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4.千穂④

「奥様が嫁がれたのは、ギルバート・ジェローム様。ジェローム子爵家のご当主様です」

 執事のパトリックが、家系図に似た表を何枚も広げながら説明をしてくれる。

「奥様の御実家は、サーフレア伯爵家。奥様の兄上様と旦那様は親しいご友人でございます」

 騎士団に所属しているというギルバート君は、朝食の後、名残惜しそうに出勤していった。そして、指示を受けていたらしいパトリックが、彼の代わりに基本的な知識を私に落とし込んでくれている。

 ……そう。悠長に記憶が戻るまで待っている訳にはいかない。記憶が無くても、最低限の知識を持っておかなければ、貴族である『ヴィクトリア』としての生活にたちまち支障をきたしてしまうらしい。

 例えば、社交界などへの参加は自粛できても、今後どうしても貴族同士顔を合わせる事態が発生することは避けられない。そんな時、記憶喪失ですから分かりません、失礼しました、では済まされないこともある。

 だから、例えこれから先記憶が戻らないとしても、少しずつ社会復帰できるように、知識は新たに詰めて込んでいく必要があるのだそうだ。

 そうして、パトリックの講義を受けていくうちに、『ヴィクトリア』を取り巻く人間関係が次第に分かってきた。

 『ヴィクトリア』は、サーフレア伯爵家という中程度の伯爵家に生まれたこと。兄が一人いて、ギルバート君と同じ騎士団に所属しているという彼はまだ独身であること。今は、地方視察中の第二王子の護衛の任に当たっていて、王都にはいないこと。実の両親は、現在は王都から離れた領地の屋敷に滞在しているらしいこと。

 一方、ギルバート君が生まれたのは、アルフィリア侯爵家というこの国でも指折りの名家だったこと。けれど、三男ということもあり、早々に実家を離れて騎士団に所属し、三年前に武功を挙げて子爵の地位を賜ったこと。

「旦那様は、奥様とご結婚される為に、随分と努力なさったのですよ」

 聞き慣れないカタカナ名が飛び交い、こめかみを摩っていると、しみじみとそう呟くパトリックの声が耳に入ってきた。

 へえぇ、そうなんだぁ~。

 私ってそんなに愛されているんだなぁ、と思うと、自然と顔がにやけてしまう。

 そうなれば、自然と気になってしまう。私達は一体いつどうやって知り合って、どんなふうに愛を育んできたのだろう。

「あの……。私とギルバートく……、ギルバート様との馴れ初めって、どんなんだったんでしょうか」

 そう尋ねた後で、執事に何を聞いているのだろうと気恥ずかしくなってきた。

「それは、私の口から語る訳にはまいりません」

「……そうですか。ですよね~」

「是非、旦那様に直接お訊ねになってください」

 恐縮する私に真面目な表情を崩さずそう言ったパトリックだったけれど、何となく笑いたいのを堪えているように口元が少しだけ歪んで見えた。


「俺と、きみの馴れ初め?」

 夕方、戻ってきたギルバート君は、夕食の席でそう訊ねた私を見て、ほんの少し頬を上気させた。

「はい。それと、結婚するまでのいきさつや、結婚してからはどんなふうだったのかも知りたいのです」

 これが、記憶も無いのに夫だという人が冷たかったりしたら、怖くて絶対に訊いたりできない。ギルバート君の態度を見る限り、彼と『ヴィクトリア』の関係が極めて良好だったことが分かるから、安心して訊けることだった。

「分かった。じゃあ、食事が終わったら、ゆっくり話してあげよう」

 そう言いながら、ギルバート君はチラッとパトリックやその他の使用人達に目を走らせる。さすがに、多くの耳目のあるところで大っぴらに自分の色恋について語るのは彼も恥ずかしいのか、耳が少し赤くなっていた。

 ……むふっ、可愛い。

 そもそも、前世の私よりギルバート君は随分と若い。だから、ついつい若手アイドルを見るような微笑ましい感覚になってしまう。

 昼食もそうだったが、夕食も肉料理は一応食卓に上るものの、『ヴィクトリア』はほとんど食べなかったせいか、私の皿には一口か二口分くらい取り分けられただけだった。代わりに、魚や野菜、豆類が多く取り分けられる。デザートも、涎が出そうなほど美味しそうなケーキを、薄く切り分けられたものを一欠けだけ。

 昼食の後には、ダンスレッスンにエクササイズも行った。さすがにダンベルのような重石は持たなかったけれど、自重トレーニングに似た動きのものを小一時間。前世の私なら、きっと終わった後は生まれたての小鹿みたいにプルプル震えていただろう。でも、これまでもこういったトレーニングを続けてきた『ヴィクトリア』の身体は、このぐらいで堪えたりしなかった。寧ろ、これまで感じたことのない、清々しい爽快感さえ覚えた。

 そう。『上山千穂』の人生では、私は常に慢性的な疲労感に苛まれていた。事務仕事に、趣味の読書やインターネットで目を酷使し、日々吐き気を伴うような肩こりに悩まされ、少し運動しただけでくたくたになってしまっていた。

 何故、世の中にはあんなにも溌剌と動き回り、抜群のプロポーションを保ち、お洒落もしながら仕事もできる何でも完璧な女性がいるのだろう。ああきっと、生まれ持った体質が違うのだ、と諦めの気持ちを抱いていた。

