい。アルフィリア侯爵家に直接話を持ち込んで、半ば強引に話を進めようとした家もあった。

 そのうちの一人だったとある令嬢は、『ヴィクトリア』とギルバート君が結婚してからも、彼の事を諦め切れなかったらしい。遂に心を病んで、金に物を言わせて怪しげな魔術師を雇い、慈善事業の為に王都の外れにある孤児院に向かった『ヴィクトリア』を浚った。

 怪我を負いながらも近くの商店に駆け込んで助けを求めた侍従によって、事件はすぐに発覚し、翌日の早朝には仲間の騎士達と共に駆け付けたギルバート君によって、『ヴィクトリア』、つまり私は助け出された。

「あの小屋……」

 小さく呟くと、ギルバート君は頷いた。

「孤児院から街道を更に外れた林の中にある廃屋だよ。そこで、何があったのかは分からない。だが……」

 言いよどみ、沈黙するギルバート君の手を、包み込むように握った。

「言って、ギル」

「魔術師は、すでに事切れていた。首謀者の令嬢もだ」

「……っ」

 踏み込んだ騎士達によって倒されたのではなく、彼らが来た時には犯人達は死んでいた……?

「生きていたのは、きみと、令嬢の侍女だけだった。その侍女も錯乱していて、そこで何があったのか真相は分からない」

 あの時、床に倒れたまま動かない女性がいた。ギルバート君に遮られてすぐに視界から消えたけれど、あの人が私を浚った首謀者で、……そしてやっぱり死んでいたんだ。

 大丈夫だ、と見栄を張ったくせに、あの時の光景を思い出した瞬間、急に吐き気が込み上げてきて口元を押える。身体から力が抜け、平衡感覚がなくなり、何故かとても寒く感じた。

「大丈夫か? ヴィー」

 震える私を包み込むように抱きかかえ、優しく背を撫でてくれるギルバート君の温かさを感じていると、次第に体温が戻ってきて心が落ち着いてくる。

 彼は、ほら言わんこっちゃない、などと突っ込みを入れてくることも、話を聞いても何も思い出せなかった私を責めることもなく、ただ私の体調を気遣いながら背を撫でてくれている。具合の悪さよりも、その彼の優しさに、ざわめいていた心が凪いでいく。

 例え、これから先、何も思い出せなくても、私はきっとこの人の事を愛せる。

 幸せな思い出など、これから幾らでも作っていけばいいじゃない。ギルバート君が望むのなら、私は彼の妻として何でもする。

 ……ううん、求めて欲しい、彼に。はっきりとそう自覚する。

 もう十年以上も感じることのなかった、狂おしいほどに愛しいと思う気持ち。自分では止められないほど暴走しそうになる、厄介で、でもとろけるほど甘美なこの思い。

 私はいつの間にか、ギルバート君のことを好きになっていた。



 気分が悪くなった私を気遣って、ギルバート君はすぐに屋敷へと馬車を戻らせた。

「奥様、大丈夫でございますか?」

 心配そうに駆け寄ってきたナタリーに抱えられるようにして、私は二階にある自分の部屋に向かう。

「医者を呼んできてくれ」

 玄関ホールから二階に続く階段を登っている時、玄関でギルバートがそう言っているのが微かに聞こえてきた。御者に、そのまま医者を迎えにいかせるのだろう。

 その時、二階の廊下の奥で何か物音がした。

「何でしょう」

 ナタリーが眉を顰める。

「奥様。ここで待っていてくださいませ」

 警戒しながら、階段を登り切ったところに私を残し、ナタリーが廊下を進んでいく。

 先程、『ヴィクトリア』が攫われた事件について聞いたばかりなせいか、何か嫌な予感がした。遠ざかっていくナタリーの背を見つめながら、心臓がドキドキと嫌な音を立て、冷や汗が背中を伝う。

 その時、ナタリーが向かったのとは別方向の物陰から、いきなりオレンジ色の塊が飛び出してきた。

「……私の……を、返してっ!!」

 掴み掛かってきた相手の手を、咄嗟に振り払う。けれど、その反動で身体が大きく仰け反り、一歩下がった足は床を踏み外していた。

「あっ……」

 悲鳴を上げたのは、私だったのか、それともオレンジ色の髪をした襲撃者だったのか。

「奥様!!」

「ヴィー!!」

 連続して襲い来る衝撃と痛み。聞こえる悲鳴のような声。

 ……何で。

 襲撃者は、階段を転げ落ちようとする私を追いかけるように床を蹴り、私にしがみ付いてきた。

 何で、あなたまで私と一緒に落ちようとするの……?

 二人してもつれあうように階段を転げ落ちていく最中、私は意識を手放した。

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