 ……今なら分かる。日々の努力の差だったんだな。

 『ヴィクトリア』が、これほど美しくある為に、食事に気を付け、運動も欠かさなかったことは今日一日で充分分かった。そして、この習慣を続けてきたことで、中身が『上山千穂』になっても体はさほど苦ではないことも。

 頑張って続けないと。

 いつか『ヴィクトリア』としての記憶が戻った時に、後悔しないように。そして、ギルバート君に愛想を尽かされないように。


「きみと初めて出会ったのは、俺が十六歳の頃だった。騎士団でアレク……、きみの兄と親しくなって、休暇にきみの実家へ遊びに行った時だったよ。その時、きみはまだ十三歳だったな。……俺は、一目で恋に落ちたんだ」

 微笑みながらそう語るギルバート君の耳は、恥ずかしいのか真っ赤になっていた。

 けれど、照れながらも記憶を辿りながら語ってくれる彼の話を聞いていると、その内容もさながら、そんな彼の姿にも胸がじんわりと熱くなってくる。

「まだ社交界デビューする前のことだったから、まだ他の奴らに目をつけられてはいない。だから、休暇になるとアレクを訪ねるのを理由に、頻繁にサーフレア伯爵家を訪ねてきみに贈り物をした。きみも、俺のことを憎からず思ってくれていたようだったけれど、きみの御両親は侯爵家を継げない三男よりも、もっと条件のいい結婚相手を望んでいたらしい。だから、きみと結婚するまでには、いろいろなことがあったんだ」

 そう語りながら、ギルバート君は懐かし気に目を細める。その顔は、見ているこっちが切なくなるくらい、幸せそうだった。

「社交界デビューしたきみは、その美しさで早速第二王子フェリクス殿下の心を奪ってしまってね。このまま縁談がまとまってしまうのではないかとハラハラしたよ」

「でも、もしフェリクス殿下が本気だったとしたら、結婚させられていたんじゃないですか?」

 王族が望めば、例え『ヴィクトリア』に他に好きな人がいても結婚を断れなかっただろう。そうならなかたのは、第二王子が本気じゃなかったからなのでは? と訊いた私に、ギルバート君は首を横に振った。

「いや。殿下は本気だったよ。でも……」

 言いかけて、ギルバート君はいきなりブホッと噴き出した。

「えっ、何?」

「いや、すまない。実は、とある夜会の最中、きみが殿下に庭園に呼び出されたとアレクに教えられて、慌てて探しに行ったんだ。そうしたら、派手な水音が聞こえてきて。駆け付けてみたら、殿下が池に落ちていた」

「えっ……、じゃあ、私が……?」

 いくら嫌だったからって、王族を池に突き落とすなんて、何てことをしたんだ、私ー!?

 両方の手を頬に当てて真っ青になる私に、ギルバート君は笑いながら否定してくれた。

「いや。殿下はご自分で足を滑らせたんだそうだ」

「え、そうなんですか」

「しかも、夜の事で慌てたのか、腰ほどの深さしかない池で溺れかけていた。きみはドレスが台無しになるのも構わず、自分から池に入って混乱する殿下を助けようとしていた。二人して暴れる殿下を池から引き揚げて、ずぶ濡れになって……。殿下はそんな醜態を晒したのを恥じたのか、きみを追いかけ回すことはなくなった」

「……何、それ」

 恥ずかしい奴、と思わず吹き出すと、ギルバート君も声を立てて笑った。その朗らかで屈託のない笑顔に、思わず胸がキュンとなる。

「三年前、隣国と国境の穀倉地帯を巡って軍事衝突が起きて、俺も騎士として王太子殿下に付き従って従軍することになった。きみは俺の無事を祈って、刺しゅう入りのハンカチをくれたね。本来なら、家族か婚約者にしか贈る風習のないハンカチを。その時、俺は心に誓ったんだ。必ず武功を挙げて戻り、きみを妻にすると」

 ……ああ、何というメロドラマだろう! その時の記憶が無いのが悔しい。本当に口惜しい!!

 伯爵家の跡取り娘じゃない私を妻に迎える為には、侯爵家三男である彼は実力で爵位を手に入れる必要があった。そして、ギルバート君は私を妻に迎える為に戦い、武功を挙げ、子爵位を手に入れたのだ。何て愛されているんだろう、私って!

 やっぱり、神様っていたんだ。前世が余りにも寂しくて哀れな人生だったから、神様は生まれ変わった私にこんな幸せな人生を与えてくれた。

 ただ、その幸せなこれまでの記憶をすっかり忘れてしまったのは勿体ない限りなんだけれど、でも、前世の記憶を取り戻さなければ、前世と比べて今がいかに幸せかってことを知ることもなかった。

「でも、きみとの結婚は簡単じゃなかった」

「えっ……」

「フェリクス殿下以外にも、きみを妻にと望む男は多かったってことさ」

 ……何という罪な女なの、ヴィクトリア。

「でも、最終的にきみは俺を選んでくれた。嬉しかったよ。この世で一番幸せな男だと思った。今でも、そう思っている」

 ギルバート君に真剣な眼差しで見つめられて、顔に熱が昇っていくのが分かる。

「ヴィクトリア。俺は焦らないよ。きみが記憶を取り戻すか、俺の事を夫として受け入れてくれるまで、俺は待つ。耐えてみせる」

 劣情を含んだその声に、身体が痺れたように疼いた。前世でも感じたことのない、狂おしいような気持ち。

 やっぱり、私はこの人の妻なんだ。ただ記憶がないだけで。

 改めて、そう実感した瞬間だった。

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